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第1章:異常な日常の幕開けと『神無月』始動
第1話 超ブラック企業を辞めた筋肉、高給に釣られて「高天原プロ」に入社する
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ジュウウウゥゥゥ……。
フライパンの上で、厚さ2センチに切られたベーコンが食欲をそそる音を立てていた。
滲み出た豚の脂が、隣で焼かれている目玉焼きの縁をカリッと香ばしく揚げるように焼き上げている。完璧な半熟具合だ。
田村範朝、30歳。無職1日目の朝は、完璧な朝食作りから始まった。
「よし、火加減はこんなもんか」
田村は満足げに頷き、フライパンの中身を皿に移した。
炊飯器からは、つやつやに炊き上がった銀シャリの甘い香りが漂っている。さらに、昆布と鰹節から丁寧に一番出汁を取った、豆腐とワカメの味噌汁。
完璧な和洋折衷の朝定食である。
エプロン姿の田村だが、その体格は到底「家庭的な料理男子」と呼べるものではなかった。
身長185センチ、体重90キロ。分厚い胸板に、丸太のように太い腕。首は太く、肩幅はドアの枠にギリギリ収まるほどの広さ。短く刈り込んだ髪に、精悍で彫りの深い顔立ち。まるでハリウッドのアクション映画から抜け出してきた特殊部隊員のような、あるいは格闘技のヘビー級チャンピオンのような威圧感を放っている。
しかし、そのいかつい巨体が、菜箸を器用に操って納豆を100回かき混ぜているのだから、なんともアンバランスな光景だった。
「いただきます」
1人暮らしの1Kのアパートで、田村は手を合わせて朝食を口に運んだ。
美味い。自分で作ったとはいえ、完璧な出来栄えだ。特に味噌汁の出汁の深みが、疲れ切った五臓六腑に染み渡る。
「……久しぶりだな、太陽の光を浴びながら飯を食うなんて」
窓から差し込む午前10時の朝日を浴びながら、田村はポツリとこぼした。
つい3日前まで、田村は都内の中堅IT企業で働いていた。
月の残業時間は常に200時間をオーバー。タイムカードは定時で切らされ、深夜のオフィスでエナジードリンクを胃に流し込みながら、終わりの見えないコーディングとクレーム対応に追われる日々。
普通の人間なら3ヶ月で精神を病むか、過労で倒れる環境だった。
しかし、田村の肉体は異常に頑丈だった。
学生時代から趣味の筋トレを欠かさず、どんなに激務でも「ストレス解消」と称して深夜24時間営業のジムでベンチプレス150キロを上げてから帰宅するような男である。睡眠時間が1日3時間でも、彼の筋肉は衰えるどころか、過酷な環境に適応してますますパンプアップしていった。
そんな鋼の肉体を持つ田村が会社を辞めた理由は、心が折れたからでも、体が壊れたからでもない。
理不尽な要求ばかり繰り返すパワハラ上司が、ある日激昂して、分厚いガラス製の灰皿を田村の顔面に向けてフルスイングで投げつけてきたのだ。
田村はそれを無表情のまま片手でキャッチした。そして、無意識に手に力を込めてしまった結果――バキィッ! という音と共に、分厚いガラスの灰皿は粉々に砕け散り、砂利のようになって床にこぼれ落ちた。
その瞬間、上司は恐怖のあまり白目を剥いて失禁し、気絶。
田村は「あ、これ以上ここにいたら、いつか無意識にこの人の頭蓋骨を握り潰してしまうかもしれない」と冷静に危機感を抱き、その日のうちに辞表を叩きつけてきたのだった。
「さてと。とはいえ、貯金もそこまであるわけじゃない。次の仕事を探さないとな」
食後のコーヒーを啜りながら、田村はスマートフォンを取り出し、求人サイトのアプリを開いた。
趣味の料理には妥協したくない。スーパーの特売日を狙うのもいいが、たまには国産の黒毛和牛の塊肉を買ってローストビーフを作りたいし、新鮮な魚を丸ごと買って捌きたい。そのためには金が必要だ。
「希望条件……『未経験歓迎』『学歴不問』……そして『高収入』、と」
虫のいい検索条件を入力し、画面をスクロールする。
怪しげなナイトワークや、どう見てもブラックな訪問販売の求人が並ぶ中、ふと、ひとつの求人広告が田村の目に止まった。
【急募】新規アイドルグループの専属マネージャー
・月給100万円~(経験不問・能力により即昇給あり)
・仕事内容:所属タレントのスケジュール管理、送迎、メンタルケアなど
・勤務地:東京都港区
・※別途、特別危険手当あり。
・※心身ともに極めて健康で、並外れて『タフ』な方を優遇します。霊感が【ない】方だと尚良し。
「……なんだこれ?」
田村は思わず画面を二度見した。
アイドルマネージャーの相場など知らないが、未経験でいきなり月給100万円など、どう考えてもおかしい。裏社会の仕事か、よほどのブラック企業か。
しかも『危険手当』とはなんだ。アイドルのマネージャーが危険とは。
「熱狂的なファンに刺されたりする仕事ってことか? あるいはヤクザ絡みの営業とか……」
田村は少し考えた後、自分の分厚い胸板と、丸太のような腕をさすった。
「まあ、フィジカルの強さなら誰にも負ける気はしない。それに月給100万円あれば、毎週末A5ランクの和牛が買えるな」
深く考えることを放棄した田村は、迷うことなくその求人の『応募する』ボタンをタップした。
数分後。なんと即座に「本日の14時に、履歴書を持って直接弊社までお越しください」という自動返信とは思えないスピードで面接の案内メールが届いた。
「随分と急だな。まあ、暇だからいいけど」
田村はクローゼットの奥から、はち切れそうなほどパツパツのスーツを引っ張り出した。
指定された住所は、東京都港区の一等地……の、はずだった。
しかし、スマートフォンのマップに従って歩いていくと、周囲の近代的なオフィスビル群からポツンと切り離されたような、薄暗い裏路地へと迷い込んだ。
「ここ……本当に港区か?」
田村の目の前には、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた、古びたコンクリート造りの3階建てのビルがあった。
ビルの入り口には、なぜか立派なしめ縄が張られており、壁のあちこちには色褪せたお札のようなものがベタベタと貼られている。どう見ても廃墟か、カルト教団の施設にしか見えない。
看板には、かすれた文字で『株式会社 高天原プロダクション』と書かれていた。
「ずいぶんとアバンギャルドな外観の事務所だな。和洋折衷のデザイナーズ物件か? 壁にお札を貼るなんて、最近のベンチャー企業の社長は癖が強いな」
建物の周囲には、不自然なほど濃い靄のようなものが立ち込めていた。肌にまとわりつくような、重くて冷たい空気。普通の人間なら、その場にいるだけで胸が悪くなり、本能的に逃げ出してしまうような異様な圧迫感である。
しかし、田村には霊感というものが一切、完全に、これっぽっちも存在しなかった。
「ちょっと湿気が多いな。ビルの管理会社、仕事してないんじゃないか?」
田村は、空気を重くしている靄を「ただのひどい湿気」と解釈し、平然とした顔でしめ縄をくぐり抜け、重厚な扉を開けた。
ギィィィ……と嫌な音を立てて扉が開く。
中は薄暗く、ひんやりとしていた。受付には誰もおらず、奥の部屋から微かに光が漏れているだけだ。
「すいませーん。14時に面接のお約束をさせていただいた、田村ですけど」
太くよく通る声で呼びかけながら、田村はずかずかと奥へ進んだ。
その瞬間。
ドンッ!!
突然、目に見えない巨大なハンマーで全身を殴られたような、凄まじい『圧力』が田村を襲った。
空間そのものが歪むほどの、息の詰まるような強烈な圧迫感。普通の人間なら、そのプレッシャーに当てられただけで気を失って倒れてしまうかもしれないほどの衝撃だ。
「……ん?」
だが、田村の足は止まらなかった。
彼は少しだけ眉をひそめると、バキバキッと太い首の関節を鳴らした。
「なんか、急に肩が凝ってきたな。やっぱりこのビル、気圧がおかしいのか? 低気圧は肩こりの原因になるって、テレビの健康番組でも言ってたしな」
田村は、その尋常ではない圧迫感を「低気圧による肩こり」として脳内処理し、ゴリゴリと肩を回しながらさらに奥の部屋へと足を踏み入れた。
「おいおい、電気くらい点けておいてくれよ」
奥の部屋は応接室のようだったが、照明が落ちており、薄暗かった。
そして、その部屋の奥にある豪奢なアンティークソファに、ひとりの『女性』が足を組んで座っていた。
「……ほう」
暗闇の中から、鈴を転がすような、それでいて背筋が凍るほど艶やかな声が響いた。
薄明かりに照らされたその姿は、息を呑むほどに美しかった。透き通るような白い肌に、煌めくブロンドの髪。まるで西洋の絵画から抜け出してきたような、完璧な造形美を持った少女だ。
だが、何かがおかしい。彼女の背後で、ゆらゆらと揺れる『九つの巨大な影』が見える。
「……驚いたわ。人間の身でありながら、妾の放った威圧を正面から受けて、立っていられる者がいるなんて」
面接官らしきその外国人風の少女は、なぜか古風な言葉遣いで、面白そうに目を細めた。
どうやらこの面接官は、大掛かりな仕掛けで応募者を脅かし、その反応を試そうとしているらしい。だが、目の前に立つスーツがパツパツの巨漢が逃げるどころか、不満げな顔で肩を揉んでいるのを見て、わずかに困惑したような表情を見せた。
「いや、驚くのはこっちですよ」
田村はため息をつきながら、少女に向かって口を開いた。
「面接官の方ですよね? 背後にプロジェクションマッピングで狐の尻尾みたいな映像を映してますけど……最近のIT企業は面接からエンタメ志向なんですか? それより、空調の効きが悪くて湿気が酷いんで、換気扇回していいですかね」
「…………は?」
少女は、ポカンと口を開けた。
自慢のドッキリ企画を『プロジェクションマッピング』と言い放たれ、さらにこの部屋の不快な空気を『湿気』と切り捨てられたことで、彼女は完全に思考が停止してしまったようだ。
「あと、この部屋の気圧のせいか、さっきから肩こりがひどくて。面接の前に、座らせてもらっても?」
「あ……えっと、ええ。どうぞ、座りなさい……」
すっかり毒気を抜かれた様子の少女は、素のトーンで促した。
田村は「失礼します」と一礼し、向かいのソファにドカッと腰を下ろす。アンティークのソファが、田村の体重でギシッと悲鳴を上げた。
「履歴書、持ってきました。前職はシステムエンジニアでしたが、体力と忍耐力には自信があります。月給100万円の仕事なら、どんな激務でもこなしてみせますよ」
ニカッと、人の良さそうな、しかし威圧感たっぷりの笑顔を向ける田村。
少女は目の前の男のタフさと図太さに、思わず背筋にゾクッとしたものを感じたように、小さく肩を震わせた。
彼女の目に、田村という規格外の存在がどう映ったのかは分からない。ただ、その表情には明らかな興味の色が浮かんでいた。
「……ふふっ。あははははっ!」
しかし次の瞬間、少女は突然、腹を抱えて笑い出した。
「いいわ! 気に入ったわ、人間の男! あなたの名前は?」
「田村です。田村範朝」
「そう、タムラね。妾……じゃなくて、私はタマモ・ヴィヴィアン・フォックス! あなた、今日から私たちのマネージャーとして採用してあげるわ!」
「お、即採用ですか。ありがとうございます。で、アイドルのマネージャーって具体的に何をするんです?」
霊感ゼロ、物理防御力カンスト。
最強の鈍感力を持つ新米マネージャーと、規格外のアイドルたちとの、命がけのプロデュース生活が、ここに幕を開けたのだった。
フライパンの上で、厚さ2センチに切られたベーコンが食欲をそそる音を立てていた。
滲み出た豚の脂が、隣で焼かれている目玉焼きの縁をカリッと香ばしく揚げるように焼き上げている。完璧な半熟具合だ。
田村範朝、30歳。無職1日目の朝は、完璧な朝食作りから始まった。
「よし、火加減はこんなもんか」
田村は満足げに頷き、フライパンの中身を皿に移した。
炊飯器からは、つやつやに炊き上がった銀シャリの甘い香りが漂っている。さらに、昆布と鰹節から丁寧に一番出汁を取った、豆腐とワカメの味噌汁。
完璧な和洋折衷の朝定食である。
エプロン姿の田村だが、その体格は到底「家庭的な料理男子」と呼べるものではなかった。
身長185センチ、体重90キロ。分厚い胸板に、丸太のように太い腕。首は太く、肩幅はドアの枠にギリギリ収まるほどの広さ。短く刈り込んだ髪に、精悍で彫りの深い顔立ち。まるでハリウッドのアクション映画から抜け出してきた特殊部隊員のような、あるいは格闘技のヘビー級チャンピオンのような威圧感を放っている。
しかし、そのいかつい巨体が、菜箸を器用に操って納豆を100回かき混ぜているのだから、なんともアンバランスな光景だった。
「いただきます」
1人暮らしの1Kのアパートで、田村は手を合わせて朝食を口に運んだ。
美味い。自分で作ったとはいえ、完璧な出来栄えだ。特に味噌汁の出汁の深みが、疲れ切った五臓六腑に染み渡る。
「……久しぶりだな、太陽の光を浴びながら飯を食うなんて」
窓から差し込む午前10時の朝日を浴びながら、田村はポツリとこぼした。
つい3日前まで、田村は都内の中堅IT企業で働いていた。
月の残業時間は常に200時間をオーバー。タイムカードは定時で切らされ、深夜のオフィスでエナジードリンクを胃に流し込みながら、終わりの見えないコーディングとクレーム対応に追われる日々。
普通の人間なら3ヶ月で精神を病むか、過労で倒れる環境だった。
しかし、田村の肉体は異常に頑丈だった。
学生時代から趣味の筋トレを欠かさず、どんなに激務でも「ストレス解消」と称して深夜24時間営業のジムでベンチプレス150キロを上げてから帰宅するような男である。睡眠時間が1日3時間でも、彼の筋肉は衰えるどころか、過酷な環境に適応してますますパンプアップしていった。
そんな鋼の肉体を持つ田村が会社を辞めた理由は、心が折れたからでも、体が壊れたからでもない。
理不尽な要求ばかり繰り返すパワハラ上司が、ある日激昂して、分厚いガラス製の灰皿を田村の顔面に向けてフルスイングで投げつけてきたのだ。
田村はそれを無表情のまま片手でキャッチした。そして、無意識に手に力を込めてしまった結果――バキィッ! という音と共に、分厚いガラスの灰皿は粉々に砕け散り、砂利のようになって床にこぼれ落ちた。
その瞬間、上司は恐怖のあまり白目を剥いて失禁し、気絶。
田村は「あ、これ以上ここにいたら、いつか無意識にこの人の頭蓋骨を握り潰してしまうかもしれない」と冷静に危機感を抱き、その日のうちに辞表を叩きつけてきたのだった。
「さてと。とはいえ、貯金もそこまであるわけじゃない。次の仕事を探さないとな」
食後のコーヒーを啜りながら、田村はスマートフォンを取り出し、求人サイトのアプリを開いた。
趣味の料理には妥協したくない。スーパーの特売日を狙うのもいいが、たまには国産の黒毛和牛の塊肉を買ってローストビーフを作りたいし、新鮮な魚を丸ごと買って捌きたい。そのためには金が必要だ。
「希望条件……『未経験歓迎』『学歴不問』……そして『高収入』、と」
虫のいい検索条件を入力し、画面をスクロールする。
怪しげなナイトワークや、どう見てもブラックな訪問販売の求人が並ぶ中、ふと、ひとつの求人広告が田村の目に止まった。
【急募】新規アイドルグループの専属マネージャー
・月給100万円~(経験不問・能力により即昇給あり)
・仕事内容:所属タレントのスケジュール管理、送迎、メンタルケアなど
・勤務地:東京都港区
・※別途、特別危険手当あり。
・※心身ともに極めて健康で、並外れて『タフ』な方を優遇します。霊感が【ない】方だと尚良し。
「……なんだこれ?」
田村は思わず画面を二度見した。
アイドルマネージャーの相場など知らないが、未経験でいきなり月給100万円など、どう考えてもおかしい。裏社会の仕事か、よほどのブラック企業か。
しかも『危険手当』とはなんだ。アイドルのマネージャーが危険とは。
「熱狂的なファンに刺されたりする仕事ってことか? あるいはヤクザ絡みの営業とか……」
田村は少し考えた後、自分の分厚い胸板と、丸太のような腕をさすった。
「まあ、フィジカルの強さなら誰にも負ける気はしない。それに月給100万円あれば、毎週末A5ランクの和牛が買えるな」
深く考えることを放棄した田村は、迷うことなくその求人の『応募する』ボタンをタップした。
数分後。なんと即座に「本日の14時に、履歴書を持って直接弊社までお越しください」という自動返信とは思えないスピードで面接の案内メールが届いた。
「随分と急だな。まあ、暇だからいいけど」
田村はクローゼットの奥から、はち切れそうなほどパツパツのスーツを引っ張り出した。
指定された住所は、東京都港区の一等地……の、はずだった。
しかし、スマートフォンのマップに従って歩いていくと、周囲の近代的なオフィスビル群からポツンと切り離されたような、薄暗い裏路地へと迷い込んだ。
「ここ……本当に港区か?」
田村の目の前には、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた、古びたコンクリート造りの3階建てのビルがあった。
ビルの入り口には、なぜか立派なしめ縄が張られており、壁のあちこちには色褪せたお札のようなものがベタベタと貼られている。どう見ても廃墟か、カルト教団の施設にしか見えない。
看板には、かすれた文字で『株式会社 高天原プロダクション』と書かれていた。
「ずいぶんとアバンギャルドな外観の事務所だな。和洋折衷のデザイナーズ物件か? 壁にお札を貼るなんて、最近のベンチャー企業の社長は癖が強いな」
建物の周囲には、不自然なほど濃い靄のようなものが立ち込めていた。肌にまとわりつくような、重くて冷たい空気。普通の人間なら、その場にいるだけで胸が悪くなり、本能的に逃げ出してしまうような異様な圧迫感である。
しかし、田村には霊感というものが一切、完全に、これっぽっちも存在しなかった。
「ちょっと湿気が多いな。ビルの管理会社、仕事してないんじゃないか?」
田村は、空気を重くしている靄を「ただのひどい湿気」と解釈し、平然とした顔でしめ縄をくぐり抜け、重厚な扉を開けた。
ギィィィ……と嫌な音を立てて扉が開く。
中は薄暗く、ひんやりとしていた。受付には誰もおらず、奥の部屋から微かに光が漏れているだけだ。
「すいませーん。14時に面接のお約束をさせていただいた、田村ですけど」
太くよく通る声で呼びかけながら、田村はずかずかと奥へ進んだ。
その瞬間。
ドンッ!!
突然、目に見えない巨大なハンマーで全身を殴られたような、凄まじい『圧力』が田村を襲った。
空間そのものが歪むほどの、息の詰まるような強烈な圧迫感。普通の人間なら、そのプレッシャーに当てられただけで気を失って倒れてしまうかもしれないほどの衝撃だ。
「……ん?」
だが、田村の足は止まらなかった。
彼は少しだけ眉をひそめると、バキバキッと太い首の関節を鳴らした。
「なんか、急に肩が凝ってきたな。やっぱりこのビル、気圧がおかしいのか? 低気圧は肩こりの原因になるって、テレビの健康番組でも言ってたしな」
田村は、その尋常ではない圧迫感を「低気圧による肩こり」として脳内処理し、ゴリゴリと肩を回しながらさらに奥の部屋へと足を踏み入れた。
「おいおい、電気くらい点けておいてくれよ」
奥の部屋は応接室のようだったが、照明が落ちており、薄暗かった。
そして、その部屋の奥にある豪奢なアンティークソファに、ひとりの『女性』が足を組んで座っていた。
「……ほう」
暗闇の中から、鈴を転がすような、それでいて背筋が凍るほど艶やかな声が響いた。
薄明かりに照らされたその姿は、息を呑むほどに美しかった。透き通るような白い肌に、煌めくブロンドの髪。まるで西洋の絵画から抜け出してきたような、完璧な造形美を持った少女だ。
だが、何かがおかしい。彼女の背後で、ゆらゆらと揺れる『九つの巨大な影』が見える。
「……驚いたわ。人間の身でありながら、妾の放った威圧を正面から受けて、立っていられる者がいるなんて」
面接官らしきその外国人風の少女は、なぜか古風な言葉遣いで、面白そうに目を細めた。
どうやらこの面接官は、大掛かりな仕掛けで応募者を脅かし、その反応を試そうとしているらしい。だが、目の前に立つスーツがパツパツの巨漢が逃げるどころか、不満げな顔で肩を揉んでいるのを見て、わずかに困惑したような表情を見せた。
「いや、驚くのはこっちですよ」
田村はため息をつきながら、少女に向かって口を開いた。
「面接官の方ですよね? 背後にプロジェクションマッピングで狐の尻尾みたいな映像を映してますけど……最近のIT企業は面接からエンタメ志向なんですか? それより、空調の効きが悪くて湿気が酷いんで、換気扇回していいですかね」
「…………は?」
少女は、ポカンと口を開けた。
自慢のドッキリ企画を『プロジェクションマッピング』と言い放たれ、さらにこの部屋の不快な空気を『湿気』と切り捨てられたことで、彼女は完全に思考が停止してしまったようだ。
「あと、この部屋の気圧のせいか、さっきから肩こりがひどくて。面接の前に、座らせてもらっても?」
「あ……えっと、ええ。どうぞ、座りなさい……」
すっかり毒気を抜かれた様子の少女は、素のトーンで促した。
田村は「失礼します」と一礼し、向かいのソファにドカッと腰を下ろす。アンティークのソファが、田村の体重でギシッと悲鳴を上げた。
「履歴書、持ってきました。前職はシステムエンジニアでしたが、体力と忍耐力には自信があります。月給100万円の仕事なら、どんな激務でもこなしてみせますよ」
ニカッと、人の良さそうな、しかし威圧感たっぷりの笑顔を向ける田村。
少女は目の前の男のタフさと図太さに、思わず背筋にゾクッとしたものを感じたように、小さく肩を震わせた。
彼女の目に、田村という規格外の存在がどう映ったのかは分からない。ただ、その表情には明らかな興味の色が浮かんでいた。
「……ふふっ。あははははっ!」
しかし次の瞬間、少女は突然、腹を抱えて笑い出した。
「いいわ! 気に入ったわ、人間の男! あなたの名前は?」
「田村です。田村範朝」
「そう、タムラね。妾……じゃなくて、私はタマモ・ヴィヴィアン・フォックス! あなた、今日から私たちのマネージャーとして採用してあげるわ!」
「お、即採用ですか。ありがとうございます。で、アイドルのマネージャーって具体的に何をするんです?」
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