58 / 65
第58話 吉祥寺の迷宮と深紅のボンゴレ
しおりを挟む
日曜日の朝。
俺――西園寺玲央は、書斎のデスクでノートパソコンを開き、ある「仕込み」の最終確認を行っていた。
画面に表示されているのは、匿名掲示板や美術関係のBBSに投稿された、いくつかの書き込みだ。
ターゲットは、日本画壇の重鎮・葛城玄斎。
先日、白鳥恒一から聞いた「ゴーストペインター」の実態。弟子の作品を自分の名義で発表し、富と名声を得ている老害。
その証拠となる画像データや、過去の告発文を、海外サーバーを経由して拡散させる。
まだSNSのない時代だが、ネットの深層に火種を撒くことは可能だ。
「……まずは小手調べだ。徐々に外堀を埋めていく」
エンターキーを押し、送信を完了させる。
「ざまぁ」の瞬間は、もっと劇的な舞台で用意してやるつもりだ。今はまだ、彼に「得体の知れない不安」を植え付けるだけでいい。
PCを閉じ、俺は外出の準備を整えた。
今日は渋谷を離れ、吉祥寺へと足を運ぶ。
サブカルチャーの発信地であり、独特の空気が流れる街。
駅を降りると、雑多な人混みと、どこか懐かしい昭和の匂いが混じり合っていた。
まずは駅前の案内所で、街の情報を収集する。
古着屋、ライブハウス、そして隠れ家的なカフェ。
雑誌やネットには載っていない「生きた情報」は、足で稼ぐのが基本だ。
俺は路地裏にある、古民家を改装したカフェに入った。
木の温かみを感じる店内。
アンティークのソファに深く腰を下ろす。
座り心地が良い。
ただコーヒーを飲むだけでなく、空間そのものを楽しむ時間。
1999年の吉祥寺には、こうした「無駄を楽しむ」文化が根付いている。
効率化を追求する渋谷とは対極にある、緩やかな時間。
それもまた、ビジネスのインスピレーションには必要だ。
カフェを出て、井の頭公園へ向かおうとした時だった。
公園の入り口付近で、困り果てた様子の草野健太を見つけた。
彼は携帯電話を握りしめ、キョロキョロと挙動不審に周囲を見回している。
「……草野?」
「あ、西園寺! うわ、マジでいた! 助かったぁ……!」
草野は俺を見るなり、泣きつきそうな顔で駆け寄ってきた。
「どうした。そんなに慌てて」
「いや、実はさ……。この辺で『変なじいさん』に絡まれてて」
「じいさん?」
「ああ。公園で絵を描いてるんだけどさ、通りかかる人に『お前の顔は死相が出てる』とか『魂の色が濁ってる』とか、わけわかんないこと言って説教すんだよ! 俺も捕まって、30分くらい人生論語られた……」
草野はげっそりとしていた。
迷惑な老人だ。だが、俺のアンテナが微かに反応した。
吉祥寺、絵を描く老人、そして毒舌。
まさかとは思うが。
「……その老人、どんな風貌だ?」
「えっと、着物着てて、髭生やしてて……偉そうな感じ。あ、画材はすげー高そうだった」
ビンゴだ。
葛城玄斎。
彼は吉祥寺にアトリエを持っているという情報があった。
休日に公園でスケッチをしているのだろう。
俺が撒いた火種に気づき、イラついているのかもしれない。
「……放っておけ。関わるとろくなことにならない」
「だよね! ……あー怖かった。西園寺に会えて浄化された気分だわ」
草野は単純に喜んでいる。
彼にはまだ、俺がその老人を社会的に抹殺しようとしていることは伏せておこう。
草野と別れた後、俺は城戸隼人と合流した。
今日は彼に誘われて、吉祥寺のダーツ&ビリヤード場に来ていた。
「よっしゃ! 今日こそ西園寺に勝つ!」
隼人は気合十分だ。
金髪にスカジャンの彼は、吉祥寺のサブカルな空気の中でも目立っている。
ダーツの矢を構える。
以前教えたフォームが、随分と様になってきている。
シュッ。
矢は吸い込まれるようにブルの近くに刺さった。
「おっ! 来たんじゃね!?」
「悪くない。だが、リリースの瞬間に肘が下がっている」
俺も矢を投げる。
ど真ん中のインナーブル。
修正点を見せつけるように。
「くっそー! なんでそんな正確なんだよ!」
「物理だよ、城戸」
その後、ビリヤードでも対戦した。
幾何学的なラインを読む俺に対し、隼人は直感とパワーで挑んでくる。
結果は俺の圧勝だったが、彼の予測不能なショットには何度かヒヤリとさせられた。
勝負を終え、店を出る。
「あー、腹減った! メンチカツ食おうぜ、メンチ!」
「『サトウ』のメンチカツか。行列覚悟だな」
俺たちは商店街の行列に並び、揚げたてのメンチカツを頬張った。
肉汁が溢れ出し、熱さと旨味が口の中に広がる。
高級フレンチもいいが、こういうB級グルメも悪くない。
隼人との時間は、俺の精神年齢を15歳に戻してくれる貴重なリセットボタンだ。
夕方。
隼人と別れた俺は、渋谷へと戻ってきた。
駅前のジューススタンドへ向かう。
喉が渇いた。
「……『小松菜とバナナのスムージー』を」
緑色の液体を受け取り、一気に飲み干す。
青臭さと甘みが混ざり合い、疲れた体に染み渡る。
ビタミン補給完了。
そのままスポーツショップへ。
トレーニング用の新しいウェアを購入するためだ。
機能性を重視した吸汗速乾素材のTシャツと、ハーフパンツ。
ついでに、プロテインシェイカーも新調した。
店を出て、公園通りを歩いていると、歩道橋の上で風に当たっている女性を見つけた。
早坂涼さんだ。
今日の彼女は、白の開襟シャツに、ネイビーのクロップドパンツという装い。
シンプルだが、その清潔感と透明感は群を抜いている。
ショートカットの黒髪が夕風に揺れ、透き通るような白い肌がオレンジ色の光を浴びて輝いている。
その凛とした佇まいは、渋谷の喧騒を切り裂く一陣の涼風のようだ。
すれ違う人々が、思わず足を止めて見惚れているのが分かる。
「……涼さん」
「ん? ……あ、レオ!」
彼女は俺に気づくと、パッと表情を輝かせた。
その笑顔には、一点の曇りもない。
「奇遇ですね。買い物ですか?」
「ううん。レポートの資料探しで本屋行ってた帰り。……レオは? すごい荷物だけど」
「トレーニング用品の買い出しです。……涼さんも、お疲れ様です」
「ありがと。……あ、そうだ。今度の学祭、ホントに来てくれる?」
彼女は少し不安そうに聞いてきた。
以前約束した、大学の学園祭のことだ。
「もちろんです。楽しみにしていますよ」
「そっか。……良かった。案内する約束、忘れてないからね」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、俺の心が洗われていくようだ。
教師を目指す彼女のひたむきさは、俺にとっても刺激になる。
「……じゃあ、またね。ボン」
「ええ。お気をつけて」
手を振って去っていく彼女を見送り、俺は駅前へ向かった。
駅前広場。
いつもの場所に、宮島寅雄の姿があった。
だが、今日は演説をしていない。
彼はベンチに座り、遠くを見つめていた。
「……先生」
「おお、少年か。……今日は静かなもんだろ?」
宮島は苦笑した。
喉を痛めたらしい。
俺は持っていたのど飴を差し出した。
「無理は禁物ですよ。……身体が資本ですから」
「違いない。……だが、叫ばずにはいられないのが、政治家の性(さが)でな」
彼は飴を口に含み、目を細めた。
「……ところで少年。君は『赤』が好きか?」
「赤? ……色のですか?」
「そうだ。情熱の赤、革命の赤、そして……血の赤だ」
「……料理のトマトソースなら好きですが」
俺が答えると、彼は豪快に笑った。
「ハッハッハ! そうか、トマトか! ……いや、それでいい。日常の中にこそ、真実はある」
宮島は立ち上がり、俺の肩を叩いた。
「……今日はもう帰るよ。君の顔を見たら、元気が出た」
彼は雑踏の中へと消えていった。
その背中は、以前よりも少し大きく見えた。
「赤」という言葉に込められた意味。
それは、これからの激動の時代を予感させるものだったのかもしれない。
帰宅前に、東急本店のデパ地下へ。
宮島の言葉に触発されたわけではないが、今日の夕食は「赤」をテーマにしよう。
鮮魚コーナーで、昨日と同じく大粒のあさりを見つけた。
だが、今日は白ワインベースのビアンコではない。
完熟トマトを使った『ボンゴレ・ロッソ』だ。
青果コーナーで、真っ赤に熟したトマトを箱買いする。
ホールトマト缶もいいが、フレッシュなトマトを煮詰めたソースは格別だ。
さらに、サラダ用に有機栽培のベビーリーフ、ルッコラ、クレソン。
ガーリックトースト用に、フランスパンと青森県産のニンニク、無塩バター。
ワインセラーでは、イタリア・トスカーナ産の赤ワイン『キャンティ・クラシコ』を選んだ。
サンジョヴェーゼ種主体の、軽やかで酸味のある赤ワイン。
トマトソースとの相性は抜群だ。
重すぎないボディが、あさりの旨味を邪魔しない。
帰宅後、俺はキッチンに立った。
まずはトマトソース作りから。
トマトを湯剥きし、ざく切りにする。
オリーブオイルでニンニクと玉ねぎをじっくり炒め、香りを出す。
そこにトマトを投入し、弱火で煮詰める。
水分を飛ばし、旨味を凝縮させる。
コンソメや化学調味料は一切使わない。トマトの力だけで勝負する。
あさりは白ワインで酒蒸しにし、殻が開いたら一度取り出す。
残った煮汁をトマトソースに加え、乳化させる。
これがあさりの旨味を全体に行き渡らせるポイントだ。
パスタは表示時間より1分短く茹でる。
ソースの中で煮込むように絡めるためだ。
並行して、ガーリックトーストを作る。
バターを室温に戻し、すりおろしたニンニク、パセリ、塩を混ぜてガーリックバターを作る。
スライスしたフランスパンにたっぷりと塗り、オーブンでカリッと焼く。
香ばしい匂いがキッチンに充満する。
サラダは、洗った葉野菜をボウルに入れ、オリーブオイル、バルサミコ酢、塩、黒胡椒でシンプルに和える。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
深紅のソースを纏った『ボンゴレ・ロッソ』。
あさりの白と、パセリの緑が映える。
山盛りのグリーンサラダ。
黄金色に焼けたガーリックトースト。
そして、ルビー色に輝くキャンティ。
「いただきます」
まずはパスタから。
フォークで巻き取り、口に運ぶ。
……濃厚だ。
完熟トマトの甘みと酸味、そしてあさりの強烈な旨味が、口の中で爆発する。
ニンニクのパンチが効いているが、トマトの酸味が後味をさっぱりとさせる。
そこにキャンティを流し込む。
ワインの酸味がトマトと共鳴し、旨味をさらに引き上げる。
至福のマリアージュ。
ガーリックトーストをソースに浸して食べる。
パンの香ばしさとソースの旨味が合わさり、ワインが進む。
サラダの苦味が、口の中をリセットしてくれる。
一人静かな食卓だが、満足感は高い。
吉祥寺での情報収集、隼人との遊戯、涼さんとの再会、そして宮島の言葉。
今日一日の出来事を反芻しながら、俺はゆっくりと食事を楽しんだ。
俺――西園寺玲央は、書斎のデスクでノートパソコンを開き、ある「仕込み」の最終確認を行っていた。
画面に表示されているのは、匿名掲示板や美術関係のBBSに投稿された、いくつかの書き込みだ。
ターゲットは、日本画壇の重鎮・葛城玄斎。
先日、白鳥恒一から聞いた「ゴーストペインター」の実態。弟子の作品を自分の名義で発表し、富と名声を得ている老害。
その証拠となる画像データや、過去の告発文を、海外サーバーを経由して拡散させる。
まだSNSのない時代だが、ネットの深層に火種を撒くことは可能だ。
「……まずは小手調べだ。徐々に外堀を埋めていく」
エンターキーを押し、送信を完了させる。
「ざまぁ」の瞬間は、もっと劇的な舞台で用意してやるつもりだ。今はまだ、彼に「得体の知れない不安」を植え付けるだけでいい。
PCを閉じ、俺は外出の準備を整えた。
今日は渋谷を離れ、吉祥寺へと足を運ぶ。
サブカルチャーの発信地であり、独特の空気が流れる街。
駅を降りると、雑多な人混みと、どこか懐かしい昭和の匂いが混じり合っていた。
まずは駅前の案内所で、街の情報を収集する。
古着屋、ライブハウス、そして隠れ家的なカフェ。
雑誌やネットには載っていない「生きた情報」は、足で稼ぐのが基本だ。
俺は路地裏にある、古民家を改装したカフェに入った。
木の温かみを感じる店内。
アンティークのソファに深く腰を下ろす。
座り心地が良い。
ただコーヒーを飲むだけでなく、空間そのものを楽しむ時間。
1999年の吉祥寺には、こうした「無駄を楽しむ」文化が根付いている。
効率化を追求する渋谷とは対極にある、緩やかな時間。
それもまた、ビジネスのインスピレーションには必要だ。
カフェを出て、井の頭公園へ向かおうとした時だった。
公園の入り口付近で、困り果てた様子の草野健太を見つけた。
彼は携帯電話を握りしめ、キョロキョロと挙動不審に周囲を見回している。
「……草野?」
「あ、西園寺! うわ、マジでいた! 助かったぁ……!」
草野は俺を見るなり、泣きつきそうな顔で駆け寄ってきた。
「どうした。そんなに慌てて」
「いや、実はさ……。この辺で『変なじいさん』に絡まれてて」
「じいさん?」
「ああ。公園で絵を描いてるんだけどさ、通りかかる人に『お前の顔は死相が出てる』とか『魂の色が濁ってる』とか、わけわかんないこと言って説教すんだよ! 俺も捕まって、30分くらい人生論語られた……」
草野はげっそりとしていた。
迷惑な老人だ。だが、俺のアンテナが微かに反応した。
吉祥寺、絵を描く老人、そして毒舌。
まさかとは思うが。
「……その老人、どんな風貌だ?」
「えっと、着物着てて、髭生やしてて……偉そうな感じ。あ、画材はすげー高そうだった」
ビンゴだ。
葛城玄斎。
彼は吉祥寺にアトリエを持っているという情報があった。
休日に公園でスケッチをしているのだろう。
俺が撒いた火種に気づき、イラついているのかもしれない。
「……放っておけ。関わるとろくなことにならない」
「だよね! ……あー怖かった。西園寺に会えて浄化された気分だわ」
草野は単純に喜んでいる。
彼にはまだ、俺がその老人を社会的に抹殺しようとしていることは伏せておこう。
草野と別れた後、俺は城戸隼人と合流した。
今日は彼に誘われて、吉祥寺のダーツ&ビリヤード場に来ていた。
「よっしゃ! 今日こそ西園寺に勝つ!」
隼人は気合十分だ。
金髪にスカジャンの彼は、吉祥寺のサブカルな空気の中でも目立っている。
ダーツの矢を構える。
以前教えたフォームが、随分と様になってきている。
シュッ。
矢は吸い込まれるようにブルの近くに刺さった。
「おっ! 来たんじゃね!?」
「悪くない。だが、リリースの瞬間に肘が下がっている」
俺も矢を投げる。
ど真ん中のインナーブル。
修正点を見せつけるように。
「くっそー! なんでそんな正確なんだよ!」
「物理だよ、城戸」
その後、ビリヤードでも対戦した。
幾何学的なラインを読む俺に対し、隼人は直感とパワーで挑んでくる。
結果は俺の圧勝だったが、彼の予測不能なショットには何度かヒヤリとさせられた。
勝負を終え、店を出る。
「あー、腹減った! メンチカツ食おうぜ、メンチ!」
「『サトウ』のメンチカツか。行列覚悟だな」
俺たちは商店街の行列に並び、揚げたてのメンチカツを頬張った。
肉汁が溢れ出し、熱さと旨味が口の中に広がる。
高級フレンチもいいが、こういうB級グルメも悪くない。
隼人との時間は、俺の精神年齢を15歳に戻してくれる貴重なリセットボタンだ。
夕方。
隼人と別れた俺は、渋谷へと戻ってきた。
駅前のジューススタンドへ向かう。
喉が渇いた。
「……『小松菜とバナナのスムージー』を」
緑色の液体を受け取り、一気に飲み干す。
青臭さと甘みが混ざり合い、疲れた体に染み渡る。
ビタミン補給完了。
そのままスポーツショップへ。
トレーニング用の新しいウェアを購入するためだ。
機能性を重視した吸汗速乾素材のTシャツと、ハーフパンツ。
ついでに、プロテインシェイカーも新調した。
店を出て、公園通りを歩いていると、歩道橋の上で風に当たっている女性を見つけた。
早坂涼さんだ。
今日の彼女は、白の開襟シャツに、ネイビーのクロップドパンツという装い。
シンプルだが、その清潔感と透明感は群を抜いている。
ショートカットの黒髪が夕風に揺れ、透き通るような白い肌がオレンジ色の光を浴びて輝いている。
その凛とした佇まいは、渋谷の喧騒を切り裂く一陣の涼風のようだ。
すれ違う人々が、思わず足を止めて見惚れているのが分かる。
「……涼さん」
「ん? ……あ、レオ!」
彼女は俺に気づくと、パッと表情を輝かせた。
その笑顔には、一点の曇りもない。
「奇遇ですね。買い物ですか?」
「ううん。レポートの資料探しで本屋行ってた帰り。……レオは? すごい荷物だけど」
「トレーニング用品の買い出しです。……涼さんも、お疲れ様です」
「ありがと。……あ、そうだ。今度の学祭、ホントに来てくれる?」
彼女は少し不安そうに聞いてきた。
以前約束した、大学の学園祭のことだ。
「もちろんです。楽しみにしていますよ」
「そっか。……良かった。案内する約束、忘れてないからね」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、俺の心が洗われていくようだ。
教師を目指す彼女のひたむきさは、俺にとっても刺激になる。
「……じゃあ、またね。ボン」
「ええ。お気をつけて」
手を振って去っていく彼女を見送り、俺は駅前へ向かった。
駅前広場。
いつもの場所に、宮島寅雄の姿があった。
だが、今日は演説をしていない。
彼はベンチに座り、遠くを見つめていた。
「……先生」
「おお、少年か。……今日は静かなもんだろ?」
宮島は苦笑した。
喉を痛めたらしい。
俺は持っていたのど飴を差し出した。
「無理は禁物ですよ。……身体が資本ですから」
「違いない。……だが、叫ばずにはいられないのが、政治家の性(さが)でな」
彼は飴を口に含み、目を細めた。
「……ところで少年。君は『赤』が好きか?」
「赤? ……色のですか?」
「そうだ。情熱の赤、革命の赤、そして……血の赤だ」
「……料理のトマトソースなら好きですが」
俺が答えると、彼は豪快に笑った。
「ハッハッハ! そうか、トマトか! ……いや、それでいい。日常の中にこそ、真実はある」
宮島は立ち上がり、俺の肩を叩いた。
「……今日はもう帰るよ。君の顔を見たら、元気が出た」
彼は雑踏の中へと消えていった。
その背中は、以前よりも少し大きく見えた。
「赤」という言葉に込められた意味。
それは、これからの激動の時代を予感させるものだったのかもしれない。
帰宅前に、東急本店のデパ地下へ。
宮島の言葉に触発されたわけではないが、今日の夕食は「赤」をテーマにしよう。
鮮魚コーナーで、昨日と同じく大粒のあさりを見つけた。
だが、今日は白ワインベースのビアンコではない。
完熟トマトを使った『ボンゴレ・ロッソ』だ。
青果コーナーで、真っ赤に熟したトマトを箱買いする。
ホールトマト缶もいいが、フレッシュなトマトを煮詰めたソースは格別だ。
さらに、サラダ用に有機栽培のベビーリーフ、ルッコラ、クレソン。
ガーリックトースト用に、フランスパンと青森県産のニンニク、無塩バター。
ワインセラーでは、イタリア・トスカーナ産の赤ワイン『キャンティ・クラシコ』を選んだ。
サンジョヴェーゼ種主体の、軽やかで酸味のある赤ワイン。
トマトソースとの相性は抜群だ。
重すぎないボディが、あさりの旨味を邪魔しない。
帰宅後、俺はキッチンに立った。
まずはトマトソース作りから。
トマトを湯剥きし、ざく切りにする。
オリーブオイルでニンニクと玉ねぎをじっくり炒め、香りを出す。
そこにトマトを投入し、弱火で煮詰める。
水分を飛ばし、旨味を凝縮させる。
コンソメや化学調味料は一切使わない。トマトの力だけで勝負する。
あさりは白ワインで酒蒸しにし、殻が開いたら一度取り出す。
残った煮汁をトマトソースに加え、乳化させる。
これがあさりの旨味を全体に行き渡らせるポイントだ。
パスタは表示時間より1分短く茹でる。
ソースの中で煮込むように絡めるためだ。
並行して、ガーリックトーストを作る。
バターを室温に戻し、すりおろしたニンニク、パセリ、塩を混ぜてガーリックバターを作る。
スライスしたフランスパンにたっぷりと塗り、オーブンでカリッと焼く。
香ばしい匂いがキッチンに充満する。
サラダは、洗った葉野菜をボウルに入れ、オリーブオイル、バルサミコ酢、塩、黒胡椒でシンプルに和える。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
深紅のソースを纏った『ボンゴレ・ロッソ』。
あさりの白と、パセリの緑が映える。
山盛りのグリーンサラダ。
黄金色に焼けたガーリックトースト。
そして、ルビー色に輝くキャンティ。
「いただきます」
まずはパスタから。
フォークで巻き取り、口に運ぶ。
……濃厚だ。
完熟トマトの甘みと酸味、そしてあさりの強烈な旨味が、口の中で爆発する。
ニンニクのパンチが効いているが、トマトの酸味が後味をさっぱりとさせる。
そこにキャンティを流し込む。
ワインの酸味がトマトと共鳴し、旨味をさらに引き上げる。
至福のマリアージュ。
ガーリックトーストをソースに浸して食べる。
パンの香ばしさとソースの旨味が合わさり、ワインが進む。
サラダの苦味が、口の中をリセットしてくれる。
一人静かな食卓だが、満足感は高い。
吉祥寺での情報収集、隼人との遊戯、涼さんとの再会、そして宮島の言葉。
今日一日の出来事を反芻しながら、俺はゆっくりと食事を楽しんだ。
0
あなたにおすすめの小説
異世界帰りの俺、現代日本にダンジョンが出現したので異世界経験を売ったり配信してみます
内田ヨシキ
ファンタジー
「あの魔物の倒し方なら、30万円で売るよ!」
――これは、現代日本にダンジョンが出現して間もない頃の物語。
カクヨムにて先行連載中です!
(https://kakuyomu.jp/works/16818023211703153243)
異世界で名を馳せた英雄「一条 拓斗(いちじょう たくと)」は、現代日本に帰還したはいいが、異世界で鍛えた魔力も身体能力も失われていた。
残ったのは魔物退治の経験や、魔法に関する知識、異世界言語能力など現代日本で役に立たないものばかり。
一般人として生活するようになった拓斗だったが、持てる能力を一切活かせない日々は苦痛だった。
そんな折、現代日本に迷宮と魔物が出現。それらは拓斗が異世界で散々見てきたものだった。
そして3年後、ついに迷宮で活動する国家資格を手にした拓斗は、安定も平穏も捨てて、自分のすべてを活かせるはずの迷宮へ赴く。
異世界人「フィリア」との出会いをきっかけに、拓斗は自分の異世界経験が、他の初心者同然の冒険者にとって非常に有益なものであると気づく。
やがて拓斗はフィリアと共に、魔物の倒し方や、迷宮探索のコツ、魔法の使い方などを、時に直接売り、時に動画配信してお金に変えていく。
さらには迷宮探索に有用なアイテムや、冒険者の能力を可視化する「ステータスカード」を発明する。
そんな彼らの活動は、ダンジョン黎明期の日本において重要なものとなっていき、公的機関に発展していく――。
異世界ハズレモノ英雄譚〜無能ステータスと言われた俺が、ざまぁ見せつけながらのし上がっていくってよ!〜
mitsuzoエンターテインメンツ
ファンタジー
【週三日(月・水・金)投稿 基本12:00〜14:00】
異世界にクラスメートと共に召喚された瑛二。
『ハズレモノ』という聞いたこともない称号を得るが、その低スペックなステータスを見て、皆からハズレ称号とバカにされ、それどころか邪魔者扱いされ殺されそうに⋯⋯。
しかし、実は『超チートな称号』であることがわかった瑛二は、そこから自分をバカにした者や殺そうとした者に対して、圧倒的な力を隠しつつ、ざまぁを展開していく。
そして、そのざまぁは図らずも人類の命運を握るまでのものへと発展していくことに⋯⋯。
悪役貴族に転生したから破滅しないように努力するけど上手くいかない!~努力が足りない?なら足りるまで努力する~
蜂谷
ファンタジー
社畜の俺は気が付いたら知らない男の子になっていた。
情報をまとめるとどうやら子供の頃に見たアニメ、ロイヤルヒーローの序盤で出てきた悪役、レオス・ヴィダールの幼少期に転生してしまったようだ。
アニメ自体は子供の頃だったのでよく覚えていないが、なぜかこいつのことはよく覚えている。
物語の序盤で悪魔を召喚させ、学園をめちゃくちゃにする。
それを主人公たちが倒し、レオスは学園を追放される。
その後領地で幽閉に近い謹慎を受けていたのだが、悪魔教に目を付けられ攫われる。
そしてその体を魔改造されて終盤のボスとして主人公に立ちふさがる。
それもヒロインの聖魔法によって倒され、彼の人生の幕は閉じる。
これが、悪役転生ってことか。
特に描写はなかったけど、こいつも怠惰で堕落した生活を送っていたに違いない。
あの肥満体だ、運動もろくにしていないだろう。
これは努力すれば眠れる才能が開花し、死亡フラグを回避できるのでは?
そう考えた俺は執事のカモールに頼み込み訓練を開始する。
偏った考えで領地を無駄に統治してる親を説得し、健全で善人な人生を歩もう。
一つ一つ努力していけば、きっと開かれる未来は輝いているに違いない。
そう思っていたんだけど、俺、弱くない?
希少属性である闇魔法に目覚めたのはよかったけど、攻撃力に乏しい。
剣術もそこそこ程度、全然達人のようにうまくならない。
おまけに俺はなにもしてないのに悪魔が召喚がされている!?
俺の前途多難な転生人生が始まったのだった。
※カクヨム、なろうでも掲載しています。
チート魅了スキルで始まる、美少女たちとの異世界ハーレム生活
仙道
ファンタジー
リメイク先:「視線が合っただけで美少女が俺に溺れる。異世界で最強のハーレムを作って楽に暮らす」
ごく普通の会社員だった佐々木健太は、異世界へ転移してして、あらゆる女性を無条件に魅了するチート能力を手にする。
彼はこの能力で、女騎士セシリア、ギルド受付嬢リリア、幼女ルナ、踊り子エリスといった魅力的な女性たちと出会い、絆を深めていく。
ブラック国家を制裁する方法は、性癖全開のハーレムを作ることでした。
タカハシヨウ
ファンタジー
ヴァン・スナキアはたった一人で世界を圧倒できる強さを誇り、母国ウィルクトリアを守る使命を背負っていた。
しかし国民たちはヴァンの威を借りて他国から財産を搾取し、その金でろくに働かずに暮らしている害悪ばかり。さらにはその歪んだ体制を維持するためにヴァンの魔力を受け継ぐ後継を求め、ヴァンに一夫多妻制まで用意する始末。
ヴァンは国を叩き直すため、あえてヴァンとは子どもを作れない異種族とばかり八人と結婚した。もし後継が生まれなければウィルクトリアは世界中から報復を受けて滅亡するだろう。生き残りたければ心を入れ替えてまともな国になるしかない。
激しく抵抗する国民を圧倒的な力でギャフンと言わせながら、ヴァンは愛する妻たちと甘々イチャイチャ暮らしていく。
幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕だけ別な場所に飛ばされた先は異世界の不思議な無人島だった。
アノマロカリス
ファンタジー
よくある話の異世界召喚…
スマホのネット小説や漫画が好きな少年、洲河 愽(すが だん)。
いつもの様に幼馴染達と学校帰りの公園でくっちゃべっていると地面に突然魔法陣が現れて…
気付くと愽は1人だけ見渡す限り草原の中に突っ立っていた。
愽は幼馴染達を探す為に周囲を捜索してみたが、一緒に飛ばされていた筈の幼馴染達は居なかった。
生きていればいつかは幼馴染達とまた会える!
愽は希望を持って、この不思議な無人島でサバイバル生活を始めるのだった。
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕の授かったスキルは役に立つものなのかな?」
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕は幼馴染達よりも強いジョブを手に入れて無双する!」
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕は魔王から力を授かり人類に対して牙を剥く‼︎」
幼馴染達と一緒に異世界召喚の第四弾。
愽は幼馴染達と離れた場所でサバイバル生活を送るというパラレルストーリー。
はたして愽は、無事に幼馴染達と再会を果たせるのだろうか?
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
S級クラフトスキルを盗られた上にパーティから追放されたけど、実はスキルがなくても生産力最強なので追放仲間の美少女たちと工房やります
内田ヨシキ
ファンタジー
[第5回ドラゴンノベルス小説コンテスト 最終選考作品]
冒険者シオンは、なんでも作れる【クラフト】スキルを奪われた上に、S級パーティから追放された。しかしシオンには【クラフト】のために培った知識や技術がまだ残されていた!
物作りを通して、新たな仲間を得た彼は、世界初の技術の開発へ着手していく。
職人ギルドから追放された美少女ソフィア。
逃亡中の魔法使いノエル。
騎士職を剥奪された没落貴族のアリシア。
彼女らもまた、一度は奪われ、失ったものを、物作りを通して取り戻していく。
カクヨムにて完結済み。
( https://kakuyomu.jp/works/16817330656544103806 )
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる