その鹿を人間にする方法

はるかわ 美穂

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1日目

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「あれ、啓太?……って、真緒もおるやん。珍しいな」

群衆の中からこちらに気づいて声をかけてきた一人の青年。

その顔には見覚えがあった。

そう?」

私の問いかけに青年は「おう」と頷く。

天使の輪っかが光る濡れ羽色の黒髪に、スッと通った鼻筋。弧を描く薄い唇から覗く歯は白く、清潔感がある。

颯は中学生の時からイケメンの部類に入るとは思っていたが、成人して精悍な顔つきになったせいか、さらにモテそうな容姿に成長している。

彼と会うのは成人式以来だ。と言っても私は式でほとんど異性と話さなかったので、こうして面と向かって話すのは中学校の卒業ぶりに等しい。

「二人も同じ電車乗ってたんやな」

言いながら改札の方へ進んでいく颯。階段の降り口で立ち話をするわけにもいかないので、私と啓太も自然と改札へ向かった。

颯の言葉に「うん」と応えながら、私は一つのある可能性を頭の中で除外した。

『知り合いの顔が全て鹿に見える可能性』

人間関係に疲れてしまった故に私が考えた、『人も鹿みたいに単純なら良いのに』という願いごと。

その結果、知り合いの顔が鹿に見えてしまう暗示にかかったのかと思ったけど、颯の顔はちゃんと見えている。

それに、颯が『金森啓太』という人間を正しく認識しているのを見るに、一連の不思議な現象の原因は全て私にあることが確実になった。

啓太は私が作り出した幻覚でも、私を惑わそうとする謎の人物でもない。

ただ、『私が金森啓太を忘れてしまった』というだけ。

数日前に聞いた啓太の傷ついた声音が蘇って、ズシンと心が重くなる。

「ていうか、二人でどっか行ってたんか?」

颯は興味深そうに私たちの顔を交互に見てくる。

私が啓太のことを忘れているから、その記憶を思い出すための手伝いをしてもらっていた、なんて本当のことはさすがに言えない。

答えに迷って啓太の方を見ると、彼は無駄に高いテンションで口を開いた。

「いやぁ、まさか!俺と真緒もたまたま同じ電車乗ってただけやで」

啓太の口からあからさまな嘘が飛び出すと思っていなかった私は、思わず彼の顔を勢い良く見てしまった。

私の視線には気づいているはずなのに、啓太は知らないふりでヘラヘラ笑っている。

啓太の顔を見て、不安な気持ちがぶり返した。

私と一緒に出かけてたって知られるのが、恥ずかしいのかな。

普段の私だったら相手にも事情があるのかもしれないと思って深く考えないようにする。

だけど、なぜかこの時ばかりはそれが出来なくて、ただ悲しみと不安でいっぱいになった。

呆然としながら、改札を通るために一歩後ろに下がる。二人が改札を通ったのに続いて、私もICカードをかざした。

その時――

「やっぱそうか。お前ら別れてからずっと疎遠やったもんな。一瞬より戻したんかと思ってビビったわぁ」

ピ、というタッチ音がやけに大きく響いた。

「……え」

颯の言葉の意味が理解できず、視線がさまよう。

なにか、想像もしていなかった言葉が颯の口から紡がれた気がした。

とっさに啓太の顔を見ると、目が合った。

相変わらず鹿の顔だと表情が読みづらいけど、いい表情をしていないことだけはわかった。

「知らん間にくっついたと思ったら、知らん間に別れとったからなぁ、お前ら。懐かしいわ」

颯は昔のことに思いを馳せているのか、感慨深い様子で頷く。

私は知らない。その過去を――覚えていない。

「そういえば、中学ん時の山セン結婚したらしいな」

颯は私と啓太の間に流れる微妙な空気に気づくことなく話題を切り替える。

思ったことをそのまま口に出す颯の性質は昔のままらしい。

理解が追いつかない状態で適当に相槌を打ってみれば、颯は楽しそうに思い出話に花を咲かせた。

必然的に颯とも帰路を辿ることになり、三人で数分間同じ道を辿った後、一番初めに颯が分かれる道がやって来た。

「久しぶりに話せて良かったわ。またな」

笑顔でそう言った颯に手を振り、彼の背中を見送る。

ここまでの道中、啓太はずっと静かだった。

二人きりになるとさらに重たい静寂が私たちを包み、呼吸まで圧迫されてしまいそうになる。

「……ごめん」

口を開いたのは啓太が先だった。

些細な表情の変化はわからずとも、その声色から彼が酷く落ち込んでいることは十分にわかった。

どうして彼は、私との関係を隠していたんだろうか。

「……私と啓太が付き合ってたってことを言わなかったのは、敢えて?」

私の言葉に、啓太がゆっくりと視線を上げる。

交わった視線の先、黒に覆われた丸い瞳が揺らいでいるように見えた。泣いているのだろうか。

「……ホンマにごめん。怖かったんや」

聞いたことがない程に弱々しい啓太の声。

「確かに俺と真緒は付き合ってた。でも……最悪な別れ方をした」

「最悪な別れ方?」

「そうや。俺が……お前に酷いこと言って、めちゃくちゃに傷つけて別れた」

一体どんなことを言ったのか。その続きを促すように啓太の目を見つめ返したが、彼は緩く首を振るだけ。

「だからお前と再会して、お前が俺のこと忘れてるってわかった時、俺のせいなんかもしれんと思った。真緒の中で俺の記憶は悪いものでしかないから、忘れられてるんかもって」

この記憶喪失に啓太自身に心当たりはないのかと問いかけた時、彼はなんでもないように答えていた。

だけどあの時、心中ではそんなことを考えていたのか。

「だから、真緒が俺のことを忘れたいほど憎んでたんやったら、そのままにしといた方がええんやないかって思った。いや、それは建前か。俺が酷いことしたやつやって真緒にまた知られんのが……俺は怖かった」

啓太の独白が夕暮れの空気に消えていく。その時、私はひとつの矛盾に気がついた。

「……じゃあ何で、今日は私に付き合ってくれたの?」

そう問いかけると、伏せられていた啓太の黒い瞳に、さらに影が落ちた。
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