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第1章:覚醒と変身
第1話 泥を啜る婿養子
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午前4時。スマートフォンのアラームが鳴る前に、灰谷守は目を覚ました。
薄い煎餅布団から体を起こすと、冷え切ったフローリングの冷気が足裏から這い上がってくる。
ここは西園寺家の屋敷の北側、かつては物置として使われていた三畳半のスペースだ。窓には鉄格子が嵌められ、隙間風が容赦なく吹き込んでくる。エアコンはない。冬になれば凍えるほど寒く、夏になれば蒸し風呂のように暑い。
ここが、帝都グループの婿養子である守に与えられた「自室」だった。
「……起きないと」
掠れた声が、白い息となって消える。
守は40歳になったばかりだが、鏡に映るその顔は50代と言われても通じるほどに老け込んでいた。白髪が混じったボサボサの髪、慢性的な睡眠不足で落ち窪んだ目、そして常に誰かの顔色を窺うように背中を丸めた姿勢。
10年前、この屋敷に来た頃の面影は、もうどこにもない。
着替えるのは、袖口が擦り切れた安物のスーツだ。ワイシャツには自分でアイロンをかける。クリーニングに出す金など、彼には与えられていないからだ。
屋敷の長い廊下を、音を立てないように歩く。使用人たちですら、まだ眠っている時間だ。
守の朝の仕事は、広大な屋敷の廊下と玄関の拭き掃除から始まる。使用人がやるべき仕事だが、義母の西園寺貴子が「穀潰しには労働がお似合いよ」と命じて以来、これが守の日課になっていた。
冷たい雑巾を絞るたびに、あかぎれだらけの指先が悲鳴を上げる。
それでも手は止めない。少しでも埃が残っていれば、朝食抜きの罰が待っているからだ。もっとも、与えられる朝食といっても、使用人の賄いの残りか、期限切れのパンの耳だが。
午前6時半。掃除を終えた守が台所の隅で水を飲んでいると、メインダイニングから優雅な笑い声が聞こえてきた。
妻の麗華と、義母の貴子、そして義兄の猛だ。
「昨日のパーティー、酷かったわねぇ。あの三流議員、私のドレスにワインを零しかけたのよ?」
「ははは、母さんには近づき難いオーラがあるからな。手が震えたんじゃないか?」
「あら猛ったら。……おい、灰谷!」
突然、怒鳴り声が飛んでくる。
守は反射的に体を強張らせ、ダイニングへと小走りで向かった。
「おはようございます、お義母様、麗華さん、お義兄さん」
深々と頭を下げる。床を見る視界の端で、麗華がフォークで弄んでいたスクランブルエッグを皿の端に寄せたのが見えた。
「この卵、火が通り過ぎてるわ。シェフを呼びなさい」
「あ、あの……シェフは今、奥様の指示で買い出しに……」
「だから何? 代わりの料理を用意するのが『犬』の役目でしょ?」
麗華は美しい顔を歪め、冷たい目で守を見下ろした。
出会った頃、守の失敗を「可愛い」と笑ってくれた彼女は、もういない。今の彼女にとって守は、ストレス発散のためのサンドバッグでしかなかった。
「……すぐに作り直します」
「いいえ、結構よ。食欲が失せたわ」
ガシャン、と音を立てて皿が床に落とされる。
半熟の卵とケチャップが、守の磨き上げたばかりのフローリングに飛び散った。
「掃除しておいて。あと、私の靴も磨いておいてね。今日はこれから彼とデートなの」
「……はい」
彼、というのは、公然の秘密となっている麗華の愛人のことだ。
守の前で平然と不倫相手の話をする。それがこの家の日常だった。守には、怒る権利すら与えられていない。
「おい灰谷。車を出せ」
今度は義兄の猛が口を開いた。口元についたソースをナプキンで拭いながら、蔑むような視線を投げてくる。
「今日は親父の葬儀の打ち合わせだ。遅れると俺の顔に泥を塗ることになるぞ」
そうだ。今日は、帝都グループ会長であり、守の義父である西園寺厳の葬儀の日だった。
厳は、この家で唯一、守を人間として扱ってくれた人物だった。守の真面目な仕事ぶりを評価し、密かに小遣いをくれたり、庇ってくれたりしたこともあった。
だが、その厳も一週間前、心不全であっけなくこの世を去った。
守にとっての最後の防波堤が、決壊した瞬間だった。
帝都グループ会長の葬儀は、都内の一等地に建つセレモニーホールで盛大に執り行われた。
政財界の大物たちが黒塗りの車で次々と乗り付け、焼香台の前には長い列ができた。
しかし、喪主の婿であるはずの守の姿は、式場の中にはなかった。
「おい、そこ! 花輪の位置がズレてるぞ!」
「あっちの受付の香典、裏へ運べ!」
守は、裏口の搬入口で走り回っていた。
義母の貴子から「お前のような薄汚い男が親族席にいたら、西園寺家の恥だ」と言い渡され、参列はおろか、裏方の雑用係を命じられたのだ。
喪服すら着させてもらえず、作業着姿で重い荷物を運び続ける。
「……うっ」
腰に鋭い痛みが走り、守はその場に膝をついた。
連日の過労と栄養失調で、体は限界を超えていた。視界が白く明滅する。
「あら、こんなところでサボってるの?」
頭上から降ってきたのは、鈴を転がすような、しかし氷のように冷たい声だった。
顔を上げると、喪服に身を包んだ麗華が立っていた。黒いドレスが、彼女の白い肌を妖艶に引き立てている。その隣には、ホスト風の若い男が寄り添っていた。愛人の一人だ。父親の葬儀にまで連れ込む神経を、守は理解できなかった。
「麗華さん……」
「汚い手で私の名前を呼ばないでくれる? 臭いわ」
麗華はハンカチで鼻を押さえ、大袈裟に顔をしかめた。
「ねえレイカ、こいつが旦那? マジで? ウケるんだけど」
「ただの居候よ。パパが拾ってきた野良犬。でも、もうパパもいないし、飼っておく理由もなくなったわね」
飼っておく理由もなくなった。
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
守の背筋に、冷たい汗が流れる。
「……どういう、ことですか?」
「後で母さんの部屋に来なさい。大事な話があるわ」
麗華はそれだけ言い捨てると、愛人と腕を組んで去っていった。
残された守は、震える手で地面を掴んだ。
義父が死んでから、いつかこうなることは予感していた。離婚を切り出されるのだろう。
だが、今の守には行く当てなどない。貯金もない。この10年、給料の全ては「生活費」として義母に没収されていた。
ここを追い出されたら、守は野垂れ死ぬしかない。
葬儀が終わり、夜の帳が下りる頃。
西園寺家の屋敷に戻った守は、義母の書斎に呼び出された。
重厚なマホガニーの扉を開けると、革張りのソファに貴子、麗華、猛が座っていた。
テーブルの上には、一枚の書類と、ボイスレコーダーが置かれている。
異様な雰囲気だった。
守は直感した。これは離婚の話し合いではない。もっと悪い、致命的な何かだ。
「座りなさい」
貴子の低い声に従い、守は対面の硬い椅子に腰を下ろした。
「単刀直入に言うわ。灰谷、お前にはこの家を出て行ってもらう」
「……はい。離婚、ということですね」
守は覚悟を決めて頷いた。
「離婚? 何を言っているの。そんな生温い話じゃないわ」
猛が鼻で笑い、テーブルの上の書類を守の方へ滑らせた。
「これは……?」
「読んでみろ」
守は書類を手に取った。そこには『業務上横領に関する始末書』と書かれていた。
内容は、帝都グループの子会社から、架空発注を用いて約3億円を横領したことを認める、というものだった。
「な……っ!?」
守は絶句した。
身に覚えなど全くない。そもそも、守にはそんな権限など与えられていない。
「なんですか、これは! 僕はこんなことしていません!」
「しらばっくれるなよ。証拠はあるんだ」
猛が顎でしゃくると、貴子がボイスレコーダーを再生した。
『……はい、私がやりました。義父の目が届かないのをいいことに、金を……遊ぶ金が欲しかったんです……』
ノイズ混じりの音声。しかし、それは間違いなく守の声だった。
だが、守はそんなことを言った覚えはない。
「これは……! 先週、お義兄さんに言われて読まされた、ドラマの台本の……!」
そうだ。猛が「忘年会の余興で使う劇の練習台になってくれ」と言って、無理やり読ませたセリフだ。あの時は文脈も分からず読まされたが、まさかこんな風に編集して使われるなんて。
「よく出来てるだろ? 最新の編集ソフトは凄いな」
「酷い……! こんな捏造、警察が信じるわけが……!」
「警察? 誰が警察に突き出すと言った?」
貴子が冷ややかに笑った。
「これは『社内処理』よ。お前が素直にこの始末書にサインし、全ての罪を被って消えてくれるなら、警察沙汰にはしないであげる。帝都グループの体面もあるからね」
「そ、そんな……」
「でも、もし断るなら……この音声を証拠として警察に提出するわ。今の警察は忙しいから、自白音声があればすぐに逮捕してくれるでしょうね。お前のような身寄りのない男の無実なんて、誰が信じてくれるかしら?」
完璧な罠だった。
義父の死を見越して、周到に準備されていたのだ。
猛が最近失敗したと言われていたリゾート開発の損失3億円。その穴埋めに、守をスケープゴートにするつもりなのだ。
「お義父さんは……お義父さんは、こんなことを許さないはずだ!」
守は必死に叫んだ。だが、その言葉は彼らの嘲笑を誘っただけだった。
「死人に口なし、よ。あの人はもういないの」
麗華が退屈そうに爪を眺めながら言った。
「ねえ、早くサインしてくれない? 私、これから彼と飲み直しに行くのよ。空気が悪くて酔いが醒めちゃう」
「麗華……君は、僕との10年間、何も感じなかったのか? 僕は君のために、全てを捨てて……!」
「何も? 感じたわよ」
麗華は立ち上がり、守の目の前まで歩み寄ると、ゆっくりと顔を近づけた。
甘い香水の匂いが、守の鼻腔をくすぐる。
「気持ち悪い、って」
彼女はそう言うと、守の顔に唾を吐きかけた。
「……っ」
「鏡を見てみなさいよ。今のあなたは、まるで汚れた雑巾ね。私の隣に立つ資格なんて、最初からなかったのよ」
守の中で、何かが音を立てて折れた。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、真っ暗な絶望だけが広がっていく。
この10年間、自分が耐えてきた時間は、何だったのか。
愛されたいと願い、認められたいと足掻き、泥水を啜って生きてきた日々は、全て無駄だったのか。
「さあ、書きなさい」
猛がペンを握らせてくる。
守の手は震え、抵抗する力も残っていなかった。
拒否すれば刑務所。認めれば破滅。
どちらに転んでも、灰谷守の人生はここで終わりだ。
震える手で、署名欄に名前を書く。
インクが紙に滲む様が、まるで自分の血のように見えた。
「よし、いい子だ」
猛が満足げに書類を奪い取る。
貴子は守を見ることなく、窓の外を見つめて言った。
「荷物はまとめてあるわ。裏口に置いておいたから、持って行きなさい。……ああ、それと」
貴子は爬虫類のような目で守を一瞥した。
「猛が別荘まで送ってくれるそうよ。ほとぼりが冷めるまで、そこで頭を冷やしなさい」
「……別荘?」
「山奥にある、使われていないボロ家だ。お前にはお似合いだろ?」
猛がニヤリと笑う。その笑顔の裏に、もっとどす黒い殺意が隠されていることに、今の守は気づく余裕もなかった。
守はよろめきながら立ち上がった。
屋敷を出る時、振り返ることはしなかった。
冬の夜空からは、冷たい雨が降り始めていた。
――ああ、寒い。
心も体も、凍りついてしまいそうだ。
この時の守はまだ知らなかった。
この「別荘へのドライブ」が、自分の人生の最期への旅路になることを。
そして、それが全ての始まりになることを。
薄い煎餅布団から体を起こすと、冷え切ったフローリングの冷気が足裏から這い上がってくる。
ここは西園寺家の屋敷の北側、かつては物置として使われていた三畳半のスペースだ。窓には鉄格子が嵌められ、隙間風が容赦なく吹き込んでくる。エアコンはない。冬になれば凍えるほど寒く、夏になれば蒸し風呂のように暑い。
ここが、帝都グループの婿養子である守に与えられた「自室」だった。
「……起きないと」
掠れた声が、白い息となって消える。
守は40歳になったばかりだが、鏡に映るその顔は50代と言われても通じるほどに老け込んでいた。白髪が混じったボサボサの髪、慢性的な睡眠不足で落ち窪んだ目、そして常に誰かの顔色を窺うように背中を丸めた姿勢。
10年前、この屋敷に来た頃の面影は、もうどこにもない。
着替えるのは、袖口が擦り切れた安物のスーツだ。ワイシャツには自分でアイロンをかける。クリーニングに出す金など、彼には与えられていないからだ。
屋敷の長い廊下を、音を立てないように歩く。使用人たちですら、まだ眠っている時間だ。
守の朝の仕事は、広大な屋敷の廊下と玄関の拭き掃除から始まる。使用人がやるべき仕事だが、義母の西園寺貴子が「穀潰しには労働がお似合いよ」と命じて以来、これが守の日課になっていた。
冷たい雑巾を絞るたびに、あかぎれだらけの指先が悲鳴を上げる。
それでも手は止めない。少しでも埃が残っていれば、朝食抜きの罰が待っているからだ。もっとも、与えられる朝食といっても、使用人の賄いの残りか、期限切れのパンの耳だが。
午前6時半。掃除を終えた守が台所の隅で水を飲んでいると、メインダイニングから優雅な笑い声が聞こえてきた。
妻の麗華と、義母の貴子、そして義兄の猛だ。
「昨日のパーティー、酷かったわねぇ。あの三流議員、私のドレスにワインを零しかけたのよ?」
「ははは、母さんには近づき難いオーラがあるからな。手が震えたんじゃないか?」
「あら猛ったら。……おい、灰谷!」
突然、怒鳴り声が飛んでくる。
守は反射的に体を強張らせ、ダイニングへと小走りで向かった。
「おはようございます、お義母様、麗華さん、お義兄さん」
深々と頭を下げる。床を見る視界の端で、麗華がフォークで弄んでいたスクランブルエッグを皿の端に寄せたのが見えた。
「この卵、火が通り過ぎてるわ。シェフを呼びなさい」
「あ、あの……シェフは今、奥様の指示で買い出しに……」
「だから何? 代わりの料理を用意するのが『犬』の役目でしょ?」
麗華は美しい顔を歪め、冷たい目で守を見下ろした。
出会った頃、守の失敗を「可愛い」と笑ってくれた彼女は、もういない。今の彼女にとって守は、ストレス発散のためのサンドバッグでしかなかった。
「……すぐに作り直します」
「いいえ、結構よ。食欲が失せたわ」
ガシャン、と音を立てて皿が床に落とされる。
半熟の卵とケチャップが、守の磨き上げたばかりのフローリングに飛び散った。
「掃除しておいて。あと、私の靴も磨いておいてね。今日はこれから彼とデートなの」
「……はい」
彼、というのは、公然の秘密となっている麗華の愛人のことだ。
守の前で平然と不倫相手の話をする。それがこの家の日常だった。守には、怒る権利すら与えられていない。
「おい灰谷。車を出せ」
今度は義兄の猛が口を開いた。口元についたソースをナプキンで拭いながら、蔑むような視線を投げてくる。
「今日は親父の葬儀の打ち合わせだ。遅れると俺の顔に泥を塗ることになるぞ」
そうだ。今日は、帝都グループ会長であり、守の義父である西園寺厳の葬儀の日だった。
厳は、この家で唯一、守を人間として扱ってくれた人物だった。守の真面目な仕事ぶりを評価し、密かに小遣いをくれたり、庇ってくれたりしたこともあった。
だが、その厳も一週間前、心不全であっけなくこの世を去った。
守にとっての最後の防波堤が、決壊した瞬間だった。
帝都グループ会長の葬儀は、都内の一等地に建つセレモニーホールで盛大に執り行われた。
政財界の大物たちが黒塗りの車で次々と乗り付け、焼香台の前には長い列ができた。
しかし、喪主の婿であるはずの守の姿は、式場の中にはなかった。
「おい、そこ! 花輪の位置がズレてるぞ!」
「あっちの受付の香典、裏へ運べ!」
守は、裏口の搬入口で走り回っていた。
義母の貴子から「お前のような薄汚い男が親族席にいたら、西園寺家の恥だ」と言い渡され、参列はおろか、裏方の雑用係を命じられたのだ。
喪服すら着させてもらえず、作業着姿で重い荷物を運び続ける。
「……うっ」
腰に鋭い痛みが走り、守はその場に膝をついた。
連日の過労と栄養失調で、体は限界を超えていた。視界が白く明滅する。
「あら、こんなところでサボってるの?」
頭上から降ってきたのは、鈴を転がすような、しかし氷のように冷たい声だった。
顔を上げると、喪服に身を包んだ麗華が立っていた。黒いドレスが、彼女の白い肌を妖艶に引き立てている。その隣には、ホスト風の若い男が寄り添っていた。愛人の一人だ。父親の葬儀にまで連れ込む神経を、守は理解できなかった。
「麗華さん……」
「汚い手で私の名前を呼ばないでくれる? 臭いわ」
麗華はハンカチで鼻を押さえ、大袈裟に顔をしかめた。
「ねえレイカ、こいつが旦那? マジで? ウケるんだけど」
「ただの居候よ。パパが拾ってきた野良犬。でも、もうパパもいないし、飼っておく理由もなくなったわね」
飼っておく理由もなくなった。
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
守の背筋に、冷たい汗が流れる。
「……どういう、ことですか?」
「後で母さんの部屋に来なさい。大事な話があるわ」
麗華はそれだけ言い捨てると、愛人と腕を組んで去っていった。
残された守は、震える手で地面を掴んだ。
義父が死んでから、いつかこうなることは予感していた。離婚を切り出されるのだろう。
だが、今の守には行く当てなどない。貯金もない。この10年、給料の全ては「生活費」として義母に没収されていた。
ここを追い出されたら、守は野垂れ死ぬしかない。
葬儀が終わり、夜の帳が下りる頃。
西園寺家の屋敷に戻った守は、義母の書斎に呼び出された。
重厚なマホガニーの扉を開けると、革張りのソファに貴子、麗華、猛が座っていた。
テーブルの上には、一枚の書類と、ボイスレコーダーが置かれている。
異様な雰囲気だった。
守は直感した。これは離婚の話し合いではない。もっと悪い、致命的な何かだ。
「座りなさい」
貴子の低い声に従い、守は対面の硬い椅子に腰を下ろした。
「単刀直入に言うわ。灰谷、お前にはこの家を出て行ってもらう」
「……はい。離婚、ということですね」
守は覚悟を決めて頷いた。
「離婚? 何を言っているの。そんな生温い話じゃないわ」
猛が鼻で笑い、テーブルの上の書類を守の方へ滑らせた。
「これは……?」
「読んでみろ」
守は書類を手に取った。そこには『業務上横領に関する始末書』と書かれていた。
内容は、帝都グループの子会社から、架空発注を用いて約3億円を横領したことを認める、というものだった。
「な……っ!?」
守は絶句した。
身に覚えなど全くない。そもそも、守にはそんな権限など与えられていない。
「なんですか、これは! 僕はこんなことしていません!」
「しらばっくれるなよ。証拠はあるんだ」
猛が顎でしゃくると、貴子がボイスレコーダーを再生した。
『……はい、私がやりました。義父の目が届かないのをいいことに、金を……遊ぶ金が欲しかったんです……』
ノイズ混じりの音声。しかし、それは間違いなく守の声だった。
だが、守はそんなことを言った覚えはない。
「これは……! 先週、お義兄さんに言われて読まされた、ドラマの台本の……!」
そうだ。猛が「忘年会の余興で使う劇の練習台になってくれ」と言って、無理やり読ませたセリフだ。あの時は文脈も分からず読まされたが、まさかこんな風に編集して使われるなんて。
「よく出来てるだろ? 最新の編集ソフトは凄いな」
「酷い……! こんな捏造、警察が信じるわけが……!」
「警察? 誰が警察に突き出すと言った?」
貴子が冷ややかに笑った。
「これは『社内処理』よ。お前が素直にこの始末書にサインし、全ての罪を被って消えてくれるなら、警察沙汰にはしないであげる。帝都グループの体面もあるからね」
「そ、そんな……」
「でも、もし断るなら……この音声を証拠として警察に提出するわ。今の警察は忙しいから、自白音声があればすぐに逮捕してくれるでしょうね。お前のような身寄りのない男の無実なんて、誰が信じてくれるかしら?」
完璧な罠だった。
義父の死を見越して、周到に準備されていたのだ。
猛が最近失敗したと言われていたリゾート開発の損失3億円。その穴埋めに、守をスケープゴートにするつもりなのだ。
「お義父さんは……お義父さんは、こんなことを許さないはずだ!」
守は必死に叫んだ。だが、その言葉は彼らの嘲笑を誘っただけだった。
「死人に口なし、よ。あの人はもういないの」
麗華が退屈そうに爪を眺めながら言った。
「ねえ、早くサインしてくれない? 私、これから彼と飲み直しに行くのよ。空気が悪くて酔いが醒めちゃう」
「麗華……君は、僕との10年間、何も感じなかったのか? 僕は君のために、全てを捨てて……!」
「何も? 感じたわよ」
麗華は立ち上がり、守の目の前まで歩み寄ると、ゆっくりと顔を近づけた。
甘い香水の匂いが、守の鼻腔をくすぐる。
「気持ち悪い、って」
彼女はそう言うと、守の顔に唾を吐きかけた。
「……っ」
「鏡を見てみなさいよ。今のあなたは、まるで汚れた雑巾ね。私の隣に立つ資格なんて、最初からなかったのよ」
守の中で、何かが音を立てて折れた。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、真っ暗な絶望だけが広がっていく。
この10年間、自分が耐えてきた時間は、何だったのか。
愛されたいと願い、認められたいと足掻き、泥水を啜って生きてきた日々は、全て無駄だったのか。
「さあ、書きなさい」
猛がペンを握らせてくる。
守の手は震え、抵抗する力も残っていなかった。
拒否すれば刑務所。認めれば破滅。
どちらに転んでも、灰谷守の人生はここで終わりだ。
震える手で、署名欄に名前を書く。
インクが紙に滲む様が、まるで自分の血のように見えた。
「よし、いい子だ」
猛が満足げに書類を奪い取る。
貴子は守を見ることなく、窓の外を見つめて言った。
「荷物はまとめてあるわ。裏口に置いておいたから、持って行きなさい。……ああ、それと」
貴子は爬虫類のような目で守を一瞥した。
「猛が別荘まで送ってくれるそうよ。ほとぼりが冷めるまで、そこで頭を冷やしなさい」
「……別荘?」
「山奥にある、使われていないボロ家だ。お前にはお似合いだろ?」
猛がニヤリと笑う。その笑顔の裏に、もっとどす黒い殺意が隠されていることに、今の守は気づく余裕もなかった。
守はよろめきながら立ち上がった。
屋敷を出る時、振り返ることはしなかった。
冬の夜空からは、冷たい雨が降り始めていた。
――ああ、寒い。
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