37 / 65
第37話 黄金の衣と監視された世界
しおりを挟む
中間試験という名の嵐が過ぎ去り、穏やかな日常が戻ってきた週末の朝。
俺は、リビングのソファでコーヒーを片手に、ぼんやりとテレビ画面を眺めていた。
流れているのは、休日の定番であるテレビショッピング番組だ。
「奥さん、見てくださいこの切れ味! 熟したトマトも、この通りスパスパ切れます!」
実演販売士が高いテンションで包丁を紹介している。
切れ味の悪い包丁でトマトを潰してしまう「悪い例」と、自社製品で美しくスライスする「良い例」。
典型的なコントラスト法だ。
だが、この古典的な手法が購買意欲をそそるのも事実だ。
「……道具への投資は、時間の節約に直結するからな」
俺は頷きながら、手元のメモ帳に「調理器具のアップグレード」と書き込んだ。
包丁はすでにプロ仕様のものを使っているが、砥石の番手を増やすのも悪くないかもしれない。
料理は俺にとって、ビジネスの思考から離れられる貴重な瞑想の時間だ。
その質を高めることは、精神衛生上の必要経費と言える。
番組が変わり、次は健康食品の紹介になった。
青汁を飲んで「まずい! もう一杯!」と叫ぶあの有名なCMだ。
健康への関心が高まりつつあるこの時代。
サプリメントや特定保健用食品の市場は、これから拡大の一途をたどる。
ハンセン・ナチュラルへの投資も、その文脈上にある。
俺はリモコンでテレビを消し、立ち上がった。
今日は久しぶりに、何の予定もない完全なオフだ。
街へ出て、空気の入れ替えをしよう。
午後。
俺は渋谷の喧騒を避け、代官山エリアを散策していた。
おしゃれなカフェやブティックが点在するこの街は、落ち着いた大人の空気が流れている。
旧山手通りを歩いていると、オープンテラスのカフェで読書をしている女性の姿が目に入った。
早坂涼さんだ。
今日の彼女は、リネン素材の白いシャツに、カーキ色のカーゴパンツを合わせている。
ラフでボーイッシュな装いだが、それがかえって彼女の持つ本来の女性らしさ――透き通るような肌の白さや、華奢な首筋を際立たせている。
ショートカットの黒髪が初夏の日差しを浴びて輝き、伏せられた睫毛が頬に影を落としている。
その凛とした佇まいは、周囲の風景を切り取った一枚の絵画のようだ。
道行く人々、特に男性たちが、すれ違いざまに彼女を振り返っては溜息をついているのが分かる。
透明感の極致。
彼女自身は無自覚なようだが、その存在感は隠しようがない。
「……涼さん」
俺が声をかけると、彼女はページをめくる手を止め、顔を上げた。
俺を認めると、驚いたように目を丸くし、次いでふわりと柔らかく微笑んだ。
「……あ、レオ。奇遇だね」
「ええ。お勉強ですか?」
「うん。教職のレポート書いててさ。……家だと誘惑が多くて」
彼女は苦笑しながら、読みかけの専門書を閉じた。
テーブルの上には、アイスティーと書きかけのルーズリーフが置かれている。
教師を目指す彼女の努力は、着実に実を結びつつあるようだ。
俺は失礼して、向かいの席に座らせてもらった。
「試験、終わったんだろ? お疲れ」
「ありがとうございます。……涼さんの方こそ、大学生活には慣れましたか?」
「まあね。サークルの勧誘もしつこくなくなってきたし、やっと自分のペースで動けるようになってきたかな」
彼女はストローで氷をかき回した。
その横顔には、かつて路地裏で震えていた時の影はない。
自分の足で未来へ歩き出した人間の、清々しい強さがある。
「……そういえばさ。こないだ、教育実習の話を聞いてきたんだ」
「ほう。もうそんな時期ですか?」
「いや、実際に行くのはまだ先だけどね。……でも、先輩の話聞いてたら、なんかこう、ワクワクしてきてさ」
彼女は瞳を輝かせた。
「生徒と向き合うって、大変そうだけど……でも、誰かの人生に関われるって凄いことだなって。……アタシ、昔いろいろあったからさ。道に迷ってる子の気持ち、少しは分かるつもりだし」
彼女の言葉には、実体験に裏打ちされた重みと優しさがあった。
元不良という過去は、教師としての彼女にとって決してマイナスではない。むしろ、清廉潔白なだけの教師には救えない生徒を救う武器になるだろう。
「……涼さんなら、きっと生徒に慕われる良い教師になりますよ。僕が保証します」
「……何よそれ。年下のくせに生意気」
彼女は照れくさそうに笑い、頬杖をついた。
「でも、ありがと。……レオに言われると、自信つくよ」
「事実を述べたまでです」
「ふふ、そういうとこ。……ホント、可愛くないボンだねぇ」
彼女は悪戯っぽく俺を見つめた。
その視線には、姉のような慈愛と、信頼できる友人としての親愛が混じっている。
俺たちはそれからしばらくの間、他愛のない世間話を続けた。
おすすめの映画の話、最近のニュース、美味しい店の情報。
穏やかで、心地よい時間。
ビジネスの緊張感から解放された俺にとって、彼女との会話は最高の癒やしだった。
「……じゃ、アタシもそろそろ行くわ。レポート仕上げなきゃ」
「ええ。頑張ってください」
店を出て、俺たちは駅前で別れた。
手を振って去っていく彼女の背中は、颯爽としていて格好良かった。
俺もまた、彼女に負けないよう自分の道を歩まなければならない。
そう決意を新たにし、俺は夕食の買い出しへと向かった。
向かった先は、いつもの東急本店デパ地下。
今日の夕食のテーマは決まっている。
「揚げたての至福」だ。
鮮魚コーナーで、長崎県産の『ごんあじ』を見つけた。
五島灘で獲れた瀬付きのアジで、黄金色に輝く魚体は脂の乗りが抜群だ。
刺身でも絶品だが、今日はあえてフライにする。
加熱することで溶け出す脂の旨味を、衣の中に閉じ込めるのだ。
三枚におろしてもらい、中骨を丁寧に抜いてもらう。
フライの衣には、生パン粉を使う。
乾燥パン粉にはない、サクッとした軽やかな食感と、パンの香ばしさを楽しむためだ。
付け合わせは、キャベツの千切り。
愛知県産の『新キャベツ』を選ぶ。
葉が柔らかく、甘みが強いこの時期だけの味覚だ。
これを極限まで細く切り、氷水に晒してシャキッとさせる。
ソースは、ウスターソースとタルタルソースの両方を用意しよう。
タルタルには、いぶりがっこを刻んで入れて食感と燻製香をプラスする。
味噌汁の具は、新玉ねぎとワカメ。
甘い玉ねぎが、揚げ物の油をリセットしてくれる。
酒は、ビールだ。
『ヱビスビール』の瓶。
濃厚なコクと苦味が、アジフライの旨味を受け止める最強のパートナーだ。
両手に重い荷物を抱え、俺は帰宅した。
帰宅後、すぐに調理に取り掛かる。
まずはキャベツの千切りからだ。
よく研いだ包丁で、繊維を断ち切るようにリズミカルに刻んでいく。
トントントントン……。
心地よい音がキッチンに響く。
空気を含ませるようにふわっと盛り付けられるよう、力は入れない。
切ったキャベツは冷水に放ち、パリッとさせる。
次にアジの下処理。
塩胡椒を振り、余分な水分を拭き取る。
小麦粉を薄くはたき、溶き卵にくぐらせ、生パン粉をまぶす。
パン粉は押し付けず、優しく纏わせるのがコツだ。剣を立たせることで、サクサクの食感が生まれる。
揚げ油は、菜種油と太白胡麻油のブレンド。
180度に熱する。
アジを静かに投入する。
――ジュワアアァァッ……!
勢いよく泡が立ち上り、香ばしい匂いが広がる。
この音と香りだけで、ビールが飲めそうだ。
触りすぎないよう、じっと待つ。
衣が固まり、きつね色になったら裏返す。
中の水分が蒸発し、泡が小さくなり、音が軽くなる。
それが引き上げのサインだ。
バットに上げ、油を切る。
余熱で中に火を通すことで、身はふっくらと仕上がる。
味噌汁を温め直し、キャベツの水気をしっかり切って皿に盛る。
黄金色のアジフライを鎮座させれば、完成だ。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
揚げたてのアジフライから立ち上る湯気。
山盛りのキャベツ。
そして、よく冷えたヱビスビールをグラスに注ぐ。
きめ細やかな泡と、琥珀色の液体。
「いただきます」
まずは何もつけず、そのままガブリといく。
――サクッ。フワッ。
軽やかな衣の歯ごたえの後、アジのふっくらとした身が口の中で解ける。
溢れ出す脂の甘みと、青魚特有の旨味。
生臭さは微塵もない。鮮度の良さと下処理の勝利だ。
そこにビールを流し込む。
……至福だ。
喉を駆け抜ける苦味が、脂をさっぱりと洗い流し、次の一口を渇望させる。
次は、いぶりがっこ入りの特製タルタルソースをたっぷりと乗せて。
燻製の香りとピクルスの酸味、マヨネーズのコクが加わり、味が重層的になる。
ご飯が欲しくなるが、今日はビールを楽しむために我慢だ。
キャベツの千切りも、ソースをかけてモリモリと食べる。
新キャベツの甘みが、揚げ物の罪悪感を消してくれる。
味噌汁の新玉ねぎもとろとろで甘い。
完璧な定食、いや晩酌セットだ。
食事を終え、片付けを済ませた後。
俺はリビングのソファに移動し、シアターセットを起動した。
今日観るのは、試験勉強の忙しさで見る時間が無く借り直したDVDのうちの一本だ。
『トゥルーマン・ショー』だ。
ジム・キャリー主演。
主人公トゥルーマンの人生が、生まれた時から24時間365日、リアリティ番組として全世界に放送されていたという衝撃的な設定の物語。
画面の中で、トゥルーマンは「作られた世界」の中で生きている。
家族も、友人も、恋人も、すべてが役者。
空も海も、巨大なセットの一部。
彼はその事実に気づき、真実の世界を求めて脱出を試みる。
俺はビールを飲みながら、画面に見入った。
この映画は、今の俺の状況と奇妙にリンクする。
前世の記憶を持ち、未来を知る俺にとって、この1999年の世界はある種の「箱庭」のようなものだ。
株価の動きも、流行の変遷も、シナリオ通りに進んでいく。
俺はそのシナリオを知っている「役者」であり、同時にそれを書き換える「演出家」でもある。
だが、俺が接している人々――涼さんやくるみ、舞、そして隼人たち。
彼らは役者ではない。
血の通った、予測不能な感情を持つ人間だ。
俺が未来の知識を使って彼らを救うことは、彼らの人生というシナリオに介入する行為だ。
それは傲慢なのだろうか。
それとも、与えられた力を持つ者の義務なのだろうか。
映画のクライマックス。
嵐の海を越え、世界の果てにある「出口」の扉に手をかけるトゥルーマン。
番組の創造主であるクリストフとの対話。
そして、彼の最後の台詞。
『会えない時のために、こんにちは、こんばんは、おやすみ!』
彼は笑顔で一礼し、虚構の世界から現実へと踏み出した。
エンドロールが流れる中、俺は静かにグラスを置いた。
素晴らしい結末だ。
彼は安定した虚構よりも、不確かな現実を選んだ。
俺もまた、知っている未来に安住するつもりはない。
この手で新しい未来を、俺たちだけの物語を紡ぎ出すのだ。
俺は、リビングのソファでコーヒーを片手に、ぼんやりとテレビ画面を眺めていた。
流れているのは、休日の定番であるテレビショッピング番組だ。
「奥さん、見てくださいこの切れ味! 熟したトマトも、この通りスパスパ切れます!」
実演販売士が高いテンションで包丁を紹介している。
切れ味の悪い包丁でトマトを潰してしまう「悪い例」と、自社製品で美しくスライスする「良い例」。
典型的なコントラスト法だ。
だが、この古典的な手法が購買意欲をそそるのも事実だ。
「……道具への投資は、時間の節約に直結するからな」
俺は頷きながら、手元のメモ帳に「調理器具のアップグレード」と書き込んだ。
包丁はすでにプロ仕様のものを使っているが、砥石の番手を増やすのも悪くないかもしれない。
料理は俺にとって、ビジネスの思考から離れられる貴重な瞑想の時間だ。
その質を高めることは、精神衛生上の必要経費と言える。
番組が変わり、次は健康食品の紹介になった。
青汁を飲んで「まずい! もう一杯!」と叫ぶあの有名なCMだ。
健康への関心が高まりつつあるこの時代。
サプリメントや特定保健用食品の市場は、これから拡大の一途をたどる。
ハンセン・ナチュラルへの投資も、その文脈上にある。
俺はリモコンでテレビを消し、立ち上がった。
今日は久しぶりに、何の予定もない完全なオフだ。
街へ出て、空気の入れ替えをしよう。
午後。
俺は渋谷の喧騒を避け、代官山エリアを散策していた。
おしゃれなカフェやブティックが点在するこの街は、落ち着いた大人の空気が流れている。
旧山手通りを歩いていると、オープンテラスのカフェで読書をしている女性の姿が目に入った。
早坂涼さんだ。
今日の彼女は、リネン素材の白いシャツに、カーキ色のカーゴパンツを合わせている。
ラフでボーイッシュな装いだが、それがかえって彼女の持つ本来の女性らしさ――透き通るような肌の白さや、華奢な首筋を際立たせている。
ショートカットの黒髪が初夏の日差しを浴びて輝き、伏せられた睫毛が頬に影を落としている。
その凛とした佇まいは、周囲の風景を切り取った一枚の絵画のようだ。
道行く人々、特に男性たちが、すれ違いざまに彼女を振り返っては溜息をついているのが分かる。
透明感の極致。
彼女自身は無自覚なようだが、その存在感は隠しようがない。
「……涼さん」
俺が声をかけると、彼女はページをめくる手を止め、顔を上げた。
俺を認めると、驚いたように目を丸くし、次いでふわりと柔らかく微笑んだ。
「……あ、レオ。奇遇だね」
「ええ。お勉強ですか?」
「うん。教職のレポート書いててさ。……家だと誘惑が多くて」
彼女は苦笑しながら、読みかけの専門書を閉じた。
テーブルの上には、アイスティーと書きかけのルーズリーフが置かれている。
教師を目指す彼女の努力は、着実に実を結びつつあるようだ。
俺は失礼して、向かいの席に座らせてもらった。
「試験、終わったんだろ? お疲れ」
「ありがとうございます。……涼さんの方こそ、大学生活には慣れましたか?」
「まあね。サークルの勧誘もしつこくなくなってきたし、やっと自分のペースで動けるようになってきたかな」
彼女はストローで氷をかき回した。
その横顔には、かつて路地裏で震えていた時の影はない。
自分の足で未来へ歩き出した人間の、清々しい強さがある。
「……そういえばさ。こないだ、教育実習の話を聞いてきたんだ」
「ほう。もうそんな時期ですか?」
「いや、実際に行くのはまだ先だけどね。……でも、先輩の話聞いてたら、なんかこう、ワクワクしてきてさ」
彼女は瞳を輝かせた。
「生徒と向き合うって、大変そうだけど……でも、誰かの人生に関われるって凄いことだなって。……アタシ、昔いろいろあったからさ。道に迷ってる子の気持ち、少しは分かるつもりだし」
彼女の言葉には、実体験に裏打ちされた重みと優しさがあった。
元不良という過去は、教師としての彼女にとって決してマイナスではない。むしろ、清廉潔白なだけの教師には救えない生徒を救う武器になるだろう。
「……涼さんなら、きっと生徒に慕われる良い教師になりますよ。僕が保証します」
「……何よそれ。年下のくせに生意気」
彼女は照れくさそうに笑い、頬杖をついた。
「でも、ありがと。……レオに言われると、自信つくよ」
「事実を述べたまでです」
「ふふ、そういうとこ。……ホント、可愛くないボンだねぇ」
彼女は悪戯っぽく俺を見つめた。
その視線には、姉のような慈愛と、信頼できる友人としての親愛が混じっている。
俺たちはそれからしばらくの間、他愛のない世間話を続けた。
おすすめの映画の話、最近のニュース、美味しい店の情報。
穏やかで、心地よい時間。
ビジネスの緊張感から解放された俺にとって、彼女との会話は最高の癒やしだった。
「……じゃ、アタシもそろそろ行くわ。レポート仕上げなきゃ」
「ええ。頑張ってください」
店を出て、俺たちは駅前で別れた。
手を振って去っていく彼女の背中は、颯爽としていて格好良かった。
俺もまた、彼女に負けないよう自分の道を歩まなければならない。
そう決意を新たにし、俺は夕食の買い出しへと向かった。
向かった先は、いつもの東急本店デパ地下。
今日の夕食のテーマは決まっている。
「揚げたての至福」だ。
鮮魚コーナーで、長崎県産の『ごんあじ』を見つけた。
五島灘で獲れた瀬付きのアジで、黄金色に輝く魚体は脂の乗りが抜群だ。
刺身でも絶品だが、今日はあえてフライにする。
加熱することで溶け出す脂の旨味を、衣の中に閉じ込めるのだ。
三枚におろしてもらい、中骨を丁寧に抜いてもらう。
フライの衣には、生パン粉を使う。
乾燥パン粉にはない、サクッとした軽やかな食感と、パンの香ばしさを楽しむためだ。
付け合わせは、キャベツの千切り。
愛知県産の『新キャベツ』を選ぶ。
葉が柔らかく、甘みが強いこの時期だけの味覚だ。
これを極限まで細く切り、氷水に晒してシャキッとさせる。
ソースは、ウスターソースとタルタルソースの両方を用意しよう。
タルタルには、いぶりがっこを刻んで入れて食感と燻製香をプラスする。
味噌汁の具は、新玉ねぎとワカメ。
甘い玉ねぎが、揚げ物の油をリセットしてくれる。
酒は、ビールだ。
『ヱビスビール』の瓶。
濃厚なコクと苦味が、アジフライの旨味を受け止める最強のパートナーだ。
両手に重い荷物を抱え、俺は帰宅した。
帰宅後、すぐに調理に取り掛かる。
まずはキャベツの千切りからだ。
よく研いだ包丁で、繊維を断ち切るようにリズミカルに刻んでいく。
トントントントン……。
心地よい音がキッチンに響く。
空気を含ませるようにふわっと盛り付けられるよう、力は入れない。
切ったキャベツは冷水に放ち、パリッとさせる。
次にアジの下処理。
塩胡椒を振り、余分な水分を拭き取る。
小麦粉を薄くはたき、溶き卵にくぐらせ、生パン粉をまぶす。
パン粉は押し付けず、優しく纏わせるのがコツだ。剣を立たせることで、サクサクの食感が生まれる。
揚げ油は、菜種油と太白胡麻油のブレンド。
180度に熱する。
アジを静かに投入する。
――ジュワアアァァッ……!
勢いよく泡が立ち上り、香ばしい匂いが広がる。
この音と香りだけで、ビールが飲めそうだ。
触りすぎないよう、じっと待つ。
衣が固まり、きつね色になったら裏返す。
中の水分が蒸発し、泡が小さくなり、音が軽くなる。
それが引き上げのサインだ。
バットに上げ、油を切る。
余熱で中に火を通すことで、身はふっくらと仕上がる。
味噌汁を温め直し、キャベツの水気をしっかり切って皿に盛る。
黄金色のアジフライを鎮座させれば、完成だ。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
揚げたてのアジフライから立ち上る湯気。
山盛りのキャベツ。
そして、よく冷えたヱビスビールをグラスに注ぐ。
きめ細やかな泡と、琥珀色の液体。
「いただきます」
まずは何もつけず、そのままガブリといく。
――サクッ。フワッ。
軽やかな衣の歯ごたえの後、アジのふっくらとした身が口の中で解ける。
溢れ出す脂の甘みと、青魚特有の旨味。
生臭さは微塵もない。鮮度の良さと下処理の勝利だ。
そこにビールを流し込む。
……至福だ。
喉を駆け抜ける苦味が、脂をさっぱりと洗い流し、次の一口を渇望させる。
次は、いぶりがっこ入りの特製タルタルソースをたっぷりと乗せて。
燻製の香りとピクルスの酸味、マヨネーズのコクが加わり、味が重層的になる。
ご飯が欲しくなるが、今日はビールを楽しむために我慢だ。
キャベツの千切りも、ソースをかけてモリモリと食べる。
新キャベツの甘みが、揚げ物の罪悪感を消してくれる。
味噌汁の新玉ねぎもとろとろで甘い。
完璧な定食、いや晩酌セットだ。
食事を終え、片付けを済ませた後。
俺はリビングのソファに移動し、シアターセットを起動した。
今日観るのは、試験勉強の忙しさで見る時間が無く借り直したDVDのうちの一本だ。
『トゥルーマン・ショー』だ。
ジム・キャリー主演。
主人公トゥルーマンの人生が、生まれた時から24時間365日、リアリティ番組として全世界に放送されていたという衝撃的な設定の物語。
画面の中で、トゥルーマンは「作られた世界」の中で生きている。
家族も、友人も、恋人も、すべてが役者。
空も海も、巨大なセットの一部。
彼はその事実に気づき、真実の世界を求めて脱出を試みる。
俺はビールを飲みながら、画面に見入った。
この映画は、今の俺の状況と奇妙にリンクする。
前世の記憶を持ち、未来を知る俺にとって、この1999年の世界はある種の「箱庭」のようなものだ。
株価の動きも、流行の変遷も、シナリオ通りに進んでいく。
俺はそのシナリオを知っている「役者」であり、同時にそれを書き換える「演出家」でもある。
だが、俺が接している人々――涼さんやくるみ、舞、そして隼人たち。
彼らは役者ではない。
血の通った、予測不能な感情を持つ人間だ。
俺が未来の知識を使って彼らを救うことは、彼らの人生というシナリオに介入する行為だ。
それは傲慢なのだろうか。
それとも、与えられた力を持つ者の義務なのだろうか。
映画のクライマックス。
嵐の海を越え、世界の果てにある「出口」の扉に手をかけるトゥルーマン。
番組の創造主であるクリストフとの対話。
そして、彼の最後の台詞。
『会えない時のために、こんにちは、こんばんは、おやすみ!』
彼は笑顔で一礼し、虚構の世界から現実へと踏み出した。
エンドロールが流れる中、俺は静かにグラスを置いた。
素晴らしい結末だ。
彼は安定した虚構よりも、不確かな現実を選んだ。
俺もまた、知っている未来に安住するつもりはない。
この手で新しい未来を、俺たちだけの物語を紡ぎ出すのだ。
0
あなたにおすすめの小説
異世界帰りの俺、現代日本にダンジョンが出現したので異世界経験を売ったり配信してみます
内田ヨシキ
ファンタジー
「あの魔物の倒し方なら、30万円で売るよ!」
――これは、現代日本にダンジョンが出現して間もない頃の物語。
カクヨムにて先行連載中です!
(https://kakuyomu.jp/works/16818023211703153243)
異世界で名を馳せた英雄「一条 拓斗(いちじょう たくと)」は、現代日本に帰還したはいいが、異世界で鍛えた魔力も身体能力も失われていた。
残ったのは魔物退治の経験や、魔法に関する知識、異世界言語能力など現代日本で役に立たないものばかり。
一般人として生活するようになった拓斗だったが、持てる能力を一切活かせない日々は苦痛だった。
そんな折、現代日本に迷宮と魔物が出現。それらは拓斗が異世界で散々見てきたものだった。
そして3年後、ついに迷宮で活動する国家資格を手にした拓斗は、安定も平穏も捨てて、自分のすべてを活かせるはずの迷宮へ赴く。
異世界人「フィリア」との出会いをきっかけに、拓斗は自分の異世界経験が、他の初心者同然の冒険者にとって非常に有益なものであると気づく。
やがて拓斗はフィリアと共に、魔物の倒し方や、迷宮探索のコツ、魔法の使い方などを、時に直接売り、時に動画配信してお金に変えていく。
さらには迷宮探索に有用なアイテムや、冒険者の能力を可視化する「ステータスカード」を発明する。
そんな彼らの活動は、ダンジョン黎明期の日本において重要なものとなっていき、公的機関に発展していく――。
異世界ハズレモノ英雄譚〜無能ステータスと言われた俺が、ざまぁ見せつけながらのし上がっていくってよ!〜
mitsuzoエンターテインメンツ
ファンタジー
【週三日(月・水・金)投稿 基本12:00〜14:00】
異世界にクラスメートと共に召喚された瑛二。
『ハズレモノ』という聞いたこともない称号を得るが、その低スペックなステータスを見て、皆からハズレ称号とバカにされ、それどころか邪魔者扱いされ殺されそうに⋯⋯。
しかし、実は『超チートな称号』であることがわかった瑛二は、そこから自分をバカにした者や殺そうとした者に対して、圧倒的な力を隠しつつ、ざまぁを展開していく。
そして、そのざまぁは図らずも人類の命運を握るまでのものへと発展していくことに⋯⋯。
悪役貴族に転生したから破滅しないように努力するけど上手くいかない!~努力が足りない?なら足りるまで努力する~
蜂谷
ファンタジー
社畜の俺は気が付いたら知らない男の子になっていた。
情報をまとめるとどうやら子供の頃に見たアニメ、ロイヤルヒーローの序盤で出てきた悪役、レオス・ヴィダールの幼少期に転生してしまったようだ。
アニメ自体は子供の頃だったのでよく覚えていないが、なぜかこいつのことはよく覚えている。
物語の序盤で悪魔を召喚させ、学園をめちゃくちゃにする。
それを主人公たちが倒し、レオスは学園を追放される。
その後領地で幽閉に近い謹慎を受けていたのだが、悪魔教に目を付けられ攫われる。
そしてその体を魔改造されて終盤のボスとして主人公に立ちふさがる。
それもヒロインの聖魔法によって倒され、彼の人生の幕は閉じる。
これが、悪役転生ってことか。
特に描写はなかったけど、こいつも怠惰で堕落した生活を送っていたに違いない。
あの肥満体だ、運動もろくにしていないだろう。
これは努力すれば眠れる才能が開花し、死亡フラグを回避できるのでは?
そう考えた俺は執事のカモールに頼み込み訓練を開始する。
偏った考えで領地を無駄に統治してる親を説得し、健全で善人な人生を歩もう。
一つ一つ努力していけば、きっと開かれる未来は輝いているに違いない。
そう思っていたんだけど、俺、弱くない?
希少属性である闇魔法に目覚めたのはよかったけど、攻撃力に乏しい。
剣術もそこそこ程度、全然達人のようにうまくならない。
おまけに俺はなにもしてないのに悪魔が召喚がされている!?
俺の前途多難な転生人生が始まったのだった。
※カクヨム、なろうでも掲載しています。
チート魅了スキルで始まる、美少女たちとの異世界ハーレム生活
仙道
ファンタジー
リメイク先:「視線が合っただけで美少女が俺に溺れる。異世界で最強のハーレムを作って楽に暮らす」
ごく普通の会社員だった佐々木健太は、異世界へ転移してして、あらゆる女性を無条件に魅了するチート能力を手にする。
彼はこの能力で、女騎士セシリア、ギルド受付嬢リリア、幼女ルナ、踊り子エリスといった魅力的な女性たちと出会い、絆を深めていく。
ブラック国家を制裁する方法は、性癖全開のハーレムを作ることでした。
タカハシヨウ
ファンタジー
ヴァン・スナキアはたった一人で世界を圧倒できる強さを誇り、母国ウィルクトリアを守る使命を背負っていた。
しかし国民たちはヴァンの威を借りて他国から財産を搾取し、その金でろくに働かずに暮らしている害悪ばかり。さらにはその歪んだ体制を維持するためにヴァンの魔力を受け継ぐ後継を求め、ヴァンに一夫多妻制まで用意する始末。
ヴァンは国を叩き直すため、あえてヴァンとは子どもを作れない異種族とばかり八人と結婚した。もし後継が生まれなければウィルクトリアは世界中から報復を受けて滅亡するだろう。生き残りたければ心を入れ替えてまともな国になるしかない。
激しく抵抗する国民を圧倒的な力でギャフンと言わせながら、ヴァンは愛する妻たちと甘々イチャイチャ暮らしていく。
幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕だけ別な場所に飛ばされた先は異世界の不思議な無人島だった。
アノマロカリス
ファンタジー
よくある話の異世界召喚…
スマホのネット小説や漫画が好きな少年、洲河 愽(すが だん)。
いつもの様に幼馴染達と学校帰りの公園でくっちゃべっていると地面に突然魔法陣が現れて…
気付くと愽は1人だけ見渡す限り草原の中に突っ立っていた。
愽は幼馴染達を探す為に周囲を捜索してみたが、一緒に飛ばされていた筈の幼馴染達は居なかった。
生きていればいつかは幼馴染達とまた会える!
愽は希望を持って、この不思議な無人島でサバイバル生活を始めるのだった。
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕の授かったスキルは役に立つものなのかな?」
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕は幼馴染達よりも強いジョブを手に入れて無双する!」
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕は魔王から力を授かり人類に対して牙を剥く‼︎」
幼馴染達と一緒に異世界召喚の第四弾。
愽は幼馴染達と離れた場所でサバイバル生活を送るというパラレルストーリー。
はたして愽は、無事に幼馴染達と再会を果たせるのだろうか?
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
S級クラフトスキルを盗られた上にパーティから追放されたけど、実はスキルがなくても生産力最強なので追放仲間の美少女たちと工房やります
内田ヨシキ
ファンタジー
[第5回ドラゴンノベルス小説コンテスト 最終選考作品]
冒険者シオンは、なんでも作れる【クラフト】スキルを奪われた上に、S級パーティから追放された。しかしシオンには【クラフト】のために培った知識や技術がまだ残されていた!
物作りを通して、新たな仲間を得た彼は、世界初の技術の開発へ着手していく。
職人ギルドから追放された美少女ソフィア。
逃亡中の魔法使いノエル。
騎士職を剥奪された没落貴族のアリシア。
彼女らもまた、一度は奪われ、失ったものを、物作りを通して取り戻していく。
カクヨムにて完結済み。
( https://kakuyomu.jp/works/16817330656544103806 )
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる