炎上して全てを失った俺、10年前の「倒産前夜」にタイムリープ。未来のバズを知る最強PRプランナーとして、実家のボロ酒造を世界ブランドに変える

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【第1章:絶望からの帰還】

第2話 2016年、佐藤酒造の朝

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 頬を刺すような、凛とした冷気だった。

 2026年のあの、肌を焼く爆炎の熱さはどこにもない。

 代わりに鼻腔をくすぐったのは、懐かしくも重苦しい、蒸し米の甘い香りと古い木材が湿った匂い――実家である佐藤酒造の、冬の朝の匂いだった。



「――お兄ちゃん! ちょっと、いつまで寝てるの! 銀行の人が来てるって言ってるでしょ!」



 鼓膜を揺さぶる切迫した声に、佐藤任三郎は重い瞼を持ち上げた。

 視界に飛び込んできたのは、煤けた天井と、お世辞にも片付いているとは言えない乱雑な自室の風景。そして、目の前で今にも泣き出しそうな顔をして自分を揺さぶっている、若い女の姿だった。



 志摩紗季。

 佐藤酒造の蔵人であり、任三郎の5歳下の妹分だ。

 2026年の彼女は、心労から老け込み、酒を恨むような暗い目をしていたはずだ。だが、目の前にいる彼女はまだ25歳。肌には張りがあり、その瞳にはまだ、絶望に塗りつぶされる前の強烈な光が残っていた。



「……紗季、か?」

「そうだよ! 何寝ぼけてるの。おじさん――社長が、昨日の夜から帰ってこないんだよ。不渡りまであと1週間しかないのに……。門のところには銀行の青山さんが来てて、もうこれ以上は待てないって……」



 任三郎は、ゆっくりと上体を起こした。

 全身を襲う倦怠感。だが、その感覚は紛れもなく「生きている」人間のものだった。

 彼は傍らにあった姿見に目をやった。



 そこには、30歳の自分がいた。

 彫刻のように深い目彫りと、剃刀のように鋭い顎のライン。不摂生な生活を送っていたはずの2026年の自分とは違う、研ぎ澄まされた勝負師の貌。

 40歳の経験と記憶を宿したまま、肉体だけが10年の歳月を巻き戻されている。



(……やはり、戻ったのか。あの地獄の火の中から、この倒産の地獄へ)



「お兄ちゃん、聞いてるの!?」

「ああ、聞こえている。借金は3億円。メインバンクの融資打ち切り通告。そして、親父の逃亡……。今日から数えて7日後が、最初の不渡りの期限。合っているか?」



 冷徹な、しかし淀みのない任三郎の返答に、紗季は一瞬言葉を失った。



「……なんで、そんなに冷静なの? いつもなら『俺には関係ない』って逃げ出すくせに」



「逃げても、最後は火に焼かれるだけだと知っているからな」



 任三郎はベッドから立ち上がり、クローゼットを開けた。

 中には、東京でPRの仕事に就いていた頃の、数少ない上質なスーツが並んでいた。彼はその中から、最も仕立ての良いダークネイビーの3ピースを選び出した。



「紗季、親父を探せ。おそらく、行きつけのスナックか、あるいは昔からの馴染みの蔵元のところだ。死ぬ勇気もない男だ。どこかで震えているはずだ」

「で、でも、銀行の青山さんは……」

「俺が会う。お前は顔を洗って、蔵の連中に『佐藤任三郎が戻った』と伝えておけ」



「……お兄ちゃん。なんだか、別人みたい」



 紗季が困惑気味に呟く。

 任三郎は鏡の前でネクタイを完璧なシングルノットで締め、白シャツの袖をゆっくりと、しかし力強く捲り上げた。



「別人ではない。ただ、素材の『価値』を思い出しただけだ」



 佐藤酒造の応接室。

 そこには、地方銀行の融資担当者・青山が、葬儀の参列者のような暗い顔で座っていた。



「佐藤さん、正直に申し上げます。これ以上のリスケジュールは不可能です。社長も不在となれば、私共としても法的手段を検討せざるを得ません」



 青山は、手元の書類をテーブルに滑らせた。

 本来なら、任三郎のような「放蕩息子」に話すことではない。だが、今の佐藤酒造には話を聞く相手さえいないのだ。



 任三郎は、青山の向かいに静かに腰を下ろした。

 背筋を伸ばし、組んだ指の隙間から、射抜くようなブルーグレーの瞳で相手を見つめる。その佇まいは、2026年の広告代理店で百戦錬磨の役員たちを沈黙させてきた、伝説のPRプランナーそのものだった。



「青山さん。法的手段――つまり、破産手続きを開始すれば、御行が回収できる債権はどれほどになりますか?」



 青山の眉が跳ねた。



「それは……精々、土地と設備の売却益で数千万円というところでしょう」



「3億円の負債に対して、数千万円。回収率は10%強。銀行員として、その成績で納得されるのですか?」



「納得の問題ではありません。佐藤酒造には、もはや返済能力がない。それが客観的な事実です」



「『事実』など、見せ方次第でどうとでもなる」



 任三郎は冷笑を浮かべ、懐から2016年1月当時のスマートフォンを取り出した。

 画面には、まだ「iPhone 6s」のUIが映し出されている。



(2016年。Instagramが日本で爆発的に普及し始め、企業アカウントがまだ『宣伝の道具』としてしか認識されていなかった時代だ。YouTubeもまだ、エンタメの域を出ていない。……ここには、未来のバズの種がいくらでも転がっている)



「青山さん。私に7日間ください。いや、まずは3日間でいい」

「3日? そんな期間で何ができるというのです」



「『翻訳』ですよ」



 任三郎は窓の外、広大な敷地に建つ古い蔵を指差した。



「あの蔵には、父が『売れ残り』と呼んで放置した、10年熟成の古酒が1万本眠っています。地元の酒店には1本2000円でも売れなかったガラクタだ。だが、それを私が『価値ある真実』に書き換えてみせる」



 青山の顔に、明らかな嘲笑が浮かんだ。



「そんな夢物語は何度も聞きましたよ。社長もそう言って、新しい設備を買い、失敗した」



「親父は『酒』を売ろうとした。だから失敗した。私は『物語』を売る。それも、この2016年という、情報が飽和し始めた時代に最も飢えられている、剥き出しのナラティブをだ」



 任三郎は身を乗り出し、青山の瞳の奥を覗き込んだ。



「3日後。ネット上での予約販売を開始します。目標金額は、当面の利息と運転資金を賄うための3000万円。それが達成できなければ、その瞬間にハンコを押しましょう。どうせ数千万しか回収できないなら、あと3日待つリスクは御行にとっても誤差の範囲内のはずだ」



 青山の指が、微かに震えた。

 目の前にいる男の放つ圧迫感が、これまでの「佐藤酒造の長男」とは決定的に違っていたからだ。

 端正な容姿から発せられる言葉は、まるで洗脳のように、相手の思考の防壁を穿っていく。



「……わかりました。ですが、本当に3日後ですよ。もし1円でも目標に届かなければ……」



「その心配は無用だ。私は、負ける博打は打たない主義でね」



 銀行員が逃げるように去った後、応接室に紗季が飛び込んできた。



「お兄ちゃん! 本気なの!? 3000万円なんて、3日でどうやって……」



「紗季、蔵を開けろ。今から『調理』を始める」



 任三郎は応接室を出て、埃の舞う蔵へと向かった。

 そこには、2026年の自分が見捨て、火の中に消えたはずの「過去」が詰まっていた。



「PRとは数学だ。ターゲットの数、インプレッションの確率、コンバージョン率。全てを緻密に計算し、心理学というスパイスで味を整える」



 彼は蔵の奥に積み上げられた、カビの生えた木箱を一つ、力強く開けた。

 中から現れたのは、安っぽいラベルが剥がれかけた、10年物の古酒のボトルだった。



「素材はいい。だが、このままではゴミだ。これを『翻訳』する。……紗季。お前はこれから3日間、寝る暇もないと思え」



「え、ええ……?」



 任三郎は、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 2016年1月。世間ではまだ、SMAPの解散騒動がトップニュースを飾り、街にはiPhone 7の発売を待つ期待感が漂い、タピオカブームさえもまだ遠い未来の話だった。



(まずは『火種』が必要だ。この2016年という、大衆が嘘に敏感になり始め、それでも強い刺激を求めている空気に火をつけるための、最強の触媒が)



 任三郎の脳裏には、ある一人の少女の姿が浮かんでいた。

 未来の自分が、ある案件で徹底的にリサーチし、その圧倒的な「毒と言霊」に驚嘆した少女。

 2026年では日本屈指の影響力を持つ彼女も、今はまだ、地方の高校に通うただの反抗的な美少女に過ぎないはずだ。



「高橋すず。……まずは彼女を、俺の料理の最初のゲストに招くとしようか」



 任三郎の瞳に、獲物を狙う猟犬のような鋭い光が宿る。

 10年前の冷たい空気。3億円の借金。そして、未来の栄光。

 全てが混ざり合い、発酵を始める。



 伝説のPRプランナー、佐藤任三郎。

 彼の逆転の第一手は、まだ誰もその価値を知らない「17歳の毒舌少女」をスカウトすることから始まった。



 その頃。

 佐藤酒造から数キロ離れた、廃れた商店街の片隅。

 金髪に近い明るい髪を無造作に結んだ一人の少女が、古びたベンチに座ってスマートフォンを睨みつけていた。



 高橋すず。17歳。高校3年生。

 彼女がSNSに投稿した言葉は、まだわずかなフォロワーにしか届いていない。



『大人たちの言ってることって、全部「宣伝」みたいで気持ち悪い。本当のことなんて、この世界のどこにもない気がする』



 彼女は、自分が放ったその言葉が、数時間後に一人の「死から戻った男」によって、日本を揺るがす火種へと変えられることなど、まだ知る由もなかった。



 佐藤任三郎は、蔵の薄暗い灯りの中で、古い古酒のボトルを掲げた。
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