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第24話 怪物の芽と崩れ落ちた体育教師
ゴールデンウィークも後半に差し掛かった祝日の朝。
俺は、リビングでモーニングコーヒーを飲みながら、朝刊を広げていた。
社会面の片隅に、小さな記事が載っている。
『私立高校教諭、傷害容疑で自首』
記事によると、都内の私立高校に勤務する20代の男性教諭が、男子生徒に対して常習的に暴力を振るっていたとして、自ら警察に出頭したという。
さらに、部活動費の私的流用や、女子生徒へのハラスメント疑惑についても余罪として取り調べが行われる見込みだ。
実名は伏せられているが、間違いない。
鷹森恒一だ。
「……思ったより早かったな」
俺はカップを置き、静かに息を吐いた。
舞が集めた決定的な証拠――裏帳簿のコピー、体罰の音声データ、被害生徒たちの証言――を、匿名で理事長と警察、そしてマスコミにリークしたのが昨日のこと。
逃げ場を完全に塞がれた鷹森は、社会的制裁が公になる恐怖に耐えきれず、自ら警察署の門を叩いたようだ。
これで、城戸隼人を執拗に狙っていた理不尽な悪意は消滅した。
入学早々、一方的に目をつけられ、退学の危機にすらあった彼だが、これからの高校生活は、誰に邪魔されることなく自分の足で走れるはずだ。
俺は携帯電話を取り出し、隼人に短いメールを送った。
『厄介払いは終わった。勉強するぞ。10時に図書室集合』
すぐに返信が来た。
『マジかよ! ……サンキュ、西園寺。絶対行く』
短い文面から、彼の興奮と深い安堵が伝わってくるようだった。
登校するまでの時間、俺は書斎で新たなビジネスプランの精査を行っていた。
iモードの爆発的普及に合わせ、専用の端末や周辺機器――例えば、着メロを自作できる入力パッドや、携帯と連携する小型ガジェット――を自社で開発・販売する計画だ。
だが、ハードウェア開発の試算表を見た俺は、ペンを投げ出した。
「……ROI(投資利益率)が見合わないな。却下だ」
金型一つで数千万が飛び、製造ラインの確保と在庫管理の手間が重くのしかかる。桁違いの資本力を有していながら、あえて実体のある在庫リスクや減価償却の遅いハードウェア事業に資金を拘束させるのは、極めて非効率だ。
俺の最大の武器は、身軽で高速なデジタル投資と金融のレバレッジにある。やはり、自社事業はインフラとソフトウェアに集中すべきだ。
俺は視線をPCのマルチモニターに移した。
表示されているのは、米国市場の銘柄リストだ。
今、俺が注目しているのは、ある中堅の飲料メーカーだ。
『ハンセン・ナチュラル』。
1930年代創業の老舗だが、現在は地味なナチュラルジュースやソーダを細々と売っているだけの、パッとしない企業だ。
株価は1ドル未満。いわゆる「ペニー株」扱いされている。
だが、俺はこの会社が数年後、運命を変える商品を発売することを知っている。
『モンスターエナジー』。
カフェインと砂糖を大量にぶち込んだその液体は、エクストリームスポーツの過激なイメージと共に世界中の若者を熱狂させ、レッドブルと並ぶエナジードリンクの代名詞となる。
そして、その株価は数千倍に跳ね上がる。
AppleやAmazonに匹敵する、伝説的なリターンを生み出す大化け銘柄だ。
「……今はまだ、誰も見向きもしないジャンク同然の株だ。だが、その種は確実に眠っている」
俺は証券口座にアクセスし、潤沢な余剰資金を投じて、ハンセン・ナチュラル株を静かに買い集める注文を出した。
これもまた、20年寝かせるためのタイムカプセルだ。
ハードウェア製造の夢は捨てたが、その代わりに手に入れたのは、途方もない利益を生む「怪物の卵」だった。
午前10時。
祝日だが特別に開放されている学園の図書室。
俺が到着すると、隼人はすでに席についていた。
いつもなら漫画を読んでいる彼が、今日は神妙な顔で参考書を開いている。
「……よぉ、西園寺」
俺に気づいた隼人が顔を上げた。
その表情は、いつもの不敵な笑みとは違い、どこか晴れやかで、そして少しだけ泣き腫らしたような跡があった。
「ニュース、見たか?」
「ああ。残念な事件だね」
「……へっ、白々しい野郎だ。全部お前が仕組んだんだろ?」
隼人はニヤリと笑った。
俺は肯定も否定もせず、隣の席に座った。
「俺はただ、環境を整えただけだ。……これで、お前を縛るものは何もない」
「ああ。……マジで、ありがとな。入学してからずっとあいつにロックオンされてたからよ、やっと息ができる気がするわ」
隼人は深く息を吐き、天井を見上げた。
中学時代に理不尽に折られた翼。
そして高校でも繰り返されようとしていた理不尽な弾圧。
それらがついに終わりを告げたのだ。
「さて、感傷に浸るのもいいが、赤点は待ってくれないぞ」
「うげっ! そうだった! やるよ、やればいいんだろ!」
隼人は慌ててシャーペンを握り直した。
俺たちはそこから2時間ほど、みっちりと勉強に励んだ。
迷いが消えた人間の集中力は凄まじい。
彼は驚異的なスピードで知識を吸収していった。
昼休憩。
隼人が「脳みそが糖分を求めてる!」と言って自販機へ走った隙に、俺は書架の間を歩いていた。
新しいビジネスのヒントを探すためだ。
社会科学のコーナーを曲がったところで、一人の女子生徒と鉢合わせた。
霧島セイラ先輩だ。
休日の図書室に制服姿。
生徒会の仕事か、あるいは家には居場所がないのか。
窓から差し込む光が、彼女の艶やかな黒髪と、彫りの深い美貌を神々しく照らし出している。
彼女は分厚い洋書を抱え、憂いを帯びた瞳で俺を見た。
「……西園寺くん。貴方も来ていたのね」
「ええ。友人の勉強を見ていまして。……先輩も、勉強ですか?」
「生徒会の資料作成よ。……家だと、落ち着かないから」
彼女は少し自嘲気味に言った。
没落寸前の霧島家。屋敷の中は、差し押さえの準備や債権者からの連絡でピリピリしているのだろう。
彼女にとって、学校だけが唯一、「霧島家の令嬢」という鎧を着ていられる安全地帯なのかもしれない。
「……そういえば、鷹森先生の件、聞いたかしら?」
セイラ先輩が声を潜めて聞いてきた。
「ええ。ニュースで見ました」
「生徒会でも問題になっていたのよ、あの教師。……でも、誰も手出しできなかった。理事会にも顔が利くし、父兄からの評判も良かったから」
彼女は俺の目をじっと見つめた。
その瞳には、探るような鋭い光がある。
「……不思議ね。貴方が入学してから、この学園の膿が次々と炙り出されているような気がするわ」
「偶然ですよ。世の中、悪事はいつか露見するものです」
「……ふふ、そうね。そういうことにしておくわ」
彼女は薄く微笑んだ。
初めて見る、毒気のない穏やかな笑顔だった。
「成金」と罵られた時とは、隔世の感がある。
「貴方は……不思議な人ね。ただの成金だと思っていたけれど、本当のお金の使い方を知っているみたい」
「お金はただの道具です。どう使うかで、毒にも薬にもなる」
「……ええ。私の父にも、その言葉を聞かせてやりたいわ」
彼女は寂しげに目を伏せた。
俺は一歩踏み出し、彼女との距離を詰めた。
「霧島先輩。……もし、盤面を覆すための『カード』が必要になったら言ってください。俺で良ければ、力になりますよ」
「……覚えておくわ。でも、安売りはしないでね。私は高いわよ?」
彼女は強気に言い放ち、背を向けた。
だが、その耳は微かに赤く染まっていた。
プライドと弱さの狭間で揺れる少女。
彼女の抱える時限爆弾を解除する日も、そう遠くないかもしれない。
夕方。
隼人と別れ、俺は東急本店のデパ地下にいた。
鷹森という不確定要素を排除し、新たな『怪物の卵』を手に入れた自分への、ささやかな祝杯を上げるためだ。
向かったのは精肉コーナー。
選んだのは、フランス産の最高級鴨胸肉『マグレ・ド・カナール』。
フォアグラを採取するために育てられた鴨の肉は、野性味と濃厚な脂の甘みを併せ持つ。
青果コーナーで新鮮なオレンジと付け合わせのアスパラガスを購入し、ワインセラーで熟成されたブルゴーニュの『ピノ・ノワール』を確保する。
帰宅後、俺はキッチンに立った。
鴨肉の皮目に格子状の切れ込みを入れ、冷たいフライパンに乗せて極弱火にかける。
じっくりと時間をかけて皮目の脂を落とし、カリカリに焼き上げる。
溢れ出た脂をかけながら肉に火を通し、美しいロゼ色に仕上げるため、アルミホイルで包んで休ませた。
その間にソースを作る。
グラニュー糖を焦がしてキャラメル状にし、搾りたてのオレンジ果汁とグラン・マルニエを加える。
そこにフォンドボーを足して煮詰め、最後に冷たいバターで乳化させる。
柑橘の爽やかな香りと、濃厚なコクが同居した『オレンジソース』の完成だ。
休ませた鴨肉を厚めにスライスし、温めた皿に並べる。
鮮やかなロゼ色の断面に、艶やかなオレンジソースを回しかける。
グラスにピノ・ノワールを注ぐと、ベリー系の複雑な香りが開いた。
「いただきます」
鴨肉をソースにたっぷりと絡め、口に運ぶ。
皮目の香ばしさの直後、鴨特有の野性味溢れる鉄分と赤身の旨味が広がる。
そこにオレンジソースの甘酸っぱさが重なり、味わいの輪郭を鮮やかに引き立てていく。
すかさず、ピノ・ノワールを一口。
深い果実味と繊細な酸が、鴨の旨味と完璧なマリアージュを果たし、静かな余韻となって喉の奥へと消えていった。
誰に急かされることもなく、至高のディナーを一人静かに噛み締める。
この贅沢な孤独こそが、大人の男にとって最高の報酬だ。
食後。
ほろ酔い気分で、俺はリビングの床に座り込んだ。
目の前には、1000ピースのパズルが広がっている。
残りのピースを一つずつ、無心になって埋めていく。
カチッ、カチッ、とピースがハマる微かな音だけが、部屋に響く。
脳内のノイズが整理され、思考が研ぎ澄まされていく。
最後のピースがハマり、モノクロームのパズルが完成した。
描かれていたのは、1920年代のウォール街。狂騒と暴落の歴史を刻んだ、金融の中心地だ。
俺は完成したパズルを一瞥し、すぐに躊躇なく崩して箱にしまった。
過去の歴史は完成した。次は、俺自身がこの手で、未来の歴史を組み上げる番だ。
グラスに残ったピノ・ノワールを飲み干し、俺は静かに明日の相場へと意識を切り替えた。
俺は、リビングでモーニングコーヒーを飲みながら、朝刊を広げていた。
社会面の片隅に、小さな記事が載っている。
『私立高校教諭、傷害容疑で自首』
記事によると、都内の私立高校に勤務する20代の男性教諭が、男子生徒に対して常習的に暴力を振るっていたとして、自ら警察に出頭したという。
さらに、部活動費の私的流用や、女子生徒へのハラスメント疑惑についても余罪として取り調べが行われる見込みだ。
実名は伏せられているが、間違いない。
鷹森恒一だ。
「……思ったより早かったな」
俺はカップを置き、静かに息を吐いた。
舞が集めた決定的な証拠――裏帳簿のコピー、体罰の音声データ、被害生徒たちの証言――を、匿名で理事長と警察、そしてマスコミにリークしたのが昨日のこと。
逃げ場を完全に塞がれた鷹森は、社会的制裁が公になる恐怖に耐えきれず、自ら警察署の門を叩いたようだ。
これで、城戸隼人を執拗に狙っていた理不尽な悪意は消滅した。
入学早々、一方的に目をつけられ、退学の危機にすらあった彼だが、これからの高校生活は、誰に邪魔されることなく自分の足で走れるはずだ。
俺は携帯電話を取り出し、隼人に短いメールを送った。
『厄介払いは終わった。勉強するぞ。10時に図書室集合』
すぐに返信が来た。
『マジかよ! ……サンキュ、西園寺。絶対行く』
短い文面から、彼の興奮と深い安堵が伝わってくるようだった。
登校するまでの時間、俺は書斎で新たなビジネスプランの精査を行っていた。
iモードの爆発的普及に合わせ、専用の端末や周辺機器――例えば、着メロを自作できる入力パッドや、携帯と連携する小型ガジェット――を自社で開発・販売する計画だ。
だが、ハードウェア開発の試算表を見た俺は、ペンを投げ出した。
「……ROI(投資利益率)が見合わないな。却下だ」
金型一つで数千万が飛び、製造ラインの確保と在庫管理の手間が重くのしかかる。桁違いの資本力を有していながら、あえて実体のある在庫リスクや減価償却の遅いハードウェア事業に資金を拘束させるのは、極めて非効率だ。
俺の最大の武器は、身軽で高速なデジタル投資と金融のレバレッジにある。やはり、自社事業はインフラとソフトウェアに集中すべきだ。
俺は視線をPCのマルチモニターに移した。
表示されているのは、米国市場の銘柄リストだ。
今、俺が注目しているのは、ある中堅の飲料メーカーだ。
『ハンセン・ナチュラル』。
1930年代創業の老舗だが、現在は地味なナチュラルジュースやソーダを細々と売っているだけの、パッとしない企業だ。
株価は1ドル未満。いわゆる「ペニー株」扱いされている。
だが、俺はこの会社が数年後、運命を変える商品を発売することを知っている。
『モンスターエナジー』。
カフェインと砂糖を大量にぶち込んだその液体は、エクストリームスポーツの過激なイメージと共に世界中の若者を熱狂させ、レッドブルと並ぶエナジードリンクの代名詞となる。
そして、その株価は数千倍に跳ね上がる。
AppleやAmazonに匹敵する、伝説的なリターンを生み出す大化け銘柄だ。
「……今はまだ、誰も見向きもしないジャンク同然の株だ。だが、その種は確実に眠っている」
俺は証券口座にアクセスし、潤沢な余剰資金を投じて、ハンセン・ナチュラル株を静かに買い集める注文を出した。
これもまた、20年寝かせるためのタイムカプセルだ。
ハードウェア製造の夢は捨てたが、その代わりに手に入れたのは、途方もない利益を生む「怪物の卵」だった。
午前10時。
祝日だが特別に開放されている学園の図書室。
俺が到着すると、隼人はすでに席についていた。
いつもなら漫画を読んでいる彼が、今日は神妙な顔で参考書を開いている。
「……よぉ、西園寺」
俺に気づいた隼人が顔を上げた。
その表情は、いつもの不敵な笑みとは違い、どこか晴れやかで、そして少しだけ泣き腫らしたような跡があった。
「ニュース、見たか?」
「ああ。残念な事件だね」
「……へっ、白々しい野郎だ。全部お前が仕組んだんだろ?」
隼人はニヤリと笑った。
俺は肯定も否定もせず、隣の席に座った。
「俺はただ、環境を整えただけだ。……これで、お前を縛るものは何もない」
「ああ。……マジで、ありがとな。入学してからずっとあいつにロックオンされてたからよ、やっと息ができる気がするわ」
隼人は深く息を吐き、天井を見上げた。
中学時代に理不尽に折られた翼。
そして高校でも繰り返されようとしていた理不尽な弾圧。
それらがついに終わりを告げたのだ。
「さて、感傷に浸るのもいいが、赤点は待ってくれないぞ」
「うげっ! そうだった! やるよ、やればいいんだろ!」
隼人は慌ててシャーペンを握り直した。
俺たちはそこから2時間ほど、みっちりと勉強に励んだ。
迷いが消えた人間の集中力は凄まじい。
彼は驚異的なスピードで知識を吸収していった。
昼休憩。
隼人が「脳みそが糖分を求めてる!」と言って自販機へ走った隙に、俺は書架の間を歩いていた。
新しいビジネスのヒントを探すためだ。
社会科学のコーナーを曲がったところで、一人の女子生徒と鉢合わせた。
霧島セイラ先輩だ。
休日の図書室に制服姿。
生徒会の仕事か、あるいは家には居場所がないのか。
窓から差し込む光が、彼女の艶やかな黒髪と、彫りの深い美貌を神々しく照らし出している。
彼女は分厚い洋書を抱え、憂いを帯びた瞳で俺を見た。
「……西園寺くん。貴方も来ていたのね」
「ええ。友人の勉強を見ていまして。……先輩も、勉強ですか?」
「生徒会の資料作成よ。……家だと、落ち着かないから」
彼女は少し自嘲気味に言った。
没落寸前の霧島家。屋敷の中は、差し押さえの準備や債権者からの連絡でピリピリしているのだろう。
彼女にとって、学校だけが唯一、「霧島家の令嬢」という鎧を着ていられる安全地帯なのかもしれない。
「……そういえば、鷹森先生の件、聞いたかしら?」
セイラ先輩が声を潜めて聞いてきた。
「ええ。ニュースで見ました」
「生徒会でも問題になっていたのよ、あの教師。……でも、誰も手出しできなかった。理事会にも顔が利くし、父兄からの評判も良かったから」
彼女は俺の目をじっと見つめた。
その瞳には、探るような鋭い光がある。
「……不思議ね。貴方が入学してから、この学園の膿が次々と炙り出されているような気がするわ」
「偶然ですよ。世の中、悪事はいつか露見するものです」
「……ふふ、そうね。そういうことにしておくわ」
彼女は薄く微笑んだ。
初めて見る、毒気のない穏やかな笑顔だった。
「成金」と罵られた時とは、隔世の感がある。
「貴方は……不思議な人ね。ただの成金だと思っていたけれど、本当のお金の使い方を知っているみたい」
「お金はただの道具です。どう使うかで、毒にも薬にもなる」
「……ええ。私の父にも、その言葉を聞かせてやりたいわ」
彼女は寂しげに目を伏せた。
俺は一歩踏み出し、彼女との距離を詰めた。
「霧島先輩。……もし、盤面を覆すための『カード』が必要になったら言ってください。俺で良ければ、力になりますよ」
「……覚えておくわ。でも、安売りはしないでね。私は高いわよ?」
彼女は強気に言い放ち、背を向けた。
だが、その耳は微かに赤く染まっていた。
プライドと弱さの狭間で揺れる少女。
彼女の抱える時限爆弾を解除する日も、そう遠くないかもしれない。
夕方。
隼人と別れ、俺は東急本店のデパ地下にいた。
鷹森という不確定要素を排除し、新たな『怪物の卵』を手に入れた自分への、ささやかな祝杯を上げるためだ。
向かったのは精肉コーナー。
選んだのは、フランス産の最高級鴨胸肉『マグレ・ド・カナール』。
フォアグラを採取するために育てられた鴨の肉は、野性味と濃厚な脂の甘みを併せ持つ。
青果コーナーで新鮮なオレンジと付け合わせのアスパラガスを購入し、ワインセラーで熟成されたブルゴーニュの『ピノ・ノワール』を確保する。
帰宅後、俺はキッチンに立った。
鴨肉の皮目に格子状の切れ込みを入れ、冷たいフライパンに乗せて極弱火にかける。
じっくりと時間をかけて皮目の脂を落とし、カリカリに焼き上げる。
溢れ出た脂をかけながら肉に火を通し、美しいロゼ色に仕上げるため、アルミホイルで包んで休ませた。
その間にソースを作る。
グラニュー糖を焦がしてキャラメル状にし、搾りたてのオレンジ果汁とグラン・マルニエを加える。
そこにフォンドボーを足して煮詰め、最後に冷たいバターで乳化させる。
柑橘の爽やかな香りと、濃厚なコクが同居した『オレンジソース』の完成だ。
休ませた鴨肉を厚めにスライスし、温めた皿に並べる。
鮮やかなロゼ色の断面に、艶やかなオレンジソースを回しかける。
グラスにピノ・ノワールを注ぐと、ベリー系の複雑な香りが開いた。
「いただきます」
鴨肉をソースにたっぷりと絡め、口に運ぶ。
皮目の香ばしさの直後、鴨特有の野性味溢れる鉄分と赤身の旨味が広がる。
そこにオレンジソースの甘酸っぱさが重なり、味わいの輪郭を鮮やかに引き立てていく。
すかさず、ピノ・ノワールを一口。
深い果実味と繊細な酸が、鴨の旨味と完璧なマリアージュを果たし、静かな余韻となって喉の奥へと消えていった。
誰に急かされることもなく、至高のディナーを一人静かに噛み締める。
この贅沢な孤独こそが、大人の男にとって最高の報酬だ。
食後。
ほろ酔い気分で、俺はリビングの床に座り込んだ。
目の前には、1000ピースのパズルが広がっている。
残りのピースを一つずつ、無心になって埋めていく。
カチッ、カチッ、とピースがハマる微かな音だけが、部屋に響く。
脳内のノイズが整理され、思考が研ぎ澄まされていく。
最後のピースがハマり、モノクロームのパズルが完成した。
描かれていたのは、1920年代のウォール街。狂騒と暴落の歴史を刻んだ、金融の中心地だ。
俺は完成したパズルを一瞥し、すぐに躊躇なく崩して箱にしまった。
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