深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件

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第4章 公私混同の同棲生活

第29話 ミチルの探偵ごっこ

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 その週の半ば、水曜日。
 営業二課のフロアには、平和な午後の光が差し込んでいた。
 だが、俺のデスク周りだけは、不穏な空気に包まれていた。

「……くん、くん」

 犬のような鼻息。
 俺の背後で、誰かが鼻をひくつかせている。
 振り返らなくても分かる。入社2年目の後輩、石井ミチルだ。

「……なんだ、石井。俺が臭うか?」

 俺はキーボードを叩く手を止めずに尋ねた。
 最近は李雪のマンションに入り浸り、風呂も洗濯も向こうで済ませることが多い。加齢臭には気を使っているつもりだが、不安になる。

「いえ、臭くないです。むしろ……」

 ミチルは俺の背中に顔を近づけ、さらにクンクンと匂いを嗅いだ。

「……いい匂いがします。フローラルで、ちょっと高級な柔軟剤の匂い」

「……そうか。加齢臭じゃなくてよかったよ」

「でもセンパイ、以前はこの匂いじゃなかったですよね? 前はもっと、無臭に近いというか、量販店の洗剤の匂いでした」

 鋭い。
 ゲーマーのくせに、こういうところの解像度は無駄に高い。

「洗剤を変えたんだよ。気分転換だ」

「ふーん……。気分転換、ですか」

 ミチルは疑わしげな目を向けたまま、自分のデスクに戻ろうとした。
 その時だった。

「……お疲れ様です、課長」

 フロアの入り口から、李雪課長が戻ってきた。
 手には会議資料を持っている。
 彼女は俺たちの横を通り過ぎ、課長席へと向かう。
 その際、ふわっと風が舞った。

「……あ」

 ミチルが立ち止まり、再び鼻をひくつかせた。

「……くん、くん」

 彼女の視線が、李課長の背中と、俺の背中を高速で往復する。

「……同じだ」

 ミチルがボソリと呟いた。

「え?」

「課長からも、センパイと同じ匂いがします。……全く同じ、フローラルの香り」

 心臓が跳ねた。
 まずい。
 洗濯機を共有しているのだから当然だ。だが、それを悟られるわけにはいかない。

「……偶然だろ」

 俺は冷や汗を隠して、平静を装った。

「あの洗剤、駅前のドラッグストアで山積みセールしてたからな。課長も同じタイミングで買ったんじゃないか?」

「セール? ……あの『氷の女帝』が、特売の洗剤なんて買いますかね?」

「意外と庶民派なのかもしれないぞ。ほら、仕事に戻れ」

 俺は強引に話を打ち切った。
 ミチルは「怪しい……」と呟きながらも、渋々自席に着いた。
 だが、その目は完全に「探偵モード」に入っている。
 何かネタを掴もうと、虎視眈々とこちらを観察しているのが肌で感じられた。

(……これは、まずいな)

 このままでは、遅かれ早かれボロが出る。
 一度、彼女の意識を別の方向に逸らす必要がある。
 俺はスマホを取り出し、物流管理部の「共犯者」にメッセージを送った。

『SOS。陽動を求む』

 数秒後、返信が来た。
 力強いスタンプと共に。

『了解っす! 任せてください!』

 定時後。
 俺はミチルに聞こえるように、少し大きめの声で電話に出た。

「……ああ、お疲れ。今から? 分かった、すぐ行くよ」

 電話を切ると、鞄を持って立ち上がる。

「お先に失礼します」

「あ、センパイ! 今日は飲みに行きませんか?」

 すかさずミチルが食いついてきた。やはりマークされている。

「悪いな。先約があるんだ」

「えー、誰ですか? 彼女?」

「……まあ、そんなところだ」

 俺は意味深に笑って、オフィスを出た。
 背後でミチルが「えっ、マジで!?」と叫ぶのが聞こえる。
 これで、彼女の興味は「センパイと課長の怪しい関係」から「センパイの彼女の正体」へとシフトするはずだ。

 俺が向かったのは、会社から少し離れた繁華街の待ち合わせ場所。
 そこに立っていたのは、作業着ではなく、ラフな私服に着替えた前田奈緒美だった。
 タンクトップにGジャンを羽織り、ダメージジーンズ。
 相変わらずワイルドで、目を引くスタイルだ。

「お疲れっす、先輩! 待ってましたよ!」

 前田は俺を見つけるなり、大きく手を振った。

「悪いな、急に呼び出して」

「いいっすよ。面白そうだし、何より『奢り』なんでしょ?」

「ああ。……頼むぞ、前田」

「任せてくださいよ。ミチルちゃんの目は、私が引きつけますから!」

 俺たちは並んで歩き出した。
 これはデートではない。作戦行動だ。
 だが、側から見れば、体格の良い男とスタイルの良い女の、お似合いのカップルに見える……かもしれない。

 入ったのは、赤提灯が揺れる大衆酒場。
 ガヤガヤとした喧騒と、油の匂い。
 お洒落なバーよりも、こういう店の方が前田には似合う。

「とりあえず、生!」

「俺も」

 乾杯をして、ジョッキを煽る。
 前田は豪快に飲み干し、「ぷはーっ!」と息を吐いた。

「生き返る~! やっぱり労働の後のビールは最高っすね!」

「お前、本当にいい飲みっぷりだな」

「先輩こそ。……で、今日は何食べます? 私は揚げ物があれば文句ないっすけど」

 俺はメニューを開いた。
 ここに来たからには、やはり「マエストロ」として最高のつまみを選ばなければならない。

「よし。……『厚切りハムカツ』と『鶏の唐揚げ』、それに『ポテトサラダ』だ」

「王道っすね!」

「だが、ただ食べるんじゃない。……すみません、ウスターソースとマヨネーズ、あと七味唐辛子をください」

 届いた料理を前に、俺は調合を始めた。
 ポテトサラダにマヨネーズを追い足しし、さらに七味をたっぷりと振る。
 そこに、少しだけソースを垂らす。

「……これを混ぜて、ハムカツに乗せて食うんだ」

「えっ、オン・ザ・ハムカツ?」

「そうだ。サクサクの衣と、ねっとりしたポテサラ。ソースの酸味と七味の辛さが、ビールの消費量を加速させる」

 前田は言われた通りにハムカツにポテサラを乗せ、大口を開けてかぶりついた。
 サクッ、という小気味良い音。

「……んんっ! やば! 何これ、悪魔的っすね!」

 彼女は目を輝かせ、ビールを流し込んだ。

「唐揚げには、レモンじゃなくて『お酢』と『黒胡椒』だ。さっぱりして、いくらでも入るぞ」

「先輩、マジで天才っすか。一生ついていきます!」

 前田はご機嫌で箸を進める。
 俺も久しぶりのジャンクな外食を楽しんだ。
 李雪との繊細な食事もいいが、こういう豪快な飯も悪くない。

「……で、どうっすか? 李課長とは」

 酔いが回ってきたのか、前田がニヤニヤしながら聞いてきた。

「……順調だよ。今はレオもいるから、毎日が戦争だけどな」

「へぇ~、同棲っすか。羨ましいなぁ。私も先輩みたいな胃袋掴んでくれる彼氏欲しいっすよ」

 彼女は頬杖をついて俺を見た。

「……もし先輩がフリーだったら、私が立候補したのになぁ」

「よせ。俺はお前みたいな『暴れ馬』を御する自信はないぞ」

「あはは! 違いないっす! 私、手綱握られるの嫌いなんで!」

 彼女は笑い飛ばした。
 そのサバサバした態度が心地いい。
 恋愛感情というよりは、戦友に近い感覚だ。

「……っと、そろそろ仕上げの時間か」

 俺は店の入り口付近をチラリと見た。
 ガラス越しに、見覚えのある人影がウロウロしている。
 キャップを目深に被った、怪しい人物。
 ミチルだ。やはり尾行してきていたか。

「前田、あそこ」

「ん? ……あー、いますね。柱の陰に」

 前田も気づき、悪い顔で笑った。

「じゃあ、やりますか。最終フェーズ」

「ああ」

 俺は唐揚げを一つ箸で摘み、前田の口元に差し出した。

「……ほら、あーん」

「えっ、マジでやるんすか? ……ま、いっか! あーん!」

 前田は恥ずかしがる様子もなく、パクッと唐揚げを食べた。
 そして、わざとらしく大きな声で言う。

「ん~! 先輩の食べさせてくれる唐揚げ、最高っすね~! 大好き!」

 店の外で、ミチルが「ひえっ!」とのけぞり、そのまま逃げるように走り去っていくのが見えた。

「……行ったな」

「行きましたね。……これでしばらくは、先輩の彼女=私っていう誤解で広まるはずっすよ」

「助かったよ。……だが、お前の評判に関わるんじゃないか?」

「平気っすよ。むしろ『あの橋本先輩を落とした女』ってことで、社内のカーストが上がるかもしれないっす」

 前田はケラケラと笑った。
 本当に、頼もしい共犯者だ。

 深夜24時30分。
 前田と別れた俺は、李雪のマンションへと帰宅した。
 合鍵でドアを開けると、リビングの明かりがついている。

「……おかえりなさい」

 ソファで本を読んでいた李雪が、顔を上げた。
 その膝の上には、レオが丸まって眠っている。
 平和な光景だ。
 だが、彼女の表情は少し硬い。

「ただいま。……遅くなってごめん」

「……いいわよ。連絡は貰ってたし」

 彼女は本を閉じ、ジト目で俺を見た。
 そして、鼻をひくつかせる。

「……揚げ物の油と、安いビールの匂い。……それに、あの物流の子の匂いもするわね」

 相変わらずの名探偵ぶりだ。
 俺は苦笑しながら、ジャケットを脱いだ。

「ミチルを撒くために、一芝居打ってきたんだ。前田には感謝しないとな」

「……ふーん。どんな芝居?」

「ただ飯を食っただけだよ。……まあ、少しだけ『仲良し』をアピールしたけど」

 俺が曖昧に答えると、彼女はフンと鼻を鳴らした。

「……楽しそうだったわね。あの子、貴方のこと『ゴリラ』とか呼びながら、まんざらでもない顔してたじゃない」

「……見てたのか?」

「まさか。想像よ。……でも、貴方の顔を見れば分かるわ。リフレッシュできた顔してるもの」

 彼女は立ち上がり、キッチンへと向かった。

「……悔しいけど、私にはあんな風に豪快に笑い合うことはできないから。……少しだけ、妬けるわね」

 背中越しに聞こえたその言葉は、消え入りそうなほど小さかった。
 嫉妬。
 だが、それはドロドロしたものではなく、少しだけ寂しそうな、拗ねた子供のような響きだった。

 俺は彼女の後ろから近づき、そっと肩を抱いた。

「……俺が帰ってきたのは、ここですよ」

「……知ってるわよ」

「それに、俺が本当に食べたいのは、貴方と食べる夜食です」

 俺が囁くと、彼女は耳まで真っ赤にして、俺の腕をつねった。

「……口だけは上手いんだから、師匠は」

「本心ですよ。……さて、口直しにデザートでもどうですか? コンビニで新作のアイスを買ってきました」

「……食べる」

 彼女は振り返り、ようやくいつもの微かな笑みを見せた。
 足元では、目を覚ましたレオが「僕も混ぜろ」とばかりに尻尾を振っている。
 
 ミチルの探偵ごっこは、前田というデコイのおかげで、とりあえずは回避できたようだ。
 だが、嘘を重ねれば重ねるほど、真実が露呈した時の衝撃は大きくなる。
 その時が来るまで、この甘くて危うい生活を、精一杯守り抜こう。

 俺はアイスの蓋を開け、愛すべき「迷い猫」と「子犬」に囲まれた夜を噛み締めた。
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