禍ツ神の恋結び綺譚~花縁はことほぎに包まれる~

宮永レン

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第三章 翠の箱庭

10.慈雨の雫

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 夜明けの光が、穏やかにたなびく雲を淡い紫色に染めていた。不思議なことに、空の色が滲むように変わっていき、彼方に至っては宵闇よいやみ色に塗りつぶされている。そこには数多あまたの星がちりばめら、きらきらとささめいていた。

 草花と水の清らかな香りを乗せた柔らかな風が、真桜の頬を優しく撫でる。

天渓谷あまがたに……」
 真桜は、暁翔が教えてくれたその名を震える声でなぞった。

 目の前に広がるのは、現世の理を軽々と超えた絶景だった。いろどりに満ちた花々が咲き乱れる丘、力強い緑の草原、黄金色に輝く稲穂、そして霜の結晶がきらめく白き森――四季の美しさが、一枚の絵画のように同時に存在している。

「お日様とお月様が同時に出ているなんて……」
 あまりに美しい光景に思わず目が輝いてしまう。

「ここは、妖や神が暮らす領域。自然も時間も交わり、一つに結ばれている。三百年経っても変わっていないようで安心した」
 暁翔は懐かしむように目を細め、静かに微笑んだ。

「『変わっていない』って……暁翔様、記憶が……!?」

「ああ。まだ体から完全に穢れが落ちたわけではないが、真桜の力のおかげで記憶は取り戻した。礼を言うぞ」
 暁翔は真桜を見つめ、慈しむように髪を撫でる。

(なんてまばゆい笑顔なのかしら――)
 夕焼けに照らされたみたいに頬が熱くなり、真桜は彼から目を逸らした。

 その目線の先に、一緒についてきた毛玉たちの姿がある。彼らは突然光に包まれたかと思うと、唐突に形を変えた。

「え!?」
 真桜が目を丸くすると、光が一層強く輝き、その中から現れたのは三人の童だった。

「真桜さま! やっとお話ができますね」
 一番に声をあげたのは黒い短髪に赤い目が印象的な少年だった。袖の長い黒装束を纏い、背には小さな漆黒の翼が揺れている。

「もしかして……くろ?」
 真桜が驚きながらも尋ねると、くろは嬉しそうに頷いた。

「わたしも、真桜さまにぎゅうってしてみたかったの!」
 続いて声をあげたのは、肩まで切り揃えられた雪の髪色をした少女だ。頭の上には大きな三角形の耳が生えている。真っ白な着物を身に纏い、ふさふさの狐の尻尾を振る。

「しろなの?」

「そうだよ!」
 しろは暁翔に抱き上げられている真桜にぶら下がる。しかしその体には全く重さを感じなかった。

「あたしも、ちゃんと真桜さまに『好き』って言いたかった」
 最後に話したのは、茶色の柔らかな髪の中から小さな二本の鹿角を生やした、しろよりもさらに幼い顔立ちの女の子だった。

「あなたは、まる、ね」
 真桜が微笑むと、三人はにっこりと笑った。

「まだ幼い故、現世では力の制限があったが、ここならば本来の姿で真桜の世話もできるだろう」
 暁翔が微笑みながらそう言うと、三人が一斉に頷いた。

「わーい! よろしくね、真桜さま!」

「ありがとう。ずっとお話してみたかったの。こちらこそ、よろしくね」
 真桜は、喜ぶ三人に笑顔を向ける。

「では、降りるぞ」
 暁翔がそう言って、すうっと静かに高度を下げていく。

 翠の箱庭のような大地が近づくと、大きな邸へ向かって姿形の異なる妖たちが集まってくるのが見えた。その中には、かつて白月家で退魔の対象となっていた種族に似た者も混じっている。

(妖にも、帰る場所や家族がある。……私は、なんて残酷なことをしていたのかしら)
 真桜は胸の痛みを感じながらも、暁翔に抱えられ、整地された庭へと静かに降り立った。

「暁翔様のお戻りを切に願い、幾重の季節を巡ったことでしょう。この度のご帰還、心より嬉しゅう思います」
 一匹の妖が進み出て礼をとった。それに続き、他の妖たちも一斉に頭を下げる。

 だが彼らの視線が真桜に向いた瞬間、空気が変わった。ざわめきが広がり、一匹の妖が口を開いた。

「暁翔様、その人間は……にえでございますか?」
 一匹の妖が放った冷酷な言葉に、真桜の胸はきゅっと締めつけられた。

「違う。真桜は、俺の半身。花縁はなよめだ」
 暁翔は静かに、しかし断固とした声で言い放った。その声が響いた瞬間、妖たちは驚きと困惑に包まれた。

「花縁? 今、暁翔様はそうおっしゃったのか?」
「人間ごときが暁翔様の花縁だと?」
「暁翔様を禍ツ神に堕としたのは、人間どもの欲深さではないのですか!」
 妖たちの間に、燃え上がるような怒りと困惑の波が広がっていく。中でも鬼の姿をした妖が前に出、真桜を鋭く睨みつけた。

「暁翔様を禍ツ神にした挙句、その身を封じた人間を許すことなど、我らにはできません!」
「そうです! 身勝手な種族と縁を結ぶなど……っ」

「静まれ」
 暁翔が冷ややかな声を発すると、抗議の声は一瞬で消えた。

「真桜はその封印から解き放ってくれた。穢れの浄化も協力してくれた。それ以上に、消えかかっていた俺を繋ぎ止めてくれた大切な存在であり、侮辱することは俺が許さない」
 暁翔の峻烈な神気に、妖たちは畏怖して声を潜めた。

「しかしながら、まだ穢れが残っておられる気配が……」
 不信感を拭いきれない者たちが、ぼそぼそと不満を漏らす。

「真桜さまは、僕たちの味方だよ!」
 突然、くろが真桜の前に躍り出て、胸を張って答えた。

「わたしが意地悪な人間に捕まった時も助けてくれたの」
 しろも一緒に彼女を庇うように両腕を広げる。

「こわがらずに、遊んでくれたんだよ」
 まるがにっこりと笑いかけると、明らかに妖たちの間に動揺の波が広がった。

「あなたたち……ありがとう」
 目の奥がつんと痛くなって、真桜の視界が滲む。

「私……どこまでできるかわからないですけど、暁翔様の穢れを払って、もう誰にも禍ツ神だなんて呼ばせません!」
 腹の底に力を込めて宣言すると、ふいに頬に冷たいものが当たった。

 ぽつ、ぽつ……やがて、それが大粒の雨に変わる。頭上に雲などないのに、どこから降ってきているのだろう。

「真桜……あまり嬉しいことを言ってくれるな」
 隣を見上げれば、暁翔が真珠のような頬を朱に染め、困ったように顔を背けていた。

(えっ! 体に触れなくても、天気を崩してしまう系ですか!?)
 真桜がおろおろしていると、しろが楽しそうに彼女の腕を引いた。

「雨は、祝福の証なの。暁翔様、とっても喜んでる」

「そうなんだ……よかった」
 真桜はホッとして顔を綻ばせる。

 降り注ぐ慈雨は、冷たさなど微塵もなく、どこまでも温かく二人の門出を祝福していた。
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