通報窓口、ただいま炎上中

ken

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ガラスの天井、あるいは断頭台

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 宣戦布告のゴングは鳴った。だが、リングに上がった私たちの足元は、すでに腐り落ちていたのかもしれない。



 東都テクノリンク本社、地下2階。特命調査室。

 深夜3時を回ったこの部屋は、電子機器の排熱と、行き場のない焦燥感で蒸し返っていた。



「……見つけた。尻尾を掴んだわ」



 静寂を切り裂いたのは、入坂すずの声だった。

 彼女は愛用のゲーミングチェアの上で膝を抱え、モニターの光に顔を照らされている。その姿は、深夜のコインランドリーで雨宿りをする家出少女のように儚げで、同時に、世界を呪う魔女のように不吉だった。

 乱れた亜麻色の髪の隙間から覗く瞳は、充血し、異様な光を放っている。彼女の指先には、高級なベルギーチョコレートの銀紙が絡みついていた。糖分を脳に直噴射し続けなければ、この膨大なログの海で溺死してしまうからだ。



「葛石さんのIDを偽装した『何者か』の痕跡。……やっぱり、ただの乗っ取りじゃないわ」



 すずがキーボードを弾くと、メインモニターに複雑なネットワーク図が投影された。それはまるで、血管が絡み合う人体の解剖図のようだった。



「踏み台にされたのは、海外のVPNサーバーだけじゃない。社内の『役員用特別回線』を経由している」

「役員用……特別回線?」



 私が聞き返すと、合渡悠作がソファで腕を組みながら補足した。彼は長時間労働の中でも、そのスーツの折り目ひとつ乱していない。



「セキュリティポリシーの例外扱いとなる、特権階級専用のバイパス回線です。通常のファイアウォールを素通りできる『神の道』ですよ」



「そう。その神の道を歩いて、犯人はこの地下室のサーバーに侵入し、葛石さんのIDを使って300万円の架空請求を承認させた。そして、その金は即座に複数の海外口座へ分散送金され、ロンダリングされている」



 すずは、悔しげに唇を噛んだ。その唇は、熟れた果実のように赤く、疲労でわずかに乾いていた。



「私の城壁が破られたんじゃない。最初から城の中にいる王族が、裏口の鍵を持っていたのよ」



 300万円。

 大企業にとっては端金かもしれない。だが、一人の社員の人生を終わらせるには十分すぎる金額だ。

 犯人の狙いは金ではない。私の社会的抹殺だ。



「……それで、その『王族』の正体は?」



 私が問うと、すずは首を横に振った。



「IDは暗号化されている。でも、この回線を使える人間は限られているわ。社長、副社長、専務……片手で数えられるほどしかいない」



 沈黙が落ちた。

 敵は、雲の上にいる。

 私たち「地下室の掃除屋」が、決して見上げてはいけない場所に。



 その時だった。

 私のPCから、軽やかな、しかし冷徹な通知音が鳴り響いた。

 メールの着信音だ。

 こんな時間に?



 私がマウスを操作しようとすると、すずが鋭く制した。



「待って。またトラップかもしれない。私が開くわ」



 彼女は自分の端末から私のメールボックスにアクセスし、サンドボックスの中で慎重にそのメールを展開した。

 表示された文面を見た瞬間、室内の温度が氷点下まで下がった気がした。



『差出人:副社長秘書室』

『件名:【至急】東鶴副社長による面談のご案内について』



 心臓が早鐘を打つ。

 本文には、慇懃無礼なほど丁寧な言葉で、こう記されていた。



『お疲れ様です。東鶴副社長より、内部監査部の葛石徹様へ、業務上の重要事項に関するヒアリングを行いたいとの申し入れがございました。つきましては、本日午前10時、最上階・副社長応接室までお越しください。なお、本件は緊急を要するため、他の業務をすべてキャンセルし、最優先で対応願います』



「……来たわね」



 すずが、マカロンを握りつぶした。粉々になったピンク色の欠片が、彼女の黒いスカートの上に散らばる。



「『次はあなたの番です』っていう予言、成就させる気満々じゃない」



「ヒアリング、ですか」



 合渡が眼鏡のブリッジを押し上げた。そのレンズの奥で、理知的な瞳が冷たく光る。



「随分と耳障りの良い言葉を使う。これは事実上の『査問会』ですよ。葛石さん、貴方のIDで行われた不正送金について、弁明の機会を与える……という体裁の、処刑宣告です」



 私は、画面の中の「東鶴副社長」という文字を見つめた。

 東鶴襟華。

 かつて私が広報部にいた頃、彼女は憧れの存在だった。優雅で、知的で、男性社会の会社を変えていくジャンヌ・ダルク。彼女の笑顔一つで、株価が動くとさえ言われた。

 だが、今の私には分かる。彼女の笑顔の裏に、どれほどの計算と冷酷さが隠されているか。



「……逃げるわけにはいかないな」



 私は呟いた。



「行かなければ、私は不正を認めて逃亡したことになる。そうなれば、警察沙汰だ」



「行けば、自白を強要されるわよ」



 すずが警告する。「あの女は、言葉の魔術師だわ。貴方の罪悪感や責任感を巧みに刺激して、『会社のために泥を被れ』って言いくるめるはず」



「だとしても、行くしかない」



 私は立ち上がった。足の震えを悟られないように、床を踏みしめる。



「俺には、お前たちが集めてくれた武器がある。……それに、聞いてみたいんだ。彼女にとっての『正義』が何なのかを」



 合渡が立ち上がり、私の隣に並んだ。



「お供しますよ、葛石さん。私はコンプライアンス担当として、監査の適正性を監視する義務がある。……まあ、というのは建前で、単純に貴方が丸め込まれるのを黙って見ていられないだけですが」



「私も行く」



 すずも立ち上がった。彼女はスカートの上のマカロンの粉を払い、不敵に笑った。その笑顔は、可憐な少女のものではなく、戦場に向かう戦乙女のものだった。



「技術的な説明が必要でしょ? あの女の詭弁を、私のログで論破してあげる」



 地下2階の同志たち。

 彼らがいるなら、地獄の釜の底でも歩いて行ける気がした。



 午前9時55分。

 東都テクノリンク本社、最上階。

 役員専用エレベーターの扉が開くと、そこは地上とは異なる重力に支配された世界だった。

 足首まで沈み込むような分厚い絨毯。壁には名画の数々。そして、埃ひとつない完璧な静寂。

 ここには、地下室のようなオイルの匂いも、チョコレートの香りもしない。あるのは、無機質で高価な「権力」の匂いだけだ。



 秘書に案内され、重厚な扉の前に立つ。



『副社長室』



 そのプレートが、断頭台の刃のように見えた。



「失礼します。内部監査部の葛石です」



 扉を開ける。

 広大な部屋の奥、東京の街を一望できる巨大な窓を背にして、彼女は待っていた。



 東鶴襟華。

 逆光の中に立つその姿は、神々しいまでに美しかった。

 今日の彼女は、真珠色のシルクのスーツに身を包んでいる。年齢を感じさせない滑らかな肌、整いすぎた目鼻立ち。その佇まいは、退廃的な気品と知性を漂わせていた。

 彼女は手元のティーカップをソーサーに置き、ゆっくりとこちらを向いた。



「あら、皆様お揃いで。……ようこそ、天空の城へ」



 その声は、最高級の楽器のように心地よく響いた。

 だが、その瞳は笑っていない。深海のように暗く、冷たい光を宿して、私たちを値踏みしている。



「お忙しい中、お時間をいただき恐縮です」



 私が形式的な挨拶をすると、彼女はふわりと微笑んだ。



「いいのよ。葛石さん、貴方とはゆっくりお話ししたかったの。……昔のよしみでしょう?」



 彼女は優雅な手つきでソファを勧めた。

 だが、そのソファの向かい側には、すでに一人の男が座っていた。

 開発推進室長、京滝慎策。

 昨日の敵だ。彼は疲れた表情で私たちを一瞥し、すぐに視線を逸らした。まるで、これから起こる惨劇を見たくないかのように。



「本題に入りましょうか」



 東鶴副社長は、革張りの椅子に深く腰掛け、長い脚を組んだ。



「葛石さん。貴方のIDから、300万円の使途不明金が支出されている件。……説明していただけるかしら?」



 彼女の指先が、テーブルの上に置かれた一枚の紙――昨夜、私のデスクに置かれていたのと同じスクリーンショット――を弾いた。



「システム保守費? 緊急対応? ……私の記憶では、そんな稟議を通した覚えはないのだけれど」



「それは、私の操作ではありません」



 私は即座に答えた。「何者かが私のIDを偽装し、不正に承認を行ったものです。その証拠に、アクセスログの解析結果を持参しました」



 すずが一歩前に出て、タブレットを差し出した。



「これが解析データです。アクセス元のIPは偽装されていますが、パケットの経由地を逆探知しました。この通信は、社内の特権回線……つまり、ここ役員フロアの回線を経由しています」



 すずの声は震えていなかった。彼女の美貌は、権力者を前にしても曇ることはない。

 だが、東鶴はタブレットを見ようともしなかった。

 ただ、悲しげに眉を下げて、ため息をついただけだ。



「……残念だわ、葛石さん」



 彼女は私を見た。まるで、嘘をつく子供を諭す母親のような目で。



「部下の女の子に、そんな偽造データを作らせてまで、保身を図るなんて」



「なっ……!」



 すずが絶句する。



「偽造? 違います。これは事実です!」



 私が叫ぶと、東鶴は静かに首を横に振った。



「事実とは、誰が見ても明らかなもののことを言うのよ。……京滝室長?」



 話を振られた京滝が、重い口を開いた。



「……はい。先日、葛石監査員から、私に持ちかけられました。『開発推進室の裏金問題を不問にする代わりに、システム保守費の名目で金を用意しろ』と」



 時が止まった気がした。

 京滝が、嘘をついている。それも、あからさまな嘘を。

 彼は私と目を合わせようとしない。その手元の革手帳を、強く握りしめているだけだ。



「馬鹿な……! 京滝室長、貴方は自分が何を言っているのか分かっているんですか!?」



 合渡が激昂した。



「それは偽証罪だ! 名誉毀損だ!」



「合渡さん、落ち着いて」

 東鶴が冷ややかに制した。



「証言はこれだけではありません。葛石さんのPCからは、海外口座への送金プログラムが見つかったと、情報システム部から報告が上がっています」



 外堀が、埋められている。

 完璧に。

 私のIDでの承認記録。京滝の証言。そして、私のPCに仕込まれた送金プログラム。

 これら全てが、「葛石徹が主犯」という物語を構成している。



「葛石さん」



 東鶴が立ち上がり、窓際に歩み寄った。彼女の背後には、東京の青空が広がっている。だが、今の私には、それがガラスの棺桶の蓋に見えた。



「会社としては、これ以上スキャンダルを広げたくないの。……貴方が罪を認め、自主退職してくれるなら、刑事告訴は見送りましょう。退職金も色を付けてあげる」



 彼女は振り返り、悪魔的なまでに美しい笑顔を向けた。



「それが、貴方にとっても、会社にとっても、一番『綺麗』な解決策だと思わない?」



 取引。

 いや、これは脅迫だ。

 私の社会的生命を人質に取った、究極のパワハラ。



 私は拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込み、痛みで意識が鮮明になる。

 ここで頷けば、楽になれる。

 広報時代のように、嘘を飲み込み、泥を被れば、すべてが終わる。



 だが。

 私の背後には、すずがいる。合渡がいる。

 そして、地下室で助けを求めた門廻や黨がいる。

 彼らを裏切って、自分だけが「綺麗」に終わるなんて、死んでもできない。



「……お断りします」



 私は顔を上げた。

 東鶴の完璧な笑顔が、わずかに凍りつくのを見た。



「私はやっていない。そして、貴方が隠そうとしている『真実』を、必ず暴き出してみせる。……たとえ、この会社を敵に回しても」



 東鶴の目が細められた。

 その瞬間、彼女の纏っていた「聖母」の仮面が剥がれ落ち、底知れない「捕食者」の本性が露わになった。



「……そう。残念ね」



 彼女の声は、絶対零度の冷たさだった。



「なら、徹底的にやりましょう。……どちらが壊れるか、楽しみだわ」



 彼女が指を鳴らすと、扉が開き、警備員が入ってきた。

 もはや、交渉決裂だ。



 私たちは部屋を追い出されるようにして去った。

 エレベーターホールに向かう廊下で、私は一度だけ振り返った。

 閉ざされた扉の向こうにいる「女王」の姿は見えない。だが、彼女が張り巡らせた見えない糸が、すでに私の首に巻き付いているのを感じた。



 圧力は、これから本格化する。

 地下室へ戻るエレベーターの中で、私たちは一言も発さなかった。

 だが、全員の目が語っていた。

 これは終わりではない。始まりだと。
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