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鹿男との邂逅
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「プリン、美味しいですか?」
ゆったりと時間が流れるカフェの一角で、隣の席の鹿が突然話しかけてきた。
「……ハイ」
情報の処理が追いつかず、私は質問に対して深く考えずに頷く。
「すみません突然。何か甘いもん食べたいなぁって思たんですけど決めきれんくて……」
パーカーを着た青年っぽい身なりの鹿は、照れ臭そうに手元をもじもじさせる。
人間の手だ。椅子に腰かけている胴体も足元も、首から下はどこにでもいる人間と同じ。
しかし何故か、顔は小麦色の毛皮に包まれた立派な鹿だ。鼻先は黒いし、目も真っ黒でつやつや。
お面を被っているのだろうか。
「そう、なんですかぁ……」
これが現実なのか信じられなくて、何度も瞬きを繰り返すが目の前の鹿は一向に消えない。
「はい。でもお姉さんが美味いって言うんやったら、俺もプリンにしようと思います。ありがとうございます」
鹿はそう言って女性の店員を呼びつけたが、店員は何食わぬ顔で、むしろとても良い笑顔で注文を取っている。
え?何で?こんなに目立つお面被ってる人がいたら多少なりとも驚かない?
それともこの鹿男はこの店の常連で、皆この姿に慣れっこなのだろうか。
「あの、このお店の常連さんですか?」
店員が去った後に問いかけてみると、「いえ、違いますよ。今日初めて入りました」と返ってくる。
ということは、あの店員が豪胆なだけなのだろうか。
――否。
私は怪しまれない程度に店内を見渡した。
お昼のピークを過ぎた平日の午後二時過ぎ。席はまばらに空いているが閑散としているわけではない。
席に座っている人たちは皆、食事に集中していたり、スマホを見たり、談笑したりとそれぞれの時間を過ごしている。
誰も鹿男のことを気にする素振りはない。
……この人の顔が鹿に見えてるのってもしかして、私だけ?
そんな嫌な予感が脳裏をかすめた。
***
新卒から二年勤めた会社を昨日辞めた。
二年目に入ってから突然東京に転勤を命じられ、慣れない環境の中で毎日頑張った。
そして一生懸命タスクをこなせばこなすほど、あれもこれもと仕事を回され続けてしまい、ある日突然限界を迎えた。
張り続けていた緊張の糸がぷつりと切れたみたいにやる気が失せて、そこから退職の手続きに移るまで時間はかからなかった。
「……暇だな」
いつもなら仕事をしていたはずの時間の活用方法がわからず、ベッドの上で呆ける。
明日のためにやるべきことも数十分前に終わってしまったので、文字通り今日一日はフリーだ。
寝返りを打てば、部屋の隅にちょこんと置かれたキャリーケースが視界に入る。
つい先ほどまでそのケースに洋服を詰め込んでいたことを思い出しながら、明日の新幹線の時間を調べた。
「十時に出れば間に合うか……」
スマホを枕元に放り投げて、またぼんやりとする。
仕事を辞める話を親にしたら、実家に戻ってきたら良いと言われた。
けど、一年間東京にいるとなんだかんだでこちらの便利さに慣れてしまったし、さらに一人暮らしの楽さに気づいてしまった。
両親が嫌いなわけじゃないけど、やっぱり居住空間に人がいると、たとえ家族でも多少なりとも気を遣ってしまう。
その点、一人暮らしだったらどれだけ怠惰な生活を送っても誰にも文句を言われないし、困るのは自分だけ。
好きなアニメや漫画のイベントだって近場でやってくれるから、東京での一人暮らしは結構苦じゃない。というかむしろ楽しい。
東京で再就職するにしても、実家の方に戻るとしても、どちらにしても一人暮らしは続けたい。
だけど、私の帰りを待ち焦がれている両親にその思いを告げるのは気が引けて、仕事を辞めた後に一旦帰省すると約束した。
実家に引っ越せるほどの貯金はないため、とりあえず一週間の帰省。今の私にはそれが限界だ。
そういうわけで明日から一週間、奈良にある実家に滞在することになっている。
そして、冒頭の「暇」という状況に戻ってくる。
何もすることがない時って、私、どうやって過ごしてたっけ。
ベッドから窓の方に視線を向けると、カーテン越しの太陽はカンカン照りで夏に相応しく、冷房が効いた部屋にいても蒸し暑さを覚える。日差しの強さは地元とそう変わらない。
「そうだ。無事に退職したこと、茜には言っておかないと」
仙田茜は、私と同時期に東京に転属してきた同い年の女の子で、会社で精神が摩耗していく日々の中、唯一の救いだった。
配属された部署は違ったが、社内の親睦会で隣の席になってから連絡先を交換して、よく一緒に出掛けたり、会社を辞める時も相談に乗ってもらったりしていた。
ただ、数週間ほど前の休みに一緒に遊んで以来、茜がいる部署は忙しくなったらしく、まともに連絡が取れていない。
報告もかねて一度ちゃんと会って話をしておきたいが、茜の部署の状況次第では難しいかもしれない。
しかしその心配は杞憂に終わり、メッセージを送ればその日の夜に茜から電話がかかってきた。
「もしもし。繁忙期だったんだよね、お疲れ様。なんかすごい久しぶりな気がするなぁ」
久方ぶりの友人との電話に私は浮足立っていた。
しかしそんな私とは対照的に「うん……」と、電話口の茜の声は暗い。
「どうかした?」
そう問いかけると、茜は奥歯に物が挟まったような受け答えをする。
しばらく曖昧な言葉を繰り返していたかと思うと、「いや……ごめん。ちゃんと言う」と言って何かしらの覚悟を決めたらしい。
電話の向こうで彼女は深呼吸をする音が聞こえる。
「まずは、無事に退社おめでとう」
「うん。ありがとう」
「それでさ、真緒は薄々気づいていたかもしれないけど……」
嫌な予感。だけど気づかないフリをして相槌を打った。
「私、この数週間……真緒のこと嫌いになってた。……それで、避けてたんだよね」
見逃した嫌な予感は助走をつけて戻ってきた。
おっきなハンマーで心臓を殴りつけられたみたいに、心がギュッと縮んで痛くなる。
仲が良いと思っていた子に嫌われ、距離を取られていたことを知るのは、結構堪えた。
ゆったりと時間が流れるカフェの一角で、隣の席の鹿が突然話しかけてきた。
「……ハイ」
情報の処理が追いつかず、私は質問に対して深く考えずに頷く。
「すみません突然。何か甘いもん食べたいなぁって思たんですけど決めきれんくて……」
パーカーを着た青年っぽい身なりの鹿は、照れ臭そうに手元をもじもじさせる。
人間の手だ。椅子に腰かけている胴体も足元も、首から下はどこにでもいる人間と同じ。
しかし何故か、顔は小麦色の毛皮に包まれた立派な鹿だ。鼻先は黒いし、目も真っ黒でつやつや。
お面を被っているのだろうか。
「そう、なんですかぁ……」
これが現実なのか信じられなくて、何度も瞬きを繰り返すが目の前の鹿は一向に消えない。
「はい。でもお姉さんが美味いって言うんやったら、俺もプリンにしようと思います。ありがとうございます」
鹿はそう言って女性の店員を呼びつけたが、店員は何食わぬ顔で、むしろとても良い笑顔で注文を取っている。
え?何で?こんなに目立つお面被ってる人がいたら多少なりとも驚かない?
それともこの鹿男はこの店の常連で、皆この姿に慣れっこなのだろうか。
「あの、このお店の常連さんですか?」
店員が去った後に問いかけてみると、「いえ、違いますよ。今日初めて入りました」と返ってくる。
ということは、あの店員が豪胆なだけなのだろうか。
――否。
私は怪しまれない程度に店内を見渡した。
お昼のピークを過ぎた平日の午後二時過ぎ。席はまばらに空いているが閑散としているわけではない。
席に座っている人たちは皆、食事に集中していたり、スマホを見たり、談笑したりとそれぞれの時間を過ごしている。
誰も鹿男のことを気にする素振りはない。
……この人の顔が鹿に見えてるのってもしかして、私だけ?
そんな嫌な予感が脳裏をかすめた。
***
新卒から二年勤めた会社を昨日辞めた。
二年目に入ってから突然東京に転勤を命じられ、慣れない環境の中で毎日頑張った。
そして一生懸命タスクをこなせばこなすほど、あれもこれもと仕事を回され続けてしまい、ある日突然限界を迎えた。
張り続けていた緊張の糸がぷつりと切れたみたいにやる気が失せて、そこから退職の手続きに移るまで時間はかからなかった。
「……暇だな」
いつもなら仕事をしていたはずの時間の活用方法がわからず、ベッドの上で呆ける。
明日のためにやるべきことも数十分前に終わってしまったので、文字通り今日一日はフリーだ。
寝返りを打てば、部屋の隅にちょこんと置かれたキャリーケースが視界に入る。
つい先ほどまでそのケースに洋服を詰め込んでいたことを思い出しながら、明日の新幹線の時間を調べた。
「十時に出れば間に合うか……」
スマホを枕元に放り投げて、またぼんやりとする。
仕事を辞める話を親にしたら、実家に戻ってきたら良いと言われた。
けど、一年間東京にいるとなんだかんだでこちらの便利さに慣れてしまったし、さらに一人暮らしの楽さに気づいてしまった。
両親が嫌いなわけじゃないけど、やっぱり居住空間に人がいると、たとえ家族でも多少なりとも気を遣ってしまう。
その点、一人暮らしだったらどれだけ怠惰な生活を送っても誰にも文句を言われないし、困るのは自分だけ。
好きなアニメや漫画のイベントだって近場でやってくれるから、東京での一人暮らしは結構苦じゃない。というかむしろ楽しい。
東京で再就職するにしても、実家の方に戻るとしても、どちらにしても一人暮らしは続けたい。
だけど、私の帰りを待ち焦がれている両親にその思いを告げるのは気が引けて、仕事を辞めた後に一旦帰省すると約束した。
実家に引っ越せるほどの貯金はないため、とりあえず一週間の帰省。今の私にはそれが限界だ。
そういうわけで明日から一週間、奈良にある実家に滞在することになっている。
そして、冒頭の「暇」という状況に戻ってくる。
何もすることがない時って、私、どうやって過ごしてたっけ。
ベッドから窓の方に視線を向けると、カーテン越しの太陽はカンカン照りで夏に相応しく、冷房が効いた部屋にいても蒸し暑さを覚える。日差しの強さは地元とそう変わらない。
「そうだ。無事に退職したこと、茜には言っておかないと」
仙田茜は、私と同時期に東京に転属してきた同い年の女の子で、会社で精神が摩耗していく日々の中、唯一の救いだった。
配属された部署は違ったが、社内の親睦会で隣の席になってから連絡先を交換して、よく一緒に出掛けたり、会社を辞める時も相談に乗ってもらったりしていた。
ただ、数週間ほど前の休みに一緒に遊んで以来、茜がいる部署は忙しくなったらしく、まともに連絡が取れていない。
報告もかねて一度ちゃんと会って話をしておきたいが、茜の部署の状況次第では難しいかもしれない。
しかしその心配は杞憂に終わり、メッセージを送ればその日の夜に茜から電話がかかってきた。
「もしもし。繁忙期だったんだよね、お疲れ様。なんかすごい久しぶりな気がするなぁ」
久方ぶりの友人との電話に私は浮足立っていた。
しかしそんな私とは対照的に「うん……」と、電話口の茜の声は暗い。
「どうかした?」
そう問いかけると、茜は奥歯に物が挟まったような受け答えをする。
しばらく曖昧な言葉を繰り返していたかと思うと、「いや……ごめん。ちゃんと言う」と言って何かしらの覚悟を決めたらしい。
電話の向こうで彼女は深呼吸をする音が聞こえる。
「まずは、無事に退社おめでとう」
「うん。ありがとう」
「それでさ、真緒は薄々気づいていたかもしれないけど……」
嫌な予感。だけど気づかないフリをして相槌を打った。
「私、この数週間……真緒のこと嫌いになってた。……それで、避けてたんだよね」
見逃した嫌な予感は助走をつけて戻ってきた。
おっきなハンマーで心臓を殴りつけられたみたいに、心がギュッと縮んで痛くなる。
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