60 / 65
第60話 天然水の透明度と冷製パスタの温度
しおりを挟む
6月8日、火曜日。
関東地方の梅雨入りを目前に控え、空気には微かな湿り気が混じり始めていた。
桜花学園の教室。
3限目の地理の授業中、教壇に立つ教師が世界地図を指し示しながら、生徒たちを見回した。
「……さて。アジア通貨危機以降、東南アジア諸国の経済は混乱の中にあったが、ここに来て回復の兆しが見えている。この急速な回復を支えている『産業構造の変化』について、具体例を挙げて説明できる者はいるか?」
教室が静まり返る。
単に輸出品目を答えるだけではない、マクロ経済の視点が求められる問いだ。
教師の視線が、期待を込めて俺の席に向けられた。
「西園寺。頼めるか?」
俺は、手元の専門書から顔を上げ、静かに席を立った。
「はい。最大の変化は、労働集約型の組立産業から、電子部品や半導体を中心とした高付加価値産業へのシフトです。特にマレーシアや台湾におけるIT関連部材の生産拠点の集積は、来るべき世界的なIT需要の爆発的増加を見越したものであり、これが外貨獲得の新たな柱となっています。通貨安を逆手に取った輸出競争力の強化と、海外直接投資の呼び込みが功を奏していると言えるでしょう」
俺は淀みなく答えた。
1999年の今、アジアは「世界の工場」から「世界のハイテク基地」へと変貌を遂げようとしている。
教師は深く頷き、満足げに眼鏡の位置を直した。
「……正解だ。相変わらず、視野が広いな。座りなさい」
着席すると、隣の城戸隼人が「お前、あっちの国のニュースとか見てんの? マジですげぇな」と小声で感心していた。
俺は小さく肩を竦める。
未来を知る者にとって、これは予言ではなく、過去の検証に過ぎない。
昼休み。
俺は気分転換に、学校の近くにあるコンビニエンスストアへと足を運んだ。
飲料コーナーの棚には、新商品が並んでいる。
俺が手に取ったのは、JTが販売する『桃の天然水』だ。
1998年に歌手の華原朋美を起用したCMで爆発的なヒットを記録し、今なお若者の間で絶大な支持を得ている「透明な清涼飲料水」。
「……『ヒューヒュー』か」
俺はレジで購入し、キャップを開けた。
一口飲む。
甘い。だが、後味は驚くほどすっきりしている。
従来のジュースのベタつきを嫌う若者層に、「水感覚で飲めるジュース」という新しい価値を提供した。
この「透明感」というキーワードは、世紀末の閉塞感を打破したいという大衆心理ともリンクしている。
ビジネスのヒントは、常にコンビニの棚にある。
俺は冷たい液体で脳を冷却し、午後の授業へと向かった。
放課後。
俺は渋谷の『渋谷LoFt』に来ていた。
生活雑貨から文具まで、洗練されたアイテムが揃う大型店舗だ。
文具フロアで、書き味の良いボールペンのリフィルを探していると、棚の向こうに真剣な表情で商品を吟味している女性の姿を見つけた。
高村遥先生だ。
教育実習期間も残りわずか。
今日の彼女は、清楚な白のブラウスに、淡いミントグリーンのフレアスカートを合わせている。
清純派の頂点にある美貌。
艶やかな黒髪をハーフアップにし、白い首筋が露わになっている。
その瞳は、色とりどりのスタンプセットに釘付けになっていた。
「……うーん、どっちがいいかなぁ。こっちは可愛いけど、こっちは使いやすそうだし……」
彼女は独り言を呟きながら、二つの商品を交互に見比べている。
その仕草が、何とも言えず愛らしい。
「……迷っていらっしゃいますね、高村先生」
俺が声をかけると、彼女は「ひゃっ!?」と小さく悲鳴を上げ、商品を落としそうになった。
慌ててキャッチする。
「あ、ありがとう……! って、西園寺くん!?」
彼女は顔を真っ赤にして俺を見上げた。
「こ、こんにちは。……奇遇だね」
「ええ。お買い物ですか?」
「うん。……実習の最後にね、受け持ってくれた生徒たちに、メッセージカードを書こうと思って。その飾りに使うスタンプを探してたの」
彼女は照れくさそうに言った。
教育実習生がそこまでする義務はない。
だが、彼女の教育にかける情熱は本物だ。不器用ながらも、生徒一人一人と向き合おうとするその姿勢。
それが、彼女を魅力的に見せている最大の要因だろう。
「素敵なお考えですね。……僕なら、こちらのウッドスタンプをお勧めします」
「え? こっち?」
「ええ。インクの色を変えれば様々な用途に使えますし、デザインもシンプルで飽きが来ません。生徒たちの記憶にも残るでしょう」
俺がアドバイスすると、彼女は瞳を輝かせた。
「そっか! ……うん、確かにそうかも! さすが西園寺くん、センスいい!」
「恐縮です」
俺たちは並んでレジへ向かった。
買い物を終え、店を出る。
夕暮れの公園通り。
並木道の新緑が、彼女の白い肌に美しい影を落としている。
「……ねえ、西園寺くん。少しだけ、付き合ってくれない?」
「はい?」
「その……荷物持ちのお礼に、何かご馳走させて。……あと、ちょっとだけ話を聞いてほしくて」
彼女は上目遣いで俺を見た。
その瞳には、実習終了を控えた不安と、達成感の入り混じった複雑な色が宿っている。
断る理由はない。
俺たちは近くのオープンテラスのあるカフェに入った。
彼女はアイスティーを、俺はアイスコーヒーを注文する。
「……もうすぐ、実習も終わりだね」
彼女はストローを回しながら、ぽつりと呟いた。
「最初はね、怖かったの。生徒のみんなに受け入れてもらえるか、ちゃんと教えられるか……。特に日向くんみたいな子には、どう接すればいいか分からなくて」
「彼には手を焼きましたか」
「うん。……でもね、西園寺くんがいてくれたおかげで、私、逃げずに済んだ気がする」
彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見た。
「君が授業で完璧な回答をしてくれると、空気が締まるの。……それに、廊下ですれ違う時に挨拶してくれるだけで、すごく勇気をもらえた。……ありがとう」
彼女は微笑んだ。
その笑顔は、初夏の風のように爽やかで、そしてどこか切なかった。
教師と生徒。
その境界線は明確だが、彼女の中で俺という存在は、単なる生徒以上の「支え」になっていたのかもしれない。
「礼には及びません。……先生の頑張りは、クラス全員が見ていますよ」
「……ふふ、口が上手いんだから。……でも、嬉しい」
彼女は照れ隠しにアイスティーを飲んだ。
束の間の休息。
彼女との時間は、俺の荒んだ心を洗い流してくれる。
カフェを出て、高村先生と別れた後。
俺は大通りで待機していたハイヤーに乗り込んだ。
運転席には、秘書の如月舞が座っている。
「お疲れ様です、社長」
バックミラー越しに、舞の冷静な瞳が俺を捉える。
今日の彼女は、ダークネイビーのスーツ姿だ。
陶器のように滑らかな肌と、知的な美貌。
仕事モードの彼女は、隙のない美しさを放っている。
「……高村様とは、良いお話ができましたか?」
「ああ。彼女は真面目だ。教育者としての資質がある」
「社長がそこまで評価されるのは珍しいですね」
「……不器用だが、芯が強い。そういう人間は嫌いじゃない」
俺はシートに深く身を預けた。
車が滑らかに発進する。
「報告があります。……葛城玄斎の件ですが」
舞の声色が、少し低くなった。
「ネット上の告発が功を奏し、彼の周辺が騒がしくなっています。複数の週刊誌が裏取り取材に動き出しました。……特に、過去に破門された弟子たちからのタレコミが相次いでいるようです」
「いい傾向だ。……外堀は埋まったな」
「はい。来月の個展に合わせて、決定的なスキャンダルをぶつければ、彼の権威は地に落ちるでしょう」
舞は淡々と告げた。
冷徹な仕事ぶり。
彼女は俺の剣であり、盾だ。
「……それと、社長。倉庫の管理状況についてですが」
「GT-Rと、カードのことか」
「はい。温度・湿度ともに完璧な数値を維持しております。セキュリティも強化しました」
「頼むよ。あれは25年後の俺たちへのボーナスだ」
「……ふふ、25年後、ですか。気が遠くなるような未来ですが、社長と一緒なら、あっという間かもしれませんね」
彼女は少しだけ表情を緩め、優しく微笑んだ。
その笑顔に、俺は救われる。
孤独な戦いの中で、彼女だけは常に俺の隣にいてくれる。
その事実に、改めて感謝した。
帰宅前。
俺は舞に頼んで、表参道の高級スーパー『紀ノ国屋』に寄ってもらった。
夕食の買い出しだ。
店内に入ると、野菜コーナーで見覚えのある人物がカゴを持って悩んでいた。
姉の摩耶だ。
今日の彼女は、大学帰りらしくトレンチコートを羽織っているが、中はシンプルなニットとデニムだ。
愛らしいショートボブが、店内の照明を受けて輝いている。
黙っていれば深窓の令嬢に見えるのだが、カゴの中身がスナック菓子と缶ビールばかりなのが残念だ。
「……姉さん。またですか」
「あ、玲央! 奇遇ね! ……って、待ち伏せしてたんでしょ?」
「違います。夕食の買い出しです」
俺は呆れながら、彼女のカゴからスナック菓子をいくつか棚に戻した。
「えーっ! ケチ! 私の栄養源が!」
「栄養にはなりません。……今日は僕が作りますから、まともな食事を摂ってください」
「ほんと!? やったぁ! 愛してるわ玲央!」
姉は俺の腕に抱きついた。
周囲の客が微笑ましそうに見ているが、俺としては恥ずかしい限りだ。
「……で、今日は何にするの?」
「冷製パスタです。蒸し暑くなってきましたからね」
俺は青果コーナーで、真っ赤に熟した『フルーツトマト』を選んだ。
糖度が高く、果肉がしっかりしている。
さらに、フルーツコーナーで『桃』を購入。
まだ走りの時期だが、ハウス栽培の早生種が出ている。
トマトと桃。
意外な組み合わせだが、これが驚くほど合うのだ。
「へぇ、おしゃれ。……じゃあ、私はお酒選んでいい?」
「……料理に合うものにしてくださいね」
姉はワインコーナーへ走り、イタリア産の白ワイン『ソアーヴェ』を持ってきた。
悪くないチョイスだ。
俺たちは並んでレジへ向かった。
姉との買い物は騒がしいが、日常の温かみを感じさせてくれる。
帰宅後、俺はすぐに調理に取り掛かる。
パスタは、極細の『カッペリーニ』を使う。
茹で時間はわずか2分。
氷水でしっかりと締め、水気を切る。
これが味の決め手だ。水っぽいパスタは最悪だ。
ソースを作る。
フルーツトマトを湯剥きし、ざく切りにする。
ボウルに入れ、エキストラバージンオリーブオイル、塩、ホワイトペッパー、そして少量のレモン汁を加える。
そこに、皮を剥いて一口大に切った桃を投入する。
軽く潰しながら混ぜ合わせ、乳化させる。
バジルの葉を手でちぎって加える。
冷蔵庫でキンキンに冷やしておく。
「……よし」
茹で上がって締めたパスタを、ソースのボウルに投入し、手早く和える。
冷えた器に高く盛り付け、トップに生ハムを飾る。
桃のピンク、トマトの赤、バジルの緑、そして生ハムのピンク。
見た目も鮮やかだ。
ダイニングテーブルに運ぶと、姉が歓声を上げた。
「うわぁ! カフェご飯みたい! すごーい!」
「見た目だけではありませんよ。……どうぞ」
俺は自分のグラスに、最高級の『ぶどうジュース』を注いだ。
ワイン用ブドウ「カベルネ・ソーヴィニヨン」を搾った、濃厚なジュースだ。
姉はソアーヴェを注ぎ、乾杯する。
「いただきます!」
パスタを巻いて口に運ぶ。
……衝撃だ。
フルーツトマトの凝縮された旨味と酸味。
そこに、桃の芳醇な甘みと香りが重なる。
生ハムの塩気が全体を引き締め、オリーブオイルが滑らかにまとめている。
カッペリーニの繊細な食感が、ソースを存分に絡め取る。
「んん~っ! 美味しい! 桃とトマトって、こんなに合うのね!」
「ええ。互いの香りを補完し合うんです」
姉は夢中で食べている。
俺もぶどうジュースを飲む。
濃厚な果実味が、パスタの甘みと酸味に負けていない。
至福の時間だ。
「……ねえ、玲央」
食後、ワインを傾けながら姉が言った。
「あんた、最近大人っぽくなったよね。……なんか、遠くに行っちゃいそうで、お姉ちゃん少し寂しいわ」
「……どこにも行きませんよ。僕はここにいます」
「そっか。……ならいいけど。あんたがいなくなったら、私、餓死しちゃうし」
姉は悪戯っぽく笑った。
その笑顔の下にある、弟への依存と愛情。
俺はそれを、しっかりと受け止めた。
関東地方の梅雨入りを目前に控え、空気には微かな湿り気が混じり始めていた。
桜花学園の教室。
3限目の地理の授業中、教壇に立つ教師が世界地図を指し示しながら、生徒たちを見回した。
「……さて。アジア通貨危機以降、東南アジア諸国の経済は混乱の中にあったが、ここに来て回復の兆しが見えている。この急速な回復を支えている『産業構造の変化』について、具体例を挙げて説明できる者はいるか?」
教室が静まり返る。
単に輸出品目を答えるだけではない、マクロ経済の視点が求められる問いだ。
教師の視線が、期待を込めて俺の席に向けられた。
「西園寺。頼めるか?」
俺は、手元の専門書から顔を上げ、静かに席を立った。
「はい。最大の変化は、労働集約型の組立産業から、電子部品や半導体を中心とした高付加価値産業へのシフトです。特にマレーシアや台湾におけるIT関連部材の生産拠点の集積は、来るべき世界的なIT需要の爆発的増加を見越したものであり、これが外貨獲得の新たな柱となっています。通貨安を逆手に取った輸出競争力の強化と、海外直接投資の呼び込みが功を奏していると言えるでしょう」
俺は淀みなく答えた。
1999年の今、アジアは「世界の工場」から「世界のハイテク基地」へと変貌を遂げようとしている。
教師は深く頷き、満足げに眼鏡の位置を直した。
「……正解だ。相変わらず、視野が広いな。座りなさい」
着席すると、隣の城戸隼人が「お前、あっちの国のニュースとか見てんの? マジですげぇな」と小声で感心していた。
俺は小さく肩を竦める。
未来を知る者にとって、これは予言ではなく、過去の検証に過ぎない。
昼休み。
俺は気分転換に、学校の近くにあるコンビニエンスストアへと足を運んだ。
飲料コーナーの棚には、新商品が並んでいる。
俺が手に取ったのは、JTが販売する『桃の天然水』だ。
1998年に歌手の華原朋美を起用したCMで爆発的なヒットを記録し、今なお若者の間で絶大な支持を得ている「透明な清涼飲料水」。
「……『ヒューヒュー』か」
俺はレジで購入し、キャップを開けた。
一口飲む。
甘い。だが、後味は驚くほどすっきりしている。
従来のジュースのベタつきを嫌う若者層に、「水感覚で飲めるジュース」という新しい価値を提供した。
この「透明感」というキーワードは、世紀末の閉塞感を打破したいという大衆心理ともリンクしている。
ビジネスのヒントは、常にコンビニの棚にある。
俺は冷たい液体で脳を冷却し、午後の授業へと向かった。
放課後。
俺は渋谷の『渋谷LoFt』に来ていた。
生活雑貨から文具まで、洗練されたアイテムが揃う大型店舗だ。
文具フロアで、書き味の良いボールペンのリフィルを探していると、棚の向こうに真剣な表情で商品を吟味している女性の姿を見つけた。
高村遥先生だ。
教育実習期間も残りわずか。
今日の彼女は、清楚な白のブラウスに、淡いミントグリーンのフレアスカートを合わせている。
清純派の頂点にある美貌。
艶やかな黒髪をハーフアップにし、白い首筋が露わになっている。
その瞳は、色とりどりのスタンプセットに釘付けになっていた。
「……うーん、どっちがいいかなぁ。こっちは可愛いけど、こっちは使いやすそうだし……」
彼女は独り言を呟きながら、二つの商品を交互に見比べている。
その仕草が、何とも言えず愛らしい。
「……迷っていらっしゃいますね、高村先生」
俺が声をかけると、彼女は「ひゃっ!?」と小さく悲鳴を上げ、商品を落としそうになった。
慌ててキャッチする。
「あ、ありがとう……! って、西園寺くん!?」
彼女は顔を真っ赤にして俺を見上げた。
「こ、こんにちは。……奇遇だね」
「ええ。お買い物ですか?」
「うん。……実習の最後にね、受け持ってくれた生徒たちに、メッセージカードを書こうと思って。その飾りに使うスタンプを探してたの」
彼女は照れくさそうに言った。
教育実習生がそこまでする義務はない。
だが、彼女の教育にかける情熱は本物だ。不器用ながらも、生徒一人一人と向き合おうとするその姿勢。
それが、彼女を魅力的に見せている最大の要因だろう。
「素敵なお考えですね。……僕なら、こちらのウッドスタンプをお勧めします」
「え? こっち?」
「ええ。インクの色を変えれば様々な用途に使えますし、デザインもシンプルで飽きが来ません。生徒たちの記憶にも残るでしょう」
俺がアドバイスすると、彼女は瞳を輝かせた。
「そっか! ……うん、確かにそうかも! さすが西園寺くん、センスいい!」
「恐縮です」
俺たちは並んでレジへ向かった。
買い物を終え、店を出る。
夕暮れの公園通り。
並木道の新緑が、彼女の白い肌に美しい影を落としている。
「……ねえ、西園寺くん。少しだけ、付き合ってくれない?」
「はい?」
「その……荷物持ちのお礼に、何かご馳走させて。……あと、ちょっとだけ話を聞いてほしくて」
彼女は上目遣いで俺を見た。
その瞳には、実習終了を控えた不安と、達成感の入り混じった複雑な色が宿っている。
断る理由はない。
俺たちは近くのオープンテラスのあるカフェに入った。
彼女はアイスティーを、俺はアイスコーヒーを注文する。
「……もうすぐ、実習も終わりだね」
彼女はストローを回しながら、ぽつりと呟いた。
「最初はね、怖かったの。生徒のみんなに受け入れてもらえるか、ちゃんと教えられるか……。特に日向くんみたいな子には、どう接すればいいか分からなくて」
「彼には手を焼きましたか」
「うん。……でもね、西園寺くんがいてくれたおかげで、私、逃げずに済んだ気がする」
彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見た。
「君が授業で完璧な回答をしてくれると、空気が締まるの。……それに、廊下ですれ違う時に挨拶してくれるだけで、すごく勇気をもらえた。……ありがとう」
彼女は微笑んだ。
その笑顔は、初夏の風のように爽やかで、そしてどこか切なかった。
教師と生徒。
その境界線は明確だが、彼女の中で俺という存在は、単なる生徒以上の「支え」になっていたのかもしれない。
「礼には及びません。……先生の頑張りは、クラス全員が見ていますよ」
「……ふふ、口が上手いんだから。……でも、嬉しい」
彼女は照れ隠しにアイスティーを飲んだ。
束の間の休息。
彼女との時間は、俺の荒んだ心を洗い流してくれる。
カフェを出て、高村先生と別れた後。
俺は大通りで待機していたハイヤーに乗り込んだ。
運転席には、秘書の如月舞が座っている。
「お疲れ様です、社長」
バックミラー越しに、舞の冷静な瞳が俺を捉える。
今日の彼女は、ダークネイビーのスーツ姿だ。
陶器のように滑らかな肌と、知的な美貌。
仕事モードの彼女は、隙のない美しさを放っている。
「……高村様とは、良いお話ができましたか?」
「ああ。彼女は真面目だ。教育者としての資質がある」
「社長がそこまで評価されるのは珍しいですね」
「……不器用だが、芯が強い。そういう人間は嫌いじゃない」
俺はシートに深く身を預けた。
車が滑らかに発進する。
「報告があります。……葛城玄斎の件ですが」
舞の声色が、少し低くなった。
「ネット上の告発が功を奏し、彼の周辺が騒がしくなっています。複数の週刊誌が裏取り取材に動き出しました。……特に、過去に破門された弟子たちからのタレコミが相次いでいるようです」
「いい傾向だ。……外堀は埋まったな」
「はい。来月の個展に合わせて、決定的なスキャンダルをぶつければ、彼の権威は地に落ちるでしょう」
舞は淡々と告げた。
冷徹な仕事ぶり。
彼女は俺の剣であり、盾だ。
「……それと、社長。倉庫の管理状況についてですが」
「GT-Rと、カードのことか」
「はい。温度・湿度ともに完璧な数値を維持しております。セキュリティも強化しました」
「頼むよ。あれは25年後の俺たちへのボーナスだ」
「……ふふ、25年後、ですか。気が遠くなるような未来ですが、社長と一緒なら、あっという間かもしれませんね」
彼女は少しだけ表情を緩め、優しく微笑んだ。
その笑顔に、俺は救われる。
孤独な戦いの中で、彼女だけは常に俺の隣にいてくれる。
その事実に、改めて感謝した。
帰宅前。
俺は舞に頼んで、表参道の高級スーパー『紀ノ国屋』に寄ってもらった。
夕食の買い出しだ。
店内に入ると、野菜コーナーで見覚えのある人物がカゴを持って悩んでいた。
姉の摩耶だ。
今日の彼女は、大学帰りらしくトレンチコートを羽織っているが、中はシンプルなニットとデニムだ。
愛らしいショートボブが、店内の照明を受けて輝いている。
黙っていれば深窓の令嬢に見えるのだが、カゴの中身がスナック菓子と缶ビールばかりなのが残念だ。
「……姉さん。またですか」
「あ、玲央! 奇遇ね! ……って、待ち伏せしてたんでしょ?」
「違います。夕食の買い出しです」
俺は呆れながら、彼女のカゴからスナック菓子をいくつか棚に戻した。
「えーっ! ケチ! 私の栄養源が!」
「栄養にはなりません。……今日は僕が作りますから、まともな食事を摂ってください」
「ほんと!? やったぁ! 愛してるわ玲央!」
姉は俺の腕に抱きついた。
周囲の客が微笑ましそうに見ているが、俺としては恥ずかしい限りだ。
「……で、今日は何にするの?」
「冷製パスタです。蒸し暑くなってきましたからね」
俺は青果コーナーで、真っ赤に熟した『フルーツトマト』を選んだ。
糖度が高く、果肉がしっかりしている。
さらに、フルーツコーナーで『桃』を購入。
まだ走りの時期だが、ハウス栽培の早生種が出ている。
トマトと桃。
意外な組み合わせだが、これが驚くほど合うのだ。
「へぇ、おしゃれ。……じゃあ、私はお酒選んでいい?」
「……料理に合うものにしてくださいね」
姉はワインコーナーへ走り、イタリア産の白ワイン『ソアーヴェ』を持ってきた。
悪くないチョイスだ。
俺たちは並んでレジへ向かった。
姉との買い物は騒がしいが、日常の温かみを感じさせてくれる。
帰宅後、俺はすぐに調理に取り掛かる。
パスタは、極細の『カッペリーニ』を使う。
茹で時間はわずか2分。
氷水でしっかりと締め、水気を切る。
これが味の決め手だ。水っぽいパスタは最悪だ。
ソースを作る。
フルーツトマトを湯剥きし、ざく切りにする。
ボウルに入れ、エキストラバージンオリーブオイル、塩、ホワイトペッパー、そして少量のレモン汁を加える。
そこに、皮を剥いて一口大に切った桃を投入する。
軽く潰しながら混ぜ合わせ、乳化させる。
バジルの葉を手でちぎって加える。
冷蔵庫でキンキンに冷やしておく。
「……よし」
茹で上がって締めたパスタを、ソースのボウルに投入し、手早く和える。
冷えた器に高く盛り付け、トップに生ハムを飾る。
桃のピンク、トマトの赤、バジルの緑、そして生ハムのピンク。
見た目も鮮やかだ。
ダイニングテーブルに運ぶと、姉が歓声を上げた。
「うわぁ! カフェご飯みたい! すごーい!」
「見た目だけではありませんよ。……どうぞ」
俺は自分のグラスに、最高級の『ぶどうジュース』を注いだ。
ワイン用ブドウ「カベルネ・ソーヴィニヨン」を搾った、濃厚なジュースだ。
姉はソアーヴェを注ぎ、乾杯する。
「いただきます!」
パスタを巻いて口に運ぶ。
……衝撃だ。
フルーツトマトの凝縮された旨味と酸味。
そこに、桃の芳醇な甘みと香りが重なる。
生ハムの塩気が全体を引き締め、オリーブオイルが滑らかにまとめている。
カッペリーニの繊細な食感が、ソースを存分に絡め取る。
「んん~っ! 美味しい! 桃とトマトって、こんなに合うのね!」
「ええ。互いの香りを補完し合うんです」
姉は夢中で食べている。
俺もぶどうジュースを飲む。
濃厚な果実味が、パスタの甘みと酸味に負けていない。
至福の時間だ。
「……ねえ、玲央」
食後、ワインを傾けながら姉が言った。
「あんた、最近大人っぽくなったよね。……なんか、遠くに行っちゃいそうで、お姉ちゃん少し寂しいわ」
「……どこにも行きませんよ。僕はここにいます」
「そっか。……ならいいけど。あんたがいなくなったら、私、餓死しちゃうし」
姉は悪戯っぽく笑った。
その笑顔の下にある、弟への依存と愛情。
俺はそれを、しっかりと受け止めた。
0
あなたにおすすめの小説
異世界帰りの俺、現代日本にダンジョンが出現したので異世界経験を売ったり配信してみます
内田ヨシキ
ファンタジー
「あの魔物の倒し方なら、30万円で売るよ!」
――これは、現代日本にダンジョンが出現して間もない頃の物語。
カクヨムにて先行連載中です!
(https://kakuyomu.jp/works/16818023211703153243)
異世界で名を馳せた英雄「一条 拓斗(いちじょう たくと)」は、現代日本に帰還したはいいが、異世界で鍛えた魔力も身体能力も失われていた。
残ったのは魔物退治の経験や、魔法に関する知識、異世界言語能力など現代日本で役に立たないものばかり。
一般人として生活するようになった拓斗だったが、持てる能力を一切活かせない日々は苦痛だった。
そんな折、現代日本に迷宮と魔物が出現。それらは拓斗が異世界で散々見てきたものだった。
そして3年後、ついに迷宮で活動する国家資格を手にした拓斗は、安定も平穏も捨てて、自分のすべてを活かせるはずの迷宮へ赴く。
異世界人「フィリア」との出会いをきっかけに、拓斗は自分の異世界経験が、他の初心者同然の冒険者にとって非常に有益なものであると気づく。
やがて拓斗はフィリアと共に、魔物の倒し方や、迷宮探索のコツ、魔法の使い方などを、時に直接売り、時に動画配信してお金に変えていく。
さらには迷宮探索に有用なアイテムや、冒険者の能力を可視化する「ステータスカード」を発明する。
そんな彼らの活動は、ダンジョン黎明期の日本において重要なものとなっていき、公的機関に発展していく――。
異世界ハズレモノ英雄譚〜無能ステータスと言われた俺が、ざまぁ見せつけながらのし上がっていくってよ!〜
mitsuzoエンターテインメンツ
ファンタジー
【週三日(月・水・金)投稿 基本12:00〜14:00】
異世界にクラスメートと共に召喚された瑛二。
『ハズレモノ』という聞いたこともない称号を得るが、その低スペックなステータスを見て、皆からハズレ称号とバカにされ、それどころか邪魔者扱いされ殺されそうに⋯⋯。
しかし、実は『超チートな称号』であることがわかった瑛二は、そこから自分をバカにした者や殺そうとした者に対して、圧倒的な力を隠しつつ、ざまぁを展開していく。
そして、そのざまぁは図らずも人類の命運を握るまでのものへと発展していくことに⋯⋯。
悪役貴族に転生したから破滅しないように努力するけど上手くいかない!~努力が足りない?なら足りるまで努力する~
蜂谷
ファンタジー
社畜の俺は気が付いたら知らない男の子になっていた。
情報をまとめるとどうやら子供の頃に見たアニメ、ロイヤルヒーローの序盤で出てきた悪役、レオス・ヴィダールの幼少期に転生してしまったようだ。
アニメ自体は子供の頃だったのでよく覚えていないが、なぜかこいつのことはよく覚えている。
物語の序盤で悪魔を召喚させ、学園をめちゃくちゃにする。
それを主人公たちが倒し、レオスは学園を追放される。
その後領地で幽閉に近い謹慎を受けていたのだが、悪魔教に目を付けられ攫われる。
そしてその体を魔改造されて終盤のボスとして主人公に立ちふさがる。
それもヒロインの聖魔法によって倒され、彼の人生の幕は閉じる。
これが、悪役転生ってことか。
特に描写はなかったけど、こいつも怠惰で堕落した生活を送っていたに違いない。
あの肥満体だ、運動もろくにしていないだろう。
これは努力すれば眠れる才能が開花し、死亡フラグを回避できるのでは?
そう考えた俺は執事のカモールに頼み込み訓練を開始する。
偏った考えで領地を無駄に統治してる親を説得し、健全で善人な人生を歩もう。
一つ一つ努力していけば、きっと開かれる未来は輝いているに違いない。
そう思っていたんだけど、俺、弱くない?
希少属性である闇魔法に目覚めたのはよかったけど、攻撃力に乏しい。
剣術もそこそこ程度、全然達人のようにうまくならない。
おまけに俺はなにもしてないのに悪魔が召喚がされている!?
俺の前途多難な転生人生が始まったのだった。
※カクヨム、なろうでも掲載しています。
チート魅了スキルで始まる、美少女たちとの異世界ハーレム生活
仙道
ファンタジー
リメイク先:「視線が合っただけで美少女が俺に溺れる。異世界で最強のハーレムを作って楽に暮らす」
ごく普通の会社員だった佐々木健太は、異世界へ転移してして、あらゆる女性を無条件に魅了するチート能力を手にする。
彼はこの能力で、女騎士セシリア、ギルド受付嬢リリア、幼女ルナ、踊り子エリスといった魅力的な女性たちと出会い、絆を深めていく。
ブラック国家を制裁する方法は、性癖全開のハーレムを作ることでした。
タカハシヨウ
ファンタジー
ヴァン・スナキアはたった一人で世界を圧倒できる強さを誇り、母国ウィルクトリアを守る使命を背負っていた。
しかし国民たちはヴァンの威を借りて他国から財産を搾取し、その金でろくに働かずに暮らしている害悪ばかり。さらにはその歪んだ体制を維持するためにヴァンの魔力を受け継ぐ後継を求め、ヴァンに一夫多妻制まで用意する始末。
ヴァンは国を叩き直すため、あえてヴァンとは子どもを作れない異種族とばかり八人と結婚した。もし後継が生まれなければウィルクトリアは世界中から報復を受けて滅亡するだろう。生き残りたければ心を入れ替えてまともな国になるしかない。
激しく抵抗する国民を圧倒的な力でギャフンと言わせながら、ヴァンは愛する妻たちと甘々イチャイチャ暮らしていく。
幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕だけ別な場所に飛ばされた先は異世界の不思議な無人島だった。
アノマロカリス
ファンタジー
よくある話の異世界召喚…
スマホのネット小説や漫画が好きな少年、洲河 愽(すが だん)。
いつもの様に幼馴染達と学校帰りの公園でくっちゃべっていると地面に突然魔法陣が現れて…
気付くと愽は1人だけ見渡す限り草原の中に突っ立っていた。
愽は幼馴染達を探す為に周囲を捜索してみたが、一緒に飛ばされていた筈の幼馴染達は居なかった。
生きていればいつかは幼馴染達とまた会える!
愽は希望を持って、この不思議な無人島でサバイバル生活を始めるのだった。
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕の授かったスキルは役に立つものなのかな?」
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕は幼馴染達よりも強いジョブを手に入れて無双する!」
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕は魔王から力を授かり人類に対して牙を剥く‼︎」
幼馴染達と一緒に異世界召喚の第四弾。
愽は幼馴染達と離れた場所でサバイバル生活を送るというパラレルストーリー。
はたして愽は、無事に幼馴染達と再会を果たせるのだろうか?
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
S級クラフトスキルを盗られた上にパーティから追放されたけど、実はスキルがなくても生産力最強なので追放仲間の美少女たちと工房やります
内田ヨシキ
ファンタジー
[第5回ドラゴンノベルス小説コンテスト 最終選考作品]
冒険者シオンは、なんでも作れる【クラフト】スキルを奪われた上に、S級パーティから追放された。しかしシオンには【クラフト】のために培った知識や技術がまだ残されていた!
物作りを通して、新たな仲間を得た彼は、世界初の技術の開発へ着手していく。
職人ギルドから追放された美少女ソフィア。
逃亡中の魔法使いノエル。
騎士職を剥奪された没落貴族のアリシア。
彼女らもまた、一度は奪われ、失ったものを、物作りを通して取り戻していく。
カクヨムにて完結済み。
( https://kakuyomu.jp/works/16817330656544103806 )
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる