深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件

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第4章 公私混同の同棲生活

第26話 魔窟のビフォーアフター

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 翌朝。
 カーテンの隙間から差し込む強烈な陽光で、俺は目を覚ました。
 昨夜の暴風雨が嘘のような、台風一過の突き抜けるような青空だ。

「……ん、朝か」

 体を起こすと、足元で丸まっていた豆柴のレオもパチリと目を開けた。
 彼は「よく寝た!」と言わんばかりに大きなあくびをし、それからブルブルと体を振るわせてエンジンを始動させる。

「おはよう、レオ。……よし、散歩に行くか」

 ソファで眠る家主を起こさないように、俺は静かに身支度を整えた。
 レオにリードをつけ、そっと玄関を出る。
 高級マンションの廊下は静まり返っていた。

 外に出ると、洗われたばかりの空気が肺いっぱいに満ちてくる。
 アスファルトはまだ濡れて黒く光り、あちこちに水たまりができていた。

「ほら、行くぞ」

 俺が歩き出すと、レオは短い足を一生懸命に動かしてついてくる。
 生後4ヶ月を過ぎた彼は、好奇心の塊だ。
 道端の濡れた落ち葉をクンクンと念入りに嗅ぎ、植え込みから滴る雫に鼻先を近づけては「冷たっ!」と驚いて後ずさりする。

「……はは、ビビリだな」

 公園に入ると、芝生はまだ水を含んで重たそうだ。
 レオは慎重に足を踏み入れる。
 一歩、二歩。肉球が濡れる感触を確かめるように。
 そして、大丈夫だと判断したのか、急にスイッチが入ったように走り出した。

「おっと、待て待て」

 リードを長めに伸ばしてやると、彼は濡れた芝生の上をぴょんぴょん飛び跳ねるように駆け回る。
 時折立ち止まっては、ブルルッと体を震わせて水滴を飛ばし、また走り出す。
 その黒い毛並みが、朝日に照らされてキラキラと輝いていた。
 台風の爪痕が残る街の中で、この小さな命だけが、変わらぬ日常と活力を体現しているようだった。

「……平和だなぁ」

 俺はベンチの背もたれに寄りかかり、はしゃぐレオを眺めながら缶コーヒーを開けた。
 昨夜の嵐のような避難劇が、遠い昔のことのように思える。
 だが、俺が帰るべき場所は、あの「魔窟」だ。

 マンションに戻ると、李雪はまだソファの上で毛布にくるまっていた。
 モゾモゾと動く毛布の塊。
 俺がレオの足を拭いてリビングに入ると、ボサボサのお団子頭がひょっこりと現れた。

「……んぅ……師匠? ……おはよう」

 寝起きの声は低く、そして無防備だ。
 眼鏡を探して手探りする姿は、会社での「氷の女帝」とは別生物である。

「おはようございます。……よく眠れましたか?」

「……ええ。久しぶりに、一度も起きなかった」

 彼女は大きなあくびをして、眼鏡をかけた。
 そして、部屋を見回し、ハッとしたように固まった。

 昨夜、俺がある程度片付けたとはいえ、朝の容赦ない日差しは、この部屋の惨状をより鮮明に照らし出していた。
 部屋の隅に積み上げられた雑誌タワー。
 ソファの下から覗く、脱ぎ捨てられた服の袖。
 窓ガラスの汚れ。
 薄暗い間接照明の下では誤魔化せていた「生活の澱」が、白日の下に晒されている。

「……うぅ」

 李雪は顔を赤くして、再び毛布の中に潜り込もうとした。

「見ないで……。昨日の夜は、暗かったからセーフだったのに……」

「セーフじゃありませんよ。アウトです」

 俺はカーテンを全開にした。
 光が部屋の隅々まで行き渡る。舞い上がる埃がキラキラと見えるほどだ。

「……李さん。今日は土曜日です。予定は?」

「……ないわよ。昨日の疲れを取るために、一日中ゴロゴロするつもりだったのに」

「変更しましょう」

 俺は腕まくりをした。
 そして、レオをケージに入れて、宣言した。

「大掃除です。……これも、『契約』のうちですから」

「は? け、契約って……夜食の?」

「ええ。貴方の健康管理には、食環境の改善も含まれます。こんな埃っぽい部屋で食事をしても、心身は休まりません。……俺が指揮を執ります。貴方はアシスタントです」

 俺がビシッと言うと、彼女は口をパクパクさせ、それから観念したように肩を落とした。

「……鬼軍曹」

「師匠と呼んでください。さあ、始めますよ!」

 そこからは、まさに戦場だった。
 俺はまず、部屋の換気を徹底し、不要なものを分類する指示を出した。

「この雑誌の山、半年以上前のものですよね? 読みますか?」

「……いつか読むかも」

「読みません。情報は鮮度が命です。必要なページだけ切り抜いて、後は資源ごみへ」

「ううっ……私の情報源が……」

 彼女は渋々ながらも、俺のペースに巻き込まれて動き始めた。
 俺はキッチン周りを担当し、油汚れと戦う。
 彼女にはリビングの「地層」の発掘作業を任せた。

 数十分後。
 リビングの方から、李雪の小さな悲鳴が聞こえた。

「ああっ! 待って、それは……!」

 振り返ると、彼女がクローゼットの奥から何かを隠そうとしている。
 だが、俺の動体視力は逃さなかった。
 雪崩れ落ちてきた服の山の中から転がり出てきたのは――。

 巨大な、サメのぬいぐるみだった。
 しかも、妙にリアルで、口を半開きにした間の抜けた顔をしている。

 『IKEA』のタグが見えた。

「……サメ、ですね」

「み、見ないで! これは違うの! その、衝動買いというか……抱き枕にちょうどいいかなって……!」

 彼女は顔を真っ赤にして、サメを背中に隠した。
 クールなパンツスーツ姿で部下を詰める彼女が、家ではこのサメを抱いて寝ているのか。
 想像しただけで、破壊力が凄まじい。

「……いい趣味だと思いますよ。触り心地が良さそうです」

「……うぅ。忘れて」

 さらに作業を進めると、今度は棚の奥から、歪な形をした毛糸の塊が出てきた。
 どうやらマフラー……のようだが、途中で目が飛んでいたり、幅が極端に変わったりしている。
 前衛芸術のような物体だ。

「……これは?」

「……手芸よ。悪かったわね」

 彼女はふてくされたように言った。

「去年の冬、何か無心になれることを探してて……。でも、説明書通りに編んでるはずなのに、なぜか幾何学的に破綻するのよ。毛糸のテンション制御が難しすぎて、投げ出したわ」

 完璧主義者の彼女らしい挫折理由だ。
 論理で解決できない「感覚の世界」には弱いらしい。

「不器用なんですね、意外と」

「うるさい。……料理と手芸は、私の管轄外なの」

 彼女は毛糸の塊をゴミ袋に放り込もうとした。
 俺はその手を止めた。

「待ってください。……これ、解けばまだ使えます。レオのおもちゃに丁度いい」

 俺は毛糸玉をレオの前に転がした。
 レオは大喜びで飛びつき、毛糸と格闘し始めた。

「……ふふ。リサイクル成功ね」

 彼女の表情が緩む。
 掃除が進むにつれて、彼女の心の鎧も少しずつ剥がれ落ちていくようだった。
 隠していた「恥ずかしいもの」を見られてしまったことで、逆に開き直ったのかもしれない。

 昼過ぎには、部屋は見違えるように綺麗になった。
 床が見える。
 窓ガラスが光を通す。
 空気が軽い。

「……すごい。私の部屋じゃないみたい」

 李雪はピカピカになったリビングを見回し、感嘆の声を上げた。
 ソファに座り込み、心地よさそうに深呼吸をする。

「ありがとうございます、師匠。……貴方、本当に何でもできるのね」

「家事と仕事は似てますからね。段取りと効率化です」

「……耳が痛いわ」

 彼女は苦笑し、俺の隣に座った。
 汗ばんだ肌と、洗剤の匂い。
 労働の後の心地よい疲労感を、二人で共有する。

「……お腹、空いたわね」

「そうですね。……キッチンも片付きましたし、今夜はここで作りましょうか」

「作るって、何を?」

 俺はニヤリと笑った。

「労働の後には、スタミナが必要です。……『手作り餃子』なんてどうですか?」

 夕方。
 俺たちは近所のスーパーで買い出しを済ませ、キッチンに並んで立っていた。
 メニューは、キャベツとニラをたっぷり使った『肉汁焼き餃子』。

 ボウルに豚ひき肉、みじん切りにした野菜、生姜、ニンニク、そして調味料を入れる。
 さらに、俺の隠し味として『鶏ガラスープの煮こごり』を混ぜ込む。これが焼いた時に溶け出し、小籠包のような肉汁爆弾となるのだ。

「よく練ってください。肉の繊維が白っぽくなって、粘りが出るまで」

「了解」

 李雪は真剣な顔で肉をこねる。
 その横顔は、仕事中と同じくらい真剣だ。

「よし、包みましょう」

 テーブルに皮とタネを広げる。
 俺が見本を見せる。
 皮の真ん中にタネを乗せ、縁に水を塗り、ひだを作りながら包んでいく。
 コロンとした、美しい三日月型。

「……難しそう」

 彼女もおそるおそる挑戦する。
 だが、案の定、不器用さが炸裂した。
 ひだが均等にならず、具を入れすぎて皮が破けたり、逆に少なすぎてペタンコになったり。

「ああっ! また破れた!」

「力みすぎです。……こう、優しく」

 俺は彼女の後ろに回り込み、その手に自分の手を重ねた。
 映画『ゴースト』のような体勢。
 彼女の肩がビクッと跳ねる。

「……ひだを寄せる時に、親指で押し込むようにして……」

「……ち、近いのよ、師匠」

 彼女の声が上ずっている。
 俺も意識してしまう。風呂上がりの彼女からは、いい匂いがする。

「……集中してください。餃子は芸術ですよ」

「……はいはい」

 二人で並んで、100個近い餃子を包み終えた。
 形は不揃いだが、それがまた手作りの味だ。

 フライパンに並べ、熱湯を注いで蒸し焼きにする。
 水分が飛んだら、最後にごま油を回し入れて、底面をカリッと焼き上げる。

 ジュワアアアッ!

 最高の音と香りが、ピカピカになったキッチンに響き渡る。

「……できた」

 大皿に盛られた、黄金色の焼き餃子。
 俺たちはリビングのテーブルを囲んだ。
 ペアリングは、冷えた『瓶ビール』。
 餃子の脂には、キレのある苦味が一番だ。

「お疲れ様でした。乾杯」

「乾杯」

 グラスを合わせ、ビールを煽る。
 そして、熱々の餃子をタレにつけて、口に放り込む。

 カリッ。ジュワッ。

「……んん~っ!!」

 李雪が目を閉じて悶絶した。

「美味しい! 外はカリカリなのに、中は肉汁が凄いわ! ……自分で包んだからかしら、今まで食べたどの餃子よりも美味しい」

「労働の対価と、綺麗な部屋の空気。それが最高のスパイスですから」

 俺も頬張る。
 不格好な餃子も混じっているが、味は格別だ。
 何より、彼女と一緒に作ったという事実が、味覚以上の満足感を与えてくれる。

 レオも足元で、茹でたササミをもらって満足げだ。
 綺麗になった部屋。美味しい食事。そして、隣には心を許せるパートナー。
 台風が連れてきたこの「非日常」は、いつの間にか、俺にとっての「理想の日常」になりつつあった。

「……ねえ、師匠」

 ビールで頬を染めた彼女が、とろんとした目で俺を見た。

「ん?」

「……帰したくないわね」

 その言葉に、俺の箸が止まる。
 明日は日曜日。まだ休みだ。
 外はもう夜。帰る理由は……レオの散歩道具を取りに帰るくらいか。

「……泊まっていっても、いいですよ。客間なら空けましたし」

 彼女は視線を逸らしながら、ボソリと言った。

「……それに、レオくんも、もっと遊びたそうだし」

 それは、精一杯の引き止め工作だった。
 俺はレオを見た。彼は李雪の足元で幸せそうに眠っている。
 そして、目の前の彼女を見た。
 サメのぬいぐるみを背中に隠していた、不器用で愛らしい女性。

「……そうですね。お言葉に甘えましょうか」

 俺が答えると、彼女はパッと顔を輝かせ、すぐに「コホン」と咳払いをして真顔に戻った。

「……よし。じゃあ、二次会ね。さっきスーパーで買ったアイス、食べる?」

 彼女は嬉しそうにキッチンへと走っていった。
 その背中を見ながら、俺は確信した。
 この「魔窟」の主は、俺が思っていた以上に寂しがり屋で、そして俺が思っていた以上に、俺の心の中に住み着いてしまっているのだと。

 片付いた部屋の真ん中で、俺たちは長い夜を過ごした。
 それは、ただの同僚でも、ただの共犯者でもない。

 「家族」のような温かさに満ちた時間だった。
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