46 / 65
第46話 データベースの基礎と迷子の黒猫
しおりを挟む
中間試験明けの火曜日。
昨夜のステーキで精力を回復させた俺は、通学中のハイヤーの中で一冊の専門書と格闘していた。
『データベース設計の基礎』。
昨日、図書室で借りた本だ。
これから立ち上げるモバイルECサイトや着メロ配信サービスにおいて、データベースの設計は心臓部に当たる。
顧客情報、商品データ、決済履歴。
これらをいかに効率的に格納し、高速に取り出すか。
「第一正規形」から「第三正規形」へとデータを整理していくプロセスは、複雑に絡まった糸を解きほぐすような、ある種の知的快楽を伴う作業だ。
「……データの冗長性を排除し、一貫性を保つ。ビジネスも人間関係も同じだな」
俺は重要な箇所に付箋を貼りながら独りごちた。
不要な関係を正規化し、それぞれを独立したテーブルとして機能させる。
そうすることで初めて、システム全体が健全に稼働するのだ。
学校に到着し、午前中の授業を無難にこなす。
昼休み。
俺は中庭のベンチで、いつものようにミネラルウォーターを飲んでいた。
今日は珍しく、城戸隼人と草野健太の二人が俺の周りに集まっている。
「なぁ西園寺! お前、『To Heart』って知ってるか?」
草野が鼻息荒く切り出した。
彼は典型的なオタク気質だが、その情報収集能力は侮れない。
「……アニメかゲームの話か?」
「そう! アニメ始まったんだよ! でさ、そこに出てくる『マルチ』ってメイドロボが最高に可愛くてさぁ……!」
草野は熱弁を振るう。
1999年春。恋愛シミュレーションゲームのアニメ化作品『To Heart』が放送され、一部の界隈で熱狂的な支持を集めていた。
特に、奉仕精神に溢れたメイドロボットという概念は、後の「メイド萌え」ブームの先駆けとなる重要なカルチャーだ。
「メイドか……。家にいる家政婦さんとは違うのか?」
隼人が不思議そうに首をかしげる。
彼にとってメイドとは、洋画に出てくる初老の女性くらいの認識だろう。
「全然違うって! フリルで! カチューシャで! ご主人様のために一生懸命なんだよ! ああ、俺もマルチに起こされたい……」
「……気持ち悪ぃな、お前」
隼人がドン引きしている横で、俺は冷静に分析していた。
「奉仕への渇望」。
バブル崩壊後の不況と、競争社会の疲弊の中で、人々は無条件に自分を肯定し、尽くしてくれる存在を求めている。
癒やしビジネス。
あるいは、コンセプトカフェ。
2年後の2001年には秋葉原に日本初の常設メイド喫茶『Cure Maid Cafe』が誕生する。
この「萌え」という感情は、莫大なマネーを生む鉱脈になる。
「……草野。その『奉仕される喜び』という感覚、覚えておくといい。将来、大きなビジネスのヒントになる」
「えっ? あ、ああ……よく分かんないけど、西園寺が言うならそうなのかも!」
草野は単純に喜んだ。
俺は苦笑しつつ、この熱量をどう着メロ事業のプロモーションに転化するかを思案した。
放課後。
俺は図書室へ向かった。
読み終えた『ロジスティクス管理入門』と『データベース設計の基礎』を返却するためだ。
カウンターには、図書委員の高城藍が座っていた。
切り揃えられた黒髪のボブカットと、知性を宿した涼しげな瞳。
昨日の翔太との絶縁劇を経て、彼女の纏う空気は以前よりも澄んでいるように見える。
だが、今日の彼女はどこか浮かない顔をしていた。
手元の貸出カードを見つめ、溜息をついている。
「……お疲れ様、高城さん。返却をお願いします」
俺が本を差し出すと、彼女はハッとして顔を上げた。
「あ、西園寺くん。……ごめんなさい、気づかなくて」
「考え事ですか? 君にしては珍しい」
「……うん。ちょっとね」
彼女は手際よく返却処理を済ませると、周囲を気にするように声を潜めた。
「あのね、西園寺くん。……相談があるの」
「僕で良ければ」
「近所の……よく行く路地裏に、野良猫がいたの。黒猫で、すごく人懐っこくて。……私、こっそり餌をあげてたんだけど」
彼女は少し言い淀み、視線を伏せた。
クールな彼女が野良猫を可愛がっているというギャップ。
それだけで、彼女の隠された優しさが伝わってくる。
「ここ数日、姿を見せないの。……いつもなら、私が通ると寄ってくるのに」
「……心配ですね。事故か、あるいは誰かに保護されたか」
「分からない。でも、気になって勉強も手につかなくて。……もし良かったら、一緒に探してくれないかしら? 一人だと、路地裏の奥までは入りにくくて」
彼女の瞳が、縋るように俺を見つめた。
断る理由はない。
翔太との件で傷ついた彼女の心を癒やすためにも、この「猫探し」は重要なクエストだ。
「分かりました。協力しますよ」
「……ありがとう。助かるわ」
俺たちは図書室を出て、そのまま彼女の案内する場所へと向かうことにした。
その前に、俺は新たに2冊の本を借りた。
『猫の行動学』と、夏目漱石の『吾輩は猫である』。
前者は実用のため、後者は彼女との会話の種にするためだ。
藍に案内されたのは、彼女の自宅近く、古びた住宅街の路地裏だった。
夕暮れ時。
どこからかカレーの匂いや、焼き魚の匂いが漂ってくる。
1999年の東京には、まだこうした昭和の空気が色濃く残っている。
「……この辺りなの。いつもこのブロック塀の上にいて……」
藍は不安そうに周囲を見回した。
「クロ、おいで」と小さく呼ぶが、返事はない。
俺たちは手分けして聞き込みを行うことにした。
近くの民家の前で、庭木に水をやっている温和そうな主婦を見つけた。
「すみません、少しお尋ねしてもよろしいですか?」
俺はできるだけ人当たりの良い、爽やかな高校生を演じて声をかけた。
主婦は俺の顔を見て、あからさまに頬を緩めた。
美少年の容姿は、こういう時に最大の武器になる。
「あら、何かしら? 学生さん」
「実は、この辺りで黒猫を見かけませんでしたか? 首輪はしていませんが、毛並みの良い子で」
「黒猫……? ああ、あの子ね。最近見ないわねぇ。……そういえば、昨日の夕方、あっちの銭湯の方へ歩いていくのを見たような気がするわ」
主婦は商店街の方角を指差した。
有力な情報だ。
「ありがとうございます。助かりました」
俺は丁寧にお礼を言い、藍に報告した。
二人で銭湯『松の湯』の近くへ向かう。
そこには、番台の横のベンチで、携帯ラジオを聞いている老人がいた。
巨人戦の中継を聞いているようだ。
「……失礼します。おじいさん、少しよろしいですか?」
「ん? ……なんだ、若いの。巨人なら負けてるぞ」
「いえ、野球ではなく猫の話です。黒い猫を見かけませんでしたか?」
老人はラジオのボリュームを下げ、俺と藍を交互に見た。
「黒猫か……。ああ、昨日の晩、裏の空き地で鳴いてたなぁ。足を引きずってたような気がするが」
「足を!?」
藍が悲痛な声を上げた。
怪我をしている可能性がある。
俺は老人に空き地の場所を聞き出し、急いだ。
空き地は、資材置き場のようになっていた。
雑草が生い茂り、錆びたトタン板が積まれている。
日が落ちかけ、薄暗い。
「……クロ! どこ!?」
藍が必死に呼ぶ。
その時、トタン板の隙間から、弱々しい鳴き声が聞こえた。
「ニャァ……」
「いた!」
俺はスマートフォンのライト……はないので、キーホルダーにしていた小型ライトを点灯させ、隙間を照らした。
そこに、黒い塊がうずくまっていた。
藍が駆け寄り、泥だらけになるのも構わず抱き上げる。
右足を少し怪我しているようだが、命に別状はなさそうだ。
「……良かった……! 本当に、良かった……」
藍は猫を抱きしめ、涙ぐんでいた。
その姿は、いつもの冷徹な「高城藍」ではなく、ただの心優しい15歳の少女だった。
俺はハンカチを取り出し、彼女の涙と、猫の汚れを拭った。
「……動物病院へ連れて行きましょう。僕の知っている病院なら、この時間でも開けてくれます」
俺は舞に電話し、提携している獣医の手配をした。
藍は俺を見上げ、深く頷いた。
「……ありがとう、西園寺くん。貴方がいなかったら、見つけられなかった」
「共犯者ですからね。……秘密の共有が、また一つ増えました」
猫を病院に預け、藍を家まで送り届けた後。
俺は携帯を取り出し、隼人に連絡を入れた。
猫探しで少し神経を使った。単純な運動でリフレッシュしたい気分だった。
『おう西園寺! 今からか? いいぜ、暇してたし!』
合流したのは、渋谷のゲームセンターだ。
隼人はいつものスカジャンスタイルで現れた。
「よぉ! 何する? 格ゲーか?」
「いや、今日は少し体を動かしたい。……エアホッケーはどうだ?」
「おっ、いいな! 負けた方がジュース奢りな!」
俺たちはエアホッケーの台に向かい合った。
コインを投入し、パックが浮き上がる。
カンッ、カンッ!
乾いた音が響き渡る。
隼人の反射神経はやはり凄まじい。変則的な軌道でパックを打ち込んでくる。
だが、俺も負けてはいない。
動体視力と予測演算。
パックの動きを先読みし、カウンターを叩き込む。
「うおっ!? まじかよ!」
「甘いな、城戸。隙だらけだ」
激しいラリーの末、パックは隼人のゴールに吸い込まれた。
「くっそー! ……お前、何やらせてもつえーな。弱点ねぇのかよ」
「あるさ。……猫舌だ」
「かわいくねー弱点!」
隼人は悔しがりながらも、約束通りジュースを買ってきた。
炭酸の刺激が喉を潤す。
彼との時間は、何も考えずに楽しめる貴重なひとときだ。
「……そういや、高城の様子どうだった? 今日なんか元気なかったけど」
「少し問題を抱えていたようだが、解決したよ。……明日には元気になっているはずだ」
「そっか。ならいいけどよ。……あいつ、真面目すぎるからな」
隼人は意外と周りをよく見ている。
その優しさが、彼の美徳だ。
隼人と別れた後、俺は駅前で待機していたハイヤーに乗り込んだ。
運転席には、舞がいる。
「お疲れ様です、社長。……猫の件、病院から連絡がありました。軽傷で、数日の入院で済むそうです」
「そうか。治療費はこっちで持っておいてくれ。……高城さんには、内密に」
「承知いたしました。……社長はお優しいですね」
舞はバックミラー越しに、慈愛に満ちた微笑みを向けた。
今日の彼女は、ダークグレーのスーツに白いブラウス。
陶器のような肌と知的な瞳が、夜の車内で一層輝いて見える。
19歳にしてこの完成度。彼女の存在が、俺のビジネスと精神を支えている。
「優しさではない。……投資だよ。彼女たちには、万全の状態で学園生活を送ってもらわなければ困る」
「ふふ、そういうことにしておきましょう」
彼女に見透かされているのを感じながら、俺は車を降りた。
駅前広場。
そこには、いつものように演説を終え、片付けをしている宮島寅雄の姿があった。
俺は近づき、声をかけた。
「……こんばんは、先生」
「おお、少年。……今日は遅いな」
宮島は汗を拭い、ニカッと笑った。
その顔には疲労が滲んでいるが、眼光は衰えていない。
「少し、探し物をしていました。……見つかりましたがね」
「ほう。……失くしものが見つかるのは良いことだ。政治の世界では、一度失った信頼を見つけるのは砂漠で針を探すより難しいがな」
彼は自嘲気味に笑った。
過去の汚職冤罪で全てを失った男。
だが、その言葉には重みがある。
「……先生。信頼を取り戻すには、何が必要ですか?」
「言葉ではない。……行動だ。そして、それを続ける『愚直さ』だよ。……私はここで叫び続ける。誰一人聞いていなくてもな。それが、私なりの贖罪であり、戦いだ」
宮島は夜空を見上げた。
その横顔を見て、俺は背筋が伸びる思いがした。
俺もまた、ビジネスという戦場で、結果を行動で示し続けなければならない。
言葉巧みに人を動かすだけでなく、実体のある価値を提供し続けること。
それが、真の成功への道だ。
昨夜のステーキで精力を回復させた俺は、通学中のハイヤーの中で一冊の専門書と格闘していた。
『データベース設計の基礎』。
昨日、図書室で借りた本だ。
これから立ち上げるモバイルECサイトや着メロ配信サービスにおいて、データベースの設計は心臓部に当たる。
顧客情報、商品データ、決済履歴。
これらをいかに効率的に格納し、高速に取り出すか。
「第一正規形」から「第三正規形」へとデータを整理していくプロセスは、複雑に絡まった糸を解きほぐすような、ある種の知的快楽を伴う作業だ。
「……データの冗長性を排除し、一貫性を保つ。ビジネスも人間関係も同じだな」
俺は重要な箇所に付箋を貼りながら独りごちた。
不要な関係を正規化し、それぞれを独立したテーブルとして機能させる。
そうすることで初めて、システム全体が健全に稼働するのだ。
学校に到着し、午前中の授業を無難にこなす。
昼休み。
俺は中庭のベンチで、いつものようにミネラルウォーターを飲んでいた。
今日は珍しく、城戸隼人と草野健太の二人が俺の周りに集まっている。
「なぁ西園寺! お前、『To Heart』って知ってるか?」
草野が鼻息荒く切り出した。
彼は典型的なオタク気質だが、その情報収集能力は侮れない。
「……アニメかゲームの話か?」
「そう! アニメ始まったんだよ! でさ、そこに出てくる『マルチ』ってメイドロボが最高に可愛くてさぁ……!」
草野は熱弁を振るう。
1999年春。恋愛シミュレーションゲームのアニメ化作品『To Heart』が放送され、一部の界隈で熱狂的な支持を集めていた。
特に、奉仕精神に溢れたメイドロボットという概念は、後の「メイド萌え」ブームの先駆けとなる重要なカルチャーだ。
「メイドか……。家にいる家政婦さんとは違うのか?」
隼人が不思議そうに首をかしげる。
彼にとってメイドとは、洋画に出てくる初老の女性くらいの認識だろう。
「全然違うって! フリルで! カチューシャで! ご主人様のために一生懸命なんだよ! ああ、俺もマルチに起こされたい……」
「……気持ち悪ぃな、お前」
隼人がドン引きしている横で、俺は冷静に分析していた。
「奉仕への渇望」。
バブル崩壊後の不況と、競争社会の疲弊の中で、人々は無条件に自分を肯定し、尽くしてくれる存在を求めている。
癒やしビジネス。
あるいは、コンセプトカフェ。
2年後の2001年には秋葉原に日本初の常設メイド喫茶『Cure Maid Cafe』が誕生する。
この「萌え」という感情は、莫大なマネーを生む鉱脈になる。
「……草野。その『奉仕される喜び』という感覚、覚えておくといい。将来、大きなビジネスのヒントになる」
「えっ? あ、ああ……よく分かんないけど、西園寺が言うならそうなのかも!」
草野は単純に喜んだ。
俺は苦笑しつつ、この熱量をどう着メロ事業のプロモーションに転化するかを思案した。
放課後。
俺は図書室へ向かった。
読み終えた『ロジスティクス管理入門』と『データベース設計の基礎』を返却するためだ。
カウンターには、図書委員の高城藍が座っていた。
切り揃えられた黒髪のボブカットと、知性を宿した涼しげな瞳。
昨日の翔太との絶縁劇を経て、彼女の纏う空気は以前よりも澄んでいるように見える。
だが、今日の彼女はどこか浮かない顔をしていた。
手元の貸出カードを見つめ、溜息をついている。
「……お疲れ様、高城さん。返却をお願いします」
俺が本を差し出すと、彼女はハッとして顔を上げた。
「あ、西園寺くん。……ごめんなさい、気づかなくて」
「考え事ですか? 君にしては珍しい」
「……うん。ちょっとね」
彼女は手際よく返却処理を済ませると、周囲を気にするように声を潜めた。
「あのね、西園寺くん。……相談があるの」
「僕で良ければ」
「近所の……よく行く路地裏に、野良猫がいたの。黒猫で、すごく人懐っこくて。……私、こっそり餌をあげてたんだけど」
彼女は少し言い淀み、視線を伏せた。
クールな彼女が野良猫を可愛がっているというギャップ。
それだけで、彼女の隠された優しさが伝わってくる。
「ここ数日、姿を見せないの。……いつもなら、私が通ると寄ってくるのに」
「……心配ですね。事故か、あるいは誰かに保護されたか」
「分からない。でも、気になって勉強も手につかなくて。……もし良かったら、一緒に探してくれないかしら? 一人だと、路地裏の奥までは入りにくくて」
彼女の瞳が、縋るように俺を見つめた。
断る理由はない。
翔太との件で傷ついた彼女の心を癒やすためにも、この「猫探し」は重要なクエストだ。
「分かりました。協力しますよ」
「……ありがとう。助かるわ」
俺たちは図書室を出て、そのまま彼女の案内する場所へと向かうことにした。
その前に、俺は新たに2冊の本を借りた。
『猫の行動学』と、夏目漱石の『吾輩は猫である』。
前者は実用のため、後者は彼女との会話の種にするためだ。
藍に案内されたのは、彼女の自宅近く、古びた住宅街の路地裏だった。
夕暮れ時。
どこからかカレーの匂いや、焼き魚の匂いが漂ってくる。
1999年の東京には、まだこうした昭和の空気が色濃く残っている。
「……この辺りなの。いつもこのブロック塀の上にいて……」
藍は不安そうに周囲を見回した。
「クロ、おいで」と小さく呼ぶが、返事はない。
俺たちは手分けして聞き込みを行うことにした。
近くの民家の前で、庭木に水をやっている温和そうな主婦を見つけた。
「すみません、少しお尋ねしてもよろしいですか?」
俺はできるだけ人当たりの良い、爽やかな高校生を演じて声をかけた。
主婦は俺の顔を見て、あからさまに頬を緩めた。
美少年の容姿は、こういう時に最大の武器になる。
「あら、何かしら? 学生さん」
「実は、この辺りで黒猫を見かけませんでしたか? 首輪はしていませんが、毛並みの良い子で」
「黒猫……? ああ、あの子ね。最近見ないわねぇ。……そういえば、昨日の夕方、あっちの銭湯の方へ歩いていくのを見たような気がするわ」
主婦は商店街の方角を指差した。
有力な情報だ。
「ありがとうございます。助かりました」
俺は丁寧にお礼を言い、藍に報告した。
二人で銭湯『松の湯』の近くへ向かう。
そこには、番台の横のベンチで、携帯ラジオを聞いている老人がいた。
巨人戦の中継を聞いているようだ。
「……失礼します。おじいさん、少しよろしいですか?」
「ん? ……なんだ、若いの。巨人なら負けてるぞ」
「いえ、野球ではなく猫の話です。黒い猫を見かけませんでしたか?」
老人はラジオのボリュームを下げ、俺と藍を交互に見た。
「黒猫か……。ああ、昨日の晩、裏の空き地で鳴いてたなぁ。足を引きずってたような気がするが」
「足を!?」
藍が悲痛な声を上げた。
怪我をしている可能性がある。
俺は老人に空き地の場所を聞き出し、急いだ。
空き地は、資材置き場のようになっていた。
雑草が生い茂り、錆びたトタン板が積まれている。
日が落ちかけ、薄暗い。
「……クロ! どこ!?」
藍が必死に呼ぶ。
その時、トタン板の隙間から、弱々しい鳴き声が聞こえた。
「ニャァ……」
「いた!」
俺はスマートフォンのライト……はないので、キーホルダーにしていた小型ライトを点灯させ、隙間を照らした。
そこに、黒い塊がうずくまっていた。
藍が駆け寄り、泥だらけになるのも構わず抱き上げる。
右足を少し怪我しているようだが、命に別状はなさそうだ。
「……良かった……! 本当に、良かった……」
藍は猫を抱きしめ、涙ぐんでいた。
その姿は、いつもの冷徹な「高城藍」ではなく、ただの心優しい15歳の少女だった。
俺はハンカチを取り出し、彼女の涙と、猫の汚れを拭った。
「……動物病院へ連れて行きましょう。僕の知っている病院なら、この時間でも開けてくれます」
俺は舞に電話し、提携している獣医の手配をした。
藍は俺を見上げ、深く頷いた。
「……ありがとう、西園寺くん。貴方がいなかったら、見つけられなかった」
「共犯者ですからね。……秘密の共有が、また一つ増えました」
猫を病院に預け、藍を家まで送り届けた後。
俺は携帯を取り出し、隼人に連絡を入れた。
猫探しで少し神経を使った。単純な運動でリフレッシュしたい気分だった。
『おう西園寺! 今からか? いいぜ、暇してたし!』
合流したのは、渋谷のゲームセンターだ。
隼人はいつものスカジャンスタイルで現れた。
「よぉ! 何する? 格ゲーか?」
「いや、今日は少し体を動かしたい。……エアホッケーはどうだ?」
「おっ、いいな! 負けた方がジュース奢りな!」
俺たちはエアホッケーの台に向かい合った。
コインを投入し、パックが浮き上がる。
カンッ、カンッ!
乾いた音が響き渡る。
隼人の反射神経はやはり凄まじい。変則的な軌道でパックを打ち込んでくる。
だが、俺も負けてはいない。
動体視力と予測演算。
パックの動きを先読みし、カウンターを叩き込む。
「うおっ!? まじかよ!」
「甘いな、城戸。隙だらけだ」
激しいラリーの末、パックは隼人のゴールに吸い込まれた。
「くっそー! ……お前、何やらせてもつえーな。弱点ねぇのかよ」
「あるさ。……猫舌だ」
「かわいくねー弱点!」
隼人は悔しがりながらも、約束通りジュースを買ってきた。
炭酸の刺激が喉を潤す。
彼との時間は、何も考えずに楽しめる貴重なひとときだ。
「……そういや、高城の様子どうだった? 今日なんか元気なかったけど」
「少し問題を抱えていたようだが、解決したよ。……明日には元気になっているはずだ」
「そっか。ならいいけどよ。……あいつ、真面目すぎるからな」
隼人は意外と周りをよく見ている。
その優しさが、彼の美徳だ。
隼人と別れた後、俺は駅前で待機していたハイヤーに乗り込んだ。
運転席には、舞がいる。
「お疲れ様です、社長。……猫の件、病院から連絡がありました。軽傷で、数日の入院で済むそうです」
「そうか。治療費はこっちで持っておいてくれ。……高城さんには、内密に」
「承知いたしました。……社長はお優しいですね」
舞はバックミラー越しに、慈愛に満ちた微笑みを向けた。
今日の彼女は、ダークグレーのスーツに白いブラウス。
陶器のような肌と知的な瞳が、夜の車内で一層輝いて見える。
19歳にしてこの完成度。彼女の存在が、俺のビジネスと精神を支えている。
「優しさではない。……投資だよ。彼女たちには、万全の状態で学園生活を送ってもらわなければ困る」
「ふふ、そういうことにしておきましょう」
彼女に見透かされているのを感じながら、俺は車を降りた。
駅前広場。
そこには、いつものように演説を終え、片付けをしている宮島寅雄の姿があった。
俺は近づき、声をかけた。
「……こんばんは、先生」
「おお、少年。……今日は遅いな」
宮島は汗を拭い、ニカッと笑った。
その顔には疲労が滲んでいるが、眼光は衰えていない。
「少し、探し物をしていました。……見つかりましたがね」
「ほう。……失くしものが見つかるのは良いことだ。政治の世界では、一度失った信頼を見つけるのは砂漠で針を探すより難しいがな」
彼は自嘲気味に笑った。
過去の汚職冤罪で全てを失った男。
だが、その言葉には重みがある。
「……先生。信頼を取り戻すには、何が必要ですか?」
「言葉ではない。……行動だ。そして、それを続ける『愚直さ』だよ。……私はここで叫び続ける。誰一人聞いていなくてもな。それが、私なりの贖罪であり、戦いだ」
宮島は夜空を見上げた。
その横顔を見て、俺は背筋が伸びる思いがした。
俺もまた、ビジネスという戦場で、結果を行動で示し続けなければならない。
言葉巧みに人を動かすだけでなく、実体のある価値を提供し続けること。
それが、真の成功への道だ。
0
あなたにおすすめの小説
異世界帰りの俺、現代日本にダンジョンが出現したので異世界経験を売ったり配信してみます
内田ヨシキ
ファンタジー
「あの魔物の倒し方なら、30万円で売るよ!」
――これは、現代日本にダンジョンが出現して間もない頃の物語。
カクヨムにて先行連載中です!
(https://kakuyomu.jp/works/16818023211703153243)
異世界で名を馳せた英雄「一条 拓斗(いちじょう たくと)」は、現代日本に帰還したはいいが、異世界で鍛えた魔力も身体能力も失われていた。
残ったのは魔物退治の経験や、魔法に関する知識、異世界言語能力など現代日本で役に立たないものばかり。
一般人として生活するようになった拓斗だったが、持てる能力を一切活かせない日々は苦痛だった。
そんな折、現代日本に迷宮と魔物が出現。それらは拓斗が異世界で散々見てきたものだった。
そして3年後、ついに迷宮で活動する国家資格を手にした拓斗は、安定も平穏も捨てて、自分のすべてを活かせるはずの迷宮へ赴く。
異世界人「フィリア」との出会いをきっかけに、拓斗は自分の異世界経験が、他の初心者同然の冒険者にとって非常に有益なものであると気づく。
やがて拓斗はフィリアと共に、魔物の倒し方や、迷宮探索のコツ、魔法の使い方などを、時に直接売り、時に動画配信してお金に変えていく。
さらには迷宮探索に有用なアイテムや、冒険者の能力を可視化する「ステータスカード」を発明する。
そんな彼らの活動は、ダンジョン黎明期の日本において重要なものとなっていき、公的機関に発展していく――。
異世界ハズレモノ英雄譚〜無能ステータスと言われた俺が、ざまぁ見せつけながらのし上がっていくってよ!〜
mitsuzoエンターテインメンツ
ファンタジー
【週三日(月・水・金)投稿 基本12:00〜14:00】
異世界にクラスメートと共に召喚された瑛二。
『ハズレモノ』という聞いたこともない称号を得るが、その低スペックなステータスを見て、皆からハズレ称号とバカにされ、それどころか邪魔者扱いされ殺されそうに⋯⋯。
しかし、実は『超チートな称号』であることがわかった瑛二は、そこから自分をバカにした者や殺そうとした者に対して、圧倒的な力を隠しつつ、ざまぁを展開していく。
そして、そのざまぁは図らずも人類の命運を握るまでのものへと発展していくことに⋯⋯。
悪役貴族に転生したから破滅しないように努力するけど上手くいかない!~努力が足りない?なら足りるまで努力する~
蜂谷
ファンタジー
社畜の俺は気が付いたら知らない男の子になっていた。
情報をまとめるとどうやら子供の頃に見たアニメ、ロイヤルヒーローの序盤で出てきた悪役、レオス・ヴィダールの幼少期に転生してしまったようだ。
アニメ自体は子供の頃だったのでよく覚えていないが、なぜかこいつのことはよく覚えている。
物語の序盤で悪魔を召喚させ、学園をめちゃくちゃにする。
それを主人公たちが倒し、レオスは学園を追放される。
その後領地で幽閉に近い謹慎を受けていたのだが、悪魔教に目を付けられ攫われる。
そしてその体を魔改造されて終盤のボスとして主人公に立ちふさがる。
それもヒロインの聖魔法によって倒され、彼の人生の幕は閉じる。
これが、悪役転生ってことか。
特に描写はなかったけど、こいつも怠惰で堕落した生活を送っていたに違いない。
あの肥満体だ、運動もろくにしていないだろう。
これは努力すれば眠れる才能が開花し、死亡フラグを回避できるのでは?
そう考えた俺は執事のカモールに頼み込み訓練を開始する。
偏った考えで領地を無駄に統治してる親を説得し、健全で善人な人生を歩もう。
一つ一つ努力していけば、きっと開かれる未来は輝いているに違いない。
そう思っていたんだけど、俺、弱くない?
希少属性である闇魔法に目覚めたのはよかったけど、攻撃力に乏しい。
剣術もそこそこ程度、全然達人のようにうまくならない。
おまけに俺はなにもしてないのに悪魔が召喚がされている!?
俺の前途多難な転生人生が始まったのだった。
※カクヨム、なろうでも掲載しています。
チート魅了スキルで始まる、美少女たちとの異世界ハーレム生活
仙道
ファンタジー
リメイク先:「視線が合っただけで美少女が俺に溺れる。異世界で最強のハーレムを作って楽に暮らす」
ごく普通の会社員だった佐々木健太は、異世界へ転移してして、あらゆる女性を無条件に魅了するチート能力を手にする。
彼はこの能力で、女騎士セシリア、ギルド受付嬢リリア、幼女ルナ、踊り子エリスといった魅力的な女性たちと出会い、絆を深めていく。
ブラック国家を制裁する方法は、性癖全開のハーレムを作ることでした。
タカハシヨウ
ファンタジー
ヴァン・スナキアはたった一人で世界を圧倒できる強さを誇り、母国ウィルクトリアを守る使命を背負っていた。
しかし国民たちはヴァンの威を借りて他国から財産を搾取し、その金でろくに働かずに暮らしている害悪ばかり。さらにはその歪んだ体制を維持するためにヴァンの魔力を受け継ぐ後継を求め、ヴァンに一夫多妻制まで用意する始末。
ヴァンは国を叩き直すため、あえてヴァンとは子どもを作れない異種族とばかり八人と結婚した。もし後継が生まれなければウィルクトリアは世界中から報復を受けて滅亡するだろう。生き残りたければ心を入れ替えてまともな国になるしかない。
激しく抵抗する国民を圧倒的な力でギャフンと言わせながら、ヴァンは愛する妻たちと甘々イチャイチャ暮らしていく。
幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕だけ別な場所に飛ばされた先は異世界の不思議な無人島だった。
アノマロカリス
ファンタジー
よくある話の異世界召喚…
スマホのネット小説や漫画が好きな少年、洲河 愽(すが だん)。
いつもの様に幼馴染達と学校帰りの公園でくっちゃべっていると地面に突然魔法陣が現れて…
気付くと愽は1人だけ見渡す限り草原の中に突っ立っていた。
愽は幼馴染達を探す為に周囲を捜索してみたが、一緒に飛ばされていた筈の幼馴染達は居なかった。
生きていればいつかは幼馴染達とまた会える!
愽は希望を持って、この不思議な無人島でサバイバル生活を始めるのだった。
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕の授かったスキルは役に立つものなのかな?」
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕は幼馴染達よりも強いジョブを手に入れて無双する!」
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕は魔王から力を授かり人類に対して牙を剥く‼︎」
幼馴染達と一緒に異世界召喚の第四弾。
愽は幼馴染達と離れた場所でサバイバル生活を送るというパラレルストーリー。
はたして愽は、無事に幼馴染達と再会を果たせるのだろうか?
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
S級クラフトスキルを盗られた上にパーティから追放されたけど、実はスキルがなくても生産力最強なので追放仲間の美少女たちと工房やります
内田ヨシキ
ファンタジー
[第5回ドラゴンノベルス小説コンテスト 最終選考作品]
冒険者シオンは、なんでも作れる【クラフト】スキルを奪われた上に、S級パーティから追放された。しかしシオンには【クラフト】のために培った知識や技術がまだ残されていた!
物作りを通して、新たな仲間を得た彼は、世界初の技術の開発へ着手していく。
職人ギルドから追放された美少女ソフィア。
逃亡中の魔法使いノエル。
騎士職を剥奪された没落貴族のアリシア。
彼女らもまた、一度は奪われ、失ったものを、物作りを通して取り戻していく。
カクヨムにて完結済み。
( https://kakuyomu.jp/works/16817330656544103806 )
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる