私だけの世界

青江 いるか

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真実

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 「――で、どうするんだ」
 少年の言葉で、我に返る。その途端、掴みかけていた違和感はどこかに消えてしまった。
 首をひねったけれど、取り逃がしてしまったものは仕方ない。それより、少年の質問に意識を向けることにした。
 「どうするって、なにが?」
 少年は、にぶい、とでも言いたそうな顔をする。でも、私がにぶいんじゃなく、少年の言葉が足りないんだと思うけれど。
 「小世界のことについて、だいたいは話し終えた。だから、お前の決断について訊いたんだ。現実に戻る決心はついたか」
 不意の質問だったので、すぐには答えられなかった。
 そうだった、少年は最初から言っていたじゃないか。魂を現実の身体に戻すために自分はいるんだって。このままでいられるとは思っていなかったけれど、少年と話している今が比較的穏やかだったから、事実を直視する勇気がなかったのだ。
 戻らなくてはいけないんだろう。少年の言葉の端々から、それが伝わってくる。
 私は、俯いた。
 「……どうしても、戻らなくちゃ、だめかな」
 少年は呆れたようだった。はあ、とため息をつく気配がした。
 「そう言い出すんじゃないかと危惧していたが。まさか本気で言い出すとは。お前、正気か? 意思を持っているかもわからない奴らの中で生きていくんだぞ。しかも、ここはおそらく、早々に終幕する」
 わかっている。これはただの現実逃避だ。少年を煩わす必要はないのだ。それはわかっているんだけれども……
 「気が狂いそうになるだろうね、たぶん。もしかしたら、本当に狂ってしまうかも。でも、私は。……現実に戻りたいとも、思えない」
 膝の上に置いた手に力を込める。爪が皮膚に食い込んで、痛い。
 戻ったところを考えると、心が沈む。心臓らへんが、おかしくなる。言葉では言い表せないような力が加わって、私の口を押えて、ずぶずぶと沈ませるのだ。
 私の日常は、もうどこにもない。だから、私は今ここにこうしているのだ。一度投げ出したものを振り返る、その勇気がどうしても持てない。
 少年は、また呆れたのだろう。次の言葉はさらに手厳しかった。
 「じゃあ、ここに留まるのか? 現実を捨てて、ここで思い通りに暮らすと? そんなもの、上手くいくわけないだろ。気が狂いそうになるだろうとお前は言ったが、現実を直視するより気が狂ったほうがいいと言うのか。言っておくが、そうなっても俺は助けられないからな。お前は今、絶望的な気持ちに酔っているだけで、あとに起こることを自分のこととしては考えていない。それで目先の安寧だけのために、自分の身も心も滅ぼすのか」
 耳が痛い。
 できれば、この耳を両手でふさいでしまいたかった。でも、それはできなかった。手が、動かない。手だけじゃない、足も、すべてが。まるで、重く鉛を抱いているみたいに。
 思考が空回りする。意味もない、必要もないことばかりが頭に浮かんでは消え、肝心なことは浮かんでこない。
 どうしよう。どうしよう。
 決心がつかない。もう決めたくない。どっちも選びたくないよ。このまま悩み続けたほうが、楽だったりするのかな。
 そんなはずはない、間違っていると、心のどこかで声がする。
 「……だって……」
 思わずつぶやいていた。けれど、そのあとが続かない。
 すると、少年が言った。さも面倒そうだったけれど、はっきりと私に言ったのだった。
 「いいから言ってみろよ。聞くだけ聞いてやるから。ただし、それに対する意見に手加減はしないが」
 手を動かせるものなら、両手で顔を覆いたかった。私の心の一部は、なにを言っても言い訳にしかならないことを知っている。ますます少年を呆れさせるだけだと、知っているのに。
 それでも、なんだか、口を開いてしまった。
 「……だって、私、どうしたらいいの? 現実に戻ったとして、待っているのはやっぱり絶望なんだもの。両親が離婚して、お父さんとこの街に残るか、お母さんの実家のほうに行くか、また決断を迫られるんだよ。もうあの街に残る理由なんてないけど、ほとんど知らない土地に行くなんて……」
 どちらを考えても心が躍ることはなく、むしろ寒々とした感情だけがあとに残った。
 私は、それから、どうやって生きていけばいい? 
 「決めればいいことだろ。慣れ親しんだ――しかし、もうお前の日常はなくなった街に住み続けるか、知らない土地で心機一転するか。同情はするが、どうしたらいいかと訊かれても、俺が答えを決められることじゃない」
 「そんな簡単に言わないでよ……」
 決められるのなら、こんな苦労はしていない。どっちも半々の気持ちだから、決める手段がなくて困っているのに。
 「悪いが、俺にはこれしか言えない。当事者じゃないから、お前の気持ちをわかるとも言えないし、上手い解決方法を示してやることもできない。俺ができるのは、自分はこうだという意見だけだ。たとえそれが、お前には納得できない意見だとしても」
 そんなの、言い逃れじゃないか。
 目頭が熱くなってくる。泣いてはいけない。少年の前で、これ以上無様な姿を見せたくない。でも。
 「でも、私……現実では眠り続けているんでしょ? 親も亜梨沙も、自殺を疑っているはず。違うのに。私、ただ、逃げたかっただけなのに。目覚めた時、すごい気まずいし、それで壊れ物を扱うかのように接してきたら……耐えられないよ」
 もし、ごめんねと謝られたら。私は惨めになってしまう。
 少年は呟くように言った。
 「飲み物に入っていたらしい物質は、普通では検知できないものだからな。医者も原因不明としか言えないだろうが。まあ、状況だけで見るなら、自殺を図ったと思われてもおかしくはないかもな」
 「それに」
 少年がまったくと言っていいほど慰みの言葉を口にせず、ただ事実だけを淡々と述べたからだろうか、私はためらいを捨ててしまった。ほとんど自棄だ。この際、思っていることをすべて言ってしまおう、恥や外聞なんて、かなぐり捨てて。
 「私は亜梨沙に合わせる顔がない。こんなのあんたに言うことじゃないと自分でも思うけど、本当に駿河くんのことが好きだったのか、私にはもうわからない。小世界は理想郷みたいなものなんでしょ? 少なくとも、最初のほうは。だけど私は、駿河くんと接点を持つようにさえ仕向けなかった。結局、駿河くんに近づくより、遠くで亜梨沙と彼のことで騒ぐほうが、好きだったのかもしれない。私の気持ちはただの憧れで、話しかければその憧れが壊れてしまうと思って、それが怖かったのかも。だったら、こんなにもつれてしまった原因はなに? 自分の気持ちにさえ気づけなかった私じゃないの……」
 公園で、空き教室で、会った亜梨沙の姿。かなり神経を消耗していた様子だった。そこまで追い込んだのは、私だ。
 傷つける要因を作ってしまったのは、周りを見ようともしないで能天気に暮らしていた私だった。「まだ好きかわからない」と自分で言っていたのに、どうしてそれが真実だと知らずにいられたのだろう。私はとっくに、気持ちの面で亜梨沙に負けていたのだ。
 私がもっと考えていたのなら、こんなに事はもつれなかったはずだ。私にも責任はあるのだ。そのことに、今更ながら気づいた。
 「本当に、俺に言うことじゃないよな。だが、お前の気持ちはやっぱりわからない」
 少年は、心底、不思議そうに続けた。
 「友達を憎んでいたんじゃなかったのか? だから、あそこまでしてしまったんだと思っていたんだが。それなのに、今度はそいつを庇うのか?」
 はっとした。そう言われれば、そうだった。自分の感情がいつのまにか様変わりしている。
 私は、亜梨沙を憎んでいたはず。亜梨沙に苦しんでほしいと思ったことがあったはず。それなのに、なぜ? 自分でも、よくわからない。もう、あの時ほどの激情は、ちっとも湧いてこなかった。
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