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凍てつく炭と、月下の剣舞
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迷宮市場の夜は早い。
魔導ランプの光が一つ、また一つと消え、昼間の喧騒が嘘のように静まり返ると、そこは闇と湿気が支配する別の顔を見せる。
地下特有の淀んだ空気。遠くで聞こえる魔物の唸り声のような風の音。
そして、獲物を狙う者の潜める息遣い。
レインは、自身の屋台『真実の匙』から少し離れた、崩れかけた石壁の影に身を潜めていた。
時刻は深夜2時を回っている。
手には調理用のナイフではなく、師匠の形見である岩塩の皮袋と、護身用の警棒が握られている。
(『次は火を消す』か……)
レインは脳裏で、昨夜見つけた脅迫状の文面を反芻していた。
単なる殺害予告なら、もっと直接的な言葉を選ぶはずだ。「殺す」や「首を洗って待て」といった具合に。
だが、奴らは「火を消す」と書いた。
料理人にとって、火は命だ。竈の火が消えれば、料理は作れない。だが、それ以上の意味が含まれている気がしてならなかった。
たとえば、調理中に火力が落ちればどうなるか。
生焼けの肉、芯の残った野菜、煮沸消毒されきっていないスープ。
それは客の腹を壊し、店の信用を失墜させる。物理的に屋台を破壊するよりも、料理人としてのレインを社会的に抹殺する、陰湿で効果的な手口だ。
(ヴォルク商会……あるいはそのバックにいる連中なら、やりかねない)
奴らは味よりも利益、客の健康よりも効率を優先する連中だ。
ならば、レインの屋台を潰すために選ぶ手段も、料理への冒涜に満ちたものになるだろう。
ふと、レインの鼻が微かな異臭を捉えた。
腐敗臭でも、市場のドブの臭いでもない。
もっと乾いた、灰のような、それでいて喉に張り付くような不快な粉っぽい臭い。
(……来たか)
レインは息を殺し、右目に神経を集中させた。
『異端の鑑定眼』が、暗闇の中に揺らめく二つの人影を捉える。
黒い作業着に身を包み、足音を忍ばせて屋台の裏手へと回り込む男たち。その動きは素人ではないが、プロの暗殺者というほど洗練されてもいない。市場のゴロツキ崩れといったところか。
男たちは屋台の裏に積んであった予備の燃料――『黒鉄炭』の麻袋に近づくと、懐から何かを取り出した。
灰色の粉が入った革袋だ。
レインの視界が、その粉の成分を瞬時に解析する。
――『氷結石の微粉末』。
――『酸素阻害剤』。
――『燃焼遅延触媒』。
(なるほどな……そう来たか)
レインは奥歯を噛み締めた。
あれは通称『死に火の粉』。
炭に混ぜておくと、着火した時は普通に燃えるが、温度が上がるにつれて化学反応を起こし、急激に熱を奪って立ち消えさせる代物だ。
もし気付かずにこれを使って調理すれば、ピークタイムの真っ只中に火が消える。あるいは、表面だけ焼けて中が生焼けという最悪の状態を作り出す。
客に食中毒を出させ、レインを「管理不足の無能料理人」として追放するシナリオだ。
「へっ、これであの生意気なガキも終わりだぜ」
「さっさと混ぜちまおう。明日の昼頃には、腹を下した客の苦情で店はパニックだ」
男たちが下卑た笑い声を押し殺し、炭の袋に粉を振りかけようとした、その瞬間。
「――料理の味付けにしちゃ、随分と無粋なスパイスだな」
レインは隠れ場所から姿を現した。
冷徹な声が、夜の闇に響き渡る。
「ッ!? 誰だ!」
男たちが弾かれたように振り返る。
レインは警棒を肩に担ぎ、ゆっくりと歩み寄った。魔導ランプの薄明かりに照らされたその瞳は、怒りよりも深い、絶対零度の侮蔑を湛えていた。
「この店のシェフだ。……あいにく、うちは隠し味に毒を使う趣味はないんでね。お引き取り願おうか」
「チッ、待ち伏せかよ……!」
実行犯の一人、大柄な男が舌打ちをし、懐からバタフライナイフを取り出した。
もう一人の小柄な男も、手にした粉袋を放り投げ、鉄パイプを構える。
「見られたからには仕方ねぇ。痛い目見てえのか、兄ちゃん?」
「火を消すついでに、テメェの口も利けなくしてやるよ!」
二対一。
武器を持った荒くれ者を相手にするには、分が悪い。
だが、レインは一歩も引かなかった。
背後にあるのは、ただの屋台ではない。自身の誇りと、明日訪れる客たちの笑顔を守るための城だ。
「やってみろ。……その鈍った身体で、俺に触れられるならな」
挑発に乗った実行犯Aが、雄叫びと共に突っ込んでくる。
大振りなナイフの一撃。
レインは『鑑定眼』で軌道を先読みし、最小限の動きでそれを躱(かわ)す。
鼻先を凶刃が掠める風圧。
すかさず警棒を叩き込もうとするが、相手も喧嘩慣れしている。レインの手首を狙って、逆の手で裏拳を放ってきた。
「ぐっ……!」
重い衝撃が走り、レインはたたらを踏んだ。
所詮、レインは料理人であり、戦闘のプロではない。動きを見切れても、身体能力で押し切られれば防ぎようがない。
「へっ、口ほどにもねぇ! 死にな!」
体勢を崩したレインの脳天目掛け、実行犯Bが鉄パイプを振り下ろす。
回避は間に合わない。
レインは反射的に腕を上げ、致命傷を避ける防御態勢を取った。
骨の一本や二本は覚悟する。だが、屋台だけは守り抜く――その執念だけが、彼の体を支えていた。
鉄塊が迫る。
死の感触が肌を粟立たせる。
その時だった。
キィィィィンッ――!
硬質な金属音が夜気を切り裂き、火花が散った。
レインの腕に衝撃は来ない。
代わりに、彼の目の前に、月光を纏った白百合が咲いていた。
「……私の気に入った店で、無粋な真似をするな」
凛とした声。
レインを背に庇い、鉄パイプを受け止めていたのは、一本の短剣だった。
流れるような銀髪が、夜風に煽られて美しく舞う。
白銀の軽鎧ではなく、今は動きやすい濃紺の夜着に身を包んでいるが、その佇まいは戦場にある騎士そのものだった。
「シ、シルヴィア……?」
「夜食のピザを買いに来たのだが……どうやら品切れどころか、閉店の危機だったようだな」
シルヴィア・ランカスター。
彼女は肩越しにレインにウィンクを送ると、手首を返して男の鉄パイプを弾き飛ばした。
その所作は優雅で、舞踏の一節のように洗練されている。
「な、なんだこの女!?」
「騎士だと……!?」
男たちが狼狽する。
シルヴィアは短剣を正眼に構え、冷ややかな視線で二人を射抜いた。
その瞳は、昼間の穏やかな蒼色ではない。絶対零度の氷原を映したような、冷徹な蒼。
月の光が彼女の美しい横顔を照らし出し、この世のものとは思えないほどの神々しさと、恐ろしさを演出していた。
「レイン、下がっていろ。……料理人に包丁以外の刃物は似合わない」
「言わせてくれるな。だが、相手は二人だぞ」
「問題ない。ゴミ掃除は騎士の務めではないが……害虫駆除なら話は別だ」
シルヴィアが地面を蹴った。
速い。
重装備の昼間とは比べ物にならない、疾風のような踏み込み。
実行犯が反応する間もなく、彼女の短剣が男のナイフを根元から叩き折る。
「ひっ!?」
「遅い」
返す刀で、柄頭を男の鳩尾に叩き込む。
ゴフッ、と空気を吐き出し、大男が白目を剥いて崩れ落ちた。
一撃。
無駄のない、完璧な制圧。
残された実行犯が、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。
「ば、化け物かよ……!」
「失敬な。レディに向かって化け物とは」
シルヴィアは微笑みすら浮かべていた。だが、その笑みは獲物を追い詰める捕食者のそれだ。
彼女はゆっくりと、しかし確実に男との間合いを詰めていく。
「さあ、どうする? その鉄くずを捨てて降伏するか、それとも私の剣の錆になるか。……どちらを選んでも、その薄汚い粉の正体と、依頼主の名前は吐いてもらうがな」
男は腰を抜かし、へたり込んだ。
戦意喪失。
圧倒的な実力差と、彼女が放つ「格」の違いに、魂ごとへし折られたのだ。
「す、すまねぇ! 俺たちはただ金で頼まれただけで……!」
「静粛に。言い訳は後でたっぷりと聞いてやる」
シルヴィアは鮮やかな手並みで、持っていたロープで男たちを拘束した。
そして、短剣を鞘に納めると、ふぅと小さく息を吐き、レインの方を振り返った。
「怪我はないか、レイン?」
先ほどまでの修羅のような気配は消え、そこには心配そうに眉を下げる、一人の美しい女性の姿があった。
月光に透ける銀髪を耳にかき上げる仕草が、不意にレインの胸を高鳴らせる。
「ああ……おかげで助かった。いいタイミングだったな」
「たまたまだ。……本当に、たまたま夜風に当たりたくて散歩をしていたら、君の屋台の方から不穏な気配がしたのでな」
「散歩にしては、随分と物騒なものを持ってるんだな」
レインが彼女の腰の短剣を指差すと、シルヴィアはばつの悪そうに視線を泳がせた。
「こ、これは護身用だ! 乙女の夜道は危険がいっぱいだからな!」
「へぇ。……ま、そういうことにしておくよ」
レインは苦笑し、懐からハンカチを取り出すと、シルヴィアの頬についていた小さな煤汚れを拭った。
「っ……!?」
シルヴィアがビクリと肩を震わせ、瞬時に顔を真っ赤にする。
戦場では無双の強さを誇る騎士が、こんな些細な接触で初心な反応を見せる。そのギャップが、レインには何とも言えず愛らしく思えた。
「汚れてたぞ。……ありがとう、シルヴィア。あんたがいなきゃ、今頃俺の頭はカチ割れてた」
「う、うむ……。君が無事なら、それでいい……」
シルヴィアはハンカチ越しに頬を押さえ、俯いてしまった。
その耳まで赤く染まっているのを、月明かりは隠してくれない。
レインは視線を転じ、縛り上げられた二人の男と、地面に散らばった灰色の粉を見た。
危機は去った。
だが、これは始まりに過ぎない。
「さて……」
レインの声色が、再び冷徹なものに戻る。
彼は男たちの前にしゃがみ込み、『鑑定眼』をギラリと光らせた。
「洗い浚い吐いてもらおうか。誰に頼まれたのか。そして、この『死に火の粉』をどこで手に入れたのか」
男たちは震え上がり、縋るような目でシルヴィアを見たが、彼女もまた氷の聖騎士の顔に戻り、冷ややかに見下ろしているだけだった。
「さあ、尋問の時間だ」
夜の市場に、レインの静かな怒りが満ちていく。
襲撃者たちの口から語られる真実は、レインたちを更なる闇の深淵へと導くことになるだろう。
そしてその陰には、まだ見ぬ協力者――科学の力で真実を解き明かす、あの錬金術師の出番が待っていた。
魔導ランプの光が一つ、また一つと消え、昼間の喧騒が嘘のように静まり返ると、そこは闇と湿気が支配する別の顔を見せる。
地下特有の淀んだ空気。遠くで聞こえる魔物の唸り声のような風の音。
そして、獲物を狙う者の潜める息遣い。
レインは、自身の屋台『真実の匙』から少し離れた、崩れかけた石壁の影に身を潜めていた。
時刻は深夜2時を回っている。
手には調理用のナイフではなく、師匠の形見である岩塩の皮袋と、護身用の警棒が握られている。
(『次は火を消す』か……)
レインは脳裏で、昨夜見つけた脅迫状の文面を反芻していた。
単なる殺害予告なら、もっと直接的な言葉を選ぶはずだ。「殺す」や「首を洗って待て」といった具合に。
だが、奴らは「火を消す」と書いた。
料理人にとって、火は命だ。竈の火が消えれば、料理は作れない。だが、それ以上の意味が含まれている気がしてならなかった。
たとえば、調理中に火力が落ちればどうなるか。
生焼けの肉、芯の残った野菜、煮沸消毒されきっていないスープ。
それは客の腹を壊し、店の信用を失墜させる。物理的に屋台を破壊するよりも、料理人としてのレインを社会的に抹殺する、陰湿で効果的な手口だ。
(ヴォルク商会……あるいはそのバックにいる連中なら、やりかねない)
奴らは味よりも利益、客の健康よりも効率を優先する連中だ。
ならば、レインの屋台を潰すために選ぶ手段も、料理への冒涜に満ちたものになるだろう。
ふと、レインの鼻が微かな異臭を捉えた。
腐敗臭でも、市場のドブの臭いでもない。
もっと乾いた、灰のような、それでいて喉に張り付くような不快な粉っぽい臭い。
(……来たか)
レインは息を殺し、右目に神経を集中させた。
『異端の鑑定眼』が、暗闇の中に揺らめく二つの人影を捉える。
黒い作業着に身を包み、足音を忍ばせて屋台の裏手へと回り込む男たち。その動きは素人ではないが、プロの暗殺者というほど洗練されてもいない。市場のゴロツキ崩れといったところか。
男たちは屋台の裏に積んであった予備の燃料――『黒鉄炭』の麻袋に近づくと、懐から何かを取り出した。
灰色の粉が入った革袋だ。
レインの視界が、その粉の成分を瞬時に解析する。
――『氷結石の微粉末』。
――『酸素阻害剤』。
――『燃焼遅延触媒』。
(なるほどな……そう来たか)
レインは奥歯を噛み締めた。
あれは通称『死に火の粉』。
炭に混ぜておくと、着火した時は普通に燃えるが、温度が上がるにつれて化学反応を起こし、急激に熱を奪って立ち消えさせる代物だ。
もし気付かずにこれを使って調理すれば、ピークタイムの真っ只中に火が消える。あるいは、表面だけ焼けて中が生焼けという最悪の状態を作り出す。
客に食中毒を出させ、レインを「管理不足の無能料理人」として追放するシナリオだ。
「へっ、これであの生意気なガキも終わりだぜ」
「さっさと混ぜちまおう。明日の昼頃には、腹を下した客の苦情で店はパニックだ」
男たちが下卑た笑い声を押し殺し、炭の袋に粉を振りかけようとした、その瞬間。
「――料理の味付けにしちゃ、随分と無粋なスパイスだな」
レインは隠れ場所から姿を現した。
冷徹な声が、夜の闇に響き渡る。
「ッ!? 誰だ!」
男たちが弾かれたように振り返る。
レインは警棒を肩に担ぎ、ゆっくりと歩み寄った。魔導ランプの薄明かりに照らされたその瞳は、怒りよりも深い、絶対零度の侮蔑を湛えていた。
「この店のシェフだ。……あいにく、うちは隠し味に毒を使う趣味はないんでね。お引き取り願おうか」
「チッ、待ち伏せかよ……!」
実行犯の一人、大柄な男が舌打ちをし、懐からバタフライナイフを取り出した。
もう一人の小柄な男も、手にした粉袋を放り投げ、鉄パイプを構える。
「見られたからには仕方ねぇ。痛い目見てえのか、兄ちゃん?」
「火を消すついでに、テメェの口も利けなくしてやるよ!」
二対一。
武器を持った荒くれ者を相手にするには、分が悪い。
だが、レインは一歩も引かなかった。
背後にあるのは、ただの屋台ではない。自身の誇りと、明日訪れる客たちの笑顔を守るための城だ。
「やってみろ。……その鈍った身体で、俺に触れられるならな」
挑発に乗った実行犯Aが、雄叫びと共に突っ込んでくる。
大振りなナイフの一撃。
レインは『鑑定眼』で軌道を先読みし、最小限の動きでそれを躱(かわ)す。
鼻先を凶刃が掠める風圧。
すかさず警棒を叩き込もうとするが、相手も喧嘩慣れしている。レインの手首を狙って、逆の手で裏拳を放ってきた。
「ぐっ……!」
重い衝撃が走り、レインはたたらを踏んだ。
所詮、レインは料理人であり、戦闘のプロではない。動きを見切れても、身体能力で押し切られれば防ぎようがない。
「へっ、口ほどにもねぇ! 死にな!」
体勢を崩したレインの脳天目掛け、実行犯Bが鉄パイプを振り下ろす。
回避は間に合わない。
レインは反射的に腕を上げ、致命傷を避ける防御態勢を取った。
骨の一本や二本は覚悟する。だが、屋台だけは守り抜く――その執念だけが、彼の体を支えていた。
鉄塊が迫る。
死の感触が肌を粟立たせる。
その時だった。
キィィィィンッ――!
硬質な金属音が夜気を切り裂き、火花が散った。
レインの腕に衝撃は来ない。
代わりに、彼の目の前に、月光を纏った白百合が咲いていた。
「……私の気に入った店で、無粋な真似をするな」
凛とした声。
レインを背に庇い、鉄パイプを受け止めていたのは、一本の短剣だった。
流れるような銀髪が、夜風に煽られて美しく舞う。
白銀の軽鎧ではなく、今は動きやすい濃紺の夜着に身を包んでいるが、その佇まいは戦場にある騎士そのものだった。
「シ、シルヴィア……?」
「夜食のピザを買いに来たのだが……どうやら品切れどころか、閉店の危機だったようだな」
シルヴィア・ランカスター。
彼女は肩越しにレインにウィンクを送ると、手首を返して男の鉄パイプを弾き飛ばした。
その所作は優雅で、舞踏の一節のように洗練されている。
「な、なんだこの女!?」
「騎士だと……!?」
男たちが狼狽する。
シルヴィアは短剣を正眼に構え、冷ややかな視線で二人を射抜いた。
その瞳は、昼間の穏やかな蒼色ではない。絶対零度の氷原を映したような、冷徹な蒼。
月の光が彼女の美しい横顔を照らし出し、この世のものとは思えないほどの神々しさと、恐ろしさを演出していた。
「レイン、下がっていろ。……料理人に包丁以外の刃物は似合わない」
「言わせてくれるな。だが、相手は二人だぞ」
「問題ない。ゴミ掃除は騎士の務めではないが……害虫駆除なら話は別だ」
シルヴィアが地面を蹴った。
速い。
重装備の昼間とは比べ物にならない、疾風のような踏み込み。
実行犯が反応する間もなく、彼女の短剣が男のナイフを根元から叩き折る。
「ひっ!?」
「遅い」
返す刀で、柄頭を男の鳩尾に叩き込む。
ゴフッ、と空気を吐き出し、大男が白目を剥いて崩れ落ちた。
一撃。
無駄のない、完璧な制圧。
残された実行犯が、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。
「ば、化け物かよ……!」
「失敬な。レディに向かって化け物とは」
シルヴィアは微笑みすら浮かべていた。だが、その笑みは獲物を追い詰める捕食者のそれだ。
彼女はゆっくりと、しかし確実に男との間合いを詰めていく。
「さあ、どうする? その鉄くずを捨てて降伏するか、それとも私の剣の錆になるか。……どちらを選んでも、その薄汚い粉の正体と、依頼主の名前は吐いてもらうがな」
男は腰を抜かし、へたり込んだ。
戦意喪失。
圧倒的な実力差と、彼女が放つ「格」の違いに、魂ごとへし折られたのだ。
「す、すまねぇ! 俺たちはただ金で頼まれただけで……!」
「静粛に。言い訳は後でたっぷりと聞いてやる」
シルヴィアは鮮やかな手並みで、持っていたロープで男たちを拘束した。
そして、短剣を鞘に納めると、ふぅと小さく息を吐き、レインの方を振り返った。
「怪我はないか、レイン?」
先ほどまでの修羅のような気配は消え、そこには心配そうに眉を下げる、一人の美しい女性の姿があった。
月光に透ける銀髪を耳にかき上げる仕草が、不意にレインの胸を高鳴らせる。
「ああ……おかげで助かった。いいタイミングだったな」
「たまたまだ。……本当に、たまたま夜風に当たりたくて散歩をしていたら、君の屋台の方から不穏な気配がしたのでな」
「散歩にしては、随分と物騒なものを持ってるんだな」
レインが彼女の腰の短剣を指差すと、シルヴィアはばつの悪そうに視線を泳がせた。
「こ、これは護身用だ! 乙女の夜道は危険がいっぱいだからな!」
「へぇ。……ま、そういうことにしておくよ」
レインは苦笑し、懐からハンカチを取り出すと、シルヴィアの頬についていた小さな煤汚れを拭った。
「っ……!?」
シルヴィアがビクリと肩を震わせ、瞬時に顔を真っ赤にする。
戦場では無双の強さを誇る騎士が、こんな些細な接触で初心な反応を見せる。そのギャップが、レインには何とも言えず愛らしく思えた。
「汚れてたぞ。……ありがとう、シルヴィア。あんたがいなきゃ、今頃俺の頭はカチ割れてた」
「う、うむ……。君が無事なら、それでいい……」
シルヴィアはハンカチ越しに頬を押さえ、俯いてしまった。
その耳まで赤く染まっているのを、月明かりは隠してくれない。
レインは視線を転じ、縛り上げられた二人の男と、地面に散らばった灰色の粉を見た。
危機は去った。
だが、これは始まりに過ぎない。
「さて……」
レインの声色が、再び冷徹なものに戻る。
彼は男たちの前にしゃがみ込み、『鑑定眼』をギラリと光らせた。
「洗い浚い吐いてもらおうか。誰に頼まれたのか。そして、この『死に火の粉』をどこで手に入れたのか」
男たちは震え上がり、縋るような目でシルヴィアを見たが、彼女もまた氷の聖騎士の顔に戻り、冷ややかに見下ろしているだけだった。
「さあ、尋問の時間だ」
夜の市場に、レインの静かな怒りが満ちていく。
襲撃者たちの口から語られる真実は、レインたちを更なる闇の深淵へと導くことになるだろう。
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戦わない、争わない。
ただ、ごはんを作って、今日をちゃんと暮らすだけ。
ほんわか天然な世話係と子供たちの日常を描く、
やさしい異世界孤児院ファンタジー。
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