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購入場所を知った竹野は、その日のうちに買いに行った。小槙としてはその日泊まっていくものだと思っていたようで、早い時間に帰ると言った竹野に寂しそうな顔を見せた。申し訳ないと竹野も眉尻を落としつつ、こればかりは譲れない。ここで行かなければ、きっといつになっても行けないだろう。
小槙は竹野に誠実さの話をした。
小槙にとっての誠実さと、竹野にとっての誠実さはおそらくぴったり重なり合うものではないだろう。だが重ならないからといって、それを無視することはできない。
小槙が示してくれたように、竹野も小槙に示したいものがある。
付き合うようになって半年が経ち、小槙が自分に触れないことをもしかしたら、やっぱりそういう目で見られないということなのかと密かに悩んだりもした。だが竹野は、小槙のことを知っている。それならそれで、誤魔化したり、なあなあにすることはない。そしてなにより、そんな考えがあるときに、あんな真っ直ぐな笑顔を向けられるような人間ではない。そんな考えを持つことこそ失礼だ。
理由はまだ分からない。
小槙の中で、何か誠実のために考えていることがあるのだろう。だがあのとき、それが自分のためであるのならば、そのための誠実さはいらないと言ったのは小槙だ。いま同じことを竹野は思う。
小槙が竹野のために飛び込んでくれたものがあるように、竹野も小槙のために飛び込みたい。
おそらくいま、自分は冷静ではないだろう。
でも冷静だったらできない。できないなら冷静でなくてもいい。まだ媚薬のにおいしか嗅いでいないのに、すでに薬が効いているのだろうか。
竹野は瓶を握りしめ、ぴしりと正座をすると、小槙に連絡を入れるためにスマートフォンを掲げ持った。
今週末泊まりに行っても構わないかと連絡を入れたのは竹野だが、よく考えると、いつも連絡を入れずとも週末は小槙の部屋で過ごしているのだった。
これではまるでなにかありますと先に白状しているようなものだ。媚薬を持参しているので余計にひとりでやる気が漲っているようで恥ずかしくなってくる。小槙は部屋に入るなり顔をしかめたりしぶらせている竹野を座らせると、その頬を揉んだ。
「どうしたの? 変な顔して」
「……いや、いつも泊まりに来てるのに、変な連絡を入れたな、と思って、ちょっと……」
いまでは土日はほとんど一緒に過ごしている。竹野が小槙の部屋に泊まることが多い。特にお互い何も言わなければ、連絡もなしに部屋に行くのが普通になっていた。
それなのに電話をした。何かあると言っているようなものだ。
小槙は特に指摘はせず、そうかな、とばかりに竹野を見つめただけだった。
「竹野が泊まりに来てくれるのも嬉しいし、電話をくれるのも嬉しいよ」
電話がうれしいと言われて、竹野はむずむずと口元を緩める。どちらかといえば、電話をかけてくるのは小槙のほうが多い。竹野も電話をしてみようと思うのだが、まず何を切り出すかということを考えてスマートフォンの画面を眺めているうちに小槙から電話がかかってきてしまう。
考え込みすぎるのがよくないのかも知れない。小槙はいつもどう電話をくれていたかと考えてみても、いつの間にかするりと話が流れていっている。相変わらず緊張のあまり正座をしてしっかり話を聞いているはずなのに、電話が終わってみると小槙と話をした、ということ以外がすっかり飛んでしまうのだった。
「今日は小槙に、話したいことがある」
「うん? 真面目な感じに?」
「真面目な感じに」
竹野が重々しく、重々しく見えるように頷くと、小槙がわかった、と腰を下ろした。テーブルを挟んで竹野の向かいに座る。
竹野が正座をしているせいか、小槙も正座をしたようだった。大柄な小槙がぴしりと膝を揃えると、ますます重厚に感じられる。部屋がみっしりと密度をましたように狭くなる。
竹野は鞄を探りながら、食事の後にすればよかっただろうか、風呂後にすればよかっただろうかと揺れる。だがもう後には引き下がることも考えられず、握った瓶をドン、とテーブルの上に出して見せた。実際には小瓶なので、軽い音しかしない。ただ瓶の中身の色が派手なので、存在感は強い。
小槙はぱちぱちと目を瞬かせた。背中を丸め、瓶を覗き込んでいる。
「ん?」
「これを、いまから飲みます」
「え?」
ぽかん、と今度は口を開けた小槙をよそに、飲んでもいいんだっけと竹野は外装の箱を取り出し説明書を読む。飲んでも塗ってもいい、という説明はある。清涼飲料水に分類されるらしい。
においが強いので抵抗があるが、それならば、と竹野は蓋を開けた。小槙がはっと我に返った様子で腰を浮かせる。竹野の手のひらごと小瓶のふたを押さえた。
「待って待って」
「実は一度開封してるから、早めに使わないと」
「えっもう飲んだ!?」
「いやにおいだけ確認を……」
「こういうのは飲むのは止めておこうか。話があるって言ってたし、話のほうを先にしよう?」
「話っていうのがこれを飲むっていうことで……ちょっと小槙、手を離してほしいんだけど……あっ」
「竹野!」
真面目な話だからと正座をしていたのがあだになった。竹野は正座に弱い。小槙との毎日の電話で正座をしているので、いい加減慣れそうなものだが、すぐに痺れてしまう。
竹野は身を引いて瓶をたぐり寄せようとしたが、足に力が入らず、ばたっと身体が横に倒れてしまった。小槙も竹野を支えるためにか咄嗟に瓶から手を離している。瓶は手の中でふたが外れ、ぱしゃっと竹野の腹のあたりに零れた。
「「あ」」
竹野は起き上がれずに首を持ち上げ、なんとか見ながら手で濡れた辺りを拭ってみた。服に大分吸収されているようだが、ぬるぬると指先が滑る。
この瓶を、竹野は一度、自分の部屋でひとりで開けている。けれどこのときは、こんなあまいにおいを強く感じたりはしなかった。このにおいは、本当に媚薬のにおいなのだろうか。考える。小槙がいないとなんの力も発揮しない液体を、媚薬と呼べるのか。
液体を指で掬うように拭い、その指を嗅いでみる。あまい。小槙が一緒ににおいを確かめるように顔を寄せてきたので、竹野は指を拭うように小槙の頬をなぞった。目を細めて、小槙が竹野の顎を取る。どちらともなくくちびるを寄せ、噛みつくように触れた。あまいにおいが濃くなる。小槙の頬のにおいだろうか。それとも小槙のにおいだろうか。くちびるの柔らかさが、口の中の熱が気持ちいい。うなじを掴むように撫でられ、びくびくと竹野は震えた。
竹野、とくちびるを離した小槙が呼ぶ。耳朶を食まれ、口の中で転がされると、身体が跳ねるのを止められなかった。縋り付くように小槙の服に縋りながら抱きつくと、下腹を硬く押し上げてくるものがある。それがなんなのか分からなかったのは一瞬だけで、認識した瞬間、カッと頭に血が上った。分かっていたのに。最初に媚薬を零したときだって、深夜にバスルームでひとりで慰めているときだって、その熱を向けている先は竹野だった。分かっていたのに、本当にそうなのだと理解させられた。耳朶の縁まで熱く、じりじりと燃える。そしてそれはきっと、自分だけではないのだろう。小槙も、身体も口の中まで熱かった。自分に対して、こんなにも興奮するのだ。
竹野が手を伸ばし服の上からそこを撫でると、呻き声が上がる。小槙がとどめるように竹野を抱きしめた。
「竹野、あんまり触らないでほしい」
「やだった?」
「ちがう。そうじゃなくて、我慢ができなくなる」
「どうして我慢する必要があるのかわからない」
小槙に抱きしめられていると、竹野はまるで自分が小さな生きものになったような錯覚を受ける。
小槙の身体は熱い。そんな熱い身体に上から下から包まれていると、息もままならず、自分の境界が曖昧になる。このままとろけてまるまってしまうのではないだろうか。それくらい閉じ込めんばかりに抱きしめていながら、小槙は途方に暮れたように竹野を見ている。迷子みたいだ。竹野は思う。
いつでも止まることなく、竹野の腕をひっぱって、どこまでも行ってしまいそうな男なのに。
「竹野が、俺のこと好きって思ってくれるまでは、我慢したい」
小槙がやっぱり低く唸るように口にするのに、竹野はぴたっと手を止めた。一瞬で我に返る。考える前に言葉が飛び出た。
「好きって……つ、付き合ってるのに?」
もう半年も恋人として関係を築いてきたはずだ。竹野は不慣れであったかも知れないが、それでも友人にしては近すぎる距離に馴れ、心地よく思うようになっていた。もう恋人で、好意を向け合っているという認識だった。そこが間違っていたのだろうかと戸惑い、しきりに首を傾げてしまう。
小槙は言葉を探すように、そうだね、と軽く頷いて見せた。
「付き合ってるし。竹野が俺のこと好きだっていうのも分かる」
竹野はそれはそれで納得がいかないので首を傾げる。自分が小槙を好きだというのは間違ってはいないのだが、そんなになんの迷いもなく言い切られてしまうと、じゃあなぜ、とより一層わけが分からない。
「でも竹野が、……竹野自身が、俺のこと好きだって分かっているのかどうかが分からない。そういうの、時間がかかるものだろう?」
「時間?」
「俺は二年かかったよ」
二年もかかっちゃった。小槙は悔しそうに零した。
「もっと早く気づけたらよかった。卒業前に気づけてたら、こんなに離れていなくても済んだかも知れないのに」
ずっと話してみたかったんだよ。小槙は言う。思い出すように一瞬目を眇めて、それから竹野を柔らかく見つめた。
「だから図書館で話せたとき嬉しかったし、もっと話す機会とか増えないかなって思ってた」
「……ぜんぜんわかんなかった」
前にも一度、伝えられたはずだ。だが、竹野はやはり困惑した。小槙はずっと、自分とは違うところにいると思っていた。
図書館で話してからも、小槙の態度は特に大きくは変わらなかったはずだ。時々目が合ったりはしただろうか。友人というより、同じクラスの同級生くらいの接点しかなかった。
「竹野が引け腰なの分かってたから。でももっと話しかけたらよかった、っていまなら思うよ。そこは結構後悔してるから」
小槙でも後悔することがあるんだなどと、竹野はぼんやりと考える。走っているときでもにこにこして、走り終えた後にもいつも満足そうな顔をしているのに。
「あの頃もっと話してれば、一緒に帰りに寄り道したりとか、休日に待ち合わせして遊びに行ったりとかできたし」
「いましてるよ」
「してる。ずっとそうしたかったから」
そうできて嬉しいのだとてらいなく小槙は口にする。竹野は高校の頃なら、どうだったかな、と思い返す。本当に遊ぶ場所などほとんどなかった。帰り道にコンビニはあっただろうか。帰る方向はどうだったか。分からない。一度も、一緒には帰らなかったから。
「ずっと竹野のこと気になってて、なんでかな、って思って。それが好きだってことだって気づいたのが同窓会のとき」
「あのときすごくびっくりした……」
「好きだって気づいてちょっと興奮してたんだよね。あと早く言っておかないと、また会う機会がなくなるから焦ってた」
竹野は曖昧に頷く。焦っていたと言われればそうか、と思うが、出会い頭だったのでとにかく情緒も何も考えられなかった。鳩が豆鉄砲を食らうとはこんなことを言うのだろうか。そんなことを思っていた。
「正直、付き合うのは、好きじゃなくてもできると思う」
そこは同意しかねる。眉根を寄せると、小槙が笑いながら竹野の眉間を親指で撫でた。
「俺の場合はそうだったよ。だから、こんなふうに誰かのこと好きだって分かるのが初めてで、すごくびっくりしたんだよ」
「小槙がびっくりするって、想像がつかない……」
「竹野にはいつもびっくりさせられてると思うけど」
小槙が笑いながら、やはり竹野の眉間を揉んだ。同意しかねる。
「あの同窓会のとき、ずっと竹野に会いたかったんだって分かって、変なこと言うけど、竹野がすごく眩しく見えた」
分かるよ。竹野は言葉に出せずに思う。くちびるが震える。そんなふうに、小槙が思ってくれていたと、考えたこともなかった。
「そういうのを、竹野も、分かってくれることがあるかな、と思ったんだ」
自分は小槙のことを誤解していたのだろう、と竹野は思った。
明るくて、前向きで、何でもできて、誰からも好かれる。そのうわべのところを、強く捉えていたかも知れない。竹野のことを好きだと言うけれど、きっとそれは、小槙に物珍しく映っているいまだけのことだと、心のどこかで思っていた。
それがいまになってようやく、本当に、小槙は自分のことが好きなのだと深いところで理解できた。同じだったからだ。手が震える。それでも構わず、小槙の顔を両手で挟んだ。手だけじゃなくて、顔まで暖かいのかと竹野は笑う。
「分かるよ」
小槙は竹野が分かるまで待つ、と言った。そうかな。竹野は思う。自分は、本当に分かっていないのか。気づいていないのか。
本当にそうなのかな。ずっと考えていた。
むしろ小槙のほうが、わかっていないのではないだろうかと思っていた。自分が抱えた熱量が、小槙よりも多いのだろうと考えていた。
竹野にとってみればずっと、小槙が眩しく見えていたから。
この眩しさが、避けるほど怖かったのに。いつから変わっていたのだろう。
高校のときのまま、会うこともなければきっと憧れのような、淡い気持ちで終わっていたのかも知れない。時々思い出して、どうしているか、と考えたりするくらいの。
けれど再会して、竹野は今まで以上のものを知ってしまった。触れる体温も鼓動も、自分にだけ向けられる特別な笑顔も。
好きだと差し出されて受け取ったときに、竹野も知らず心を差し出していたのだと、いまになって気づいた。
「僕も、小槙のこと好きだから、わかる」
小槙の目が揺らぎ、見開かれる。なるほど、確かに、自分が驚かせることができるらしい。竹野は笑いながら小槙にくちびるを寄せ、においだけでないあまさを味わった。
小槙は竹野に誠実さの話をした。
小槙にとっての誠実さと、竹野にとっての誠実さはおそらくぴったり重なり合うものではないだろう。だが重ならないからといって、それを無視することはできない。
小槙が示してくれたように、竹野も小槙に示したいものがある。
付き合うようになって半年が経ち、小槙が自分に触れないことをもしかしたら、やっぱりそういう目で見られないということなのかと密かに悩んだりもした。だが竹野は、小槙のことを知っている。それならそれで、誤魔化したり、なあなあにすることはない。そしてなにより、そんな考えがあるときに、あんな真っ直ぐな笑顔を向けられるような人間ではない。そんな考えを持つことこそ失礼だ。
理由はまだ分からない。
小槙の中で、何か誠実のために考えていることがあるのだろう。だがあのとき、それが自分のためであるのならば、そのための誠実さはいらないと言ったのは小槙だ。いま同じことを竹野は思う。
小槙が竹野のために飛び込んでくれたものがあるように、竹野も小槙のために飛び込みたい。
おそらくいま、自分は冷静ではないだろう。
でも冷静だったらできない。できないなら冷静でなくてもいい。まだ媚薬のにおいしか嗅いでいないのに、すでに薬が効いているのだろうか。
竹野は瓶を握りしめ、ぴしりと正座をすると、小槙に連絡を入れるためにスマートフォンを掲げ持った。
今週末泊まりに行っても構わないかと連絡を入れたのは竹野だが、よく考えると、いつも連絡を入れずとも週末は小槙の部屋で過ごしているのだった。
これではまるでなにかありますと先に白状しているようなものだ。媚薬を持参しているので余計にひとりでやる気が漲っているようで恥ずかしくなってくる。小槙は部屋に入るなり顔をしかめたりしぶらせている竹野を座らせると、その頬を揉んだ。
「どうしたの? 変な顔して」
「……いや、いつも泊まりに来てるのに、変な連絡を入れたな、と思って、ちょっと……」
いまでは土日はほとんど一緒に過ごしている。竹野が小槙の部屋に泊まることが多い。特にお互い何も言わなければ、連絡もなしに部屋に行くのが普通になっていた。
それなのに電話をした。何かあると言っているようなものだ。
小槙は特に指摘はせず、そうかな、とばかりに竹野を見つめただけだった。
「竹野が泊まりに来てくれるのも嬉しいし、電話をくれるのも嬉しいよ」
電話がうれしいと言われて、竹野はむずむずと口元を緩める。どちらかといえば、電話をかけてくるのは小槙のほうが多い。竹野も電話をしてみようと思うのだが、まず何を切り出すかということを考えてスマートフォンの画面を眺めているうちに小槙から電話がかかってきてしまう。
考え込みすぎるのがよくないのかも知れない。小槙はいつもどう電話をくれていたかと考えてみても、いつの間にかするりと話が流れていっている。相変わらず緊張のあまり正座をしてしっかり話を聞いているはずなのに、電話が終わってみると小槙と話をした、ということ以外がすっかり飛んでしまうのだった。
「今日は小槙に、話したいことがある」
「うん? 真面目な感じに?」
「真面目な感じに」
竹野が重々しく、重々しく見えるように頷くと、小槙がわかった、と腰を下ろした。テーブルを挟んで竹野の向かいに座る。
竹野が正座をしているせいか、小槙も正座をしたようだった。大柄な小槙がぴしりと膝を揃えると、ますます重厚に感じられる。部屋がみっしりと密度をましたように狭くなる。
竹野は鞄を探りながら、食事の後にすればよかっただろうか、風呂後にすればよかっただろうかと揺れる。だがもう後には引き下がることも考えられず、握った瓶をドン、とテーブルの上に出して見せた。実際には小瓶なので、軽い音しかしない。ただ瓶の中身の色が派手なので、存在感は強い。
小槙はぱちぱちと目を瞬かせた。背中を丸め、瓶を覗き込んでいる。
「ん?」
「これを、いまから飲みます」
「え?」
ぽかん、と今度は口を開けた小槙をよそに、飲んでもいいんだっけと竹野は外装の箱を取り出し説明書を読む。飲んでも塗ってもいい、という説明はある。清涼飲料水に分類されるらしい。
においが強いので抵抗があるが、それならば、と竹野は蓋を開けた。小槙がはっと我に返った様子で腰を浮かせる。竹野の手のひらごと小瓶のふたを押さえた。
「待って待って」
「実は一度開封してるから、早めに使わないと」
「えっもう飲んだ!?」
「いやにおいだけ確認を……」
「こういうのは飲むのは止めておこうか。話があるって言ってたし、話のほうを先にしよう?」
「話っていうのがこれを飲むっていうことで……ちょっと小槙、手を離してほしいんだけど……あっ」
「竹野!」
真面目な話だからと正座をしていたのがあだになった。竹野は正座に弱い。小槙との毎日の電話で正座をしているので、いい加減慣れそうなものだが、すぐに痺れてしまう。
竹野は身を引いて瓶をたぐり寄せようとしたが、足に力が入らず、ばたっと身体が横に倒れてしまった。小槙も竹野を支えるためにか咄嗟に瓶から手を離している。瓶は手の中でふたが外れ、ぱしゃっと竹野の腹のあたりに零れた。
「「あ」」
竹野は起き上がれずに首を持ち上げ、なんとか見ながら手で濡れた辺りを拭ってみた。服に大分吸収されているようだが、ぬるぬると指先が滑る。
この瓶を、竹野は一度、自分の部屋でひとりで開けている。けれどこのときは、こんなあまいにおいを強く感じたりはしなかった。このにおいは、本当に媚薬のにおいなのだろうか。考える。小槙がいないとなんの力も発揮しない液体を、媚薬と呼べるのか。
液体を指で掬うように拭い、その指を嗅いでみる。あまい。小槙が一緒ににおいを確かめるように顔を寄せてきたので、竹野は指を拭うように小槙の頬をなぞった。目を細めて、小槙が竹野の顎を取る。どちらともなくくちびるを寄せ、噛みつくように触れた。あまいにおいが濃くなる。小槙の頬のにおいだろうか。それとも小槙のにおいだろうか。くちびるの柔らかさが、口の中の熱が気持ちいい。うなじを掴むように撫でられ、びくびくと竹野は震えた。
竹野、とくちびるを離した小槙が呼ぶ。耳朶を食まれ、口の中で転がされると、身体が跳ねるのを止められなかった。縋り付くように小槙の服に縋りながら抱きつくと、下腹を硬く押し上げてくるものがある。それがなんなのか分からなかったのは一瞬だけで、認識した瞬間、カッと頭に血が上った。分かっていたのに。最初に媚薬を零したときだって、深夜にバスルームでひとりで慰めているときだって、その熱を向けている先は竹野だった。分かっていたのに、本当にそうなのだと理解させられた。耳朶の縁まで熱く、じりじりと燃える。そしてそれはきっと、自分だけではないのだろう。小槙も、身体も口の中まで熱かった。自分に対して、こんなにも興奮するのだ。
竹野が手を伸ばし服の上からそこを撫でると、呻き声が上がる。小槙がとどめるように竹野を抱きしめた。
「竹野、あんまり触らないでほしい」
「やだった?」
「ちがう。そうじゃなくて、我慢ができなくなる」
「どうして我慢する必要があるのかわからない」
小槙に抱きしめられていると、竹野はまるで自分が小さな生きものになったような錯覚を受ける。
小槙の身体は熱い。そんな熱い身体に上から下から包まれていると、息もままならず、自分の境界が曖昧になる。このままとろけてまるまってしまうのではないだろうか。それくらい閉じ込めんばかりに抱きしめていながら、小槙は途方に暮れたように竹野を見ている。迷子みたいだ。竹野は思う。
いつでも止まることなく、竹野の腕をひっぱって、どこまでも行ってしまいそうな男なのに。
「竹野が、俺のこと好きって思ってくれるまでは、我慢したい」
小槙がやっぱり低く唸るように口にするのに、竹野はぴたっと手を止めた。一瞬で我に返る。考える前に言葉が飛び出た。
「好きって……つ、付き合ってるのに?」
もう半年も恋人として関係を築いてきたはずだ。竹野は不慣れであったかも知れないが、それでも友人にしては近すぎる距離に馴れ、心地よく思うようになっていた。もう恋人で、好意を向け合っているという認識だった。そこが間違っていたのだろうかと戸惑い、しきりに首を傾げてしまう。
小槙は言葉を探すように、そうだね、と軽く頷いて見せた。
「付き合ってるし。竹野が俺のこと好きだっていうのも分かる」
竹野はそれはそれで納得がいかないので首を傾げる。自分が小槙を好きだというのは間違ってはいないのだが、そんなになんの迷いもなく言い切られてしまうと、じゃあなぜ、とより一層わけが分からない。
「でも竹野が、……竹野自身が、俺のこと好きだって分かっているのかどうかが分からない。そういうの、時間がかかるものだろう?」
「時間?」
「俺は二年かかったよ」
二年もかかっちゃった。小槙は悔しそうに零した。
「もっと早く気づけたらよかった。卒業前に気づけてたら、こんなに離れていなくても済んだかも知れないのに」
ずっと話してみたかったんだよ。小槙は言う。思い出すように一瞬目を眇めて、それから竹野を柔らかく見つめた。
「だから図書館で話せたとき嬉しかったし、もっと話す機会とか増えないかなって思ってた」
「……ぜんぜんわかんなかった」
前にも一度、伝えられたはずだ。だが、竹野はやはり困惑した。小槙はずっと、自分とは違うところにいると思っていた。
図書館で話してからも、小槙の態度は特に大きくは変わらなかったはずだ。時々目が合ったりはしただろうか。友人というより、同じクラスの同級生くらいの接点しかなかった。
「竹野が引け腰なの分かってたから。でももっと話しかけたらよかった、っていまなら思うよ。そこは結構後悔してるから」
小槙でも後悔することがあるんだなどと、竹野はぼんやりと考える。走っているときでもにこにこして、走り終えた後にもいつも満足そうな顔をしているのに。
「あの頃もっと話してれば、一緒に帰りに寄り道したりとか、休日に待ち合わせして遊びに行ったりとかできたし」
「いましてるよ」
「してる。ずっとそうしたかったから」
そうできて嬉しいのだとてらいなく小槙は口にする。竹野は高校の頃なら、どうだったかな、と思い返す。本当に遊ぶ場所などほとんどなかった。帰り道にコンビニはあっただろうか。帰る方向はどうだったか。分からない。一度も、一緒には帰らなかったから。
「ずっと竹野のこと気になってて、なんでかな、って思って。それが好きだってことだって気づいたのが同窓会のとき」
「あのときすごくびっくりした……」
「好きだって気づいてちょっと興奮してたんだよね。あと早く言っておかないと、また会う機会がなくなるから焦ってた」
竹野は曖昧に頷く。焦っていたと言われればそうか、と思うが、出会い頭だったのでとにかく情緒も何も考えられなかった。鳩が豆鉄砲を食らうとはこんなことを言うのだろうか。そんなことを思っていた。
「正直、付き合うのは、好きじゃなくてもできると思う」
そこは同意しかねる。眉根を寄せると、小槙が笑いながら竹野の眉間を親指で撫でた。
「俺の場合はそうだったよ。だから、こんなふうに誰かのこと好きだって分かるのが初めてで、すごくびっくりしたんだよ」
「小槙がびっくりするって、想像がつかない……」
「竹野にはいつもびっくりさせられてると思うけど」
小槙が笑いながら、やはり竹野の眉間を揉んだ。同意しかねる。
「あの同窓会のとき、ずっと竹野に会いたかったんだって分かって、変なこと言うけど、竹野がすごく眩しく見えた」
分かるよ。竹野は言葉に出せずに思う。くちびるが震える。そんなふうに、小槙が思ってくれていたと、考えたこともなかった。
「そういうのを、竹野も、分かってくれることがあるかな、と思ったんだ」
自分は小槙のことを誤解していたのだろう、と竹野は思った。
明るくて、前向きで、何でもできて、誰からも好かれる。そのうわべのところを、強く捉えていたかも知れない。竹野のことを好きだと言うけれど、きっとそれは、小槙に物珍しく映っているいまだけのことだと、心のどこかで思っていた。
それがいまになってようやく、本当に、小槙は自分のことが好きなのだと深いところで理解できた。同じだったからだ。手が震える。それでも構わず、小槙の顔を両手で挟んだ。手だけじゃなくて、顔まで暖かいのかと竹野は笑う。
「分かるよ」
小槙は竹野が分かるまで待つ、と言った。そうかな。竹野は思う。自分は、本当に分かっていないのか。気づいていないのか。
本当にそうなのかな。ずっと考えていた。
むしろ小槙のほうが、わかっていないのではないだろうかと思っていた。自分が抱えた熱量が、小槙よりも多いのだろうと考えていた。
竹野にとってみればずっと、小槙が眩しく見えていたから。
この眩しさが、避けるほど怖かったのに。いつから変わっていたのだろう。
高校のときのまま、会うこともなければきっと憧れのような、淡い気持ちで終わっていたのかも知れない。時々思い出して、どうしているか、と考えたりするくらいの。
けれど再会して、竹野は今まで以上のものを知ってしまった。触れる体温も鼓動も、自分にだけ向けられる特別な笑顔も。
好きだと差し出されて受け取ったときに、竹野も知らず心を差し出していたのだと、いまになって気づいた。
「僕も、小槙のこと好きだから、わかる」
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