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第八章
4.皇太子妃の座
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王宮の奥まった場所に白亜の離宮があった。
そばには広い池があり、凪いだ水面に空を流れる白い雲がゆったりと流れていく様子が映っている。時折ほとりにあるブナの木から、色づいた葉がひらりひらりと落ちて波紋を作っていた。
「フェザン。今度エグマリンに行くのよね?」
「誰に聞いた?」
ガゼボのベンチで肩を寄せていたフェザンが微かに眉をひそめ、体ごとアルエットの方へ向き直った。
「皇妃殿下から。あの、その時、私も一緒に連れていってほしいの」
膝に乗せていた手をぎゅっと握りしめて、端正な顔を見上げる。
「皇帝の名代ということで現況の確認に行くだけだ。半月ほどここを不在にするが、いい記憶のない場所へ君が無理に行く必要はない」
「いいえ。行きたいの。たしかに忘れたいことがたくさんある所だけど、残された国民のことを忘れてはいけないと思うの。元エグマリンの王族として、残された人々の気持ちを受け止めなければ」
「それが、たとえ君を傷つけることになっても?」
「かまわないわ。傷つくのは慣れているし……」
「そんなことに慣れてはだめだ。もちろん俺が一緒にいる限り、アルエットを傷つけさせたりしない」
「ありがとう。フェザンがいてくれるから、私は頑張ろうって思える。どんなことがあっても、何度涙を流してもまた前を向いていけるって、そう思うの。だから――」
そう言いかけたところでフェザンにぎゅっと抱きしめられた。温かくミステリアスな甘さのフレグランスに包まれ、高鳴る鼓動と共に目を閉じる。
「アルエットはもう俺の人生になくてはならない人だ。絶対に悲しい思いはさせないし、させるような人間には容赦しない」
「フェザン……」
胸がきゅっと切ないほどに苦しくなる。
フェザンも自分の人生になくてはならない人だという意味を込めて、アルエットも彼の背中に両手を回した。
「わかった。一緒にエグマリンへいこう」
「あ、ありがとう。ごめんなさい、わがままを言って」
「せっかく、君が朝までゆっくり眠れるいい機会だったのかもしれないのに」
フェザンがくすっと笑って耳朶に口づけた。
「……っ」
ぞくっと肌が粟立って、アルエットは思わずフェザンの背中に回している手に力を入れる。
「いちいち、かわいい反応をくれるな、アルエットは」
腕を緩めたフェザンは瑠璃色の左目を細めた。
「もう。フェザンったら」
顔を赤らめ、軽く彼を小突こうと手を挙げる。
「どんな君でもかわいい」
悠然と笑ったフェザンはその手を握って、さらにもう片方の手を重ねてきた。
「……これを、アルエットに」
「え?」
瞬きして首をかしげると、握った左手をゆっくりと開かれて、そこに微かな重みを感じた。
「これ、は……」
掌にころんと乗った指輪には、ダイヤモンドで囲まれた大粒のサファイヤが嵌められている。
「我が家に代々伝わる、皇太子妃になる人へと初めに贈られる指輪。俺がつけさせても?」
皇太子妃に初めて贈られる、つまり――
婚約指輪だ、とアルエットは喜びでたちまち胸が満たされ、声が出せずに何度も頷いてみせた。
「……ぴったりだな」
ゆっくりと左手の薬指にサファイヤの指輪が嵌められる。
フェザンの美しい瞳の色に似た宝石は誇らしく輝いていた。まるで彼が自分のそばにずっといてくれるような気がして嬉しくなる。
「不思議なことに、この指輪が作られてから一度もサイズを直したことがないそうだ。つまりアルエットが俺の妃になることは、最初から決まっていたということだ」
「そんな奇跡みたいなこと……」
「奇跡、運命……なんでもいい。君に出会えて本当によかった。そのために片目の光を失ったのだとしたら、それすら些末な出来事に思える」
「フェザン……。私だって、つらい経験もあなたに出会うために試練だったというなら、生きることを諦めなくて本当によかった」
互いに幸せを滲ませた視線を絡ませると、惹きつけられるように唇が重なる。
吹き抜ける秋の風が二人の距離をさらに近づけた。
※
少しずつ日暮れが早くなってきた。季節は確実に先へ進んでいる。フェザンが視力を失って二度目の晩秋だ。しかしながら一年前の苦痛が嘘のように今は心に余裕がある。
「エグマリン領主より、快い返答がありました」
執務室の机を挟んでレオニートは主に手紙を渡す。
「ご苦労」
フェザンはそれを受け取ると、素早く中身に目を通した。
「……これでアルエットが喜んでくれればいいが」
「先方も会いたがっているようですし、この機会を逃すとしばらく訪問できないかもしれませんしねえ」
レオニートはうんうんと力強く頷いた。
「どういう意味だ?」
「アルエット様の体調がいいうちにという意味ですよ~。皇妃殿下がもうすぐ孫の顔を見られるかもとウキウキなさっておられましたからね」
悪びれる様子もなく晴れやかな笑顔を見せるレオニートに、フェザンは無言で睨んでからため息をついた。
抗議すべきは目の前の部下ではなく、正直者過ぎる母親だ。その口の軽さが命取りになりそうだが、それを未然に防いできたのは現皇帝の多大なる愛のなせる業とでもいうべきか。
フェザンは緩くかぶりを振って、机の上に広げた帝国と周辺国の地図に目を落とした。
「もしこのまま跡継ぎ誕生となれば、今まで皇太子妃の座を狙っていた国もさすがに諦めるでしょう。その前に、今度の舞踏会で殿下がアルエット様を紹介した時点で決定的でしょうけどね」
「当然だ。では何かあればまた声をかける。下がっていいぞ」
「かしこまりました。失礼いたします」
深々と頭を下げてからレオニートが退室すると、部屋がしんと静まり返った。
「跡継ぎか……」
権力を偏らせないための駆け引きというのも、程度が難しいものだ。跡継ぎの話など関係なしに、皇太子妃はアルエット以外に考えられないというのに。
だが、自分とアルエットの間に生まれた子は格別にかわいいのだろうなと、フェザンは頬を緩めた。
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