ロスト・ファンタジスタ

ken

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第5話 死の組と、テキーラの洗礼

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 居酒屋『酒処・蒼』を出ると、八王子の夜風は驚くほど冷たかった。
 宴の熱気で火照った身体には心地よいが、ボロボロの両膝にとっては、湿り気を帯びた寒気は微かな疼きを誘発する。入坂悠作は、190センチの長身を少しだけ丸めるようにして、隣を歩く親友、京滝菊雄に視線を落とした。

「……瑞穂さんたち、まだ飲むつもりだったな。あのままいたら、明日まで帰してもらえなかった」

「瑞穂社長も館谷さんも、ああ見えて底なしだからな。あの美人二人に囲まれて飲めるなんて、アズーロの連中に言わせりゃ天国だろうが、俺たちはもっと静かに、最悪な話を始めなきゃいけねえだろ?」

 菊雄は、2009年当時の流行りだった派手なブランドのダウンジャケットの襟を立て、慣れた足取りで角の路地を曲がった。
 向かったのは、駅から少し離れた場所にあるスポーツバー『The Pitch』だ。店内は、アズーロの引退試合の熱気を引きずったままの客や、深夜から始まる「運命の瞬間」を待つフットボールジャンキーたちで溢れ、落ち着かない空気が充満していた。

 二人はカウンターの隅に腰を下ろした。
 悠作は、先ほど店を出る間際まで、文字通り山のような鶏のから揚げを詰め込んでいた谷車一郎の姿を思い出していた。

「なあ、菊雄。あんなに無理やり食わせて、一郎のやつ、腹を壊してなきゃいいんだが。あいつ、ああ見えて繊細なところがあるからな」

「はっ、心配しすぎだ。あいつはな、悠作……お前が思ってるよりずっと『怪物』だぜ。胃袋が悲鳴を上げてる時、あいつの目は笑ってた。自分の肉体を改造して、一秒でも早くお前の領域にたどり着こうって必死なんだ。あいつにとっての食育は、立派なプロの洗礼だよ」

 菊雄は、どこか誇らしげに教え子のことを語った。
 悠作はそれを聞き、改めて一郎という少年の特異性を噛み締める。
 一郎は単なる「上手い選手」ではない。悠作が持つインテリジェンスと、菊雄が持つな野性を、同時に吸収しようとする貪欲な「苗床」なのだ。
 そして何より、菊雄が自分のシーズンオフを削ってまで八王子に留まり、あの中学生に目をかけている理由。それは、菊雄もまた、自分の後継者として一郎を認めているからに他ならなかった。

「……お前、あいつに夢を見てるだろ」

「夢? 冗談じゃねえ。俺が見るのは、次の試合のハットトリックと、通帳に振り込まれる年俸の数字だけだ」

 菊雄は吐き捨てるように言ったが、その瞳には隠しきれない熱が宿っていた。

 店内の大型モニターに、ネクタイを締めたFIFAの役員たちが映し出された。
 2010年W杯南アフリカ大会、組み合わせ抽選会。
 2009年12月5日。この夜、世界中のフットボールファンが、自分たちの国がどの地獄に叩き落とされるかを見届けるために息を呑んでいた。

 ポット1の強豪国が次々と各グループに振り分けられていく。
 ブラジル、スペイン、イタリア……。
 名前が出るたびに、店内の客たちの反応が一段ずつ重くなっていく。まるで処刑台に向かう足音が近づいてくるかのような、じりじりとした緊張感。

 そして、運命の瞬間が訪れた。
 プレゼンターが引いたボールから、日本の文字が現れる。

『グループE。オランダ、カメルーン、デンマーク。そして……日本』

 アナウンスが流れた瞬間、スポーツバーの喧騒が嘘のように消えた。
 誰かが「嘘だろ……」と力なく呟く。
 無敵艦隊を擁するオランダ。エトーという世界最強のストライカーが君臨するカメルーン。そして北欧の堅守・デンマーク。
 それは、当時の日本サッカー界にとって、まさに「死の組」以外の何物でもなかった。

「……地獄だな、こりゃ」

 菊雄が、空気を読まずにカウンターを叩いた。

「マスター! テキーラ。ショットで二つ。景気付けに一番強いのを頼むわ!」

「おい、菊雄。俺は酒に弱いって知ってるだろ……」

 悠作の制止も虚しく、目の前には透明な、しかし殺意すら感じる芳香を放つ液体が並べられた。
 菊雄は躊躇なく一杯を煽る。

「引退祝いだろ。この絶望的な抽選結果と一緒に飲み下せ!」

 悠作は覚悟を決め、グラスを口にした。
 喉が焼けるような感覚。胃の底から熱い塊がせり上がってくる。
 世界一の才能を持っていても、アルコールを分解する肝臓の能力だけは人並み、いや人並み以下だった。

「ごふっ……ひどい味だ」

「ははは! 魔法使いもテキーラには勝てねえか!」

 マスターが「これでも飲んどけ」と、チェイサーとしてジンジャーエールを出してくれたが、同時に「お口直しにな」とテキーラの瓶までカウンターに置かれた。追い打ちだ。

 菊雄が、折りたたみ式のガラケーを取り出し、画面を悠作に向けた。

「ほら、瞳からだ。飲み会に出られなかったからって、動画を送ってきやがった」

 画面の中で、美人看護師、京滝瞳が、1歳の博人を膝に抱いて笑っていた。

『悠作、引退おめでとう。本当にお疲れ様。……でも、さっきの試合の後半40分のプレス! あれ何? 膝をかばって、一歩目が完全に遅れてたじゃない。あんなの、私の病院の入院患者さんの方がまだいい反応するわよ。反省しなさい。……ほら、博人も何か言いなさい』

 瞳の相変わらずの辛辣な説教に、悠作は苦笑いする。
 だが、その直後、瞳に促された博人が、カメラに向かって「ぱー!」と声を上げ、小さな手で不器用なVサインを作った。アズーロのベビーユニフォームを着たその姿の愛くるしさに、悠作の胸の奥にあった、引退に対する最後の「棘」がふわりと抜けていくのを感じた。

「……博人のためにも、いつかあいつに誇れるような指導者にならなきゃな」

「何が指導者だ。お前は一生、俺たちの『神様』だよ」

 菊雄はそう言うと、再びモニターの抽選結果を見上げた。
 グループEの4ヶ国が揃い、各国の対戦カードが埋まっていく。
 
「……胃が重い。オランダのロッベンを誰が止めるんだ? カメルーンのエトーは? 日本のディフェンスラインが、あのスピードに90分耐えられるとは到底思えない」

 悠作は無意識に、頭の中でチェス盤を広げていた。
 阿部勇樹をアンカーに置いて、4-1-4-1にするか。いや、それだと攻撃の枚数が足りない。本田圭佑をトップに置くゼロトップ……?
 世界一の戦術眼が、勝手に日本の生き残る道を計算し始める。だが、どのシミュレーションを行っても、結果は芳しくなかった。

「菊雄。お前はこのグループ、どう見てる?」

 菊雄はテキーラの二杯目を流し込み、鼻を鳴らした。

「どうもこうもねえよ。今の岡田ジャパンのやり方じゃ、勝率は0.1パーセントもねえ。綺麗にパスを繋ごうとして、オランダのプレスにハメられて終わりだ。戦う前から白旗上げてるようなもんだぜ」

 菊雄の容赦ない言葉に、隣で聞いていた常連客が顔を赤くして絡んできた。

「おい、プロだからって、そこまで言うことねえだろ! 俺たちは信じて応援してるんだ。日本代表がそんなに弱いって言うのかよ!」

 店内には緊張が走った。
 だが、菊雄は動じない。むしろ、その野性的な瞳に火が灯った。

「弱いと言ってるんじゃねえ。戦い方を間違えてるんだと言ってるんだ。あんた、世界一の才能が目の前にいるのに、よくそんな寝ぼけたことが言えるな」

 菊雄は悠作の肩を叩き、店内の客全員に聞こえるような声で語り始めた。

「いいか。世界を相手にするってのは、希望を持つことじゃねえ。絶望をどう飼い慣らすかってことだ」

 菊雄の語りは、具体的で、かつ異常な熱を帯びていた。

「もし俺が監督なら、いや、俺がピッチに立ってるなら……プライドなんて全部溝に捨てる。オランダ相手にポゼッションなんてクソ喰らえだ。11人全員でペナルティエリアの前に壁を作って、90分間、ただひたすら相手の脛を蹴り続ける。そして……たった一回。試合中に一回だけ訪れる、相手が油断した瞬間に、こいつが見せたような魔法を叩き込む。それ以外に、日本が生き残る道はねえんだよ」

 菊雄の言葉には、現役のJ1戦士として、実際に世界の壁を肌で感じてきた者にしか出せない重みがあった。
 店内は、いつの間にか静まり返っていた。
 W杯への期待に浮かれていたファンたちが、菊雄の説く「地獄のサバイバル論」に、冷水を浴びせられたように黙り込む。

「日本サッカーに必要なのは、綺麗なパス回しじゃない。泥を啜ってでも、相手の喉笛に食らいつく執念だ。……なあ、悠作。お前なら、この地獄をどう料理する?」

 菊雄に振られ、悠作はチェイサーのジンジャーエールを一口飲み、喉の熱を鎮めた。
 世界一の才能。その脳内では、すでに数千通りのパスコースと、2010年6月の南アフリカの芝の揺れまでが計算されていた。

「……菊雄の言う通りだ。だが、俺ならもう一つ付け加える」

 悠作が静かに語り始めると、スポーツバーの空気は完全に彼に支配された。
 引退したばかりの、膝の壊れた男。しかし、その言葉から漏れる覇気は、そこにいる誰よりも強大だった。

「11人で壁を作るんじゃない。10人で壁を作り、一人の『自由人』にすべてを託す。その一人が、相手の論理を完全に破壊するイレギュラーな動きを見せれば……世界は、少しだけこちらに傾く」

 悠作の見立ては、当時の常識を遥かに超えていた。
 店主も、常連客も、そして菊雄ですら、悠作が描き出す「未来のフットボール」の幻影に、言葉を失って聞き入っていた。

 夜は更け、2009年の最後の月が動き始める。
 テキーラの瓶は空になり、日本の命運を決める抽選会は幕を閉じた。

 しかし、八王子の片隅で、二人の天才が交わした言葉の火種は、確かに消えずに残っていた。
 それは後に、日本サッカー界が直面する激動の予兆であり、入坂悠作が「指導者」として、あるいは「一人の男」として歩み出す、本当の意味でのキックオフだった。
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