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第一章:開かずのフォルダと遺された愛
第11話 幽霊の声とヘッドホンの少女(前編)
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神保町の地下、スパイスと古書の香りが染み付いた『デジタル・アーカイブス社』。
ここ最近、所長の阿部邦彦は新たなブームにハマっていた。
「……温度が高い。ライスペーパーが破れる」
阿部さんは、真剣な眼差しでバットに張られたぬるま湯を見つめている。
その手にあるのは、透き通るような薄いライスペーパーだ。
彼はそれを一瞬だけ湯にくぐらせると、素早くまな板の上に広げた。
「石川、エビだ。背ワタは取ったか?」
「完璧です。レモングラスで茹でてあります」
「よし。春雨、大葉、ミント、ニラ……配置のバランスを崩すなよ。断面の美学だ」
阿部さんはピンセットのような繊細さで具材を並べると、一気に、しかし優しく巻き上げた。
クルッ、キュッ。
出来上がったのは、ガラス細工のように美しい生春巻きだ。
プリプリのエビの赤と、ハーブの緑が透けて見える。プロのベトナム料理人が作ったと言われても信じるレベルだ。
「……完成だ。タレは自家製ヌクチャムと、濃厚ピーナッツソースの2種類用意した」
「すごーい! お店みたいですね!」
私が歓声を上げると、阿部さんは満足げに頷き、冷蔵庫からキンキンに冷えた炭酸水の瓶を取り出した。
グラスに注ぐと、シュワシュワと強烈な泡が立ち上る。中に浮かべたライムのスライスが涼しげだ。
「生春巻きのハーブの香りを殺さないためには、酒よりも無糖の強炭酸水がベストだ。口の中をリセットし、次のひと口を新鮮にする」
「なるほど……。じゃあ、いただきまーす!」
私が生春巻きに手を伸ばした、その時だった。
事務所の隅にある段ボール箱から、「ミャー」という可愛い鳴き声が聞こえた。
先日、私たちが保護した子猫だ。名前はまだない。
「おっと、ごめんね。ご飯の時間だね」
私が席を立とうとすると、不意に入り口のインターホンが鳴った。
予約の時間だ。
「……チッ。タイミングの悪い客だ」
阿部さんは舌打ちしつつも、作りたての生春巻きに乾燥防止のラップをかけ、デスクに戻った。
私はジャケットを整え、ドアを開ける。
「いらっしゃいませ。デジタル・アーカイブス社へようこそ」
そこに立っていたのは、これまでの依頼人とは少し毛色の違う少女だった。
年齢は20歳そこそこだろうか。
ダボッとしたオーバーサイズのパーカーに、古着っぽいダメージジーンズ。
長い黒髪は無造作で、首には存在感のある大きなヘッドホンが掛かっている。
その瞳は大きく、小動物のように愛らしいが、どこか気怠げで、世界を拒絶しているような冷たさがあった。
「……ここ、パスワードとか解いてくれる店?」
彼女はガムを噛みながら、ぶっきらぼうに言った。
「はい、そうです。ご予約の小川様ですね?」
「ん。みずほでいいよ」
彼女――小川みずほさんは、私の案内を待たずにズカズカと中に入ると、ソファに深く沈み込んだ。
そして、テーブルの上の生春巻きをチラリと見た。
「へえ。美味そうじゃん。ここカフェ?」
「いえ、データ復旧業者です。……ご依頼の内容をお伺いしても?」
阿部さんがモニター越しに声をかける。
みずほさんは阿部さんを一瞥し、「ふーん」と鼻を鳴らした。
「あんたが店長? もっとアキバ系のオタクかと思ったけど、意外とイケオジじゃん」
「……用件を言え」
「短気だねえ」
みずほさんはポケットからスマートフォンを取り出し、テーブルに放り投げた。
画面にはヒビが入っている。
「これ、死んだ友達のスマホ。……ユナっていうんだけどさ」
「お友達の遺品、ということですか?」
「そ。先週、廃ビルから飛び降りて死んだ。警察は自殺だって言ってる」
彼女の声は平坦だった。悲しんでいるのか、怒っているのか、感情が読み取れない。
「でもさ、私にはどうしても信じらんないんだよね。ユナ、死ぬ前日に『新しい靴買った』って喜んでたし。……それに、これが送られてきたから」
みずほさんはスマホを操作し、あるメッセージアプリの画面を開いた。
送信者は『ユナ』。
受信時刻は、死亡推定時刻の直前。
そこには、1件のボイスメッセージが残されていた。
「これ、聞いてみて」
再生ボタンが押される。
ザーッ、というノイズ。風の音のようなものが聞こえる。
そして。
『…………う、うぅ……』
微かだが、確かに聞こえた。
低く、苦しげな、男のうめき声のような音。
ゾクリと背筋が凍る。
私は思わず自分の二の腕をさすった。
「……今の、聞こえました?」
「聞こえたろ? 男の声」
みずほさんは真顔で言った。
「でも、警察は『ただのノイズだ』って取り合ってくれなかった。風の音が歪んでそう聞こえるだけだって。……でもさ、私には分かるんだよ。これ、生身の人間が出してる音じゃない」
「え?」
「この声、ユナが死んだ廃ビルに憑いてる地縛霊の声だよ。ユナはそいつに呪い殺されたんだ」
――地縛霊。
予想外の単語に、私は言葉を失った。
心霊現象の相談? ここは寺でも神社でもないのに。
「だから依頼に来たの。このボイスデータを解析して、霊の声をはっきりさせてほしい。そんで、供養する前に正体を突き止めてほしいんだ」
みずほさんは真剣そのものだった。
しかし、阿部さんは冷たく言い放った。
「帰れ」
「は?」
「うちはオカルト屋じゃない。幽霊など存在しない。データは0と1だ。霊魂が入り込む余地などない」
「否定すんの早っ。頭固いなーおじさん」
「事実だ。その音声は、単なる風切り音か、圧縮アルゴリズムによるアーティファクトだ。MP3やAACなどの圧縮形式では、高周波をカットする際に予期せぬ歪みが生じることがある。それを人間の脳が勝手に『人の声』だと誤認しているに過ぎない。パレイドリア効果だ」
阿部さんは専門用語を並べ立てて一蹴した。
いつもの彼だ。非科学的なものを徹底的に嫌う合理主義者。
「……ふーん。データ至上主義ってやつ?」
みずほさんはムッとするでもなく、首にかけていたヘッドホンを手に取った。
かなり使い込まれた、プロ仕様のモニターヘッドホンだ。
「でもさ、データじゃ測れない音ってのもあるんだよ。……私、絶対音感あるんだ」
「絶対音感?」
「うん。それも結構いいやつ。空気清浄機のファンの回転数とか、蛍光灯のジーッていう音の音程まで分かっちゃうレベル」
彼女は自分の耳を指差した。
「この耳が言ってるの。『これは機械的なノイズじゃない』って。……波形が違うんだよ。風とも、電気信号とも違う。喉と声帯を使って出した、有機的な振動の音がするの」
「……」
「おじさん、パソコンの画面ばっか見てるから分かんないんだよ。音には『温度』があるんだってば」
みずほさんの言葉に、阿部さんの手が止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、みずほさんを観察した。
その視線は、面倒な客を見る目ではなく、興味深い標本を見る目に変わっていた。
「……絶対音感か」
「嘘だと思うならテストしてみる?」
「いいだろう」
阿部さんはキーボードを叩き、何かのソフトを立ち上げた。
そして、スピーカーから「ピー」という電子音を流した。
「440Hz」
「正解。次は?」
「ピーッ」
「442Hz。……今のチューニング、ちょっと狂ってない? 気持ち悪い」
「……」
阿部さんは眉をひそめた。
1Hz単位の違いなど、普通の人間には聞き分けられない。
しかし、彼女は即答した。それも、まるで色の違いを指摘するかのように当たり前に。
「……なるほど。嘘ではなさそうだな」
「でしょ? だから信じてよ。あのボイスメッセージには、『何か』が居るの」
みずほさんは身を乗り出した。
阿部さんは眼鏡を押し上げ、ニヤリと笑った。
「幽霊は信じない。……だが、お前のその『耳』には興味がある」
「え?」
「機械のセンサーでも拾えない微細な違和感を、人間が知覚する。……面白い。お前がそこまで言うなら、そのノイズの正体、デジタルで丸裸にしてやる」
阿部さんはみずほさんのスマホを受け取り、ケーブルに繋いだ。
解析ツールが波形を表示する。
ギザギザとした緑色の波。
素人の私には、ただの雑音にしか見えない。
「石川、スピーカーの準備だ。あと、そこの生春巻きを片付けろ」
「えっ、食べるんですか?」
「解析しながら食う。……おい小川、お前も食うか?」
「え、いいの? お腹空いてたんだよねー」
みずほさんは遠慮なく生春巻きをつまみ上げ、ヌクチャムをたっぷりつけて口に運んだ。
シャキッ、という野菜のいい音がする。
「……ん! ウマっ!」
彼女の目が大きく見開かれた。
「何これ、マジでウマいんだけど! このタレ、絶妙! パクチーの香りが生きてる!」
「……味の分かる舌も持っているようだな」
「おじさん、何者? 料理人?」
「デジタル遺品整理士だ」
阿部さんも自分の分の生春巻きを頬張り、炭酸水で流し込んだ。
シュワッ、と喉を鳴らす。
「さて……やるぞ」
阿部さんはヘッドホンを装着し、音声解析ソフトのパラメータをいじり始めた。
「まず環境音を除去する。風切り音の周波数帯をカット。……次に、ヒスノイズを低減」
モニター上の波形が変化していく。
スピーカーから流れる音が、徐々にクリアになっていく。
最初は「ザー」という音だけだったのが、「ゴー」という低い音が混ざっているのが分かってきた。
「……聞こえるか、小川」
「うん。後ろで何か回ってる。……換気扇かな?」
「正解だ。低周波のモーター音が一定のリズムで入っている。……そして、問題の『うめき声』だ」
阿部さんが特定の箇所をループ再生する。
『……う、うぅ……』
ノイズが消えた分、その声はより生々しく、不気味に響いた。
確かに、人の声だ。
苦しんでいるような、あるいは何かを訴えようとしているような。
「……やっぱり、お化けだよこれ」
みずほさんが青ざめた顔で呟く。
「周波数解析にかける。……声門紋を抽出」
阿部さんの指が高速で動く。
画面に、声の成分を示すスペクトログラムが表示された。
「……ふむ。確かに人間の声帯に近い特徴が出ている。だが、妙だな」
「何が?」
「倍音が少なすぎる。それに、音が『平坦』だ。感情の揺らぎがない」
「どういうこと?」
「人間が苦しんでうめく時、声はもっと不安定になる。だがこの声は、まるで一定の音量で再生されたかのように均一だ。……つまり」
阿部さんはヘッドホンを外し、みずほさんを真っ直ぐに見た。
「これは、その場で発せられた『生の声』じゃない。……『スピーカーから流れた音』を録音したものだ」
「えっ……?」
「誰かが、何らかの意図を持って、この『うめき声』の音源を現場で再生し、それをボイスメッセージに録音させた可能性がある」
場の空気が凍りついた。
幽霊よりももっと怖い、人間の悪意の匂いがした。
「それって……ユナは自殺じゃなくて、誰かにハメられたってこと?」
「まだ断定はできない。だが、この音声には作為的な加工の痕跡がある。……心霊現象なんかじゃない。もっと現実的で、ドロドロした犯罪の匂いだ」
みずほさんは拳を握りしめた。
その瞳に、怒りの色が宿る。
「……調べて。徹底的に」
「ああ。乗りかかった船だ」
阿部さんは生春巻きの最後の一口を食べ終え、不敵に笑った。
「幽霊の正体を暴いてやる。……石川、ヘッドホンをもう一つ用意しろ。長丁場になるぞ」
「はい!」
私は機材棚へ走った。
子猫がまた「ミャー」と鳴いた。
みずほさんは、ふと子猫の方を見て、少しだけ表情を緩めた。
「猫、いんの?」
「ええ。最近拾ったんです」
「……へえ。いい店じゃん」
彼女はそう呟くと、再び厳しい顔でモニターに向き直った。
デジタル解析のプロ・阿部邦彦と、絶対音感を持つ少女・小川みずほ。
異色のコンビによる、「音」の捜査が始まった。
炭酸水の泡が、パチパチと弾ける音が、静かな地下室に響いていた。
それはまるで、これから暴かれる真実のカウントダウンのようだった。
ここ最近、所長の阿部邦彦は新たなブームにハマっていた。
「……温度が高い。ライスペーパーが破れる」
阿部さんは、真剣な眼差しでバットに張られたぬるま湯を見つめている。
その手にあるのは、透き通るような薄いライスペーパーだ。
彼はそれを一瞬だけ湯にくぐらせると、素早くまな板の上に広げた。
「石川、エビだ。背ワタは取ったか?」
「完璧です。レモングラスで茹でてあります」
「よし。春雨、大葉、ミント、ニラ……配置のバランスを崩すなよ。断面の美学だ」
阿部さんはピンセットのような繊細さで具材を並べると、一気に、しかし優しく巻き上げた。
クルッ、キュッ。
出来上がったのは、ガラス細工のように美しい生春巻きだ。
プリプリのエビの赤と、ハーブの緑が透けて見える。プロのベトナム料理人が作ったと言われても信じるレベルだ。
「……完成だ。タレは自家製ヌクチャムと、濃厚ピーナッツソースの2種類用意した」
「すごーい! お店みたいですね!」
私が歓声を上げると、阿部さんは満足げに頷き、冷蔵庫からキンキンに冷えた炭酸水の瓶を取り出した。
グラスに注ぐと、シュワシュワと強烈な泡が立ち上る。中に浮かべたライムのスライスが涼しげだ。
「生春巻きのハーブの香りを殺さないためには、酒よりも無糖の強炭酸水がベストだ。口の中をリセットし、次のひと口を新鮮にする」
「なるほど……。じゃあ、いただきまーす!」
私が生春巻きに手を伸ばした、その時だった。
事務所の隅にある段ボール箱から、「ミャー」という可愛い鳴き声が聞こえた。
先日、私たちが保護した子猫だ。名前はまだない。
「おっと、ごめんね。ご飯の時間だね」
私が席を立とうとすると、不意に入り口のインターホンが鳴った。
予約の時間だ。
「……チッ。タイミングの悪い客だ」
阿部さんは舌打ちしつつも、作りたての生春巻きに乾燥防止のラップをかけ、デスクに戻った。
私はジャケットを整え、ドアを開ける。
「いらっしゃいませ。デジタル・アーカイブス社へようこそ」
そこに立っていたのは、これまでの依頼人とは少し毛色の違う少女だった。
年齢は20歳そこそこだろうか。
ダボッとしたオーバーサイズのパーカーに、古着っぽいダメージジーンズ。
長い黒髪は無造作で、首には存在感のある大きなヘッドホンが掛かっている。
その瞳は大きく、小動物のように愛らしいが、どこか気怠げで、世界を拒絶しているような冷たさがあった。
「……ここ、パスワードとか解いてくれる店?」
彼女はガムを噛みながら、ぶっきらぼうに言った。
「はい、そうです。ご予約の小川様ですね?」
「ん。みずほでいいよ」
彼女――小川みずほさんは、私の案内を待たずにズカズカと中に入ると、ソファに深く沈み込んだ。
そして、テーブルの上の生春巻きをチラリと見た。
「へえ。美味そうじゃん。ここカフェ?」
「いえ、データ復旧業者です。……ご依頼の内容をお伺いしても?」
阿部さんがモニター越しに声をかける。
みずほさんは阿部さんを一瞥し、「ふーん」と鼻を鳴らした。
「あんたが店長? もっとアキバ系のオタクかと思ったけど、意外とイケオジじゃん」
「……用件を言え」
「短気だねえ」
みずほさんはポケットからスマートフォンを取り出し、テーブルに放り投げた。
画面にはヒビが入っている。
「これ、死んだ友達のスマホ。……ユナっていうんだけどさ」
「お友達の遺品、ということですか?」
「そ。先週、廃ビルから飛び降りて死んだ。警察は自殺だって言ってる」
彼女の声は平坦だった。悲しんでいるのか、怒っているのか、感情が読み取れない。
「でもさ、私にはどうしても信じらんないんだよね。ユナ、死ぬ前日に『新しい靴買った』って喜んでたし。……それに、これが送られてきたから」
みずほさんはスマホを操作し、あるメッセージアプリの画面を開いた。
送信者は『ユナ』。
受信時刻は、死亡推定時刻の直前。
そこには、1件のボイスメッセージが残されていた。
「これ、聞いてみて」
再生ボタンが押される。
ザーッ、というノイズ。風の音のようなものが聞こえる。
そして。
『…………う、うぅ……』
微かだが、確かに聞こえた。
低く、苦しげな、男のうめき声のような音。
ゾクリと背筋が凍る。
私は思わず自分の二の腕をさすった。
「……今の、聞こえました?」
「聞こえたろ? 男の声」
みずほさんは真顔で言った。
「でも、警察は『ただのノイズだ』って取り合ってくれなかった。風の音が歪んでそう聞こえるだけだって。……でもさ、私には分かるんだよ。これ、生身の人間が出してる音じゃない」
「え?」
「この声、ユナが死んだ廃ビルに憑いてる地縛霊の声だよ。ユナはそいつに呪い殺されたんだ」
――地縛霊。
予想外の単語に、私は言葉を失った。
心霊現象の相談? ここは寺でも神社でもないのに。
「だから依頼に来たの。このボイスデータを解析して、霊の声をはっきりさせてほしい。そんで、供養する前に正体を突き止めてほしいんだ」
みずほさんは真剣そのものだった。
しかし、阿部さんは冷たく言い放った。
「帰れ」
「は?」
「うちはオカルト屋じゃない。幽霊など存在しない。データは0と1だ。霊魂が入り込む余地などない」
「否定すんの早っ。頭固いなーおじさん」
「事実だ。その音声は、単なる風切り音か、圧縮アルゴリズムによるアーティファクトだ。MP3やAACなどの圧縮形式では、高周波をカットする際に予期せぬ歪みが生じることがある。それを人間の脳が勝手に『人の声』だと誤認しているに過ぎない。パレイドリア効果だ」
阿部さんは専門用語を並べ立てて一蹴した。
いつもの彼だ。非科学的なものを徹底的に嫌う合理主義者。
「……ふーん。データ至上主義ってやつ?」
みずほさんはムッとするでもなく、首にかけていたヘッドホンを手に取った。
かなり使い込まれた、プロ仕様のモニターヘッドホンだ。
「でもさ、データじゃ測れない音ってのもあるんだよ。……私、絶対音感あるんだ」
「絶対音感?」
「うん。それも結構いいやつ。空気清浄機のファンの回転数とか、蛍光灯のジーッていう音の音程まで分かっちゃうレベル」
彼女は自分の耳を指差した。
「この耳が言ってるの。『これは機械的なノイズじゃない』って。……波形が違うんだよ。風とも、電気信号とも違う。喉と声帯を使って出した、有機的な振動の音がするの」
「……」
「おじさん、パソコンの画面ばっか見てるから分かんないんだよ。音には『温度』があるんだってば」
みずほさんの言葉に、阿部さんの手が止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、みずほさんを観察した。
その視線は、面倒な客を見る目ではなく、興味深い標本を見る目に変わっていた。
「……絶対音感か」
「嘘だと思うならテストしてみる?」
「いいだろう」
阿部さんはキーボードを叩き、何かのソフトを立ち上げた。
そして、スピーカーから「ピー」という電子音を流した。
「440Hz」
「正解。次は?」
「ピーッ」
「442Hz。……今のチューニング、ちょっと狂ってない? 気持ち悪い」
「……」
阿部さんは眉をひそめた。
1Hz単位の違いなど、普通の人間には聞き分けられない。
しかし、彼女は即答した。それも、まるで色の違いを指摘するかのように当たり前に。
「……なるほど。嘘ではなさそうだな」
「でしょ? だから信じてよ。あのボイスメッセージには、『何か』が居るの」
みずほさんは身を乗り出した。
阿部さんは眼鏡を押し上げ、ニヤリと笑った。
「幽霊は信じない。……だが、お前のその『耳』には興味がある」
「え?」
「機械のセンサーでも拾えない微細な違和感を、人間が知覚する。……面白い。お前がそこまで言うなら、そのノイズの正体、デジタルで丸裸にしてやる」
阿部さんはみずほさんのスマホを受け取り、ケーブルに繋いだ。
解析ツールが波形を表示する。
ギザギザとした緑色の波。
素人の私には、ただの雑音にしか見えない。
「石川、スピーカーの準備だ。あと、そこの生春巻きを片付けろ」
「えっ、食べるんですか?」
「解析しながら食う。……おい小川、お前も食うか?」
「え、いいの? お腹空いてたんだよねー」
みずほさんは遠慮なく生春巻きをつまみ上げ、ヌクチャムをたっぷりつけて口に運んだ。
シャキッ、という野菜のいい音がする。
「……ん! ウマっ!」
彼女の目が大きく見開かれた。
「何これ、マジでウマいんだけど! このタレ、絶妙! パクチーの香りが生きてる!」
「……味の分かる舌も持っているようだな」
「おじさん、何者? 料理人?」
「デジタル遺品整理士だ」
阿部さんも自分の分の生春巻きを頬張り、炭酸水で流し込んだ。
シュワッ、と喉を鳴らす。
「さて……やるぞ」
阿部さんはヘッドホンを装着し、音声解析ソフトのパラメータをいじり始めた。
「まず環境音を除去する。風切り音の周波数帯をカット。……次に、ヒスノイズを低減」
モニター上の波形が変化していく。
スピーカーから流れる音が、徐々にクリアになっていく。
最初は「ザー」という音だけだったのが、「ゴー」という低い音が混ざっているのが分かってきた。
「……聞こえるか、小川」
「うん。後ろで何か回ってる。……換気扇かな?」
「正解だ。低周波のモーター音が一定のリズムで入っている。……そして、問題の『うめき声』だ」
阿部さんが特定の箇所をループ再生する。
『……う、うぅ……』
ノイズが消えた分、その声はより生々しく、不気味に響いた。
確かに、人の声だ。
苦しんでいるような、あるいは何かを訴えようとしているような。
「……やっぱり、お化けだよこれ」
みずほさんが青ざめた顔で呟く。
「周波数解析にかける。……声門紋を抽出」
阿部さんの指が高速で動く。
画面に、声の成分を示すスペクトログラムが表示された。
「……ふむ。確かに人間の声帯に近い特徴が出ている。だが、妙だな」
「何が?」
「倍音が少なすぎる。それに、音が『平坦』だ。感情の揺らぎがない」
「どういうこと?」
「人間が苦しんでうめく時、声はもっと不安定になる。だがこの声は、まるで一定の音量で再生されたかのように均一だ。……つまり」
阿部さんはヘッドホンを外し、みずほさんを真っ直ぐに見た。
「これは、その場で発せられた『生の声』じゃない。……『スピーカーから流れた音』を録音したものだ」
「えっ……?」
「誰かが、何らかの意図を持って、この『うめき声』の音源を現場で再生し、それをボイスメッセージに録音させた可能性がある」
場の空気が凍りついた。
幽霊よりももっと怖い、人間の悪意の匂いがした。
「それって……ユナは自殺じゃなくて、誰かにハメられたってこと?」
「まだ断定はできない。だが、この音声には作為的な加工の痕跡がある。……心霊現象なんかじゃない。もっと現実的で、ドロドロした犯罪の匂いだ」
みずほさんは拳を握りしめた。
その瞳に、怒りの色が宿る。
「……調べて。徹底的に」
「ああ。乗りかかった船だ」
阿部さんは生春巻きの最後の一口を食べ終え、不敵に笑った。
「幽霊の正体を暴いてやる。……石川、ヘッドホンをもう一つ用意しろ。長丁場になるぞ」
「はい!」
私は機材棚へ走った。
子猫がまた「ミャー」と鳴いた。
みずほさんは、ふと子猫の方を見て、少しだけ表情を緩めた。
「猫、いんの?」
「ええ。最近拾ったんです」
「……へえ。いい店じゃん」
彼女はそう呟くと、再び厳しい顔でモニターに向き直った。
デジタル解析のプロ・阿部邦彦と、絶対音感を持つ少女・小川みずほ。
異色のコンビによる、「音」の捜査が始まった。
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