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第4章:最終決戦
第43話 カオスの種
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決戦前夜。午後7時。
都内某所、首都高速道路の高架下に広がる薄暗い空き地。
かつては資材置き場として使われていたその場所は、都会の死角であり、逃亡者たちが身を隠すにはあつらえ向きの場所だった。
湿ったコンクリートの匂いと、頭上を走る車の走行音が絶え間なく響くその場所で、異質な轟音が鳴り響いていた。
ゴォォォォッ!!
ジェットエンジンの噴射音にも似た、凄まじい燃焼音。
佐藤任三郎が、業務用のハイカロリーバーナーを全開にし、巨大な中華鍋を振っている音だ。
「……火力が命です。一瞬の迷いが、味を殺します」
佐藤の表情は、爆弾処理を行う時よりも真剣であり、鬼気迫るものがあった。
額に汗を浮かべ、シャツの袖をまくり上げ、全身を使って鉄鍋を操る。
鍋の中で踊るのは、この日のために用意した特別な米だ。
粘り気の少ないジャスミンライスと、甘みの強い日本米を、佐藤独自の黄金比率である「6対4」でブレンドし、少し硬めに炊き上げたもの。
具材は極限までシンプルに削ぎ落とされている。
五香粉と蜂蜜で煮込んだ自家製のチャーシュー。
香りの強い九条ネギ。
そして、新鮮な那須御養卵。
隠し味には、一晩水に浸して旨味を抽出した、干し貝柱の戻し汁を使う。
ジャッ、ジャッ、ジャッ!
お玉が鍋肌を叩くリズムは、正確無比なメトロノームのようだ。
溶き卵が熱せられた油と出会い、瞬時に泡立って米粒を包み込む。
佐藤が鍋を煽るたび、米粒の一粒一粒が油と卵でコーティングされ、宙を舞いながらパラパラと黄金色に輝く。
「……仕上げです」
佐藤は鍋肌から醤油を回し入れた。
ジュワアァァァッ!
醤油が焦げる香ばしい匂い――中華料理の魂とも言える「鍋気」が爆発的に広がり、薄暗い高架下を支配する。
「完成です」
佐藤は鍋を大きく煽り、大皿に豪快に盛り付けた。
湯気と共に立ち上る、暴力的なまでの食欲の香り。
『黄金炒飯(ゴールデン・フライドライス)』だ。
「……すげえ匂い」
田中襟華が喉を鳴らし、吸い寄せられるようにテーブルへ近づいた。
「これ、絶対うまいやつじゃん。……匂いだけでご飯三杯いける」
「合わせる飲み物はこれです」
佐藤がテーブルに置いたのは、無色透明の液体が入ったボトル。
ラベルには『イェニ・ラク』とある。トルコを代表する蒸留酒だ。
「ラク……? 聞いたことないわね」
渡辺千尋がボトルを手に取り、ラベルを眺める。
「ブドウを原料に、アニスで香り付けした酒です。アルコール度数は45度。……見ていてください」
佐藤はグラスにラクを注ぎ、そこに冷水を加えた。
瞬間。
それまで無色透明だった液体が、魔法のように白濁した乳白色へと変化した。
「わっ、色が変わった!」
襟華が目を丸くする。
「なにこれ、手品?」
「アニスに含まれる油分が水と反応して白濁するのです。トルコではその色から、これを『獅子の乳』と呼びます。……飲む者に獅子の勇気を与える酒です」
佐藤は全員にグラスを配った。
未成年の襟華には、見た目が似ているカルピスソーダを。
「……乾杯しましょう。明日の決戦に」
佐藤が静かにグラスを掲げた。
「乾杯!」
安っぽいプラスチックのコップとグラスが触れ合う音が、高架下に響く。
全員が、待ちかねたようにスプーンを握り、黄金色の山を崩した。
口に運ぶ。
ハフッ、ハフッ。
熱々の米粒が、口の中でパラリとほどける。
噛み締めるたびに、チャーシューの脂と卵の甘み、そして焦がし醤油の香ばしさが炸裂する。
パラパラでありながら、決してパサついてはいない。米の一粒一粒に旨味の油が回り、しっとりとした弾力を残している。
そして、ラクを一口。
アニスの独特な清涼感と、45度の強烈なアルコールが、口の中に残った油を一瞬で洗い流す。
喉が熱くなる感覚。胃の腑に落ちた瞬間、カッと体が内側から燃え上がるようだ。
「……んんッ! 最高!」
佐々木紘子が叫ぶ。
「あんた、もう探偵やめて中華屋やりなさいよ! 私が店出してあげるから!」
「検討します。……ですが今は、別の『料理』の下ごしらえをしなければなりません」
佐藤はグラスを置き、車のボンネットに地図を広げた。
そこには、バズ・インキュベーションが管理するデータセンターの位置と、都内の主要な施設が赤ペンでマーキングされている。
「作戦名は『カオスの種』。……明日の本番に向けた、多重陽動です」
佐藤は、多摩丘陵の山中にある一点を指差した。
「敵の本丸は、この地下要塞データセンターです。警備は鉄壁。私兵部隊200名、軍用ドローン50機、さらには対車両用のバリケードまで設置されています。……まともに正面から突っ込めば、我々は門にたどり着く前に蜂の巣です」
グレタ・ヴァイスが腕を組み、重々しく頷く。
「ああ。今の我々には、あのGクラスのような装甲車もない。紘子が調達したランクル70は名車だが、防弾性能はない。丸裸で突っ込むのは自殺行為だ」
「ですから、敵に『ここ以外を守らなければならない』状況を作ります。……今夜のうちに」
佐藤の視線が、メンバー一人一人を捉える。
「愛永さん。あなたの出番です」
「任せて」
松本愛永は炒飯を飲み込み、ナプキンで口元を拭った。その目には、不敵な光が宿っている。
「私の一声で、東京中をパニックにしてあげる。……野次馬、YouTuber、暇を持て余した暴徒たち。全員まとめて動員して、敵の拠点を埋め尽くしてやるわ」
「そして彩さん、紘子さん」
佐藤は二人の「大人」を見た。
「裏社会と物流の力で、敵の足を物理的に止めてください。増援部隊がデータセンターにたどり着けないように」
「了解。……私の口座を凍結した報い、たっぷりと受けさせてやるわ」
吉田彩がスマホを取り出し、不敵に笑う。
「裏社会の金庫番に関する情報を、ちょっと『加工』して流すわ。……今夜の港区は、欲にまみれた亡者たちの運動会になるわよ」
「トラック野郎たちには話をつけてあるわ」
紘子がウィンクする。
「主要幹線道路の交差点で、派手な『玉突き事故』を演出してもらう。……明日の夜、東京の道路は大動脈瘤を起こして死ぬわよ」
佐藤は最後に、残った炒飯を小さく握り、アルミホイルに包んだ。
全部で四つ。
「……おにぎり?」
襟華が尋ねる。
「明日の夜食です。……データセンターの中は長丁場になりますから。それに、炭水化物は脳の燃料です」
佐藤はそれを、突入予定チームのためにクーラーボックスへ丁寧に収めた。
「いいですか。……これが最後の晩餐にならないよう、必ず生きて戻りましょう」
全員が無言で頷いた。
その瞳に、獅子の勇気が宿っている。
全てを奪われた者たちの、逆襲の炎。
「……散開!」
号令と共に、メンバーたちはそれぞれの持ち場へと散っていった。
午後8時30分。
東京の夜空に、見えない電波の嵐が吹き荒れた。
『……こんばんは。松本愛永です』
YouTube、SNS、Twitch、そしてハッキングされた渋谷の街頭ビジョン。
あらゆるスクリーンに、愛永の顔が映し出された。
背景は薄暗い車内だが、彼女の放つカリスマ性は、スタジオにいた頃よりも遥かに鋭く、そして危険な輝きを帯びていた。
『今夜、東京の闇が暴かれます。……皆さんが信じている「平和」の裏側で、何が行われているのか』
彼女の声は、静かだが、聞く者の不安を煽る独特の周波数を帯びていた。
マイクを通した吐息一つでさえ、視聴者の鼓動を早める。
『バズ・インキュベーション。……この会社を知っていますか? 皆さんのスマホから情報を抜き取り、心を操っている黒幕です』
画面に、バズ・インキュベーションの関連施設リストが表示される。
ただし、本命の多摩データセンターは含まれていない。
代わりに表示されたのは、彼らのフロント企業である「港区の高級クラブ」「六本木のタワーマンション」、そして「渋谷の巨大サーバービル」だ。
『彼らはそこに隠れています。……私たちの自由を奪い、私腹を肥やす悪魔たちが。私たちが汗水垂らして働いたお金で、彼らは毎晩シャンパンを空けているのです』
愛永はカメラを指差した。
その指先は、画面の向こうにいる数百万人の視聴者一人一人の胸元を突き刺すようだった。
『見に行きましょう。……真実を、その目で確かめに。今夜、私たちが証人になるのです』
扇動。
数百万人の視聴者が、その言葉に突き動かされる。
野次馬根性、正義感、あるいは社会への鬱屈した不満。
それらが「松本愛永」という起爆剤によって引火し、爆発的なエネルギーとなって都市を駆け巡る。
SNS上では、指定された座標への集結を呼びかけるハッシュタグがトレンド入りし、現地からの生配信が次々と開始される。
『渋谷支社前に人だかりが!』
『六本木に黒塗りの車が集まってるぞ!』
『警察が動き出した! 何かあるぞ!』
一方、港区の路上。
車の中で待機していた吉田彩が、裏社会専用の通信アプリでメッセージを送信した。
【バズ・インキュベーションの裏金庫、本日移送予定。現金10億、金塊50キロ。護衛手薄】
偽情報。
だが、金に飢えた半グレや犯罪組織にとっては、無視できない甘い蜜だ。
情報は瞬く間に拡散し、欲に目の眩んだ集団が動き出す。
さらに、主要幹線道路。
プアァァァーーッ!!
けたたましいクラクションと共に、大型トレーラー数台が交差点で意図的な「事故」を起こした。
道を完全に塞ぐ、ジャックナイフ現象。
運転手が車外に出て、大げさに喧嘩を始める。
「どこ見て走ってんだコラァ!」
「そっちこそ急に止まるんじゃねぇ!」
大渋滞が発生し、パトカーや消防車の到着が遅れる。
都市機能の麻痺。
警察の通信指令センターはパンク寸前となり、バズ・インキュベーションの本社もまた、対応に追われて機能不全に陥っていく。
「……種は撒かれましたね」
キャンピングカーの中で、複数のモニターを見つめていた佐藤が呟いた。
画面の中の東京は、無数の赤い光点で埋め尽くされている。
完璧なカオス。
論理と予測で動くAI「パノプティコン」にとって、最も処理しきれない状況だ。
「これより、我々も動きます」
佐藤はジャケットを羽織り、隣に立つ渡辺千尋を見た。
「千尋さん。……行きましょうか」
「ええ。久しぶりの夜会ね」
千尋は逃亡用の服から、紘子が調達したシックな黒のドレスに着替えている。
その上からトレンチコートを羽織り、足元は戦えるヒールで固めている。
彼女たちの任務は、海外メディアの特派員を「招待」すること。
明日の夜、このカオスを世界中に中継させ、日本のメディア規制を外側から破壊するための布石だ。
「グレタ、襟華。君たちは車両の準備を」
「了解。……紘子が持ってきたランクル70、最高の状態に仕上げておく」
グレタが工具箱を手に立ち上がる。
彼女の目は、すでに狩人のそれになっていた。
「よし、行くぞ」
佐藤と千尋は、ハイエースに乗り込み、夜の六本木へと向かった。
カオスの種は撒かれた。
それが芽吹き、巨大な樹海となって敵を飲み込むのは、明日の夜だ。
都内某所、首都高速道路の高架下に広がる薄暗い空き地。
かつては資材置き場として使われていたその場所は、都会の死角であり、逃亡者たちが身を隠すにはあつらえ向きの場所だった。
湿ったコンクリートの匂いと、頭上を走る車の走行音が絶え間なく響くその場所で、異質な轟音が鳴り響いていた。
ゴォォォォッ!!
ジェットエンジンの噴射音にも似た、凄まじい燃焼音。
佐藤任三郎が、業務用のハイカロリーバーナーを全開にし、巨大な中華鍋を振っている音だ。
「……火力が命です。一瞬の迷いが、味を殺します」
佐藤の表情は、爆弾処理を行う時よりも真剣であり、鬼気迫るものがあった。
額に汗を浮かべ、シャツの袖をまくり上げ、全身を使って鉄鍋を操る。
鍋の中で踊るのは、この日のために用意した特別な米だ。
粘り気の少ないジャスミンライスと、甘みの強い日本米を、佐藤独自の黄金比率である「6対4」でブレンドし、少し硬めに炊き上げたもの。
具材は極限までシンプルに削ぎ落とされている。
五香粉と蜂蜜で煮込んだ自家製のチャーシュー。
香りの強い九条ネギ。
そして、新鮮な那須御養卵。
隠し味には、一晩水に浸して旨味を抽出した、干し貝柱の戻し汁を使う。
ジャッ、ジャッ、ジャッ!
お玉が鍋肌を叩くリズムは、正確無比なメトロノームのようだ。
溶き卵が熱せられた油と出会い、瞬時に泡立って米粒を包み込む。
佐藤が鍋を煽るたび、米粒の一粒一粒が油と卵でコーティングされ、宙を舞いながらパラパラと黄金色に輝く。
「……仕上げです」
佐藤は鍋肌から醤油を回し入れた。
ジュワアァァァッ!
醤油が焦げる香ばしい匂い――中華料理の魂とも言える「鍋気」が爆発的に広がり、薄暗い高架下を支配する。
「完成です」
佐藤は鍋を大きく煽り、大皿に豪快に盛り付けた。
湯気と共に立ち上る、暴力的なまでの食欲の香り。
『黄金炒飯(ゴールデン・フライドライス)』だ。
「……すげえ匂い」
田中襟華が喉を鳴らし、吸い寄せられるようにテーブルへ近づいた。
「これ、絶対うまいやつじゃん。……匂いだけでご飯三杯いける」
「合わせる飲み物はこれです」
佐藤がテーブルに置いたのは、無色透明の液体が入ったボトル。
ラベルには『イェニ・ラク』とある。トルコを代表する蒸留酒だ。
「ラク……? 聞いたことないわね」
渡辺千尋がボトルを手に取り、ラベルを眺める。
「ブドウを原料に、アニスで香り付けした酒です。アルコール度数は45度。……見ていてください」
佐藤はグラスにラクを注ぎ、そこに冷水を加えた。
瞬間。
それまで無色透明だった液体が、魔法のように白濁した乳白色へと変化した。
「わっ、色が変わった!」
襟華が目を丸くする。
「なにこれ、手品?」
「アニスに含まれる油分が水と反応して白濁するのです。トルコではその色から、これを『獅子の乳』と呼びます。……飲む者に獅子の勇気を与える酒です」
佐藤は全員にグラスを配った。
未成年の襟華には、見た目が似ているカルピスソーダを。
「……乾杯しましょう。明日の決戦に」
佐藤が静かにグラスを掲げた。
「乾杯!」
安っぽいプラスチックのコップとグラスが触れ合う音が、高架下に響く。
全員が、待ちかねたようにスプーンを握り、黄金色の山を崩した。
口に運ぶ。
ハフッ、ハフッ。
熱々の米粒が、口の中でパラリとほどける。
噛み締めるたびに、チャーシューの脂と卵の甘み、そして焦がし醤油の香ばしさが炸裂する。
パラパラでありながら、決してパサついてはいない。米の一粒一粒に旨味の油が回り、しっとりとした弾力を残している。
そして、ラクを一口。
アニスの独特な清涼感と、45度の強烈なアルコールが、口の中に残った油を一瞬で洗い流す。
喉が熱くなる感覚。胃の腑に落ちた瞬間、カッと体が内側から燃え上がるようだ。
「……んんッ! 最高!」
佐々木紘子が叫ぶ。
「あんた、もう探偵やめて中華屋やりなさいよ! 私が店出してあげるから!」
「検討します。……ですが今は、別の『料理』の下ごしらえをしなければなりません」
佐藤はグラスを置き、車のボンネットに地図を広げた。
そこには、バズ・インキュベーションが管理するデータセンターの位置と、都内の主要な施設が赤ペンでマーキングされている。
「作戦名は『カオスの種』。……明日の本番に向けた、多重陽動です」
佐藤は、多摩丘陵の山中にある一点を指差した。
「敵の本丸は、この地下要塞データセンターです。警備は鉄壁。私兵部隊200名、軍用ドローン50機、さらには対車両用のバリケードまで設置されています。……まともに正面から突っ込めば、我々は門にたどり着く前に蜂の巣です」
グレタ・ヴァイスが腕を組み、重々しく頷く。
「ああ。今の我々には、あのGクラスのような装甲車もない。紘子が調達したランクル70は名車だが、防弾性能はない。丸裸で突っ込むのは自殺行為だ」
「ですから、敵に『ここ以外を守らなければならない』状況を作ります。……今夜のうちに」
佐藤の視線が、メンバー一人一人を捉える。
「愛永さん。あなたの出番です」
「任せて」
松本愛永は炒飯を飲み込み、ナプキンで口元を拭った。その目には、不敵な光が宿っている。
「私の一声で、東京中をパニックにしてあげる。……野次馬、YouTuber、暇を持て余した暴徒たち。全員まとめて動員して、敵の拠点を埋め尽くしてやるわ」
「そして彩さん、紘子さん」
佐藤は二人の「大人」を見た。
「裏社会と物流の力で、敵の足を物理的に止めてください。増援部隊がデータセンターにたどり着けないように」
「了解。……私の口座を凍結した報い、たっぷりと受けさせてやるわ」
吉田彩がスマホを取り出し、不敵に笑う。
「裏社会の金庫番に関する情報を、ちょっと『加工』して流すわ。……今夜の港区は、欲にまみれた亡者たちの運動会になるわよ」
「トラック野郎たちには話をつけてあるわ」
紘子がウィンクする。
「主要幹線道路の交差点で、派手な『玉突き事故』を演出してもらう。……明日の夜、東京の道路は大動脈瘤を起こして死ぬわよ」
佐藤は最後に、残った炒飯を小さく握り、アルミホイルに包んだ。
全部で四つ。
「……おにぎり?」
襟華が尋ねる。
「明日の夜食です。……データセンターの中は長丁場になりますから。それに、炭水化物は脳の燃料です」
佐藤はそれを、突入予定チームのためにクーラーボックスへ丁寧に収めた。
「いいですか。……これが最後の晩餐にならないよう、必ず生きて戻りましょう」
全員が無言で頷いた。
その瞳に、獅子の勇気が宿っている。
全てを奪われた者たちの、逆襲の炎。
「……散開!」
号令と共に、メンバーたちはそれぞれの持ち場へと散っていった。
午後8時30分。
東京の夜空に、見えない電波の嵐が吹き荒れた。
『……こんばんは。松本愛永です』
YouTube、SNS、Twitch、そしてハッキングされた渋谷の街頭ビジョン。
あらゆるスクリーンに、愛永の顔が映し出された。
背景は薄暗い車内だが、彼女の放つカリスマ性は、スタジオにいた頃よりも遥かに鋭く、そして危険な輝きを帯びていた。
『今夜、東京の闇が暴かれます。……皆さんが信じている「平和」の裏側で、何が行われているのか』
彼女の声は、静かだが、聞く者の不安を煽る独特の周波数を帯びていた。
マイクを通した吐息一つでさえ、視聴者の鼓動を早める。
『バズ・インキュベーション。……この会社を知っていますか? 皆さんのスマホから情報を抜き取り、心を操っている黒幕です』
画面に、バズ・インキュベーションの関連施設リストが表示される。
ただし、本命の多摩データセンターは含まれていない。
代わりに表示されたのは、彼らのフロント企業である「港区の高級クラブ」「六本木のタワーマンション」、そして「渋谷の巨大サーバービル」だ。
『彼らはそこに隠れています。……私たちの自由を奪い、私腹を肥やす悪魔たちが。私たちが汗水垂らして働いたお金で、彼らは毎晩シャンパンを空けているのです』
愛永はカメラを指差した。
その指先は、画面の向こうにいる数百万人の視聴者一人一人の胸元を突き刺すようだった。
『見に行きましょう。……真実を、その目で確かめに。今夜、私たちが証人になるのです』
扇動。
数百万人の視聴者が、その言葉に突き動かされる。
野次馬根性、正義感、あるいは社会への鬱屈した不満。
それらが「松本愛永」という起爆剤によって引火し、爆発的なエネルギーとなって都市を駆け巡る。
SNS上では、指定された座標への集結を呼びかけるハッシュタグがトレンド入りし、現地からの生配信が次々と開始される。
『渋谷支社前に人だかりが!』
『六本木に黒塗りの車が集まってるぞ!』
『警察が動き出した! 何かあるぞ!』
一方、港区の路上。
車の中で待機していた吉田彩が、裏社会専用の通信アプリでメッセージを送信した。
【バズ・インキュベーションの裏金庫、本日移送予定。現金10億、金塊50キロ。護衛手薄】
偽情報。
だが、金に飢えた半グレや犯罪組織にとっては、無視できない甘い蜜だ。
情報は瞬く間に拡散し、欲に目の眩んだ集団が動き出す。
さらに、主要幹線道路。
プアァァァーーッ!!
けたたましいクラクションと共に、大型トレーラー数台が交差点で意図的な「事故」を起こした。
道を完全に塞ぐ、ジャックナイフ現象。
運転手が車外に出て、大げさに喧嘩を始める。
「どこ見て走ってんだコラァ!」
「そっちこそ急に止まるんじゃねぇ!」
大渋滞が発生し、パトカーや消防車の到着が遅れる。
都市機能の麻痺。
警察の通信指令センターはパンク寸前となり、バズ・インキュベーションの本社もまた、対応に追われて機能不全に陥っていく。
「……種は撒かれましたね」
キャンピングカーの中で、複数のモニターを見つめていた佐藤が呟いた。
画面の中の東京は、無数の赤い光点で埋め尽くされている。
完璧なカオス。
論理と予測で動くAI「パノプティコン」にとって、最も処理しきれない状況だ。
「これより、我々も動きます」
佐藤はジャケットを羽織り、隣に立つ渡辺千尋を見た。
「千尋さん。……行きましょうか」
「ええ。久しぶりの夜会ね」
千尋は逃亡用の服から、紘子が調達したシックな黒のドレスに着替えている。
その上からトレンチコートを羽織り、足元は戦えるヒールで固めている。
彼女たちの任務は、海外メディアの特派員を「招待」すること。
明日の夜、このカオスを世界中に中継させ、日本のメディア規制を外側から破壊するための布石だ。
「グレタ、襟華。君たちは車両の準備を」
「了解。……紘子が持ってきたランクル70、最高の状態に仕上げておく」
グレタが工具箱を手に立ち上がる。
彼女の目は、すでに狩人のそれになっていた。
「よし、行くぞ」
佐藤と千尋は、ハイエースに乗り込み、夜の六本木へと向かった。
カオスの種は撒かれた。
それが芽吹き、巨大な樹海となって敵を飲み込むのは、明日の夜だ。
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