殺された入り婿の二度目の遺言 ~10年前に戻り完璧な美男子となった俺は、未来知識と手料理でクズ妻一族を内側から全て奪い尽くす~

ken

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第1章:絶望と覚醒

第1話 入り婿の地獄

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 午前4時30分。スマートフォンに設定したアラームが鳴る1分前に、俺は凍てつくように硬い床の上で目を覚ました。
 窓ひとつない三畳ほどの納戸の中は、カビとホコリの混じったような重い空気が淀んでいる。ペラペラの薄い毛布を頭から被り、膝を抱えるようにして体を丸めていた。ギシギシと軋む関節を無理やり動かし、身を起こす。40歳という年齢以上に、過労と極度のストレス、そして慢性的な栄養不良で老け込んだ体は、毎朝鉛のように重く、動かすたびに節々が悲鳴を上げていた。
 音を立てないようにそっと納戸のドアを開け、広大な豪邸の廊下に出る。暖房が効き始める前の廊下は、肌を刺すほど底冷えがする。足音を忍ばせて向かったのは、磨き上げられた大理石が敷き詰められた、広々としたアイランド型のシステムキッチンだった。

 俺の名前は、神崎修平。
 日本有数の財閥である『神崎グループ』の次期社長候補・神崎麗華の『夫』だ。

 ……そう、戸籍上は。

 実態は、夫などではない。この豪邸に住み込み、24時間体制でこき使われる、無給の家政夫以下の存在。それが俺の現在だった。

 色あせたエプロンを身につけ、巨大な業務用冷蔵庫を開ける。今日の朝食は、俺にとっては義母にあたる絶対的権力者・貴子には本格的な和食膳を、妻の麗華にはフレンチトーストと色鮮やかなフルーツの盛り合わせを、そして『あいつ』にはプロテインを入れた特製のスムージーと高タンパクな洋食を用意しなければならない。
 長年、毎日毎日誰かのために、一切の妥協を許されずに料理を作り続けたおかげで、皮肉なことに俺の腕前は一流のシェフ顔負けの領域に達していた。手際よく最高級の利尻昆布と本枯節で透き通るような出汁を取り、旬の魚の皮目をパリッと焼き上げながら、隣のコンロで一晩卵液に浸した厚切りのパンを、焦がしバターでふっくらと焼き上げていく。キッチンに、出汁の繊細な香りとバターの甘い匂いが立ち込める。

「……ふぅ」

 無意識のうちに、ため息が漏れた。
 なぜ、俺はこんな地獄にいるのか。孤児院育ちで、親の顔も知らず、愛情というものを一切与えられずに育った俺は、ただ「あたたかい家族」が欲しかっただけなのだ。
 あの日、当時30歳だった俺の前に、別世界から舞い降りたように美しく輝く麗華が現れた。彼女は孤独だった俺に優しく微笑みかけ、「あなたのような誠実な人が必要だ」と、俺の存在意義を認めてくれた。天にも昇る気持ちでプロポーズを受け入れ、神崎家に入り婿として迎えられた。
 だが、それが周到に用意された罠だったと気づくのに、そう時間はかからなかった。
 彼女たちが必要としていたのは、共に人生を歩む愛する夫ではない。神崎家という巨大な権力構造の中で、麗華が自由奔放に振る舞うための「都合の良い隠れ蓑」。そして、どんな理不尽な扱いを受けても抵抗する力を持たない、見栄えの悪くないサンドバッグだったのだ。

 午前7時。
 完璧なタイミングで三種類の朝食をトレイに載せ、キッチンから一段高くなっている広大なダイニングエリアへと運ぶ。そこには特注のマホガニー材の巨大なテーブルが鎮座し、足元には最高級のペルシャ絨毯が敷き詰められている。
 料理を並べ終えた直後、廊下から足音が聞こえてきた。

「ああ、もう朝か。麗華、昨日は最高だったよ」
「ふふっ、翔ったら。朝から元気ね」

 甘ったるい笑い声を上げながらダイニングに現れたのは、俺の妻である麗華と、その隣にぴったりと寄り添う見知った若い男だった。
 黒崎翔。国内でも有数の政治家一族の次男であり、麗華の公然の『愛人』だ。

「おはようございます……麗華さん、黒崎さん」

 俺が深く頭を下げて挨拶をすると、黒崎は鼻で笑いながら椅子に腰を下ろした。

「おや、おはよう寄生虫くん。今日も無給の使用人ご苦労様。お前の妻は、昨夜も俺のベッドで最高の声を出してくれたよ」
「翔、やめてよ。こんな薄汚いゴミに私たちの神聖な夜の話を聞かせるなんて、もったいないわ」

 麗華は心底汚いものを見るような目で俺を一瞥すると、黒崎の腕に絡みついた。俺の胸の奥で、ドロリとした屈辱と怒りが渦巻く。しかし、声には出せない。逆らえば、さらなる地獄が待っていることを、長きにわたる拷問のような日々で骨の髄まで叩き込まれているからだ。

「おい修平。今日のスムージー、なんだかぬるいぞ。氷の分量を間違えたんじゃないか?」

 黒崎がグラスを揺らしながら不機嫌そうに言う。
 そんなはずはない。果物の温度から逆算し、氷の量も攪拌の時間も秒単位で完璧に仕上げた。プロスポーツ選手の専属栄養士レベルの自信作だ。ただ俺を痛めつけるための、いつもの言いがかりだった。

「申し訳ありません……ただちに新しいものをご用意いたします」
「もういいよ、不味くて飲めたもんじゃない」

 バシャッ!
 黒崎は残忍な笑みを浮かべたまま、グラスの中身を俺の顔面に向かってぶちまけた。ドロドロとした緑色の液体が、顔から首筋、そしてエプロンへと滴り落ち、キッチンの大理石の床に生々しい飛沫を作る。冷たい果肉とプロテインの匂いが顔にへばりつく。

「きゃははっ! ちょっと翔、やめてよ。大理石の床が汚れちゃうじゃない」
「悪い悪い。つい手が滑ってね。ほら、ゴミ。さっさと這いつくばって拭いておけよ」

 麗華はケラケラと笑い、黒崎は面白そうに俺を見下ろしている。俺は黙って濡れた顔を腕で拭い、雑巾を取りに急ごうとした。
 その時だ。

「……朝から随分と騒々しいわね。下品な笑い声は控えなさいと言っているでしょう、麗華」

 感情の一切こもらない、絶対零度の声がダイニングに響いた。
 その場にいた全員の動きが止まる。俺は思わずビクッと肩を震わせた。
 豪華な和装を見事に着こなし、白檀の扇子を手にして現れたのは、この神崎家の絶対的な支配者であり、麗華の実母――俺にとっては義母にあたる神崎貴子だった。

「お、お義母様。おはようございます」

 先程まで尊大に振る舞っていた黒崎でさえ、愛想笑いを浮かべて慌てて頭を下げる。貴子は黒崎には「おはよう、翔さん」と鷹揚に頷いた後、床に滴るスムージーと、全身が汚れた俺の姿を見て、羽虫でも見るかのように不快そうに顔をしかめた。

「修平。あなた、また粗相をしたの? その不浄な液体がダイニングのペルシャ絨毯に一滴でも飛んでいたら、あなたの臓器を売っても弁償しきれないのよ」
「申し訳ありません……! すぐに掃除いたします!」

 俺は慌てて雑巾を手に取り、冷え切った大理石の床に這いつくばって汚れを拭き取った。その惨めな背中を、貴子の無慈悲な視線が突き刺す。

「そもそも、あなたがノロマだから翔さんが苛立つのでしょう。神崎家に来て長い年月が経っても、孤児院上がりの血の卑しさは抜けないようね」
「申し訳ありません……」
「謝罪なら猿でもできるわ。私の朝食はどうなっているの? ……湯気すら立っていないじゃないの。完全に冷めきっているわ」

 貴子はテーブルに置かれた和食の膳を一瞥し、吐き捨てるように言った。
 俺の目から見ても、椀からはほかほかと白い湯気が立ち上っている。直前まで器を温め、完璧な温度管理で提供した、熱々の味噌汁だ。
 しかし、神崎家において絶対的な権力を持つ貴子の言葉は、この家における唯一の『真実』だ。彼女が「冷めている」と言えば、煮えたぎる熱湯であっても冷水として扱わなければならないのだ。

「こんなぬるい味噌汁、豚の餌にすらならないわね。麗華」
「はい、お母様。このゴミには、身をもって温度というものを教えてあげないとダメですね」

 貴子の冷徹な目配せを受け、麗華は意地悪な笑みを浮かべながら椀を手に取った。そして、這いつくばって床を拭いている俺の頭上から、躊躇することなくその中身をひっくり返した。

「ッ……!!」

 熱い。豆腐とワカメ、そして熱々の出汁が、俺の頭から背中へと一気に流れ落ちる。火傷するほどの強烈な熱さに思わず声が出そうになったが、必死に歯を食いしばって耐えた。完璧に仕上げたはずの料理で、こんな理不尽な暴力を受ける悔しさと痛みが全身を駆け巡る。ここで声を上げれば「うるさい」とさらなる罰が下り、最悪の場合は深夜まで外に締め出されるだけだ。

「そういえば翔さん、昨夜はひどく酔って、庭のぬかるみで転んでしまったそうね」
「ええ、お恥ずかしい。お気に入りのスーツが泥だらけになってしまいまして」

 俺が熱さと痛みに耐えている頭上で、貴子と黒崎が何事もなかったかのように雑談を続ける。

「じゃあ、このゴミに洗わせればいいわ。ねえ、さっさと床を拭いて、お母様の食事を作り直しなさい。それと、翔の服も洗っておくこと」

 麗華が顎で俺を指図する。

「もちろん、あなたの汚い手で神崎家の洗濯機に触れるのは許さないわよ。中庭の水道で、手洗いで泥を落としなさい」
「かしこまりました……」

「ああ、それから」

 立ち去りかけた黒崎が、思い出したように振り返って口を開いた。

「今日の夜、俺と麗華はフレンチを食べに行くから、お前の飯は要らないぞ。代わりに、帰ってきたら飲むから、高級なワインに合うつまみを何品か用意しておけ。間違っても、スーパーの安物なんか出すなよ」

 そう言うと、黒崎は懐から無造作に数枚の千円札を取り出し、俺の顔に向かって投げつけた。

「ほら、材料費だ。足りない分は手前の小遣いから出しておけ」

 ヒラヒラと床に落ちた数千円。普段の家族の食事には神崎家専用のブラックカードを渡されるが、俺を痛めつける時だけは、決まってこうしてわざと足りない現金を押し付けられるのだ。

 三人は俺を床に放置したまま、満足そうに笑い合いながらダイニングを去っていった。
 誰もいなくなったキッチンとダイニングの境界で、俺は一人、大理石の上に散らばったスムージーを拭き、ペルシャ絨毯の端にわずかに染み込んだ熱い味噌汁のシミを、雑巾で必死に叩き出した。火傷した背中がズキズキと痛み、どうしようもない絶望感で視界が滲む。

(どうして、こんなことに……)

 拭いても拭いても、汚れは落ちない。いや、落ちないのは床の汚れではない。俺の心にこびりついた、孤独と絶望という名の泥だ。

 床の掃除を終えると、休む間もなく貴子の朝食を作り直した。全く同じ工程で完璧な和食膳を再び仕上げ、冷めないうちに貴子の部屋へと運ぶ。無言で受け取られた膳を見て、安堵よりも疲労が勝った。
 次は黒崎のスーツだ。冷え込む中庭の水道の前にしゃがみ込み、凍るような水で泥だらけの高級スーツを手洗いする。手袋をつけることすら許されず、かじかむ指先で泥を掻き出しながら、何度も何度もすすぎを繰り返した。

 全ての理不尽な朝の業務を終え、ようやく自分のための時間が――といっても、身支度を整えるだけの時間だが――訪れた。
 温かいシャワーを浴びる特権など俺にはない。勝手口の横にある狭い手洗い場で、凍えるような水で濡らした粗末なタオルを使い、頭や顔にこびりついた汚れを惨めに拭き取った。熱湯を浴びて赤く腫れ上がった背中がヒリヒリと痛む。ドロドロになったエプロンを外し、肌に張り付く冷え切ったシャツを脱いで、サイズの合わないボロボロの服に急いで着替える。服が擦れるだけでも、火傷の痕がひきつった。

「……買い出しに、行かないと」

 呟きながら立ち上がると、窓の外はどんよりとした暗い雲に覆われていた。
 まるで、俺の人生そのものを表しているかのような、果てしなく重苦しい空。
 薄い財布――中には先程、黒崎に投げつけられた、たった数千円の紙幣しか入っていない――を握りしめ、俺は豪邸の裏口から外へと出た。

 残りは自腹を切れという無言の圧力だが、俺に自由になる金などとうの昔に尽きている。結局、遠くのスーパーまで歩いて特売品をかき集め、長年で培ったシェフ顔負けの技術を駆使して、高級品に見せかけるしかないのだ。これもまた、神崎家が俺を痛めつけるための日常的な娯楽の一つだった。

 ポツリ、と。
 氷雨の滴が頬を打った。
 天気予報では、今日は大雨になると言っていた。傘を持つことすら許されず、買い出しを命じられた俺は、ただ重い足取りでスーパーへと向かうしかなかった。

 この時の俺は、まだ知らない。
 この冷酷な雨の先に、人生でたった一度の『救い』があり――そして、最悪の『死』が待っているということを。
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