整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜

ken

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第1章:覚醒と変身

第2話 崖下の絶望と二度目の朝

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 ワイパーがフロントガラスを叩く音が、規則的に車内に響いていた。
 屋敷を出た時に降り始めた冷たい雨は、都心を離れ、標高が上がるにつれて重たい牡丹雪へと変わっていた。
 高級車特有の静粛な空間だが、今の灰谷守にとって、外の景色を白く塗り潰していく雪は、まるで死へのカウントダウンのように見えた。

 ハンドルを握っているのは義兄の猛だ。助手席には守。
 猛は上機嫌に鼻歌を歌いながら、ハンドルを指先で軽く叩いている。
 車は街灯もまばらな山道へと深く入り込んでいた。ナビの画面には、道なき道のような細いラインが表示されているだけだ。

「……お義兄さん、まだ着かないんですか?」

 守が恐る恐る尋ねると、猛は視線だけで守を睨めつけた。

「うるさいな。もうすぐだよ。お前にぴったりの、静かで誰も来ない場所だ」

 その言い草に、守の背筋に冷たいものが走った。
 誰も来ない場所。ほとぼりが冷めるまで隠れていろと言われたが、本当にただの隠蔽工作なのだろうか。
 横領の罪を被せ、社会的に抹殺した人間を、わざわざ生かしておくメリットが彼らにあるのだろうか。

「……そうだ。俺、トイレに行きたくなってな」

 唐突に、猛が車を路肩に寄せた。
 ヘッドライトが照らすガードレールのすぐ外側は深い闇だ。切り立った崖になっているらしく、下の方から微かに川の流れる音が聞こえる。雪の白さが、その闇の深さを際立たせていた。

「ちょっと外の空気を吸ってくる。お前も運転を代われ。ここからは一本道だ」
「えっ、でも……」
「命令だ。さっさと降りろ」

 猛はエンジンをかけっぱなしにしたまま車を降りると、助手席のドアを開け、守を乱暴に引きずり出した。
 凍えるような寒気が全身を襲う。スーツ一着の守は震えながら、雪を踏みしめて運転席へと乗り込んだ。

「いいか、俺が戻るまでエンジンを温めておけよ。……ああ、それと」

 猛は運転席の窓から顔を突っ込み、ニヤリと笑った。
 その笑顔は、かつて守が失敗した時に見せた、あの嘲るような表情そのものだった。

「お前、本当に馬鹿だな」
「え……?」
「さよならだ、義弟くん」

 猛が何かを操作した音がした。
 次の瞬間、サイドブレーキが解除された。
 
 車体がグラリと傾く。
 この場所は、緩やかな下り坂になっていたのだ。

「う、わあぁっ!?」

 守は慌ててブレーキペダルを踏み込んだ。
 だが、ペダルはスカスカと床まで沈み込むだけで、何の抵抗もなかった。
 ブレーキが効かない。
 オイルが抜かれているのか、細工されていたのか。

「お、お義兄さん! ブレーキが! 助けてくれ!!」

 守は窓から叫んだ。
 しかし、猛は路肩に立ち尽くし、遠ざかる車を無表情で見送っていた。その手にはスマートフォンが握られ、誰かと通話をしているようだった。おそらく、「事故の報告」でもしているのだろう。

 車は重力に引かれ、加速していく。
 目の前に迫るのは、錆びついた古いガードレールと、その先に広がる虚無のような闇。

「いやだ、死にたくない……っ!」

 守は必死にハンドルを切った。だが、雪で凍結した路面にタイヤが空転し、車体は制御を失ってスピンした。
 キィィィィン! という金属音と共にガードレールを突き破る。
 浮遊感。
 内臓が浮き上がるような、気持ちの悪い感覚。

 走馬灯のように、この10年間の記憶が溢れ出した。
 麗華に罵倒された日々。義母に水をかけられた日。義兄に殴られた夜。
 そして、唯一の味方だと思っていた義父の、冷たくなった顔。

(悔しい……)

 死の恐怖よりも先に、どす黒い感情が胸を支配した。

(俺は、あいつらの玩具になるために生まれてきたのか? こんな惨めな最期を迎えるために、泥水を啜ってきたのか?)

 激しい衝撃音。
 ガラスが砕け散り、全身を無数の刃が貫く。
 車体は斜面を転がり落ちながら、何度も岩肌に激突した。
 身体がひしゃげる音。骨が砕ける音。
 熱い液体が視界を覆い尽くす。

 薄れゆく意識の中で、守は最後に、雪空の合間から覗く真っ赤に染まった月を見た気がした。

(許さない……もしも、もう一度やり直せるなら……次は俺が、お前たちを地獄へ……)

 思考はそこでプツリと途絶え、灰谷守の人生は幕を閉じた。
 はずだった。

「……っ、はあッ!?」

 守は弾かれたように体を起こした。
 心臓が早鐘を打ち、全身から脂汗が噴き出している。
 激痛がない。
 身体が熱い。

「ここは……病院、か?」

 荒い息を整えながら、周囲を見渡す。
 白い天井。だが、病院の無機質なそれではない。ヤニで薄汚れた壁紙。安っぽいシーリングライト。
 部屋の隅には、脱ぎ捨てられた衣服と、飲みかけの缶ビールが転がっている。

 見覚えがあった。
 痛いほどに、懐かしい風景。

「まさか……俺のアパート?」

 そこは、守が結婚する前――30歳まで住んでいた、家賃5万円のボロアパートの一室だった。
 壁に掛けられたカレンダーを見る。
 『20XX年 4月』。
 守が死んだはずの日付より、ちょうど10年前の日付だ。

「夢か……? それとも、死後の世界がこれなのか?」

 守は震える手で自分の頬を触った。
 温かい。髭の感触がある。
 布団から飛び出し、洗面所へと駆け込んだ。
 鏡の中にいたのは、白髪混じりの疲弊した初老の男ではなかった。
 黒々とした髪。肌には張りがあり、目にはまだ生気が残っている。
 30歳の、若き日の自分自身だった。

「戻って、いる……?」

 信じられなかった。
 守は洗面台の横に置かれていたスマートフォンを手に取った。
 機種は古い。画面のヒビ割れも、当時のままだ。
 ロックを解除すると、日付は『4月10日』。
 
 4月10日。
 守の記憶が正しければ、今日は運命の日だ。
 帝都グループの平社員だった守が、重要な書類を紛失し、それを当時の常務だった西園寺麗華に咎められる日。
 その際の守のあまりの土下座の必死さと、都合の良い扱いやすさを気に入られ、「お気に入り」として目をつけられた日だ。

 つまり、地獄への入り口となる日だ。

「は、はは……」

 乾いた笑いが漏れた。
 現実感が湧くと同時に、全身の震えが止まらなくなる。
 これは奇跡だ。神様か悪魔か知らないが、誰かがチャンスをくれたのだ。

 守は洗面台に水を溜め、顔を突っ込んだ。
 冷たい水が、火照った頭を冷やしていく。
 顔を上げ、もう一度鏡を見る。
 そこに映る男の目は、先ほどまでの怯えた小動物のものではなかった。

「……あいつらは、まだ生きている。麗華も、猛も、貴子も。みんな、のうのうと笑って生きている」

 鏡の中の自分に語りかける。
 記憶は鮮明だ。
 崖から落ちる瞬間の恐怖。義兄の嘲笑。妻の冷酷な言葉。
 それら全てが、今の守の燃料だった。

「逃げない。もう二度と、逃げるものか」

 このまま会社に行かず、田舎に帰って静かに暮らすという選択肢もあったかもしれない。
 だが、守の魂に焼きついた怒りの炎は、そんな安穏とした未来を許さなかった。
 復讐だ。
 自分を殺し、尊厳を踏みにじった彼らから、全てを奪い尽くす。
 金も、地位も、名誉も、そして未来も。

 守はスマートフォンを強く握りしめた。
 今の自分には、未来の知識がある。
 どの株が上がり、どの企業が潰れるか。ビットコインの暴騰、パンデミックによる市場の混乱、そして帝都グループが隠蔽することになる数々の不祥事。
 全てが頭の中に入っている。

「まずは金だ。復讐には力が要る」

 守は部屋の中を見回し、通帳と印鑑を探し出した。
 残高は200万円ほど。結婚資金としてコツコツ貯めていた金だ。
 10年前の自分なら、これを元手に堅実に生きようとしただろう。
 だが、今の守には、これを数年で数億、数十億に変える算段があった。

「行ってきます、灰谷守」

 守は鏡に向かって、かつての自分に別れを告げた。
 スーツに着替える。
 ヨレヨレの量販店のスーツだが、不思議と背筋が伸びた。

 今日は会社に行く。
 だが、書類を紛失して麗華に媚びる「未来」はもう選ばない。
 今日この日から、灰谷守の、いや、復讐者としての新しい人生が始まるのだ。

 ドアを開けると、春の眩しい日差しが守の目を刺した。
 それは、地獄の底から這い上がった男を祝福するような、残酷なほどに美しい青空だった。
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