実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない 〜定時で帰りたいので、

ken

文字の大きさ
41 / 43
第4章:世界を救って定時で帰る

第41話 緊急招集命令

しおりを挟む
 木曜日の早朝。午前5時。
 未曾有の『スタンピード』の予兆が観測されてから、一夜が明けた。

 東京の空は、鉛色の重たい雲に覆われていた。
 空気中に漂う魔素の濃度が濃くなり、肌にチリチリとした静電気のような刺激を感じる。
 街全体が、来るべき破滅を予感して息を潜めているような、不気味な静寂に包まれている。

 だが、ここアパート『ひまわり荘』203号室のキッチンだけは、別の種類の緊張感――極めて職人的で、芳醇な空気に支配されていた。

「……温度よし。バターの硬さ、よし」

 俺は、冷え切ったステンレスの作業台に向かい、真剣な眼差しで生地と対峙していた。
 世界がどうなろうと、俺の朝のルーティンは変わらない。
 いや、これから訪れるであろう修羅場を乗り切るためにも、今日の朝食は完璧でなければならない。

「今日は『究極のクロワッサン』を焼く」

 昨夜のうちに仕込んでおいたデニッシュ生地。
 フランス産の発酵バターを贅沢に使い、強力粉と準強力粉を独自の比率でブレンドした俺の自信作だ。
 冷蔵庫で一晩低温発酵させた生地は、赤ちゃんの肌のように滑らかで、指で押すとゆっくりと戻ってくる弾力を持っている。

 打ち粉を振る。
 麺棒を当てる。

 トン、トン、スーッ。

 力を入れすぎず、生地のガスを均一に抜きながら長方形に伸ばしていく。
 そして、シート状にした冷たいバターを中央に置く。
 ここからが勝負だ。
 生地でバターを包み込み、伸ばしては折り、伸ばしては折る。

 『三つ折り』を繰り返すことで、生地とバターが交互に重なる層を作るのだ。

「バターを溶かすな。生地と一体化させるな。……層を残せ」

 俺は呪文のように呟きながら、手早く作業を進める。
 室温が高いとバターが溶けて生地に染み込んでしまい、パンのような食感になってしまう。
 逆に冷やしすぎるとバターが割れて層が崩れる。
 そのギリギリの境界線を見極める。

 折り込み回数は3回。
 計算上、27層のバターと生地のレイヤーが生まれる。これが、焼いた時のあのサクサク感を生むのだ。

 生地を三角形に切り分ける。
 底辺を持って、クルクルと巻いていく。
 適度な緩みを持たせつつ、形を整える。美しい三日月型が並ぶ。

 これを天板に並べ、最終発酵へ。
 ふっくらと二倍の大きさに膨らんだところで、表面に卵液を塗る。

「行ってこい」

 予熱したオーブンへ投入。
 210度の高温で一気に焼き上げる。

 ……数分後。

 キッチンからリビング、そしてアパート全体へと、暴力的なまでに甘く、香ばしい香りが拡散した。
 焦げたバターの香りと、小麦の焼ける匂い。
 それは、どんな魔獣の誘惑スキルよりも強力な、本能を揺さぶる香りだった。

「……んんぅ……いい匂い……」

 リビングで雑魚寝していた美女たちが、ゾンビのように起き上がり始めた。
 寝癖のついた髪のまま、鼻をヒクヒクさせてキッチンに集まってくる。

「おはよう、悠作。……なにこれ、朝からテロ?」

 みのりが目を擦りながら文句を言うが、その目はオーブンに釘付けだ。

「師匠~、お腹空いた~。バターの匂いで目が覚めたし」

 ゆき子がヨガマットから這い出してくる。

「焼き上がったぞ」

 俺はオーブンを開けた。
 熱気と共に、黄金色の宝石たちが姿を現す。
 表面はパリパリに焼け、美しい層のラインが浮き出ている。
 網に乗せると、パチパチ……と小さな音がした。

 『パンが歌っている』。

 内部の水分が蒸発し、クラストが落ち着く時に発する、成功の証だ。

「飲み物はこれだ」

 俺は冷蔵庫から、キリッと冷えたボトルを取り出した。
 朝から酒か、というツッコミは受け付けない。
 これはフランス・アルザス地方の『ゲヴュルツトラミネール』。
 ライチやバラのような華やかな香りを持ち、スパイシーでコクのある白ワインだ。

「バターたっぷりのクロワッサンには、酸味よりも香りとコクのある白が合うんだ」

 グラスに注ぐ。
 黄金色の液体が、朝の光を受けて輝く。

「「「いただきます!!」」」

 全員が一斉に手を伸ばす。
 まだ熱いクロワッサンを指先で摘む。
 軽い。空気を含んで、羽のように軽い。

 ガブッ。

 サクッ……ハラハラハラッ!

 部屋中に響く、軽快で小気味よい破砕音。
 噛んだ瞬間、何十層にも重なった薄い生地が弾け飛び、中から濃厚なバターの香気が噴き出す。

「……んん~っ!!」

 すずが頬を押さえて悶絶した。

「サクサクです! なのに中はしっとりモチモチ……! 噛むたびにバターがジュワッと染み出してきます!」

「ヤバい! 師匠、これ今までで一番かも! 軽すぎて無限に食える!」

 ゆき子が次々と口に放り込む。

 しずかも真剣な顔で断面を観察している。

「……見事な蜂の巣構造ね。気泡が均一に入っているわ。この空気が断熱材となって、口の中で熱と香りを爆発させるのね」

 相変わらず分析が物理的だが、気に入ったようだ。

 そして、白ワインを一口。
 フルーティーでスパイシーなワインが、口の中に残ったバターの油分を洗い流しつつ、香りをさらに増幅させる。

「はぁ……。最高」

 みのりがグラスを傾け、幸せそうな溜息をついた。

「外はスタンピードだなんだって大騒ぎだけど、ここだけ別世界ね。……もう、仕事行きたくない」

「行かなくていいなら俺も行きたくない」

 俺もクロワッサンを齧り、苦笑した。
 足元では、小型サイズのポチが、自分用のクロワッサンを前足で器用に押さえて食べている。
 サクサクと音を立てるたびに、尻尾がメトロノームのように揺れる。

 平和だ。
 嵐の前の静けさだとしても、この朝食の時間は誰にも邪魔させない。

 ――だが。

 世界は、俺たちの朝食が終わるのを待ってはくれなかった。

 ウゥゥゥゥゥゥゥゥ――ッ!!

 突如、不快なサイレンの音が街中に響き渡った。
 エリアメールの着信音が、全員のスマホから一斉に鳴り響く。
 不協和音。

「……来たわね」

 みのりの顔から、緩みきった表情が一瞬で消えた。
 彼女はスマホを確認し、厳しい声で告げた。

「緊急警報発令。東京大迷宮にてスタンピードの発生を確認。……レベル5。災害級よ」

 同時に、テレビの画面が緊急ニュースに切り替わった。
 ヘリコプターからの映像。
 ダンジョンの入り口から、黒い煙のようなものが噴き出し、そこから無数の魔物が溢れ出してくる様子が映し出されている。

『繰り返します。探索者協会本部より、緊急招集命令です』

 アナウンサーの声が裏返っている。

『首都圏に在住するC級以上の全探索者は、直ちに指定の防衛ラインへ向かってください。これは演習ではありません。繰り返します、これは演習ではありません』

 部屋の空気が凍りついた。
 ジークが立ち上がり、ジャケットを羽織る。
 しずかがコンテナを背負う。
 すずとゆき子も、覚悟を決めた目つきに変わる。

「行きましょう。……私たちが止めなければ、街が飲み込まれます」
「師匠! 行くっしょ! ポチの背中に乗ればすぐだよ!」

 全員の視線が俺に集まる。
 S級探索者、鈴木悠作。
 この場の最強戦力。俺が動かなければ、防衛線は崩壊するだろう。

 だが。
 俺は最後のクロワッサンを口に放り込み、ワインを飲み干すと、ふぅと息を吐いて言った。

「……悪いが、俺はパスだ」

「はぁ!?」

 全員がひっくり返った。
 みのりが鬼の形相で詰め寄ってくる。

「あんた何言ってんの!? S級よ!? 義務よ!? 拒否権なんてないわよ!」
「いや、だって……」

 俺は足元を指差した。
 そこには、リードをくわえて期待に満ちた目で俺を見上げているポチがいた。

「ポチの散歩の時間なんだよ」

「はあああああああああ!?」

 絶叫が響く。
 俺は真顔で続けた。

「日課なんだ。これを欠かすとポチの機嫌が悪くなるし、運動不足は健康に悪い。それに、今日は『あっちの公園』まで行くって約束したんだ」
「今そんなこと言ってる場合!?」
「それに、まだ洗濯物も取り込んでないし、夕飯の仕込みも……」

「ええい、うるさい!!」

 みのりがキレた。
 彼女は俺の襟首を掴み、力任せに引きずり出した。

「散歩なら戦場でさせなさい! 魔物を追いかけ回せばいい運動になるでしょ! 洗濯物は五右衛門に入れなさい!」
「ちょ、おい、服が伸びる!」

 俺は抵抗を試みるが、ジークとしずかも加勢してくる。

「師匠! 往生際が悪いですぞ! 武人として戦場が呼んでいます!」
「悠作、諦めなさい。貴方の力が必要なの」

 両脇をS級二人に抱えられ、俺は宙に浮いた。
 ポチも「散歩! 散歩!」と嬉しそうについてくる。こいつ、戦場をドッグランだと思ってないか?

「ああもう! わかった、わかったよ!」

 俺は観念して叫んだ。

「行くよ! 行けばいいんだろ! その代わり、残業手当は弾んでもらうからな!」
「はいはい、特別報酬でも何でも申請してあげるから!」

 みのりが玄関ドアを蹴り開ける。
 外はサイレンと悲鳴が入り混じるカオスだ。
 だが、不思議と恐怖はなかった。
 俺の周りには、頼もしい仲間たちがいる。
 そして何より、腹には最高のクロワッサンが詰まっている。

「……出勤だ。定時までに片付けるぞ」

 俺は五右衛門を展開した。
 ポチが光に包まれ、巨大なフェンリルの姿へと変わる。
 俺たちはその背中に飛び乗り、黒煙が立ち上るダンジョンの方角へと飛び出した。

 世界を救うための、ただの「お仕事」が始まった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

覚悟は良いですか、お父様? ―虐げられた娘はお家乗っ取りを企んだ婿の父とその愛人の娘である異母妹をまとめて追い出す―

Erin
恋愛
【完結済・全3話】伯爵令嬢のカメリアは母が死んだ直後に、父が屋敷に連れ込んだ愛人とその子に虐げられていた。その挙句、カメリアが十六歳の成人後に継ぐ予定の伯爵家から追い出し、伯爵家の血を一滴も引かない異母妹に継がせると言い出す。後を継がないカメリアには嗜虐趣味のある男に嫁がられることになった。絶対に父たちの言いなりになりたくないカメリアは家を出て復讐することにした。7/6に最終話投稿予定。

転移術士の成り上がり

名無し
ファンタジー
 ベテランの転移術士であるシギルは、自分のパーティーをダンジョンから地上に無事帰還させる日々に至上の喜びを得ていた。ところが、あることがきっかけでメンバーから無能の烙印を押され、脱退を迫られる形になる。それがのちに陰謀だと知ったシギルは激怒し、パーティーに対する復讐計画を練って実行に移すことになるのだった。

治療院の聖者様 ~パーティーを追放されたけど、俺は治療院の仕事で忙しいので今さら戻ってこいと言われてももう遅いです~

大山 たろう
ファンタジー
「ロード、君はこのパーティーに相応しくない」  唐突に主人公:ロードはパーティーを追放された。  そして生計を立てるために、ロードは治療院で働くことになった。 「なんで無詠唱でそれだけの回復ができるの!」 「これぐらいできないと怒鳴られましたから......」  一方、ロードが追放されたパーティーは、だんだんと崩壊していくのだった。  これは、一人の少年が幸せを送り、幸せを探す話である。 ※小説家になろう様でも連載しております。 2021/02/12日、完結しました。

料理の上手さを見込まれてモフモフ聖獣に育てられた俺は、剣も魔法も使えず、一人ではドラゴンくらいしか倒せないのに、聖女や剣聖たちから溺愛される

向原 行人
ファンタジー
母を早くに亡くし、男だらけの五人兄弟で家事の全てを任されていた長男の俺は、気付いたら異世界に転生していた。 アルフレッドという名の子供になっていたのだが、山奥に一人ぼっち。 普通に考えて、親に捨てられ死を待つだけという、とんでもないハードモード転生だったのだが、偶然通りかかった人の言葉を話す聖獣――白虎が現れ、俺を育ててくれた。 白虎は食べ物の獲り方を教えてくれたので、俺は前世で培った家事の腕を振るい、調理という形で恩を返す。 そんな毎日が十数年続き、俺がもうすぐ十六歳になるという所で、白虎からそろそろ人間の社会で生きる様にと言われてしまった。 剣も魔法も使えない俺は、少しだけ使える聖獣の力と家事能力しか取り柄が無いので、とりあえず異世界の定番である冒険者を目指す事に。 だが、この世界では職業学校を卒業しないと冒険者になれないのだとか。 おまけに聖獣の力を人前で使うと、恐れられて嫌われる……と。 俺は聖獣の力を使わずに、冒険者となる事が出来るのだろうか。 ※第○話:主人公視点  挿話○:タイトルに書かれたキャラの視点  となります。

無能な勇者はいらないと辺境へ追放されたのでチートアイテム【ミストルティン】を使って辺境をゆるりと開拓しようと思います

長尾 隆生
ファンタジー
仕事帰りに怪しげな占い師に『この先不幸に見舞われるが、これを持っていれば幸せになれる』と、小枝を500円で押し売りされた直後、異世界へ召喚されてしまうリュウジ。 しかし勇者として召喚されたのに、彼にはチート能力も何もないことが鑑定によって判明する。 途端に手のひらを返され『無能勇者』というレッテルを貼られずさんな扱いを受けた上に、一方的にリュウジは凶悪な魔物が住む地へ追放されてしまう。 しかしリュウジは知る。あの胡散臭い占い師に押し売りされた小枝が【ミストルティン】という様々なアイテムを吸収し、その力を自由自在に振るうことが可能で、更に経験を積めばレベルアップしてさらなる強力な能力を手に入れることが出来るチートアイテムだったことに。 「ミストルティン。アブソープション!」 『了解しましたマスター。レベルアップして新しいスキルを覚えました』 「やった! これでまた便利になるな」   これはワンコインで押し売りされた小枝を手に異世界へ突然召喚され無能とレッテルを貼られた男が幸せを掴む物語。 ~ワンコインで買った万能アイテムで幸せな人生を目指します~

「これは私ですが、そちらは私ではありません」

イチイ アキラ
恋愛
試験結果が貼り出された朝。 その掲示を見に来ていたマリアは、王子のハロルドに指をつきつけられ、告げられた。 「婚約破棄だ!」 と。 その理由は、マリアが試験に不正をしているからだという。 マリアの返事は…。 前世がある意味とんでもないひとりの女性のお話。

神様に与えられたのは≪ゴミ≫スキル。家の恥だと勘当されたけど、ゴミなら何でも再生出来て自由に使えて……ゴミ扱いされてた古代兵器に懐かれました

向原 行人
ファンタジー
 僕、カーティスは由緒正しき賢者の家系に生まれたんだけど、十六歳のスキル授与の儀で授かったスキルは、まさかのゴミスキルだった。  実の父から家の恥だと言われて勘当され、行く当ても無く、着いた先はゴミだらけの古代遺跡。  そこで打ち捨てられていたゴミが話し掛けてきて、自分は古代兵器で、助けて欲しいと言ってきた。  なるほど。僕が得たのはゴミと意思疎通が出来るスキルなんだ……って、嬉しくないっ!  そんな事を思いながらも、話し込んでしまったし、連れて行ってあげる事に。  だけど、僕はただゴミに協力しているだけなのに、どこかの国の騎士に襲われたり、変な魔法使いに絡まれたり、僕を家から追い出した父や弟が現れたり。  どうして皆、ゴミが欲しいの!? ……って、あれ? いつの間にかゴミスキルが成長して、ゴミの修理が出来る様になっていた。  一先ず、いつも一緒に居るゴミを修理してあげたら、見知らぬ銀髪美少女が居て……って、どういう事!? え、こっちが本当の姿なの!? ……とりあえず服を着てっ!  僕を命の恩人だって言うのはさておき、ご奉仕するっていうのはどういう事……え!? ちょっと待って! それくらい自分で出来るからっ!  それから、銀髪美少女の元仲間だという古代兵器と呼ばれる美少女たちに狙われ、返り討ちにして、可哀想だから修理してあげたら……僕についてくるって!?  待って! 僕に奉仕する順番でケンカするとか、訳が分かんないよっ! ※第○話:主人公視点  挿話○:タイトルに書かれたキャラの視点  となります。

追放された私の代わりに入った女、三日で国を滅ぼしたらしいですよ?

タマ マコト
ファンタジー
王国直属の宮廷魔導師・セレス・アルトレイン。 白銀の髪に琥珀の瞳を持つ、稀代の天才。 しかし、その才能はあまりに“美しすぎた”。 王妃リディアの嫉妬。 王太子レオンの盲信。 そして、セレスを庇うはずだった上官の沈黙。 「あなたの魔法は冷たい。心がこもっていないわ」 そう言われ、セレスは**『無能』の烙印**を押され、王国から追放される。 彼女はただ一言だけ残した。 「――この国の炎は、三日で尽きるでしょう。」 誰もそれを脅しとは受け取らなかった。 だがそれは、彼女が未来を見通す“預言魔法”の言葉だったのだ。

処理中です...