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二人目の騎士
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カトレア=キャトレイは、目の前に積み重なった文の山と、窓の外一面に広がる仄暗い霜に染まった庭園を見比べ盛大に嘆息した。
「ねえ、レイ。この縁談の申し込みを、霜を踏みつぶすように粉々にしたいのだけど」
「それは、出来かねます」
鈍く光を反射する書机の脇から、レイは涼やかな声で拒否した。数件だけでも受けてみないかという意味合いではなく、物理的に無理だと言いたいのだろう。
カトレアは布張りの長椅子から荒々しく立ち上がると、文をかき集め暖炉の炎めがけて投げ捨てた。諸国の若君たちが頭を悩ませて綴ったであろう文は、カトレアの私室をわずかに暖めただけで役目を終えた。
レイは黒く歪んでいく文を憐みの目で見つめ、小さく息をついた。
「文なしで、返事をどう書くというのですか」
肩にかけていた厚手のショールを椅子に放ると、カトレアは火がついたようにまくし立てた。
「分かりきったことを聞かないでよ! お父様の遺言で、次の王になるのはわたしと決まっているのよ! なのに、こんな文を寄越すなんて愚弄しているようなものだわ! 返事を書くくらいなら、このくらいの層になった茶菓子でも食べたいわよ!」
そこで、レイはようやく笑みをもらした。
「分かりました。お茶の時間にしましょう」
レイが扉を開け、見張りの兵士に言付ける。カトレアは乱れた黒髪をかき上げ、深々とため息をついた。ショールをかけ直し、窓辺に立つと外気に身震いする。温かい紅茶が恋しい。
十八歳の生誕の宴に暴漢が紛れ込み、暗殺未遂事件が起こってから、コルデホーザには物々しい空気が漂っている。新年の宴も内々的に執り行われ、カトレアの女王戴冠の儀も、下手人を手引きした者を捕らえ処罰してからとなっている。
「どうせヴェルダの手の者だというのに。元老院や公爵たちは何をまごついているのかしら」
毒づいて、ふと突き出された凶刃の残光がちらつき、カトレアはショールをきつく握りしめた。コルデホーザの王族は皆、先代にならい武術と護身術を身に付けている。自分でもよく対応出来たものだと今更胸を撫で下ろす。
「カトレア様。我が国はマーカス王亡き現在、足並みが揃わぬ状態なのです。あまり気を急いてもいかがなものかと」
「それは、そうだけど……」
レイのたしなめに、カトレアも不承不承口を閉じる。
カトレアが七歳の時、ある事故により母の正妃セルレアが急逝した。以来、事故の元凶となった東の隣国ヴェルダとの戦争が十年続き、父のマーカスが病に倒れたのを境に、戦は膠着状態となっている。
父は周囲から他の世継ぎをと言い募られていたが、後妻を迎える気はないと頑として受け入れなかった。必然的に嫡女となったカトレアは、父が戦場へ出向いている間も何不自由なく暮らしてきた。
だが、最愛の妻を死に至らしめたヴェルダへの復讐に囚われた父はいつしか、たった一人の愛娘を顧みることを忘れた。ついには戦での負傷が原因で、病によりこの世を去ったのが三月前だ。
幼い頃からの両親の不在は、周囲の同情を誘った。陰で囁かれるたびに、自分はそれほどまでに憐れなのだろうかと疑念が湧いた。同時に、何故王女の自分が惨めな思いをして、周囲に庇護されながら暮らしているのかという憤りが生まれた。
物心ついた頃には、同情をこの上なく毛嫌いするようになっていた。常に上等なもので自分を囲み、弓術をたしなむことで荒ぶる心を律した。
それでも渦巻くやり場のない感情は、少女から娘へと変わっていくにつれ度々暴発し、度を過ぎるわがままとして処理された。今では蘭姫とは名ばかりの、傲慢で王位に相応しない王女として王宮内外の者に認識されてしまったのだ。
窓枠にかけた指先が冷えていく。脇から、骨ばった手がやんわり手首をつかんだ。
「お気持ちは分かります。ですが、カトレア様には私がおります」
隣に視線を移すと、柔らかな眼差しが向けられていた。
レイ=コールソン。元王立騎士団長だった父を持ち、十五歳の時にカトレア直属の騎士となった青年だ。以来五年、侍女を必要とする世話以外の所用は、レイに全て任せている。
普段は常に穏やかな笑みをたたえ、カトレアをいたわり、時にたしなめる。レイの慈しみのこもった瞳は、カトレアの波立った感情を不思議と和らげてしまうのだ。
王宮内の貴婦人や侍女たちにも、春めいた色彩を持つ容姿と紳士的な振る舞いから『新緑の騎士』という愛称で親しまれている。そのため、カトレアはレイを慕う女たちの嫉妬を受けることが日常茶飯事である。それはそれで、優越感をもって返すのがカトレアの流儀でもあった。
単にレイを従えていることで自己顕示しているのではない。レイは周囲から敬遠されているカトレアにとって数少ない理解者であり、安らぎなのだ。
微笑み返すと、入室の挨拶が聞こえた。レイが招き入れると、二人の侍女とカートに乗せられた茶菓子が姿を現した。金の縁取りと花模様をあしらったポットからは秋摘みの茶葉の香りが立ちのぼっている。以前はヴェルダから紅茶を輸入していたが、今は国産のものだけが扱われている。
「待ちくたびれたわ。あら、今日の菓子はパイではないの?」
茶器と揃いの平皿には、木苺のタルトが載っている。
「生憎、既にコックが用意していたようで」眉をひそめるカトレアと侍女の間に立ち、レイは苦笑して詫びた。
「わたし、林檎のパイが食べたいわ。今時期の木苺は酸っぱくて嫌いなのよ。どうせならあなたたちにあげてもいいけれど」
興ざめしたカトレアを、給仕の支度をしていた侍女たちが訝る。また始まった、だから命を狙われる羽目になるのよと今にも囁き交わしそうだ。生誕の宴のために仕立てられたドレスが気に入らないと一蹴した時も似たような視線を浴びた。嫌というほど向けられてきた目つきだ。
「あなたたち、言いたいことがあるならはっきり言ってくれない? そういう目で見られると不愉快なのよ」
言いたいことを溜め込むのはカトレアの信条に反する。立場上言い返されることはないが、彼女たちの瞳は明らかに反発の色を宿していた。
「二人とも、カトレア様には新しいものをご用意しますから、お食べなさい。紅茶も淹れ直すのでご一緒に」
険悪な雰囲気をものともせず、レイが優しく促すと、侍女たちは「レイさまがそうおっしゃるのでしたら」と揃って頬を染めた。いとも簡単に心を揺るがす年若い侍女たちを、カトレアは涼しい顔で眺めていた。
そのレイが、戴冠と共にカトレアの伴侶となると知ったら、さぞや嘆き悲しむだろう。タルトの一切れや二切れくらい、くれてやっても良い。大多数の者が知る由のない秘密に、カトレアは人知れず微笑んだ。
侍女の一人がタルトを一口頬張った。途端咳き込んだので、ほらご覧なさいと内心つぶやく。
「ああ、いけませんね。ほら、紅茶を……」
レイがカップを差し出す。口をつけた侍女は、うっと息を詰まらせ目を剥いた。
茶器が甲高い音を立てて床に落ち、侍女はその場に倒れ込んだ。もう一人の侍女が天井を貫くような悲鳴を上げ、すぐさま倒れた侍女を抱きかかえる。こぼれた紅茶に混じって絨毯に赤黒い染みが広がる。吐血のおぞましい色が目に焼きついた。カトレアは突然の事態に動くことが出来ず、自分を抱きすくめた。
「何ということだ……貴女はすぐに、医師を呼びなさい!」
もう一人の侍女はもつれる足で部屋を飛び出していった。レイは身悶える侍女を介抱しながら、青ざめた顔をカトレアに向けた。
「カトレア様、申し訳ありません。毒見をさせていたはずなのですが、このようなことに……」
自分の気まぐれで与えてしまった。いつ毒が入るとも知れない、王女の食事を。
王女として、暗殺未遂に遭った者として、あまりにも無自覚だった。
「ねえ……このまま、死んだりしないわよね?」
自分の代わりに苦しんでいる侍女に近寄れるはずもなく、ただ呼びかける。レイは厳しい表情で侍女の背中をさすっている。
激しい咳き込みがぜえぜえとした呼吸に変わり、息も絶え絶えになった頃、ようやく医師が駆けつけた。連れ帰ってきた侍女は泣きじゃくっている。
王宮に住まう医師は数人おり、到着したのは主に下仕えの者を診る者だった。白髪混じりのぼさぼさ頭をした医師は侍女の呼吸や脈を調べ、レイに事のいきさつを尋ねると診断を下した。
「食物による中毒のようですな。わしらの診療所に運びます故、男手が必要になる」
「では、私が」
レイが倒れた侍女を抱きかかえようとしたところで、カトレアはよろよろとレイの元へ歩み寄った。レイはあやすように華奢なカトレアの身体を包み込んだ。
「カトレア様。この娘の容態が落ち着くまで部屋の外の警備を増やします。すぐに戻ってまいりますので、どうかここでお待ちください」
レイの腕の中で、カトレアは子供のようにうなずいた。今も昔も、この腕に包まれている時だけは、真綿の中にいるような安堵感に浸ることができた。
医師が咳払いをした。レイはカトレアの肩を押しやり、気を失った侍女をおぶさって部屋を出ていった。もう一人の侍女も、去り際に憎悪の眼差しを残して足早に駆けていった。
妬み、蔑みの目で見られるのは、本来自分ではない。この命と空になった玉座を狙う、別の誰かだというのに。
姿の見えない殺意へ怒りを募らせ、カトレアは手のひらに爪をめり込ませた。
「なんで、わたしが恨まれるのよ……なんでわたしが、命を狙われなければならないのよ!」
纏っていたショールをやみくもに放り投げる。寒気と動悸に襲われ、寝台の上に身体を投げうつと、日が沈むまで震えながら身を固くしていた。
亡き父が遺した玉座にすがりついている間に、四方から足元が崩れていく。
しかし、この玉座を誰にも譲る訳にはいかない。
(お母様が成すことが出来なかった『あの花』をわたしが咲かせられたら、この国は昔のように戻れるのかしら)
鈍く沈んでいく意識の片隅で、カトレアは無意識のうちに、母の形見のロケットを握りしめていた。
「ねえ、レイ。この縁談の申し込みを、霜を踏みつぶすように粉々にしたいのだけど」
「それは、出来かねます」
鈍く光を反射する書机の脇から、レイは涼やかな声で拒否した。数件だけでも受けてみないかという意味合いではなく、物理的に無理だと言いたいのだろう。
カトレアは布張りの長椅子から荒々しく立ち上がると、文をかき集め暖炉の炎めがけて投げ捨てた。諸国の若君たちが頭を悩ませて綴ったであろう文は、カトレアの私室をわずかに暖めただけで役目を終えた。
レイは黒く歪んでいく文を憐みの目で見つめ、小さく息をついた。
「文なしで、返事をどう書くというのですか」
肩にかけていた厚手のショールを椅子に放ると、カトレアは火がついたようにまくし立てた。
「分かりきったことを聞かないでよ! お父様の遺言で、次の王になるのはわたしと決まっているのよ! なのに、こんな文を寄越すなんて愚弄しているようなものだわ! 返事を書くくらいなら、このくらいの層になった茶菓子でも食べたいわよ!」
そこで、レイはようやく笑みをもらした。
「分かりました。お茶の時間にしましょう」
レイが扉を開け、見張りの兵士に言付ける。カトレアは乱れた黒髪をかき上げ、深々とため息をついた。ショールをかけ直し、窓辺に立つと外気に身震いする。温かい紅茶が恋しい。
十八歳の生誕の宴に暴漢が紛れ込み、暗殺未遂事件が起こってから、コルデホーザには物々しい空気が漂っている。新年の宴も内々的に執り行われ、カトレアの女王戴冠の儀も、下手人を手引きした者を捕らえ処罰してからとなっている。
「どうせヴェルダの手の者だというのに。元老院や公爵たちは何をまごついているのかしら」
毒づいて、ふと突き出された凶刃の残光がちらつき、カトレアはショールをきつく握りしめた。コルデホーザの王族は皆、先代にならい武術と護身術を身に付けている。自分でもよく対応出来たものだと今更胸を撫で下ろす。
「カトレア様。我が国はマーカス王亡き現在、足並みが揃わぬ状態なのです。あまり気を急いてもいかがなものかと」
「それは、そうだけど……」
レイのたしなめに、カトレアも不承不承口を閉じる。
カトレアが七歳の時、ある事故により母の正妃セルレアが急逝した。以来、事故の元凶となった東の隣国ヴェルダとの戦争が十年続き、父のマーカスが病に倒れたのを境に、戦は膠着状態となっている。
父は周囲から他の世継ぎをと言い募られていたが、後妻を迎える気はないと頑として受け入れなかった。必然的に嫡女となったカトレアは、父が戦場へ出向いている間も何不自由なく暮らしてきた。
だが、最愛の妻を死に至らしめたヴェルダへの復讐に囚われた父はいつしか、たった一人の愛娘を顧みることを忘れた。ついには戦での負傷が原因で、病によりこの世を去ったのが三月前だ。
幼い頃からの両親の不在は、周囲の同情を誘った。陰で囁かれるたびに、自分はそれほどまでに憐れなのだろうかと疑念が湧いた。同時に、何故王女の自分が惨めな思いをして、周囲に庇護されながら暮らしているのかという憤りが生まれた。
物心ついた頃には、同情をこの上なく毛嫌いするようになっていた。常に上等なもので自分を囲み、弓術をたしなむことで荒ぶる心を律した。
それでも渦巻くやり場のない感情は、少女から娘へと変わっていくにつれ度々暴発し、度を過ぎるわがままとして処理された。今では蘭姫とは名ばかりの、傲慢で王位に相応しない王女として王宮内外の者に認識されてしまったのだ。
窓枠にかけた指先が冷えていく。脇から、骨ばった手がやんわり手首をつかんだ。
「お気持ちは分かります。ですが、カトレア様には私がおります」
隣に視線を移すと、柔らかな眼差しが向けられていた。
レイ=コールソン。元王立騎士団長だった父を持ち、十五歳の時にカトレア直属の騎士となった青年だ。以来五年、侍女を必要とする世話以外の所用は、レイに全て任せている。
普段は常に穏やかな笑みをたたえ、カトレアをいたわり、時にたしなめる。レイの慈しみのこもった瞳は、カトレアの波立った感情を不思議と和らげてしまうのだ。
王宮内の貴婦人や侍女たちにも、春めいた色彩を持つ容姿と紳士的な振る舞いから『新緑の騎士』という愛称で親しまれている。そのため、カトレアはレイを慕う女たちの嫉妬を受けることが日常茶飯事である。それはそれで、優越感をもって返すのがカトレアの流儀でもあった。
単にレイを従えていることで自己顕示しているのではない。レイは周囲から敬遠されているカトレアにとって数少ない理解者であり、安らぎなのだ。
微笑み返すと、入室の挨拶が聞こえた。レイが招き入れると、二人の侍女とカートに乗せられた茶菓子が姿を現した。金の縁取りと花模様をあしらったポットからは秋摘みの茶葉の香りが立ちのぼっている。以前はヴェルダから紅茶を輸入していたが、今は国産のものだけが扱われている。
「待ちくたびれたわ。あら、今日の菓子はパイではないの?」
茶器と揃いの平皿には、木苺のタルトが載っている。
「生憎、既にコックが用意していたようで」眉をひそめるカトレアと侍女の間に立ち、レイは苦笑して詫びた。
「わたし、林檎のパイが食べたいわ。今時期の木苺は酸っぱくて嫌いなのよ。どうせならあなたたちにあげてもいいけれど」
興ざめしたカトレアを、給仕の支度をしていた侍女たちが訝る。また始まった、だから命を狙われる羽目になるのよと今にも囁き交わしそうだ。生誕の宴のために仕立てられたドレスが気に入らないと一蹴した時も似たような視線を浴びた。嫌というほど向けられてきた目つきだ。
「あなたたち、言いたいことがあるならはっきり言ってくれない? そういう目で見られると不愉快なのよ」
言いたいことを溜め込むのはカトレアの信条に反する。立場上言い返されることはないが、彼女たちの瞳は明らかに反発の色を宿していた。
「二人とも、カトレア様には新しいものをご用意しますから、お食べなさい。紅茶も淹れ直すのでご一緒に」
険悪な雰囲気をものともせず、レイが優しく促すと、侍女たちは「レイさまがそうおっしゃるのでしたら」と揃って頬を染めた。いとも簡単に心を揺るがす年若い侍女たちを、カトレアは涼しい顔で眺めていた。
そのレイが、戴冠と共にカトレアの伴侶となると知ったら、さぞや嘆き悲しむだろう。タルトの一切れや二切れくらい、くれてやっても良い。大多数の者が知る由のない秘密に、カトレアは人知れず微笑んだ。
侍女の一人がタルトを一口頬張った。途端咳き込んだので、ほらご覧なさいと内心つぶやく。
「ああ、いけませんね。ほら、紅茶を……」
レイがカップを差し出す。口をつけた侍女は、うっと息を詰まらせ目を剥いた。
茶器が甲高い音を立てて床に落ち、侍女はその場に倒れ込んだ。もう一人の侍女が天井を貫くような悲鳴を上げ、すぐさま倒れた侍女を抱きかかえる。こぼれた紅茶に混じって絨毯に赤黒い染みが広がる。吐血のおぞましい色が目に焼きついた。カトレアは突然の事態に動くことが出来ず、自分を抱きすくめた。
「何ということだ……貴女はすぐに、医師を呼びなさい!」
もう一人の侍女はもつれる足で部屋を飛び出していった。レイは身悶える侍女を介抱しながら、青ざめた顔をカトレアに向けた。
「カトレア様、申し訳ありません。毒見をさせていたはずなのですが、このようなことに……」
自分の気まぐれで与えてしまった。いつ毒が入るとも知れない、王女の食事を。
王女として、暗殺未遂に遭った者として、あまりにも無自覚だった。
「ねえ……このまま、死んだりしないわよね?」
自分の代わりに苦しんでいる侍女に近寄れるはずもなく、ただ呼びかける。レイは厳しい表情で侍女の背中をさすっている。
激しい咳き込みがぜえぜえとした呼吸に変わり、息も絶え絶えになった頃、ようやく医師が駆けつけた。連れ帰ってきた侍女は泣きじゃくっている。
王宮に住まう医師は数人おり、到着したのは主に下仕えの者を診る者だった。白髪混じりのぼさぼさ頭をした医師は侍女の呼吸や脈を調べ、レイに事のいきさつを尋ねると診断を下した。
「食物による中毒のようですな。わしらの診療所に運びます故、男手が必要になる」
「では、私が」
レイが倒れた侍女を抱きかかえようとしたところで、カトレアはよろよろとレイの元へ歩み寄った。レイはあやすように華奢なカトレアの身体を包み込んだ。
「カトレア様。この娘の容態が落ち着くまで部屋の外の警備を増やします。すぐに戻ってまいりますので、どうかここでお待ちください」
レイの腕の中で、カトレアは子供のようにうなずいた。今も昔も、この腕に包まれている時だけは、真綿の中にいるような安堵感に浸ることができた。
医師が咳払いをした。レイはカトレアの肩を押しやり、気を失った侍女をおぶさって部屋を出ていった。もう一人の侍女も、去り際に憎悪の眼差しを残して足早に駆けていった。
妬み、蔑みの目で見られるのは、本来自分ではない。この命と空になった玉座を狙う、別の誰かだというのに。
姿の見えない殺意へ怒りを募らせ、カトレアは手のひらに爪をめり込ませた。
「なんで、わたしが恨まれるのよ……なんでわたしが、命を狙われなければならないのよ!」
纏っていたショールをやみくもに放り投げる。寒気と動悸に襲われ、寝台の上に身体を投げうつと、日が沈むまで震えながら身を固くしていた。
亡き父が遺した玉座にすがりついている間に、四方から足元が崩れていく。
しかし、この玉座を誰にも譲る訳にはいかない。
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