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【第1章:絶望からの帰還】
第5話 Instagram、ブルーオーシャンの波
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夜の静寂が佐藤酒造を包み込んでいた。
経理のみのりを勇気づけ、事務所を後にした佐藤任三郎は、再び蔵の台所に立っていた。
不渡りまで残り160時間を切っている。だが、任三郎の顔に焦りの色は微塵もなかった。
彼は、手にしたiPhone 6sの画面を眺め、その「あまりに牧歌的な」タイムラインに、冷徹な笑みを浮かべた。
2016年1月。
Instagramは日本において、まだ一部の感度の高い若者やモデルたちの「プライベートなアルバム」に過ぎなかった。「インスタ映え」という言葉が流行語大賞に選ばれるのは、まだ1年以上先のことだ。企業アカウントの多くは、単なるカタログ代わりの写真を並べるか、あるいは場違いな宣伝文句を羅列するだけの、砂漠のような場所だった。
(ブルーオーシャンという言葉さえ生ぬるい。これは、神がいない時代の未開の地だ)
任三郎は、2026年のSNSの濁流を生き抜いた男だ。
アルゴリズムの変遷、ハッシュタグの効果的な数、そして何より「人の視線がどこで止まり、どの瞬間に欲望へと変わるか」という視覚心理の極致を、彼は骨の髄まで叩き込まれている。
彼は再びコンロに火をつけた。
今度は、自分自身の「作品」を撮るためだ。
まな板の上に置かれたのは、先ほど紗季に見せた古酒と合わせるための、さらに進化した一皿。
彼はブルーチーズの最高峰、ゴルゴンゾーラ・ドルチェを丁寧にカットし、その上に自家製のナッツの蜂蜜漬けを乗せる。蜂蜜には、蔵の奥で見つけた僅かな山椒の粉を混ぜた。2026年のトレンドである「スパイスと発酵の融合」を先取りした演出だ。
盛り付ける器は、蔵の物置で埃を被っていた、明治時代の古伊万里。
藍色の繊細な模様が、琥珀色の古酒、そして白濁したチーズと官能的なコントラストを描き出す。
「ライティングだ。写真の8割は光で決まる」
任三郎は、キッチンの蛍光灯を消した。
代わりに、手持ちのスマートフォンのライトと、蔵から持ってきた古い行灯の灯りを使う。
2026年のスマホ撮影技術では常識となっている「多灯ライティング」を、あり合わせの道具で再現する。影の落ち方をミリ単位で調整し、チーズの表面に浮き出た蜂蜜の照り、クラッカーの断面のざらついた質感、そして古酒の瓶から立ち昇る「時間の気配」を一つのフレームに収める。
カシャ、という乾いた音が、静かな台所に響いた。
撮れたのは、単なる「食べ物の写真」ではなかった。
それは、それを見る者の胃袋を掴み、喉を鳴らさせ、そして「この酒を飲まなければ、自分の人生の一部が欠けている」と思わせるような、暴力的なまでの欲望の結晶だった。
「――さて、点火といこうか」
任三郎は、新しく作成したInstagramのアカウントにログインした。
ユーザー名は『@10YearsSilence_Official』。
プロフィール欄には、一切の宣伝文句を書かない。ただ一行。
『10年間の沈黙を、あなたの喉へ』
それだけを記した。
2016年の投稿スタイルは、まだ過剰な加工フィルターが主流だった。だが、任三郎はあえて「無加工」に見えるほどの、圧倒的な解像度とコントラストのまま投稿する。
ハッシュタグは、日本語だけではない。
#JapaneseSake #VintageWhisky #Minimalism #FineDining
2026年の世界で、日本の古酒が「ヴィンテージ・ウィスキー」と同等の価値で取引される未来を見据えた、グローバルなタグ選び。さらに、当時はまだ誰も使いこなしていなかった「位置情報の偽装」を駆使し、投稿場所をあえて「東京都港区・六本木」の高級ホテル付近に設定する。
地方の酒蔵から発信されているという情報をあえて秘匿し、ミステリアスな「世界のどこかの高級ブランド」という偽装を施す。
送信ボタンを押す。
2016年の電波に乗って、佐藤酒造の運命を変える最初の信号が、デジタルの海へと解き放たれた。
「次は、触媒の確保だ」
任三郎はネイビーのチェスターコートを羽織り、夜の街へと繰り出した。
佐藤酒造がある地方都市は、夜になれば人通りもまばらだ。
だが、彼には目的地がはっきりとしていた。
駅前のアーケード街、その隅にひっそりと佇む、創業40年を数える古い喫茶店。
彼は歩きながら、ターゲットの投稿を確認した。
高橋すず。2026年、彼女は日本中の企業から恐れられる「毒舌女王」として、一言で株価を動かすほどのインフルエンサーになっていた。だが、2016年の今は、ただの「大人を軽蔑している17歳の女子高生」に過ぎない。
任三郎は、彼女が先ほど投稿したTwitterの画像から、その場所を特定していた。
隅に映り込んだ、独特な形状のシュガーポットの影。
「相変わらず、詰めが甘いな、すず」
カラン、とベルの音が鳴り、任三郎は喫茶店のドアを開けた。
紫煙と珈琲の匂いが混ざり合った店内。
奥のボックス席に、目的の人物はいた。
意志の強い瞳と、不機嫌そうに結ばれた唇。
金髪に近い明るい髪を無造作にまとめ、黒のオーバーサイズのパーカーに身を包んだ彼女は、まるで檻の中の虎のように、スマートフォンの画面を鋭い指先で叩いていた。
任三郎は迷わず、彼女の対面の席に腰を下ろした。
「……はぁ? 誰? ここ、空いてるけど、座れとは言ってないんだけど」
すずが顔を上げ、射抜くような視線をぶつけてきた。
普通の大人であれば、その「毒」に気圧されて謝罪するか、不機嫌に去るだろう。
だが、任三郎は動じない。冷徹な微笑を浮かべ、彼女の目の前に、自分のスマートフォンの画面を置いた。
表示されているのは、先ほど投稿したばかりの、あの琥珀色の古酒の写真だ。
「君のタイムラインは、ゴミみたいな言葉で溢れているな。高橋すず」
「……何よ。あんた、私のフォロワー? キモいんだけど。死ねば?」
「死ぬのは勝手だが、この『真実』を味わわずに死ぬのは、君の美学に反するんじゃないか?」
任三郎の声は、低いが、抗いがたい力を持っていた。
すずは舌打ちをしようとしたが、ふと、目の前の写真に目を奪われた。
2016年の世界に存在するはずのない、圧倒的な質感を持った「琥珀色の沈黙」。
「これ……何。加工、やりすぎじゃないの?」
「加工ではない。10年という歳月が、この色を醸したんだ。君が今、スマートフォンに向かって吐き出しているその言葉と同じだ。誰にも顧みられず、暗闇で熟成された毒……。それを、最高の美酒に変えてみたいとは思わないか?」
「……意味わかんない。宗教勧誘? 警察呼ぶよ?」
「PRだよ。……俺は、この世の全てのガラクタをダイヤモンドに翻訳する男だ。そして、君という『毒』もまた、世界を焼き尽くすための最高のスパイスだと確信している」
任三郎は懐から、一枚のラベルのない、小さな小瓶を取り出した。
蔵で用意した、あの古酒のサンプルだ。
それをテーブルの上に、コトリと置く。
「飲めるものなら飲んでみろ。君がいつも軽蔑している、あの『嘘つきな大人たち』が、10年間も失敗作だと決めつけて捨てようとしていた酒だ。……君なら、この酒の中に何が見える?」
すずは、不信感に満ちた目で任三郎と小瓶を交互に見た。
だが、彼女の指先は、吸い寄せられるように小瓶へと伸びていった。
彼女は知っていた。目の前にいるこの男は、自分が出会ってきたどの大人とも違う。
自分と同じ、あるいは自分以上の、底知れない「飢え」を瞳に宿している。
「……不味かったら、あんたの顔にぶっかけてやるから」
すずは小瓶の蓋を開け、その複雑な香りを嗅いだ。
その瞬間、彼女の表情が微かに変化した。
★★★★★★★★★★★
一方、その頃。
東京、大手広告代理店のオフィス。
鳴海俊介は、部下から回ってきたあるInstagramの投稿に、目を留めていた。
まだフォロワー数は一桁。だが、その「写真」が放つ異常なまでのプロフェッショナルなオーラに、鳴海の本能が警鐘を鳴らしていた。
「……何だ、これは。誰が仕掛けている?」
2026年で任三郎を陥れた仇敵が、2016年の今、初めて「未来の亡霊」の羽音を聞いた瞬間だった。
★★★★★★★★★★★
任三郎は、喫茶店の暗い照明の下で、すずが小瓶を口にするのを静かに見守っていた。
Instagramに放った最初の火は、今、目の前の少女という触媒を得て、巨大な炎へと変わろうとしている。
経理のみのりを勇気づけ、事務所を後にした佐藤任三郎は、再び蔵の台所に立っていた。
不渡りまで残り160時間を切っている。だが、任三郎の顔に焦りの色は微塵もなかった。
彼は、手にしたiPhone 6sの画面を眺め、その「あまりに牧歌的な」タイムラインに、冷徹な笑みを浮かべた。
2016年1月。
Instagramは日本において、まだ一部の感度の高い若者やモデルたちの「プライベートなアルバム」に過ぎなかった。「インスタ映え」という言葉が流行語大賞に選ばれるのは、まだ1年以上先のことだ。企業アカウントの多くは、単なるカタログ代わりの写真を並べるか、あるいは場違いな宣伝文句を羅列するだけの、砂漠のような場所だった。
(ブルーオーシャンという言葉さえ生ぬるい。これは、神がいない時代の未開の地だ)
任三郎は、2026年のSNSの濁流を生き抜いた男だ。
アルゴリズムの変遷、ハッシュタグの効果的な数、そして何より「人の視線がどこで止まり、どの瞬間に欲望へと変わるか」という視覚心理の極致を、彼は骨の髄まで叩き込まれている。
彼は再びコンロに火をつけた。
今度は、自分自身の「作品」を撮るためだ。
まな板の上に置かれたのは、先ほど紗季に見せた古酒と合わせるための、さらに進化した一皿。
彼はブルーチーズの最高峰、ゴルゴンゾーラ・ドルチェを丁寧にカットし、その上に自家製のナッツの蜂蜜漬けを乗せる。蜂蜜には、蔵の奥で見つけた僅かな山椒の粉を混ぜた。2026年のトレンドである「スパイスと発酵の融合」を先取りした演出だ。
盛り付ける器は、蔵の物置で埃を被っていた、明治時代の古伊万里。
藍色の繊細な模様が、琥珀色の古酒、そして白濁したチーズと官能的なコントラストを描き出す。
「ライティングだ。写真の8割は光で決まる」
任三郎は、キッチンの蛍光灯を消した。
代わりに、手持ちのスマートフォンのライトと、蔵から持ってきた古い行灯の灯りを使う。
2026年のスマホ撮影技術では常識となっている「多灯ライティング」を、あり合わせの道具で再現する。影の落ち方をミリ単位で調整し、チーズの表面に浮き出た蜂蜜の照り、クラッカーの断面のざらついた質感、そして古酒の瓶から立ち昇る「時間の気配」を一つのフレームに収める。
カシャ、という乾いた音が、静かな台所に響いた。
撮れたのは、単なる「食べ物の写真」ではなかった。
それは、それを見る者の胃袋を掴み、喉を鳴らさせ、そして「この酒を飲まなければ、自分の人生の一部が欠けている」と思わせるような、暴力的なまでの欲望の結晶だった。
「――さて、点火といこうか」
任三郎は、新しく作成したInstagramのアカウントにログインした。
ユーザー名は『@10YearsSilence_Official』。
プロフィール欄には、一切の宣伝文句を書かない。ただ一行。
『10年間の沈黙を、あなたの喉へ』
それだけを記した。
2016年の投稿スタイルは、まだ過剰な加工フィルターが主流だった。だが、任三郎はあえて「無加工」に見えるほどの、圧倒的な解像度とコントラストのまま投稿する。
ハッシュタグは、日本語だけではない。
#JapaneseSake #VintageWhisky #Minimalism #FineDining
2026年の世界で、日本の古酒が「ヴィンテージ・ウィスキー」と同等の価値で取引される未来を見据えた、グローバルなタグ選び。さらに、当時はまだ誰も使いこなしていなかった「位置情報の偽装」を駆使し、投稿場所をあえて「東京都港区・六本木」の高級ホテル付近に設定する。
地方の酒蔵から発信されているという情報をあえて秘匿し、ミステリアスな「世界のどこかの高級ブランド」という偽装を施す。
送信ボタンを押す。
2016年の電波に乗って、佐藤酒造の運命を変える最初の信号が、デジタルの海へと解き放たれた。
「次は、触媒の確保だ」
任三郎はネイビーのチェスターコートを羽織り、夜の街へと繰り出した。
佐藤酒造がある地方都市は、夜になれば人通りもまばらだ。
だが、彼には目的地がはっきりとしていた。
駅前のアーケード街、その隅にひっそりと佇む、創業40年を数える古い喫茶店。
彼は歩きながら、ターゲットの投稿を確認した。
高橋すず。2026年、彼女は日本中の企業から恐れられる「毒舌女王」として、一言で株価を動かすほどのインフルエンサーになっていた。だが、2016年の今は、ただの「大人を軽蔑している17歳の女子高生」に過ぎない。
任三郎は、彼女が先ほど投稿したTwitterの画像から、その場所を特定していた。
隅に映り込んだ、独特な形状のシュガーポットの影。
「相変わらず、詰めが甘いな、すず」
カラン、とベルの音が鳴り、任三郎は喫茶店のドアを開けた。
紫煙と珈琲の匂いが混ざり合った店内。
奥のボックス席に、目的の人物はいた。
意志の強い瞳と、不機嫌そうに結ばれた唇。
金髪に近い明るい髪を無造作にまとめ、黒のオーバーサイズのパーカーに身を包んだ彼女は、まるで檻の中の虎のように、スマートフォンの画面を鋭い指先で叩いていた。
任三郎は迷わず、彼女の対面の席に腰を下ろした。
「……はぁ? 誰? ここ、空いてるけど、座れとは言ってないんだけど」
すずが顔を上げ、射抜くような視線をぶつけてきた。
普通の大人であれば、その「毒」に気圧されて謝罪するか、不機嫌に去るだろう。
だが、任三郎は動じない。冷徹な微笑を浮かべ、彼女の目の前に、自分のスマートフォンの画面を置いた。
表示されているのは、先ほど投稿したばかりの、あの琥珀色の古酒の写真だ。
「君のタイムラインは、ゴミみたいな言葉で溢れているな。高橋すず」
「……何よ。あんた、私のフォロワー? キモいんだけど。死ねば?」
「死ぬのは勝手だが、この『真実』を味わわずに死ぬのは、君の美学に反するんじゃないか?」
任三郎の声は、低いが、抗いがたい力を持っていた。
すずは舌打ちをしようとしたが、ふと、目の前の写真に目を奪われた。
2016年の世界に存在するはずのない、圧倒的な質感を持った「琥珀色の沈黙」。
「これ……何。加工、やりすぎじゃないの?」
「加工ではない。10年という歳月が、この色を醸したんだ。君が今、スマートフォンに向かって吐き出しているその言葉と同じだ。誰にも顧みられず、暗闇で熟成された毒……。それを、最高の美酒に変えてみたいとは思わないか?」
「……意味わかんない。宗教勧誘? 警察呼ぶよ?」
「PRだよ。……俺は、この世の全てのガラクタをダイヤモンドに翻訳する男だ。そして、君という『毒』もまた、世界を焼き尽くすための最高のスパイスだと確信している」
任三郎は懐から、一枚のラベルのない、小さな小瓶を取り出した。
蔵で用意した、あの古酒のサンプルだ。
それをテーブルの上に、コトリと置く。
「飲めるものなら飲んでみろ。君がいつも軽蔑している、あの『嘘つきな大人たち』が、10年間も失敗作だと決めつけて捨てようとしていた酒だ。……君なら、この酒の中に何が見える?」
すずは、不信感に満ちた目で任三郎と小瓶を交互に見た。
だが、彼女の指先は、吸い寄せられるように小瓶へと伸びていった。
彼女は知っていた。目の前にいるこの男は、自分が出会ってきたどの大人とも違う。
自分と同じ、あるいは自分以上の、底知れない「飢え」を瞳に宿している。
「……不味かったら、あんたの顔にぶっかけてやるから」
すずは小瓶の蓋を開け、その複雑な香りを嗅いだ。
その瞬間、彼女の表情が微かに変化した。
★★★★★★★★★★★
一方、その頃。
東京、大手広告代理店のオフィス。
鳴海俊介は、部下から回ってきたあるInstagramの投稿に、目を留めていた。
まだフォロワー数は一桁。だが、その「写真」が放つ異常なまでのプロフェッショナルなオーラに、鳴海の本能が警鐘を鳴らしていた。
「……何だ、これは。誰が仕掛けている?」
2026年で任三郎を陥れた仇敵が、2016年の今、初めて「未来の亡霊」の羽音を聞いた瞬間だった。
★★★★★★★★★★★
任三郎は、喫茶店の暗い照明の下で、すずが小瓶を口にするのを静かに見守っていた。
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