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過去の傷
しおりを挟む数年前、俺は全国に展開する大手のホテルの厨房で料理人として働いていた。高校卒業と共に料理専門学校でイロハを学んだ俺が、就活をサポートする教師から勧められたリストに記載されていた、修行先に選んだところがそこだった。
両親が地元で小さな旅館を経営しているため、俺にとって誰かに料理を作ることはごくごく身近なものだった。将来的には田舎に戻って家業を継ぐのだろうが、両親だってまだまだ働き盛りだし、なんなら祖父母も現役だ。俺が帰るのはあと20年以上も先の話だろう。
だから俺には自分だけのやりたいことがあった。
それは独立開業し、自分の店を持つこと。
俺が腕によりをかけて作ったものをみんなが食べて笑顔になってくれる、そんな場所を作ること。
しかし、それは現状から考えれば途方もなく非現実的な妄想の話で、その頃はただひたすらに残業代のつかない低賃金と長時間の労働に苦しむ日々でしかなかった。
上司の顔は、いつも不機嫌そうで、厳しい目つきと嫌な態度が俺の精神を追い詰めていた。特に、上司の言葉や仕草から感じられる、刺さるような威圧感が、俺の心に深い傷を残していた。
「店を持ちたいだって?笑わせるなよ。お前みたいな愚図ができるわけないだろうが。寝言は寝てから言えよ。」「調理を学びたいだ?お前に教える暇があったら仕事してんだよ、見て分かんねぇのかこの忙しさを。クックパッドでも見とけば?俺から学びたいならこの前出演したテレビの料理番組でも録画しとけよ。」「あーあ、良いよなあ。お前はお気楽で。お前みたいなのが店を持つなんてあるわけないだろ。」
上司は容赦なく俺を貶める言葉を投げかけてきた。言葉だけじゃない。ホテルの備品や調理器具を隠しては俺のせいにされたし、わざとぶつかったり足を踏まれたり、何かにつけて欠点をあげつらってついでに殴ってきたり。当時、俺はこれが教育だと信じ、自分の未熟さが上司を怒られているのだと思って必死に耐えていた。俺は全部我慢した。
しかしその努力は全て無駄だった。その言葉の裏には、上司の劣等感や自己嫌悪が渦巻いていた。俺はただでさえ長時間労働・安月給の劣悪な労働環境に苦しんでいたのに、その上に圧し掛かる上司のいじめはさらに俺を追い詰め、仕事を辞めることができない状況に陥らせた。
「お前みたいなのがここにいるだけで足引っ張ってんだよ。分かんないのか?あーあ、何で人事はこんな奴を取ったかな。まともな仕事ができないくせに何が夢だ、笑っちまうぜ!」
上司の罵声は耳に痛い程響き、そのたびに俺の自尊心は削られていった。
やがて、パワハラは身体にまで及び、俺は何度も仕事中に倒れることがあった。それでも上司は、俺が倒れても容赦なく働かせ続け、他のスタッフには俺を嘲笑うような言葉を投げた。彼らは上司に同調したが、まあ、俺も彼らの置かれた立場は理解できる。誰も好き好んで上司にいびられたくはない。俺が標的でなくなれば、次のターゲットは自分たちになるのだから。
上司の言葉は毎晩、俺の夢を踏みにじり、自分の存在すら否定されるような気持ちにさせた。
その日の夜、仕事が終わるとき、上司は冷たく言った。
「お前みたいなのが店を持てる日なんて来るわけねえだろ。辞めろ、このクソッタレ。」
▽
ホテルの厨房での日々は、まるで流れるような喧騒と共に始まり、終わることなく続く。夢見る料理人としての理想が、現実の厳しさに飲み込まれそうになる中、上司との関係はますます困難なものになっていった。
ある日、ホテル内で開かれる大規模なパーティーの担当が回ってきた。なんでも超大金持ちの一族が一堂に会する親族会なのだとか。これが成功すれば、料理長からの評価も上がり、将来の道も開けるかもしれないとみんなの期待が高まる。しかしその期待が、どうしようもない現実の荒波に飲み込まれることになるとは、その時の俺にはまったく想像できなかった。
当日、会場は賑やかな声で満ち溢れ、厨房も大いに熱気に包まれていた。注文が次々と入り、シェフたちは一心不乱に調理に取り組んでいた。そして、その中で俺は特に重要な役割を果たすことになっていた。
担当はデザートセクションだった。一見シンプルなスイーツだが、その繊細な味わいと見た目の美しさが、ゲストに特別感を与えることが期待されていた。
それは卵を主成分とするものだった。シェフが用意した材料は厳選され、こだわり抜かれたものばかり。
しかし、このデザートが後に起こる悲劇の序章となるとは、誰も予測できなかった。
注文が入り、デザートが出された時、最初にそれを頼んだのは卵アレルギーを持つお客様だった。彼女のアレルギーのことをホール担当のスタッフからの報告で事前に聞いていた俺は、特別に卵を使わないデザートを用意していたはずだった。しかし、どういうわけか、そのデザートが別のものとすり替わってしまっていた。
お客様がデザートを口にした瞬間、彼女は激しいアレルギー反応からくる痙攣と呼吸困難に見舞われた。その光景はまるで悪夢のようで、俺たち厨房のスタッフは呆然と立ち尽くしてしまった。
混乱の中、シェフの目が俺を捉えた。目に映る景色はまるでスローモーションのようで、彼の視線が鋭く、そして次第に冷たくなっていくのがわかった。そして、シェフが向けたのは非難の一撃だった。
「お前が、このデザートを作ったんだろ?そうだよな?」
驚きと同時に、何が起こったのか理解できないまま、俺は言われるがままに頷いた。そう、そうだ。俺はちゃんと指定されたデザートを作ったし、アレルギーのあるお客様向けに卵を使用しないデザートも両方自分で作ったはずだ。もちろん調理器具だって混ざらないように完璧に分けていた。
なのになぜ。シェフが指さす先には、アレルギー反応を起こしたお客様が倒れていく姿があった。その状況に、俺は自分が巻き込まれていることを理解できなかった。
「何をしてるんだこの馬鹿野郎が!お前が悪いって言うからな。お前のミスでこんなことになったんだぞ。」
急なアクシデントで騒然とした厨房に辺りにシェフの怒声が響く。シェフは怒りに激しく燃える視線で俺を見つめ、その言葉を周りに強く印象づけた。彼の後ろで、お客様の悲鳴や救急車のサイレンが響き渡る中、俺の体は無力感と絶望に包まれ、体に力が入らず小刻みに震えるだけだった。
その後、ホテルは謝罪と賠償に追われた。テーブルに向かう料理の最終確認は上司の仕事だ。シェフは自分のミスを隠すために、俺をスケープゴートにして、責め立てたのだ。だけど、そうだとしても、「俺が作った料理で人を病院送りにさせてしまった」ことに変わりはない。被害者の女性は命に別状はなかったらしい。直接謝りたかったが、ご家族の方に許してもらえず、せめて謝罪の手紙だけでも渡して欲しいとお願いしたが、どの後どうなったのかは分からない。
目の前の何もかもの歯車が狂ってギシギシとかみ合わなくなっていく中、俺は罪の意識にさいなまれ、その重さに耐え切れない日々を送ることになった。
その日を境に、俺の心はどこか時が止まってしまったようだった。上司の言葉が頭から離れず、いつしか料理への情熱も失せていった。寝込むことが増え、心身ともに疲弊していった。
そして、ある日、上司が特に過酷な仕事とスケジュールを押し付けてきて、それでもこなさなければならないと言われたとき、俺は自分の限界を感じた。いや、限界はもうとっくの昔に超えていたことにその時気づいた。
目の前が真っ暗になり、その日、俺は体調を崩した。
気づいたときには俺は布団に寝たきりの生活になっており、無断欠勤で仕事も失ったらしかったがその辺のことはあまり覚えていない。
体調を崩した後の数か月、俺の日常は痛みと無気力に支配されていた。ベッドから起き上がることなく、寝たきりの日々が続く。排泄のために這って共用トイレに行き、風呂に入る気力はない。食事も最低限の生存に必要なものだけだった。スーパーまで行く体力がなかったため、スマホで食料を注文し配達してもらう。3日に1回、ウーバーイーツの配達員との玄関先でのやりとりが俺の唯一のコミュニケーションだった。そんな日々が続いき、自分の存在がひどく虚しく感じられ、もう何のために生きているのかも分からなくなっていたが、このまともに動かない体を抱えていては、俺にはどうすることもできなかった。
昼間、薄い窓を隔てて遠くから聞こえる誰かの会話、子どもの叫び声、街のざわめきが、俺にとっては遠くの星で起こっていることのように感じられた。かつて抱いていたはずの夢や希望はとっくに遠ざかり、代わりに胸いっぱいに広がるのは、無限の空虚と暗闇だった。
「何が夢だ、クソッタレ!」という言葉が、いつも夜になると繰り返し脳内で再生される。そのたびに俺の心は苦痛に晒された。たまに起き上がれる日があって布団から体を起こすことができたとしても、上司の影が俺を布団に引きずり戻そうとしていた。考えなくて済むようになりたかった。こんなにも苦しいならいっそ命を手放したい。
銃の引き金を引いて、ロープをクビに巻いて、手首を湯につけてカッターで、包丁を腹にさして…。
何度も何度も頭の中で、様々な方法で、自ら命を絶つシーンを妄想した。
そんな無気力な生活が1年近く続いた後、体調が上向き、ようやく長い時間ベッドから起き上がれるまでになった。スーパーにも足を運べるようになり、寝たきりで衰えた体力も食料を買いに行く店と家との往復で少し回復した。
そうしてすこしクリアになった頭でこう考えた。
「よし、自分の葬儀代を稼いでから楽になろう。」
そんな時だった。家事代行のバイトの応募を見つけたのは。
職を失い貯金だけで生きていた俺は、葬儀代を貯めるどころか日々の生活費さえギリギリの状態で、その貯金額は節約したとしてもあと生活費半月分までに減っていた。いけない、いけない。このままの状態で死んでは家族に迷惑がかかるから、生活費が尽きる前に、いや、生活費も稼ぎながら自分の葬儀代100万円を貯金することを目標にして、今この死にたい瞬間をなんとかやり過ごそう。
そんな俺がジモ〇ィーやハローワークのインターネットサービスやでバイトを探していたときだった。
仕事内容は掃除・洗濯・家事。特に温かい料理を作ることができる人希望。
週に3回、1日4時間。
長いブランクでいきなり長時間働く自信がなかった俺にはありがたい条件を見つけた。
『貧すれば鈍する』とはよく言ったもので、こんなに怪しい募集、普段の俺だったら詐欺か地雷企業かと思って歯牙にもかけなかっただろうが、背に腹は代えられぬ思いで応募することにした。「何かあってもどうせあとは死ぬだけだし」と、自分で決めた死期が近いことも後押しとなった。
そうして出会ったのが、今の雇い主である、三ノ宮メイウェイだったのだ。
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