整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜

ken

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第3章:侵食と誘惑

第33話 有頂天の麗華

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 アマン東京のスイートルームに、平和な朝の光が差し込んでいた。
 だが、その静けさを破る、激しい駆動音が響いていた。

 ウィーン、カシャカシャカシャ!

 リビングの床に置かれているのは、井上健太郎がネット通販で購入した最新鋭の猫用おもちゃ、『ハンティング・マスター2000』だ。
 円盤状の本体からランダムに飛び出す羽根やレーザーポインターが、仔猫の狩猟本能を刺激する。

「……ミャウッ! フンッ!」

 仔猫のハイは、狂乱状態だった。
 右から飛び出した羽根に飛びつき、左に走るレーザーを追いかけ、滑って転び、また飛び掛かる。
 銀色の毛玉が弾丸のように部屋中を駆け回っている。
 ゼェゼェと息を切らしながらも、その目は爛々と輝き、絶対に獲物を逃さないという野生の覇気に満ちていた。

「……元気だな」

 井上はコーヒーを飲みながら、その様子を微笑ましく眺めていた。
 隣のソファでは、森舞永が欠伸をしている。

「ボス、買いすぎじゃない? あっちにも新しいキャットタワー届いてるわよ」
「必要経費だ。……ハイの運動不足解消のためにな」
「へーえ。単なる親バカにしか見えないけど」

 舞永が冷やかすと、ハイが突然動きを止めた。
 電池が切れたように、パタリとラグの上に倒れ込む。
 そして、手足を投げ出し、白目を剥いて瞬時に眠りに落ちた。

「……寝た」
「子供ねぇ」

 井上はハイに近づき、そっとブランケットを掛けてやった。
 小さな寝息。
 無防備な寝顔。
 この無垢な生き物を見ていると、自分が犯している罪の重さを一瞬忘れそうになる。
 だが、忘れてはならない。
 この平穏を守るためにこそ、自分は悪魔にならなければならないのだから。

「……行くぞ」

 井上は立ち上がった。
 今日は、婚約者として帝都グループ本社へ乗り込む日だ。
 表向きは「挨拶」だが、実態は「侵略」の第一歩。

 帝都グループ本社ビル。
 その最上階にある社長室は、かつてないほどの高揚感に包まれていた。

「見て! また株価が上がったわ!」

 西園寺麗華は、タブレット端末の画面を見て歓声を上げた。
 昨日の「公開プロポーズ」の効果は絶大だった。
 兄・猛の逮捕で暴落していた株価は、井上の「巨額出資」と「婚約」というポジティブなニュースによってV字回復し、ストップ高を記録していた。
 世間の論調も一変した。

 『悪徳企業の令嬢』から『愛に生きる悲劇のヒロイン』へ。

 斎藤冴子が仕掛けた情報操作は、完璧に機能していた。

「素晴らしいですわ、麗華様」

 傍らに控える秘書の女性――ではなく、メイドとして同行してきた池田茉莉が、恭しく紅茶を注いだ。

「これも全て、貴女様の人徳と、井上様への愛の力です」
「ええ、そうね。……やっぱり、私は選ばれた人間なのよ」

 麗華は陶酔しきった表情で紅茶を受け取った。
 今日の彼女は、シャネルの純白のスーツに身を包み、左手の薬指には井上から贈られたハリー・ウィンストンの指輪が輝いている。
 その姿は、自信に満ち溢れ、光り輝いているように見えた。
 だが、その輝きは、崩壊寸前の恒星が放つ最後の瞬きのような、危うさを孕んでいた。

 コンコン。
 ノックの音が響く。

「……どうぞ」

 ドアが開き、秘書が緊張した面持ちで告げた。

「井上健太郎様が到着されました」
「通して!」

 麗華は弾かれたように立ち上がり、髪を整えた。
 ドアが大きく開かれる。
 逆光を背負って現れたのは、完璧なスーツ姿の井上健太郎だった。
 その美貌は、無機質なオフィスを一瞬で映画のセットに変えてしまうほどのオーラを放っている。

「健太郎さん!」
「麗華」

 井上は優雅に歩み寄り、麗華の腰を抱き寄せた。
 そして、挨拶代わりに軽いキスを落とす。
 秘書たちが顔を赤らめて目を伏せる。

「……会いたかった」
「私もよ。……昨日の今日なのに、もう寂しかったわ」

 麗華は甘えた声で井上の胸に顔を埋めた。
 井上は優しく彼女の頭を撫でながら、その肩越しに部屋の中を見渡した。
 部屋の隅には、茉莉が控えている。
 目が合うと、茉莉は微かに頷いた。

 『準備完了』の合図だ。

「さあ、座って。……今日は貴女に、プレゼントを持ってきたんだ」

 井上は麗華をソファに座らせ、持参したアタッシュケースを開いた。
 中から出てきたのは、分厚い書類の束だった。

「これは?」
「『K.I.ホールディングス』による、帝都グループへの出資契約書だ。……約束通り、500億円を用意した」

 500億。
 その金額に、麗華は息を呑んだ。
 これがあれば、銀行の融資引き上げにも耐えられる。会社の危機を救うことができる。

「健太郎さん……本当に、いいの?」
「君のためなら、安いものさ。……ただし、一つだけ条件がある」

 井上は契約書の最後のページを開いた。

「この出資と引き換えに、僕を『特別顧問』として経営に参加させてほしい。……君を支えるためには、正式な肩書きが必要なんだ」

 特別顧問。
 実務権限を持ち、取締役会にも出席できる強力なポストだ。
 通常なら、外部の人間をいきなり中枢に入れることなどあり得ない。
 だが、今の麗華には、それを拒否する理由も、判断する能力もなかった。

「もちろんよ! 貴方がいてくれれば百人力だわ!」
「ありがとう。……では、ここにサインを」

 井上は万年筆を差し出した。
 モンブランの『マイスターシュテュック』。
 かつて、灰谷守が憧れ、ショーケース越しに眺めるだけだった高級万年筆だ。

 麗華は疑うことなくペンを受け取り、サラサラと署名した。
 その瞬間、帝都グループの城門は内側から開かれた。

「……これで、僕たちは運命共同体だ」

 井上は契約書を回収し、満足げに微笑んだ。
 その笑顔の裏にある冷酷な計算に、麗華は気づかない。

「ねえ、健太郎さん。……母様にも挨拶してくださる?」
「ああ、もちろんだ。……会長はどちらに?」
「奥の会長室よ。……最近、少し体調が優れないみたいで、ずっと引きこもっているの」

 麗華は少し声を潜めた。

「なんか、怒りっぽくて……物忘れも激しいの。昨日の私の婚約会見を見て、リモコンをテレビに投げつけたんですって」
「それは……心配だな」

 井上は眉をひそめて見せたが、内心では舌を出していた。
 順調だ。
 茉莉が盛っている「薬」が効いている。
 そして、麗華の勝手な行動が、貴子の精神をさらに追い詰めている。

「お見舞いに行こう。……良い報告もあることだし」

 井上は麗華の手を取り、立ち上がった。
 茉莉が先導するようにドアを開ける。
 向かう先は、このビルの最深部。女帝の玉座だ。

 会長室。
 重厚なカーテンが閉め切られ、部屋は薄暗かった。
 空気清浄機の音だけが響く静寂の中、西園寺貴子はデスクに突っ伏していた。

「……母様?」

 麗華が恐る恐る声をかけると、貴子はゆっくりと顔を上げた。
 その顔色は土気色で、目の下には深い隈ができている。
 かつての威厳ある女帝の姿は見る影もなく、ただの疲れた老婆のように見えた。

「……何よ。ノックもしないで」
「失礼しました。……健太郎さんが、ご挨拶に来てくださったの」

 麗華が井上を招き入れる。
 井上は一歩進み出て、深々と頭を下げた。

「ご無沙汰しております、お義母様」

 お義母様。
 その言葉に、貴子の眉がピクリと動いた。

「誰が義母よ。……図々しい」
「ふふ、もう婚約しましたから。……これ、出資の契約書です」

 麗華は勝ち誇ったように、先ほどサインした契約書を貴子の目の前に置いた。

「500億よ、母様。……これで文句はないでしょう? 私が会社を救ったのよ」

 貴子は書類をひったくり、震える手で目を通した。
 文字が霞む。頭が働かない。
 だが、金額の桁数だけは理解できた。

「……500億……」
「ええ。条件として、健太郎さんを特別顧問に迎えます。……もうサインしましたから、決定事項よ」

 事後承諾。
 かつてなら激怒して破り捨てていただろう。
 だが今の貴子には、それを拒絶する気力も、代案を出す頭脳も残っていなかった。
 金が必要なのは事実だ。銀行は冷たい。

「……勝手にしなさい」

 貴子は書類を投げ返した。

「ただし、失敗したら許さないわよ。……私の椅子を脅かすような真似をしたら、即刻クビにするから」
「もちろんです。……私はあくまで、麗華さんと会長を支える黒子に徹します」

 井上は殊勝な態度で答えた。
 黒子。
 そう、影から操る人形使い。

「……気分が悪いわ。下がって」

 貴子は手でシッシッと追い払う仕草をした。
 茉莉がすかさず近づき、水差しから水を注いだ。

「お薬の時間でございます、奥様」
「……ああ、そうね」

 貴子は疑うことなく、茉莉から渡された錠剤と、水を飲み干した。
 これで、また思考の霧が濃くなる。

 会長室を出ると、麗華は晴れ晴れとした顔をしていた。

「見た? 母様のあの顔! ……ざまあみろだわ」

 麗華はクスクスと笑った。
 母親を屈服させた優越感。
 彼女は今、人生で最高の有頂天にあった。

「これで帝都グループは安泰よ。……私と健太郎さんで、新しい時代を作るの」
「ああ。……楽しみだね」

 井上は同意しながら、心の中で冷たく呟いた。
 
 『そうだな。帝都グループは安泰だ。……ただし、お前たちのいない形でな』

 麗華は井上の腕に絡みつき、甘えた声を出した。

「ねえ、今夜はお祝いしましょ? ……私の部屋で」
「残念だが、まだ手続きが残っている。……明日からは忙しくなるぞ。社長就任の準備がある」
「えー、つまんない。……でも、社長になるなら仕方ないわね」

 麗華は不満そうに頬を膨らませたが、すぐに「社長」という甘美な響きに酔いしれた。

「分かったわ。……じゃあ、明日の朝、迎えに来てね」
「約束するよ」

 井上は麗華をエレベーターホールまで送り届け、キスをして別れた。
 扉が閉まり、麗華の笑顔が見えなくなった瞬間。
 井上の表情から、感情が抜け落ちた。

「……疲れる女だ」

 井上はハンカチで唇を拭った。
 背後で、茉莉が静かに佇んでいる。

「お疲れ様でした、旦那様。……名演技でしたわ」
「お前もな。……貴子の様子はどうだ?」
「順調に壊れてきております。……感情の起伏が激しくなり、記憶の混濁も見られます。もう、まともな経営判断はできません」
「よし。……次の段階だ」

 井上はスマートフォンを取り出し、木村心にメッセージを送った。

『フェーズ3、開始。……内部データを拡散しろ』

 猛の件で揺らいだ帝都グループの信用。
 そこに、トドメの一撃を叩き込む。
 貴子の隠し資産、裏金、そして過去の不正の数々。
 それらをネットの海に放流し、株主たちの不安を極限まで煽るのだ。
 女帝を疑心暗鬼の檻に閉じ込め、完全に孤立させるために。

 井上は窓の外、眼下に広がる東京の街を見下ろした。
 この巨大な王国が、音を立てて崩れ去る時が来た。

 その夜。
 アマン東京に戻った井上は、ソファで眠るハイの寝顔を見ながら、静かにグラスを傾けた。
 
 有頂天の麗華。
 孤立する貴子。
 そして、その背後で糸を引く自分。
 
 高笑いをするがいい。
 その笑い声が、悲鳴に変わる瞬間まで、もう少しの辛抱だ。
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