死者からの検索履歴、削除しますか? ~デジタル遺品整理室の暗号解読~

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第二章:黒い履歴と白い嘘

第28話 邦彦の過去編「コードネーム・ゼロ」(前編)

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 神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』の業務は、データの復元だけではない。
 時には、小さな命のメンテナンスも含まれる。

「……観念しろ。これは義務だ」

 所長の阿部邦彦は、デスクの下に潜り込んだ茶白の毛玉を睨みつけていた。
 子猫だ。
 普段は阿部の後をついて回る甘えん坊だが、今日は動物的な勘で察知したらしい。
 阿部が手に持っているプラスチック製のキャリーケースが、自由を奪う牢獄であることを。

「シャーッ!」
「威嚇しても無駄だ。ワクチン接種は法律で決まっている」

 阿部はパーカーの袖をまくり、電光石火の早業で子猫を捕獲した。
 ふわりとした首筋を掴み、素早くケースに滑り込ませる。
 カチッ。ロック完了。

「……ミャァァァン! ミャァァァン!」

 ケースの中から、この世の終わりかと思うような悲痛な叫び声が響く。

「うるさい。……行くぞ、石川」
「はい。……嫌われちゃいましたね、所長」
「健康管理も飼い主の責任だ」

 私たちは近所の動物病院へと向かった。
 待合室には、犬や猫を連れた飼い主たちが大勢いた。
 その中で、サングラスに無精髭、全身黒ずくめの巨漢が、ピンク色のファンシーなキャリーケースを膝に乗せている光景は、あまりに異様で浮いていた。

「……阿部邦彦様ー。猫ちゃん、どうぞー」

 診察室に呼ばれる。
 阿部がケースを開けると、子猫は阿部の腕にしがみついて出てこようとしない。
 爪を立ててパーカーの生地に食い込み、震えている。

「……離せ。先生が困っているだろ」
「ミャー……(イヤだ……)」

 阿部が無理やり引き剥がそうとすると、子猫は「ここが一番安全な場所だ」と言わんばかりに、阿部の胸元に顔を埋めて縮こまった。
 強面の大男の胸に、小さな毛玉が必死にしがみつく図。
 看護師さんが「ぷっ」と吹き出した。

「あー、パパのことが大好きなんでちゅねー」
「……パパじゃない」

 阿部は耳を赤くしながら、なんとか子猫を診察台に乗せた。
 獣医さんが聴診器を当てると、子猫はカチンコチンに固まり、石像のように動かなくなった。瞳孔が開ききっている。

「はい、ちょっとチクッとするよー」

 注射の瞬間。
 子猫は「フニャッ!」と情けない声を上げ、助けを求めるように阿部の方を見た。
 阿部は無言で、震える頭を大きな手で撫でた。
 それだけで、子猫は少し落ち着いたようだった。

「……終わったぞ。よく耐えた」

 ケースに戻された子猫は、また阿部の方をじっと見つめ、「ミャウ(ひどいことしたね)」と文句を言うように小さく鳴いた。

 事務所に戻ると、子猫は疲れ果てて阿部の膝の上で眠ってしまった。
 注射のショックで甘えん坊モードに入ったらしい。
 阿部は文句を言いながらも、片手で子猫を支え、もう片方の手でキーボードを叩いている。

 いつもの平和な光景。
 けれど、私は知っている。この人がつい数日前、国家権力を相手に大立ち回りを演じたことを。
 権田原事件での、あの鮮やかな手際。情報のリーク、証拠隠滅、そして警察さえ手出しできない裏のネットワーク。
 ただの「元警察官」という肩書きだけでは説明がつかない。

「……所長」
「なんだ」
「所長は……昔、どんな警察官だったんですか?」

 私が思い切って尋ねると、阿部の手が止まった。
 キーボードを打つ音が消え、サーバーのファンの音だけが残る。
 阿部はモニターから視線を外さずに、静かに言った。

「……ただの、キーボード叩きだ」
「嘘です。あんな……あんな危ない橋を渡れるなんて、普通じゃありません。涼子さんも言っていました。『あんたは一度死んだようなものだ』って」

 私は食い下がった。
 姉のスマホに残された「ファントム」の痕跡。それを追うためにも、私はこの人の過去を知る必要があると思ったからだ。

「……話してくれませんか。私たちが戦おうとしている相手が、何なのか」

 阿部はゆっくりと椅子を回転させ、私の方を向いた。
 膝の上で眠る子猫の背中を、無意識に撫でながら。
 その目は、どこか遠い、冷たい場所を見ていた。

「……5年前だ」

 阿部が重い口を開いた。

「俺は、警視庁サイバー犯罪対策課にいた。表向きはサイバーテロや不正アクセスを取り締まる部署だ。だが、俺が所属していたのは、そのさらに奥にある非公開の特別班……通称『ゼロ』だ」
「ゼロ……」
「存在しない部署、という意味だ。俺の仕事は、法の手続きを超えて、凶悪犯のサーバーに侵入し、証拠を『抜く』ことだった。……ハッキングだよ。国家公認のな」

 阿部は自嘲気味に笑った。

「俺は腕に自信があった。どんな堅牢なセキュリティも、俺の前では紙切れ同然だった。自分が正義だと信じていたからだ。犯罪者を捕まえるためなら、多少のルール違反は許されると思っていた」

 阿部はコーヒーを一口啜った。

「ある日、俺は上層部からの特命を受けた。ある巨大なデータセンターのセキュリティホールを調査しろ、とな。……それは、表向きは総務省の管轄する統計データサーバーだった」
「統計データ?」
「ああ。だが、侵入して分かった。そこにあったのは、統計なんかじゃない。……国民全員の、リアルタイム監視データだった」

 私は息を呑んだ。

「監視カメラの顔認証ログ、交通系ICカードの移動履歴、クレカの購買記録、SNSの非公開メッセージ、通話記録、病歴……。日本中のあらゆる個人情報が、そこに集約されていた。令状もなしにな」
「そんな……。それが、国のやることですか?」
「『ファントム計画』だ」

 阿部がその名を口にした。

「国民をランク付けし、危険因子を事前に排除するためのシステム。……俺が見つけたのは、そのベータ版だった。俺の上司である管理官は言ったよ。『これは犯罪のない理想郷を作るための神の目だ』とな」

 阿部の声が低く、怒りを帯びていく。

「ふざけるなと思った。これは正義じゃない。支配だ。……俺はプロジェクトへの参加を拒否した。それどころか、内部データをコピーして、告発する準備を始めた」
「……一人で、戦おうとしたんですね」
「若かったんだ。正義は勝つと信じていた」

 阿部の顔が歪んだ。

「だが、甘かった。……俺が信頼していた上司、俺を『ゼロ』に引き抜いてくれた恩人こそが、ファントム計画の中心人物だったんだ」

 阿部は目を閉じた。
 5年前の、雨の日の記憶。

 取調室。
 手錠をかけられた自分の手。
 目の前に座る上司の、残念そうな、しかし冷徹な目。

 『君は優秀すぎたよ、阿部くん。……もう少し、馬鹿になれば幸せになれたのに』

「……俺は逮捕された。容疑は『不正アクセス禁止法違反』。警察のサーバーに侵入し、データを改ざんしたという濡れ衣だ。俺が告発しようとしていた証拠はすべて消され、逆に俺が犯罪者に仕立て上げられた」
「ひどい……」
「懲戒免職。キャリアは抹消され、俺は犯罪者として放り出された。……それだけじゃない」

 阿部が拳を握りしめた。

「俺には相棒がいた。捜査一課の刑事で、俺みたいなオタクとは正反対の、足で稼ぐ熱血漢だ。……そいつだけは、俺の無実を信じてくれた。俺を助けようと、上層部に噛み付いてくれた」
「その人は……?」
「……地方の駐在所に飛ばされたよ。左遷だ。二度と本庁には戻れない僻地にな」

 阿部は吐き捨てるように言った。

「俺は全てを失った。職も、誇りも、信頼していた仲間も。……残ったのは、ハッキングの腕と、このどうしようもない人間不信だけだ」

 膝の上で、子猫が「プゥ」と寝息を立てた。
 阿部はその温もりを確かめるように、優しく撫で続けた。
 その手の動きだけが、彼がまだ人間性を失っていないことを証明していた。

「……それが、俺の過去だ。俺は正義の味方じゃない。組織に負けた敗犬だ」
「違います」

 私は言った。

「所長は負けてません。……だって、今も戦ってるじゃないですか。依頼人のために。真実のために」
「……ただの仕事だ」
「仕事以上のことをしてますよ。……私、ここで働けてよかったと思ってます」

 阿部は少し驚いたように私を見て、それからフンと鼻を鳴らした。

「……物好きな奴だ。だが、覚えておけ。俺たちが追っている『ファントム』は、ただのハッカー集団じゃない。国家そのものだ。……権田原の裏帳簿なんて、氷山の一角に過ぎない」

 阿部はモニターに視線を戻した。
 そこには、権田原のタブレットから抽出されたデータ――ではなく、先日解析した私の姉・由紀子のスマホから見つかった「黒い鳥」のアイコンが表示されていた。

「このマーク。……ファントム計画の、開発コードのシンボルだ」
「えっ……?」
「お前の姉さんは、ただの事故死じゃない。……5年前の俺と同じ、奴らの『不都合な真実』に触れてしまった可能性がある」

 心臓が早鐘を打った。
 姉が、国家の闇に?
 ただの優しい姉だったはずなのに。

「……覚悟はいいか、石川。ここから先は、引き返せないぞ」

 阿部の問いかけに、私は震える声で、それでもはっきりと答えた。

「……はい。知りたいんです。姉の本当の姿を」

 阿部は頷き、エンターキーを叩いた。
 新たな解析プログラムが走り出す。
 それは、5年前に彼が果たせなかった復讐の、第二章の幕開けだった。
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