ロスト・ファンタジスタ

ken

文字の大きさ
7 / 13

第7話 星降る芝生と、未完の約束

しおりを挟む
 スポーツバー『The Pitch』での、菊雄による文字通りの「独演会」が終わったのは、日付が変わって1時間を過ぎた頃だった。
 菊雄が放った「3パーセントの予言」と、それに続く熱狂的な鼓舞は、絶望に暮れていた八王子のファンたちの心に、消えない火を灯したようだった。店を出る客たちの背中は、数時間前とは打って変わってどこか誇らしげで、誰もが「日本サッカーの未来」を自分たちの手で掴み取れるかのような錯覚に酔いしれていた。

 だが、その熱源となった当の二人は、喧騒を逃れるようにして深夜の八王子の街を歩いていた。
 夜風はさらに冷たさを増し、吐き出す息は白く、街灯の光に溶けていく。

「……おい、悠作。少し酔い覚ましに付き合え」

 菊雄が足を止めたのは、アズーロ八王子のホームスタジアム、『八王子ドリームパーク・スタジアム』の正面ゲート前だった。
 半日前、悠作が最後の魔法を披露し、そして無様に泥にまみれたあの場所だ。

「菊雄、もう閉まってるぞ。警備員に見つかったら、明日のスポーツ紙の一面は『J1のスター、不法侵入で逮捕』だ」

「へっ、バカ言え。俺を誰だと思ってる。俺はこのクラブの『特別功労者』で、瑞穂社長から合鍵の予備まで預かってる身だぜ」

 菊雄はダウンジャケットのポケットから、重々しい真鍮の鍵を取り出して見せた。かつてアズーロの窮地を救い、移籍後も多額の寄付を続けている彼にとって、このスタジアムは自宅の庭も同然らしい。
 菊雄は手際よくゲートの脇にある通用口の鍵を開け、悠作を手招きした。

「ほら、さっさと入れ。世界一の才能が、フェンスの外で凍えてちゃ格好がつかねえ」

 二人は吸い込まれるように、暗闇のスタジアムへと足を踏み入れた。

 観客が一人もいないスタジアムは、驚くほど巨大で、そして厳かだった。
 コンクリートの通路を歩く二人の足音だけが、高い天井に反響して不気味なほど大きく響く。
 階段を上がり、ピッチレベルへと続くトンネルを抜けた瞬間、悠作の鼻腔を「あの匂い」が突いた。
 夜露に濡れた、若草の匂い。そして、踏み固められた土の香り。
 半日前の死闘が嘘のように、ピッチは深い静寂に包まれていた。月明かりに照らされた芝生は、まるで銀色の絨毯のように美しく輝いている。

「……綺麗だな」

 悠作は無意識に呟いた。
 スタンドを埋め尽くしていたサポーターも、怒号のようなチャントも、閃光のようなフラッシュもない。ただ、凍てつく空気と、完璧に手入れされた緑の舞台があるだけだ。
 
 悠作は誘われるようにセンターサークルまで歩くと、そのまま仰向けに芝生の上へ寝転んだ。190センチの長い身体が、柔らかな芝に沈み込む。
 膝の痛みは引いていたが、その代わりに全身を襲う疲労感が、心地よい重みとなって彼を地面に縛り付けた。

「おいおい、風邪ひくぞ」

 そう言いながらも、菊雄も隣にドカッと寝転んだ。
 見上げれば、冬の八王子の空は驚くほど澄み渡り、零れ落ちそうなほどの星々が瞬いている。

「悠作……今日はお疲れ様だったな」

 菊雄が、いつもの毒舌を封印し、低く落ち着いた声で言った。
 悠作は星を見つめたまま、小さく息を吐いた。

「……ああ。でも、悪かったな。最後、あんな不甲斐ないところを見せて。4点目のシーン、俺の膝がコンマ1秒でも反応してれば、あんな失点はしなかった」

「気にするな。あの瞬間のピッチで、お前が見ていた景色を理解できる奴なんて、この世界に一人もいねえよ。俺だって、一瞬置いていかれたんだ。お前が放ったあのシュートの軌道、あれは人間の計算を超えてた。神様が嫉妬して、お前の膝を止めたんだよ」

 菊雄の言葉は、慰めではなく、一人の等身大のライバルとしての「敗北宣言」に近かった。
 二人はしばらく、言葉を交わさずに星空を眺めていた。
 静寂の中で、若草の匂いだけが五感を支配する。

「……覚えてるか。中学生の時、ケビンの家の裏山で、二人で夜通しボールを蹴ったあの夜のこと」

 菊雄が不意に、古い記憶を掘り起こした。
 悠作は目を細める。

「忘れるわけないだろ。二人で『30歳になるまで、どっちが代表の10番を背負い続けるか勝負だ』って、血判状みたいな約束をしたな」

「そうだ。俺たちは『二人で日本サッカーを絶望から救い出す魔法を完成させる』って誓った。お前がパスを出して、俺がブチ込む。それだけで世界を跪かせられるって信じてた」

 あの頃、彼らはまだ無敵だった。
 悠作の右足には魔法が宿り、菊雄の左足には野性が溢れていた。
 だが、現実は残酷だった。
 世界一の才能を持つ悠作は、25歳でそのキャリアに幕を閉じる。一方、菊雄はJ1のスターとなったが、悠作がいないピッチで、どこか満たされない飢えを抱え続けてきた。

「悠作、俺は……お前を尊敬してるよ。本当だ」

 菊雄の声が、少しだけ震えた。

「お前は、ボロボロになった膝を引きずって、手取り10万なんて馬鹿げた条件で、25歳まで現役を続けた。普通の奴なら、3回目か4回目、いや1回目の手術の時点で心が折れてる。でもお前は、今日この日まで戦い抜いた。……俺はな、J1で10番を背負って、そこそこの金を稼いで、ちやほやされてるが……。お前のあの執念に比べりゃ、俺なんてまだスタートラインにすら立ってねえんだよ」

 悠作は驚いて菊雄を見た。
 J1のスターであり、日本代表の候補にも名を連ねる男が、引退する自分に対してこれほどまでの敬意を払っている。

「何を言ってるんだ、菊雄。お前こそが、俺の、そして任三郎の希望なんだ。俺が見ることができなかった『世界の景色』を、お前は今、その足で踏みしめてるじゃないか」

 悠作は上半身を起こし、隣の菊雄を真っ直ぐに見据えた。

「お前は、俺が一生かけても手に入れられなかった『折れない心』と『鋼の肉体』を持ってる。俺の才能がいくら世界一だろうと、ピッチに立ち続けられなきゃ、それはただの幻だ。お前こそが、俺たちの夢を現実にする唯一の男なんだよ」

「……悠作」

「だから、30歳までの勝負は、俺の不戦敗じゃない。お前が、俺の分の魂まで持って、あの舞台へ行くんだ。……いいな?」

 菊雄はしばらく沈黙した後、照れ隠しに盛大に鼻をすすり、豪快に笑った。

「ははっ! 重いんだよ、お前の期待は! 手取り10万の癖に、背負わせるものがデカすぎるんだよ、この馬鹿野郎」

「ふん、J1の年俸なら、それくらい余裕で耐えられるだろ」

 二人は子供のように笑い合った。
 深夜のスタジアムに、二人の乾いた笑い声が響き、夜の帳に吸い込まれていく。

 悠作は立ち上がり、芝生についた夜露を払った。
 膝にはまた、冷たい重みが戻ってきている。だが、不思議と心は軽かった。
 
 このスタジアムには、多くの人々の想いが詰まっている。
 昼間、自分の引退を惜しんでくれた知美人の瑞穂社長。彼女はこの経営難のクラブを守るために、どれほどの孤独な夜をこの場所で過ごしたのだろうか。
 受付で自分をミステリアスな瞳で見つめていた館谷ゆき子。彼女もまた、この芝生の匂いを嗅ぐたびに、失った自分のキャリアを思い出しているのかもしれない。
 そして、純粋な憧れをくれた結衣や、期待に目を輝かせていた一郎。

 彼ら、彼女たちが愛するこの「舞台」を、自分は守り、育てていかなければならない。
 指導者としての第一歩は、ここから始まるのだ。

「……帰るか。明日、いや今日は10時に瞳の病院に行かなきゃならないんだ。遅れたら、それこそ一生ピッチに立てないくらい説教される」

「ああ、そうだな。瞳は怒ると、メデューサみたいになるからな。俺も巻き添えは御免だ」

 菊雄も立ち上がり、名残惜しそうにピッチを一度振り返った。

 二人が通用口を出て、再び鍵をかける。
 カチャリ、という冷たい金属音とともに、深夜のスタジアムは再び完璧な静寂を取り戻した。

 月光が照らす無人のピッチ。
 そこには、二人が寝転んでいた芝生の窪みだけが、微かな痕跡として残っていた。
 
 誰もいないはずのスタンドの陰から、あるいは夜風の囁きに乗って、二人の交わした未完の約束を、このスタジアムの精霊が聞いていたかもしれない。
 あるいは、深夜まで残務整理をしていた瑞穂社長や、忘れ物を取りに来たゆき子が、その会話の断片を耳にしていたかもしれない。

 けれど、それは誰にも語られることのない、八王子の夜の秘密だ。
 世界一の才能を誇った男の物語は、こうして静かに、けれど熱く、次の章へと動き出そうとしていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―

MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」 「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」 失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。 46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...