ロスト・ファンタジスタ

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第6話 不敵な予言と、聖者の帰還

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 スポーツバー『The Pitch』の店内に、重苦しい沈黙が広がっていた。
 2010年W杯、グループE。オランダ、カメルーン、デンマーク。その並びは、当時の日本サッカー界にとって「絶望」と同義だった。
 
 カウンターの隅で、眼鏡をかけた気弱そうなスーツ姿の男性客が、震える手でビールグラスを握りしめていた。彼は、目の前に座る本物のプロ選手――京滝菊雄の圧倒的な威圧感に気圧されながらも、縋るような思いで声を絞り出した。

「……京滝さん、やっぱり、無理なんですかね。僕たち日本人は、あんな巨体の外国人たちに踏みつぶされるのを見守るしかないんでしょうか。……少しは、少しだけでも、希望はないんですか?」

 その問いは、店内にいたすべてのファンが喉の奥で飲み込んでいた悲鳴だった。
 菊雄は、三杯目のテキーラをゆっくりと口に含み、喉を焼く刺激を楽しんでから、無慈悲な数字を突きつけた。

「希望? ああ、あるぜ。……『3パーセント』だ」

「さ、3パーセント……」

「そうだ。今のままの、お行儀のいいサッカーを続けりゃ、本大会の勝率は『0パーセント』。一勝もできずに、笑いものになって帰ってくるだけだ。断言してやるよ。今の日本代表には、死ぬ気で勝ちをもぎ取ろうっていう『狂気』が足りねえんだ」

 菊雄の声は、静かだが鋭いナイフのように店内の空気を切り裂いた。あまりに現実的で、かつ残酷な宣告に、先ほどまで騒いでいた客たちも言葉を失い、店内は再び静まり返った。
 だが、菊雄はそこで終わらなかった。彼は不敵な笑みを浮かべ、カウンターを力強く叩いた。

「だがな、その3パーセントを、100パーセントに引き上げる方法はある。俺たち日本人の『アジリティ』と『規律』だ。オランダのスターたちが一晩で飲み明かしてる間に、俺たちは米を食って、泥を啜って、1センチの誤差もない連携を叩き込む。……いいか、かつての日本の侍が、巨大な軍馬を連れた異国人をどう倒したか思い出せ。懐に潜り込み、喉笛を一突きだ。それしかねえ」

 菊雄の言葉は、徐々に熱を帯びていく。

「それに、見てみろよ。なでしこの連中だって、世界一を目指して戦ってるんだ。女子だからって、身体が小さいからって、あいつらが一度でも諦めた顔をしたか? 泥だらけになって、男顔負けのプレスをかけるあいつらの誇りを、俺たちが否定していいはずがねえだろ」

 菊雄の脳裏には、アズーロの事務所で淡々と仕事をこなしつつも、その瞳にアスリートの炎を絶やさない館谷ゆき子の姿があったのかもしれない。
 すると、客の一人が弱々しく呟いた。

「でも……体格差はどうしようもないですよ。日本人には、無理な壁がある……」

「あぁん?」

 その瞬間、菊雄の表情から色が消えた。彼は猛獣のような速さで椅子を蹴り、その客の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで身を乗り出した。

「今、『無理』っつったか? お前、ふざけんなよ! 日本人だから、女子だから、怪我をしてるから……そうやって条件をつけて、戦ってる奴らの努力をないがしろにする空気を、俺は絶対に許さねえ!」

 菊雄の激昂は、個人の怒りを超えて、戦う者すべての尊厳を守るための咆哮だった。

「17歳の結衣ちゃんが、ボランティアで泥だらけになって運営を支えてる。14歳の一郎が、世界一を目指して吐くまで走ってる。……そんな奴らの前で、外野が勝手に壁を作ってんじゃねえよ! 日本が生き残る道は、そこにあるんだ。壁を壁と思わねえバカが、歴史を変えるんだよ!」

 菊雄の迫力に、店内の客たちは圧倒された。
 だが、その怒りの裏にある、フットボールに対する純粋すぎるほどの愛情に、人々は少しずつ顔を上げ始めた。

「俺は言い切ってやる。日本は勝つ。……たとえ3パーセントでも、俺たちがその針の穴に糸を通せば、世界を驚かせられる。おい、お前ら! 死にそうな顔して酒を飲むな! 杯を掲げろ! この地獄を生き残るために乾杯だ!」

 菊雄の力強い号令に、バーの客たちは半信半疑ながらも、何かに突き動かされるようにグラスを持ち上げた。

「……乾杯!」
「……やってやろうぜ、日本!」

 あちこちで杯がぶつかり合う音が響く。
 隣でその様子を見ていた悠作は、親友の圧倒的なモチベート力に感心しつつ、少しだけ心配そうに苦笑した。

「菊雄、お前……少し熱くなりすぎだ。客がビビってるじゃないか」

「はは、これくらい言わねえと、この国のフットボールは目覚めねえよ。なあ、悠作?」

 悠作は内心でと呟いた。
 悠作の脳内にあるのは、冷徹な幾何学の世界だ。パスコースの角度、芝の状態、相手の重心。だが、菊雄が持つ才能は、それとは全く異なるベクトルの「世界一」だった。
 菊雄は、一瞬で場を支配し、人々の本能に火をつける。それは指導者や戦術家には真似できない、天性の『捕食者』のカリスマだ。

(もし……。もし菊雄が、もっと早い段階で欧州のトップレベルに渡り、相応のキャリアを積んでいれば、日本サッカーの歴史は10年は早まっていたはずだ)

 悠作は回想する。
 二人が子供の頃、ケビンの指導を受けながら八王子の空き地でボールを蹴っていたあの日。菊雄の左足は、すでに日本の枠には収まらない破壊力を持っていた。悠作が「頭脳」としてパスを出し、菊雄が「暴力」としてゴールを奪う。その二人のコンビこそが、かつて八王子の伝説だった。

「……ところで、悠作。任三郎のことだが」

 菊雄が、不意に話題を変えた。
 その名前が出た瞬間、悠作の視線が鋭さを増した。
 
 古萱任三郎。
 現在、日本代表の中核を担い、10番を背負う男。
 彼は本大会までの完全復帰が期待されているが、先日の試合で膝の負傷を悪化させ、現在は戦列を離れている。日本中のファンが、聖者・任三郎の帰還を祈っている状態だ。

「任三郎の不在は、今の代表にとって致命的だ。あの人は、ただのストライカーじゃない。ピッチに立っているだけで、相手の論理を歪ませる『毒』を持っている」

 悠作は、任三郎のプレーを脳内で再生した。
 優雅でいて冷徹なゴール。だが、悠作には分かっていた。任三郎のプレーには、常に「破滅」の予感が付きまとっていることを。

「あいつの着地は、いつも危うい。膝の靭帯が耐えられる限界を超えて、さらに一歩踏み込もうとする。……この間のゴールもそうだ。角度は完璧だったが、その後の反転で軸足が流れていた。あんな無茶を続けていれば、俺と同じ道を辿ることになる」

 悠作は、自分のボロボロの膝をさすりながら、画面の向こうにいる同級生に対して、独り言のように叱りつけた。

「……任三郎。久々のゴールは祝ってやる。だが、本大会までにそのガタがきた身体を叩き直しておけよ。……でないと、俺が教える次の世代が、あなたの席を奪いにいくことになるからな」

 悠作の言葉は、冷たいように見えて、そこには深い敬愛とライバル心が同居していた。
 古萱任三郎、京滝菊雄、そして入坂悠作。
 八王子の地が育んだ、形を変えた三人の「天才」たち。

 一人は代表の看板として。
 一人は国内のスターとして。
 そして一人は、指導者という名の「影」として。

 2010年へのカウントダウンが始まったこの夜。
 テキーラの酔いも、冷たい夜風も、彼らの情熱を消すことはできなかった。
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