通報窓口、ただいま炎上中

ken

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蘇る告発状

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 東都テクノリンク本社、最上階。副社長応接室。

 足首まで沈み込むような毛足の長い絨毯の上で、私は東鶴襟華と対峙していた。

 窓の外には、突き抜けるような青空が広がっている。だが、この部屋の空気は、深海のように重く、そして冷たかった。



「……葛石さん。貴方のその頑固さ、嫌いじゃないわ」



 東鶴は、ウェッジウッドのティーカップをソーサーに戻した。磁器が触れ合う硬質な音が、静寂の中で不吉な鐘のように響く。

 彼女は、真珠色のシルクのスーツに身を包み、完璧な微笑みを湛えている。その美貌は、退廃的な気品と、すべてを見透かす残酷な知性を漂わせていた。



「でもね、現実を見なさい。貴方のIDから不正送金が行われたというログは、消せない事実なの。私が警察に一本電話を入れれば、貴方は今夜、留置所の中よ」



 脅しではない。事実の通告だ。

 私の隣で、合渡悠作が動こうとしたが、私はそれを手で制した。これは私と彼女の、かつての「共犯者」同士の会話だ。



「……警察沙汰になれば、会社の株価も暴落します。貴方がそれを望んでいるとは思えない」



 私が喉の乾きを覚えながら言うと、東鶴は楽しげに目を細めた。



「ええ、そうね。だからこそ、私は貴方に『救済策』を提案しているのよ」



 彼女はデスクの上の書類を、滑るように私の方へ押し出した。

『内部通報制度運用規定 改定案』と記されたその書類。



「貴方は今、不正の嫌疑をかけられている。そんな人間が、正義の砦である監査窓口を管理しているのは……ガバナンス上、問題があるでしょう?」



 彼女の声は、甘い毒薬のように耳に絡みつく。



「だから、ほとぼりが冷めるまで、通報窓口の管理権限の一部を、リスク管理委員会――つまり私の直轄に移譲しなさい。そうすれば、貴方の身の潔白が証明されるまで、私が貴方を守ってあげられる」



 守る? 違う。

 これは「口封じ」だ。

 窓口に届く不都合な通報を、彼女が直接握りつぶせる仕組みを作るための、合法的な乗っ取り。

 私が頷けば、この会社から「真実」が届く場所は永遠に失われる。



「……お断りします」



 私は書類を押し返した。



「監査の独立性は、社長決裁でもない限り譲れません。それに、私を守る必要はありません。私の潔白は、私の部下たちが証明しますから」



 東鶴の笑顔が、ふっと消えた。

 その瞬間、部屋の気温が数度下がったような錯覚を覚える。



「……そう。残念ね」



 彼女は冷めた紅茶を見つめたまま、独り言のように呟いた。



「飼い犬が手を噛むようじゃ、保健所に連絡するしかないのかしら」



 逃げるようにして地下2階へ戻った私たちの背中には、冷や汗が張り付いていた。

 特命調査室の重いセキュリティドアを閉めると、ようやく肺に酸素が入ってきた気がした。



「……あの女、本気ね」



 入坂すずが、自身の聖域であるゲーミングチェアに深々と沈み込んだ。

 緊張の糸が切れたのか、彼女は引き出しから輸入物の板チョコを取り出し、包装紙を乱暴に剥がして齧り付いた。

 その横顔は、25歳という年齢よりもずっと幼く、同時に妖艶に見える。無造作な亜麻色の髪が頬にかかり、モニターのブルーライトを受けて透き通るような白さを際立たせていた。彼女がチョコを噛み砕く音だけが、静寂な部屋に響く。



「窓口の権限を寄越せなんて、図々しいにも程があるわ。私の城を、あんな香水臭い女に触らせるもんですか」



 すずは悪態をつきながらも、その指先は高速でキーボードを叩き、ファイアウォールの強度を再確認している。



「しかし、猶予はありません」



 合渡が、いつものように冷静さを取り戻して眼鏡を拭いた。



「彼女が次の手を打ってくる前に、我々の潔白を証明し、かつ敵の不正を暴かなければならない。……手詰まりに近い状況ですが」



 その時だった。

 すずのメインモニターに、真っ赤な警告色が点滅した。



 ピコン、ピコン、ピコン。



 メールの着信音ではない。データベースの更新通知だ。



「……え?」



 すずの手が止まった。口元のチョコレートが落ちそうになる。



「嘘でしょ……。戻ってきた」



「何がだ?」



 私が彼女の背後に回り込み、画面を覗き込む。



 そこに表示されていたのは、以前、私たちの目の前で痕跡もなく消去されたはずの、あの通報だった。



『件名:品質保証部における検査データ改ざん、および虚偽報告について』



 本文には、以前の内容に加え、新たな一行が追記されていた。



『今度は、消さないでほしい。これが最後の勇気です』



 亡霊が蘇ったかのような衝撃に、私は息を呑んだ。



「どういうことだ? 誰かが再送したのか?」



「いいえ、違う」



 すずの瞳孔が開く。彼女は猛烈な勢いでログを解析し始めた。画面に緑色の文字列が滝のように流れる。



「これ、正規の通報フォームからの投稿じゃない。……バックエンドから、直接データベースに『挿入』されているわ」



「ハッキングか?」

「ええ。それも、以前データを消した『神』と同レベルの権限を持つ何者かが。……でも、今回は消すためじゃなく、復活させるために力を使っている」



 すずは震える手で唇に触れた。



「敵は一枚岩じゃないのかもしれない。あるいは、敵の懐の中に、私たちに情報を流したがっている裏切り者がいる……?」



 誰の仕業かは分からない。

 だが、メッセージは明確だ。『これを調べろ』と、誰かが私たちに弾を込めた銃を渡してくれたのだ。



「……行きましょう、葛石さん」



 合渡が立ち上がり、ジャケットの襟を正した。



「この『復活した証言』を、二度と消させるわけにはいかない。ターゲットは品質保証部です」



 本社工場の敷地内にある、品質管理棟。

 そこは、本社ビルのような華やかさも、地下室のような澱みもない、無機質で清潔すぎる空間だった。

 廊下には消毒液の匂いが漂い、すれ違う社員たちは皆、白衣や防塵服に身を包んでいる。彼らの目は、数字と規格以外のものを映すことを拒んでいるように見えた。



 第2品質保証課、課長席。

 そこに座っていた男――新方誠は、私たちの来訪を知っても、顔を上げようとしなかった。



「……何のご用でしょうか。今は出荷前の最終検査で忙しいのですが」



 45歳の新方課長は、擦り切れた白衣を着ていた。その背中は丸まり、常に何かに怯えるように肩をすくめている。

 彼のデスクには、胃薬の瓶と、大量の承認印待ちの書類が山積みにされていた。



「単刀直入に伺います、新方課長」



 私が切り出すと、彼はビクリと身体を震わせた。



「貴部署において、検査データの改ざんが行われているという通報がありました。……それも、一度消され、再び届くほどの執念を持って」



 新方は、ゆっくりと顔を上げた。

 その目は充血し、目の下には深いクマが刻まれている。視線は定まらず、無意識に自分の喉元を押さえるような仕草をした。



「……改ざん? 馬鹿なことを。我々はISOの基準に従って、厳正な検査を行っています。データはすべてシステムで自動記録されており、人がいじる余地などありません」



 教科書通りの回答。だが、その声は微かに震えている。



「ええ、システム上は完璧ね」



 すずが一歩前に出た。この無菌室のような空間で、彼女の存在は異物のように鮮烈だった。



「でも、物理法則までは誤魔化せないわ」



 すずはタブレットを新方の目の前に突きつけた。



「これを見て。過去半年間の、主力製品『TX-900』の歩留まり率の推移グラフよ」



 画面には、見事な右肩上がりのグラフが表示されていた。



「半年前まで85%前後だった歩留まりが、ある日を境に99.8%まで向上している。……神がかった技術革新でもない限り、ありえない数字ね」



「げ、現場の努力です。工程改善が進んだ結果で……」



 新方が早口で弁解する。



「努力で物理法則が変わるなら苦労はないわ」



 すずは冷徹に言葉を被せた。



「そして、これが決定的証拠。同じ期間の、顧客からの『返品率』のグラフ」



 すずが画面を切り替えると、そこには赤い折れ線グラフが表示された。

 歩留まり率が向上した時期と完全に同期して、返品率が急激に跳ね上がっている。



「工場から出る時は『良品』だったはずの製品が、顧客の手に渡った途端に『不良品』として返ってきている。……おかしいわよね? 検査が正しいなら、このギャップは生まれないはず」



 すずは新方の目を覗き込んだ。その濡れた瞳は、嘘を許さない。



「答えは一つ。不良品を『良品』と書き換えて出荷しているからよ。……違う?」



 新方の顔から、血の気が引いていく。

 彼は白衣のポケットの中で、何かを強く握りしめた。おそらく、精神安定剤のシートだろう。



「……貴方たちに、現場の何が分かるんですか」



 新方は、絞り出すような声で言った。



「100%の安全なんて、神様しか作れない。私たちは人間なんです。納期、コスト、上からの圧力……その中で、ギリギリの調整をしているだけだ!」



「それを『改ざん』と呼ぶのです」



 合渡が静かに、しかし重く告げた。



「その『調整』によって、市場には欠陥品が出回っている。もし事故が起きれば、それは未必の故意――つまり、殺人と同じですよ、新方課長」



「ひっ……!」



 新方は言葉を失い、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。

 彼の「品質の番人」としてのプライドは、すでに組織の論理によってズタズタに引き裂かれていたのだ。



 私は、彼の震える肩に手を置こうとして、止めた。

 彼もまた、被害者なのだ。かつての私と同じように。

 だが、ここで引くわけにはいかない。



「誰の指示ですか?」



 私は静かに問うた。



「貴方一人の判断じゃないはずだ。誰が、貴方に嘘をつかせているんですか?」



 新方は口をパクパクと動かしたが、声にはならなかった。

 恐怖。

 彼の口を塞いでいるのは、東鶴という絶対権力者への、あるいはもっと深い闇への根源的な恐怖だった。



 その時、廊下の向こうから、けたたましいアラーム音が聞こえてきた。

 工場のラインが止まる音だ。



「……あいつだ」



 新方が、うわ言のように呟いた。



「あいつが……もう耐えられなくなったんだ……」



 私たちは顔を見合わせ、アラームの鳴る方角――製造ラインの現場へと走り出した。

 消毒液の匂いが薄れ、代わりに鉄と油の匂いが濃くなっていく。

 そこで待っているのは、もう一人の「共犯者」であり、この事件の最大の鍵を握る男――鴨飛田に違いなかった。



 蘇った告発状が導く先には、東都テクノリンクが隠し続けてきた、腐り落ちた心臓部があった。
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