ロスト・ファンタジスタ

ken

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第13話 西が丘の咆丘、主将の品格

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 1995年8月26日、午前11時30分。
 東京・国立西が丘サッカー場、アズーロ八王子ジュニアの控室。
 
 コンクリート打ちっぱなしの壁には、夏の暴力的な陽光が窓から差し込み、熱気と緊張が混じり合った独特の重苦しさが漂っていた。少年たちの荒い呼吸音と、スパイクのスタッドが床を叩く不規則な乾いた音が、静寂をかろうじて繋ぎ止めている。
 
「いいか、お前たち! 今日勝てば、クラブ創設以来、初の全国大会出場だ。相手は読売ジュニア……日本で最も恵まれた環境にいるエリート集団だ。だが、ビビる必要はない。ピッチに立てば、家柄も、月謝の額も関係ない。あるのは、ボールをどちらが支配するか、それだけだ!」
 
 道利監督が戦術ボードを拳で叩き、声を荒らげる。後のJ1監督らしい、若々しい野心に満ちた熱気が、少年たちの幼い顔を紅潮させていた。
 だが、監督の視線は、ベンチで静かに膝を冷やしている背番号9、京滝菊雄に注がれた。
 
「……菊雄。本当に無理か? 5分……いや、後半の最後の3分だけでいい。お前がピッチの脇に立っているだけで、読売のDFラインは下がる。お前の『暴力的な左足』は、それだけで戦術なんだ」
 
 勝利への執念。それが、時として指導者の理性を狂わせる。道利監督の問いは、未来のJ1監督としてはあるまじき、選手生命を削る悪魔の誘いだった。
 悠作が割って入ろうとした瞬間、控室の空気を震わせる巨大な怒号が響いた。
 
「NO!! Michitoshi! Stop that nonsense right now!」
 
 ケビン・ファロンコーチだった。
 普段は穏やかで、ツイードのハンチング帽が似合う英国紳士の彼が、今は眉間に深い皺を刻み、道利監督を射すくめていた。
 
「ケ、ケビン……。しかし、全国がかかっているんだ」
 
「ふざけるな! 彼はまだ11歳の子供だ。彼の膝は、彼の『未来』のものだ。この試合の勝利と、彼の20年間のプロキャリア……どちらが重いか、君ほどのプロが分からないはずがないだろう! 勝利のために子供の夢を消費するなら、私は今すぐコーチを辞める!」
 
 ケビン・ファロン。
 かつてイングランドの下部リーグで泥にまみれて戦い、フットボールの「光と影」を誰よりも見てきた男。彼にとってフットボールは単なる勝負ではなく、人生そのものであり、神聖な祈りだった。
 道利監督は、ケビンの圧倒的な気圧に押され、「……すまない、ケビン。言い過ぎた」と肩を落とした。
 
 控室に再び静寂が訪れる。
 ケビンは、静かに十字を切り、目を閉じた。それは彼なりの、少年たちの無事と、フットボールという残酷な神への祈りだった。その敬虔な姿に、少年たちは「フットボールとは何なのか」を肌で感じ取っていた。
 
「……さて、祈りは終わった。ユウサク、前へ」
 
 ケビンが悠作を手招きし、黄色いキャプテンマークを差し出した。
 
「菊雄が出られない今日、このチームを導くのは君だ。君のその『神の視点』で、アズーロに最初の栄光をもたらしなさい」
 
 悠作は黙ってそれを受け取り、自らの細い左腕に巻いた。
 11歳の肉体。だが、中身は25歳までの絶望と栄光を知り尽くした、世界一の知略家。
 悠作はチームメイトたちを円陣に集め、彼らの顔を一人ずつ見つめた。
 
(……ああ、そうだ。俺がずっと欲しかったのは、この『責任』だ。誰かに頼るのではなく、俺がこの手で、こいつらを勝たせるんだ)
 
 昂ぶる感情を抑え、悠作は鼓舞するために口を開いた。
 
「いいか、みんな。相手の読売は確かに強い。だが、あいつらは組織という名の歯車だ。……年金や住宅ローンの心配をして、無難なパス回しに逃げるおっさんたちに比べれば、読売のプレスなんて、そよ風みたいなものだ。お前ら、老後に後悔したくないだろ? 自分のポジションを死守して、人生を終えるつもりか?」
 
「「「…………え?」」」
 
 控室の空気が、ピタリと止まった。
 11歳の少年たちが、きょとんとして顔を見合わせる。
 年金? 住宅ローン? 定年?
 少年サッカーの決勝直前に、あまりに不釣り合いな「大人の絶望」が混じったワードに、少年たちの士気は上がるどころか、困惑のどん底に叩き落とされていた。
 
 その時、菊雄が「おいっ!」と悠作の首根っこを掴んで、円陣の真ん中から引きずり出した。
 
「お前……! 何を口走ってんだよ、世界一のインテリジェンスさんよお! 今、こいつらに一番必要ないのは『将来の不安』だろうが! 定年ってなんだよ! お前、中身の25歳が漏れすぎて、ただの疲れたサラリーマンみたいになってんぞ!」
 
「……あ。いや、つい、前世の安アパートでの独り言が……」
 
「『つい』で済むか! ほら見ろ、あいつらの顔を。完全に引いてんじゃねえか!」
 
 菊雄の鋭いツッコミに、洞渕辰也が眼鏡のブリッジを押し上げながら、淡々と追い打ちをかける。
 
「悠作君。僕の計算によれば、今の君の発言により、チームの平均モチベーションは15パーセント低下し、困惑指数が300パーセント上昇した。……不経済な演説だね。君の脳内演算は、少々『現実の重み』にバグが出ているようだ」
 
 「理性の怪物」辰也の冷徹な指摘に、悠作は返す言葉もなかった。
 
「……ったく。お前は本当に、サッカー以外はダメだな」
 
 呆れたような、けれど凛とした声が響いた。
 控室の入り口に、一人の美少女が立っていた。
 11歳の追切瞳。
 その可憐でいて意思の強い眼差し。ノースリーブのシャツから伸びる白い腕には、すでに一端の指導者のようなオーラが宿っている。
 
 彼女は悠作の前に歩み寄ると、無言で彼の左腕からキャプテンマークを強引に剥ぎ取った。
 
「え……瞳?」
 
「あんたに主将を任せたら、試合が始まる前にみんな隠居しちゃうわ。……貸しなさい」
 
 瞳は、奪ったマークを自らの二の腕に、あるいはチームの中心に据えるように掲げ、少年たちに向き直った。
 
「いい!? 全員、悠作の変な話は忘れて! 相手は読売。あいつらは鏡の前で自分の髪型を気にするような、ナルシストの集まりよ。……あんたたちが、泥だらけの靴でその綺麗なユニフォームを汚してやりなさい! 泣かせるのは、あいつらよ。全国に行くのは、八王子の『野良犬』たちなんだから!」
 
「「「……おおおおおおおおっ!!!」」」
 
 これだ。少年たちに必要なのは、理屈ではなく、この「魂を揺さぶる一撃」だった。
 瞳の美しさと、それを裏切るような強い言葉。彼女のカリスマ性が、アズーロの選手たちを一瞬で戦闘集団へと変貌させた。
 
「……すげえ。やっぱり瞳は、俺の自慢の女房だぜ」
 
 菊雄が感極まったように呟き、悠作の肩を叩く。
 
「悠作、お前の不甲斐なさにはため息が出るが……まあ、おかげで瞳のカッコいいところが見れたから許してやるよ。……謝れ、ほら」
 
「……ああ。すまない、真面目にやりすぎて、感覚がバグった」
 
 悠作は素直に謝罪しつつ、瞳の背中を頼もしげに見つめた。2009年の彼女が有能な看護師として自分を支えてくれたように、11歳の彼女もまた、自分に欠けている「人間的な熱」を完璧に補ってくれている。
 
 悠作は再びホワイトボードの前に立った。今度は、大人の感傷を捨て、一人の「世界一の戦術家」として。
 
「……作戦を再確認する。読売のエース、古萱任三郎。あいつの美学は『完璧な着地』だ。だから、あいつが跳ぶ瞬間に、俺たちがやるべきことは……」
 
 悠作がペンを走らせる。
 描かれた幾何学模様は、まるでチェスの必勝法のように、読売の守備網を無力化するルートを鮮明に映し出していた。
 
「辰也は中盤で、あいつのパスコースの確率を削れ。土井浦、お前はあいつの視線だけを追え。附野、お前は……」
 
 一人一人への精密な指示。
 少年たちは、先ほどまでの困惑が嘘のように、悠作の言葉に吸い込まれていった。彼の言葉には、今度は「勝利という名の魔法」が宿っていた。
 
「……ちょっと! 作戦盤に夢中になりすぎ! もう入場行進の時間よ!」
 
 瞳が控室のドアを開け、怒鳴り込んでくる。
 
「悠作! 菊雄! さっさと合流しなさい! 10番が遅れてどうすんの!」
 
「「……へいへい」」
 
 二人の天才は顔を見合わせ、苦笑しながら控室を飛び出した。
 
 西が丘の空に、夏の終わりの激しい蝉時雨が響き渡る。
 1995年。歴史が書き換えられるための、最初のホイッスルが鳴るまで、あと数分。
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