禍ツ神の恋結び綺譚~花縁はことほぎに包まれる~

宮永レン

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第三章 翠の箱庭

11.ひとときの休息

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 静かな湯気が濃紫の空に溶け込むように漂っていた。到着した際に浅黄あさぎ色だった空は、すでに宵の口を迎えている。だが地平の向こうには金色の光が見え、また新たな夜明けが近づいているのがわかった。この不思議な光景に慣れるまでは、しばらくかかりそうだ。

(でも、不思議と怖くない)
 真桜は大きな岩をくり抜いた湯殿に身を沈め、ふう、と深く息を吐いた。

 滾々と湧き出る湯の響きが、心と体に溜まった疲労を溶かしていく。目を閉じると、ここへ招かれた直後の暁翔とのやり取りが脳裏に浮かんだ。

『母の無事を確かめる方法はありますか?』
 鳥籠から羽ばたいたものの、母が何かされていないか心配で、真桜は真っ先に彼へ尋ねる。

『すぐに母親を探しに行ってもよいが……その見目ではかえって心配をさせてしまうぞ』
 暁翔はそっと、諭すような眼差しを投げかけてきた。

 言われて真桜は、自分の姿を見下ろした。袖は擦り切れ、泥に汚れた着物。髪はもつれ、草履の鼻緒も今にも切れそうだ。

『あ……たしかにおっしゃる通りですね』
 自分がどれほど酷い有様だったのか、指摘されるまで気づかなかった。母が住んでいるはずの帝都にこんな格好で出向いたら、悪い意味で注目を浴びてしまいそうだ。

 その時、極めつけと言わんばかりに、お腹がぐうと鳴った。

『決まりだな。まずは心身を整えるのが先だ』
 暁翔は片眉を上げ、真桜の肩を優しく引き寄せた。

『あ、あの、体に触れるのは……』

『そなたを守るためだ。俺から触れる分には、何も起こらぬと言っただろう?』
 暁翔の大きな手は、幼子の姿とは違い、驚くほど力強く温かかった。

 こんなふうに壊れ物を扱うみたいに、優しく触れられたことがないので戸惑ってしまう。
 なんとなく、ずるいなと思って、真桜は頬を淡く染める。

(安心するのに、鼓動がうるさいのはどうしてかしら。きっと、久しぶりに外の世界へ出たからね)
 真桜は自分の高鳴る胸を緊張のせいだと結論づけ、案内された邸へ入った。

『ここが俺の住まいだ』
 古風な日本家屋だが、かなり広そうだった。白月家の家がいくつも入りそうなほどの奥行きが見てとれる。

 玄関から入ると、そこには一人の人型の妖が三つ指をついて迎えてくれた。

『暁翔様、おかえりなさいませ』
 薄緑色の着物を身にまとった女性は、青みがかった髪を一つにまとめ上げており、ゆっくりと顔を上げて柔らかく笑む。

『ご苦労だった、水琴みこと。ここを失くさずにいてくれて感謝する』
 暁翔が言うと、彼女は「当然のことでございます」と誇らしげに答えた。

『反発する妖たちもいるが、水琴は信頼できる者だ。今日から真桜の世話をしてもらう』
 暁翔が真桜の方を向いて、妖を紹介してくれる。

『よろしくお願いいたします、真桜様』
 水琴は恭しくこうべを垂れた。

『あ、あの、こちらこそ、何もわからないので、どうぞよろしくお願いします!』
 真桜も慌てて深くお辞儀する。

『では、早速だが、湯殿に案内してやってくれ。俺は天渓谷に変わりがないか見て回ってくる。戻るまで、真桜を頼むぞ』

 こうして真桜は彼の言葉に逆らえず、今に至る。

 ふと我に返り、真桜は目を開けた。

 湯面に映る月明かりが静かに揺れている。ひと息ついて肩の力を抜くと、ゆっくりと湯から上がった。

 すると、どこに控えていたのか静かに水琴が現れ、手際よく体と髪を拭いてくれる。なんだか自分が子どもにでもなったみたいで気恥ずかしいが、水琴の慈しむような笑顔にほだされて、つい甘えてしまった。

「お湯加減はいかがでしたか、真桜様」
 水琴が手際よく、絹の肌襦袢を身につけさせてくれる。

 なめらかな肌触りに真桜は小さく感嘆の声を漏らした。

「はい。とても気持ちよかったです。今まで、こんなに温かなお湯に浸かったことはありませんでしたから」
 梅と桜が描かれた淡い桃色の着物に着替え、帯を締め終える頃には、ようやく一人の人間として息を吹き返した心地がした。

「この美しい着物は……」

「暁翔様のご伴侶となられる真桜様のために、あの方が自ら用意されたものです」

 水琴の言葉に、真桜は思わず頬を染めた。品よく焚きしめられた香が鼻腔をくすぐり、真桜は思わずはにかむ。

(伴侶、ね。白月の家を出るために、それしか方法がなかったわけだけれど、こんなに尽くされると、どう恩返しをすればいいのか迷ってしまうわ)
 艶やかに磨かれた廊下を進み、広い座敷へ入ると、真桜は驚きに目を見開いた。

 用意された朱塗りの膳には、まるでお祝いのような料理が並んでいる。彩り豊かな野菜のお浸しが盛りつけられた小鉢には、菊の花が乗っている。膳とは別に置かれた大きな皿には鮮やかな桜色をした鯛の塩焼きが、パリッと香ばしく仕上がっている。他にも胡麻が振られた瑞々しい豆腐、栗と小豆の煮物など、華やかなこと、この上ない。

「暁翔様の分はないのですか?」

「お戻りがいつになるか分からぬゆえ、真桜様には先に召し上がっていてほしいとのことでした」
 水琴が椀の蓋を取ると、上品な出汁の香りがほわりと立ち上がった。

 暁翔がいなければ、祝いの意味がないような気もしたが、彼は神の務めがあるのだろうし、一緒に食事をしたいなど我儘を言う資格は自分にはない。

(そもそもこれは、だし)
 気を取り直して、箸を手に取る。出来立ての食事は母と暮らしていた子供の頃以来ではないだろうか。

「いただきます」
 そう言って真桜は汁椀を手に持ち、静かに口をつける。

「ああ……とってもおいしいです」
 温かく滋味深い味わいに、安堵で涙が出そうになった。

 そこへ、しろ、くろ、まるの三人が、賑やかに急須を運んできた。

「わあ、真桜さま、お着物よく似合ってる。お姫さまみたい!」
 まるの言葉に、真桜は「ありがとう」と言って照れ笑いを浮かべた。

「僕たちも、ごはん作るの手伝ったんだよ」

「ありがとう。あなたたちは働き者ね」
 真桜が褒めると、しろたちはきゃっきゃっと声を上げて喜んだ。

「あたしたち、えらい! 暁翔さまと真桜さまのためにがんばる!」

「お手伝い大好き!」

「まあ、あなたたち、そんなにはしゃいだら真桜様がゆっくりお食事できませんよ」
 水琴が静かにたしなめると、しろ、くろ、まるの順にささっと座布団の上に正座する。

 その姿に思わずくすっと笑ってしまい、真桜は彼らの純粋さに心が温まるのを感じた。

 今までこんなににぎやかな食事をしたことがなかったので新鮮だ。

「天渓谷の恵みがお口に合いまして、よかったです」

「どれもおいしいです、ありがとうございます」
 恥ずかしながら、空腹も手伝って箸が止まらない。やっぱり暁翔はこの場にいなくてよかったかもしれないと、心の中で照れながら食事を進めた。

「……こんなに豪勢なものを食べるのは初めてです」
 震える声で告げると、しろたちは嬉しそうに体を揺らす。

「真桜さま、いっぱい食べてね!」

「お腹いっぱいになれば元気になるよ!」
 彼らの言葉に真桜は微笑み返し、静かに感謝を込めて食事を続けた。お腹が満たされると、不思議と力が湧いてくる。

 一人ではないことの幸せを噛みしめながら――。

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みんなの感想(1件)

もちっぱち
2025.12.31 もちっぱち

続きが凄く気になります!
読みやすくて好きな内容です
またよ見に来ますね(*ˊૢᵕˋૢ*)

2025.12.31 宮永レン

>もちっぱち様
お読みいただき、ありがとうございます!
好きとおっしゃっていただけて嬉しいです。
お時間のある時にまた読みにいらしてください~。

解除

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