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第五章 茜の約束
20.神招き
「綾斗」
静寂を裂いたのは、東雲貴久の低く、峻厳な響きを帯びた声だった。
「言葉が過ぎるぞ。まがりなりにも相手は神。いささか無礼ではないか?」
怒鳴るわけではない。だが、その声には抗いようのない威圧が宿っている。
「……失礼いたしました」
慇懃に畳へ手をつき一礼したものの、綾斗の双眸には明らかな不服の火が灯っていた。
「ですが、賛成いたしかねるという意見に変わりはありません。これ以上の議論は不要かと。お先に失礼いたします」
綾斗は流れるような所作で立ち上がると、振り返ることなく広間を辞していく。
「お見苦しいところをお見せした。愚息の未熟、平に容赦願いたい」
東雲は深く眉間にしわを刻み、溜息混じりに口を開いた。
「謝罪は不要だ。人間には人間の理がある。俺の存在がこの世の災いとなると危惧するのであれば、それは至極当然の反応だろう」
暁翔は動じることなく、東雲の視線を正面から受け止める。
「寛大なお言葉、痛み入る。だが、不測の事態が起きた際、再び封印という手段を執らざるを得ぬこと、神の身なればこそご承知おきいただきたい」
東雲の瞳には、困惑と敬意が入り混じった色が浮かんでいた。その言葉には私情がなく、ただ帝都を護る者としての冷徹な理性が宿っている。
(再封印……。そんなこと、絶対にさせたくない。暁翔様は、こんなに優しい神様なのに!)
真桜は胸が締めつけられるような痛みに、膝の上の拳を固く握りしめた。
「再封印、ですか。ならば一つ提案がございます。禍ツ神殿の御力を、我が八坂家で研究させていただけないでしょうか?」
澱んだ空気を変えたのは、八坂光彦の穏やかな提案だった。
「研究……?」
暁翔が片眉を上げ、興味深げに喉を鳴らす。
「ええ。穢れの解明、あるいはそれに伴う術式の発展。八坂家が積んできた知見がお二人の助けになるのではと考えております」
八坂の言葉には、裏表のない誠実さと、隠しきれない探究心が滲んでいた。
「穢れの解明か。面白い、その誘い、乗ってやろう」
暁翔が応じると、光彦は相好を崩して軽く頭を下げる。
「光栄です。よろしければ今宵、お二人で我が家へお越しいただけませんか?」
「どうする、真桜。そなたの意向に任せよう」
「暁翔様が良いと仰るなら、私もお供いたします」
真桜は力強く頷く。
東雲家との溝が深い今、知略に長けた八坂家の申し出は渡りに船だった。
緊急の審議が解散となり、真桜は急ぎ足で颯吾のもとへ歩み寄る。
「あの、母のことは……」
「心配するな。白月家が監視下に置かれる以上、母上殿の身の安全は保証される。だが、ひとまず落ち着くまでは我が家で預かろう」
颯吾は真桜の不安を見透かしたように、優しく目を細めた。
「ありがとうございます。颯吾様、ご恩は必ず」
「気にするな。こちらこそ、あいつ……くろがねを救ってもらった恩義がある」
背後で「勝手に決めるな」「父上こそ堅物すぎます」と小競り合いを始めた霧島親子を横目に、真桜は暁翔と共に八坂家の馬車へと乗り込んだ。
馬車の車窓から見える帝都の夜は、ガス燈の明かりが点々と闇を穿っている。
「もうすぐ到着しますよ。我が家は静かさだけが取り柄の、地味な場所ですが」
対面に座る八坂の長男・礼司が、眼鏡の奥で柔和に笑う。
「いえ、急なお願いを聞いていただき、感謝の言葉もございません」
真桜が恐縮して頭を下げた。
「綾斗も、昔はあんなに刺々しくはなかったのですが……一年前に双子の妹を事故で亡くしてから、人が変わってしまった。助けられなかった自分への苛立ちが、あのように表に出てしまうのでしょうね」
礼司はふと窓の外へ視線を移す。
(大切な人を失った悲しみ……)
綾斗のあの氷のような冷徹さは、崩れそうな心を守るための鎧《よろい》なのかもしれない。真桜は眉をひそめ、いつか彼ともわかり合える日が来ることを願わずにはいられなかった。
車が止まり、先に降りた暁翔が真桜に手を差し伸べてくれる。
「足元が暗い。気をつけろ」
「……ありがとうございます」
そっと重ねた手のひらから伝わる体温に、真桜は不覚にも鼓動を早めた。
(いけないわ、これは穢れを祓うための契約関係。過度な期待は禁物よ)
真桜は内心で自分を戒めながら、八坂家の門をくぐった。
八坂の家は静かな闇の中に佇んでいたが、門の脇には明かりが灯されており、その光が温かみを帯びているように感じられた。
「おかえりなさいませ」
数人の使用人の挨拶に、八坂が「お客人です。部屋を用意してもらえますか」と伝えると、何人かが素早く部屋の奥の方へ向かっていった。
「お疲れでしょう。すぐに暖かい部屋をご用意いたしますので、どうぞお寛ぎください」
その言葉に、真桜は少しだけ肩の力を抜くことができた。
客室に通され、簡単な食事と入浴、着替えまで用意してもらう。暁翔は八坂と少し話をすると言って部屋を出ていったきりだった。
申し訳ないと思いつつも、湯上りでさっぱりした心地で部屋に戻ってきた真桜はどきりとした。
行灯の淡い光に照らされた室内には、布団が二組、驚くほど近くに並べられていた。
(ど、どうしよう。確かに私たちは夫婦という名目だけれど……)
世間的には正式な婚姻を結んだ二人。使用人の心遣いは至極当然のものである。
(でも、本当は『契約』で結ばれただけの関係。暁翔様もこういうことは望んでいないはず。うん、少しだけ……本当に少しだけ離しておこう)
背中に微かな汗を滲ませ、真桜がそろりと布団の端を掴んだ、その時だった。
障子が静かに開き、清涼な香りが部屋に流れ込んでくる。
「先に休んでいてもよかったのだぞ、真桜」
「は、はは……はいっ!」
背後に響いた暁翔の低い声に、真桜は心臓を跳ね上げ、獲られた小動物のような勢いで返辞を絞り出す。
振り返った先、湯上がりで髪を解いた暁翔の、無防備な美しさがそこにあった。
静寂を裂いたのは、東雲貴久の低く、峻厳な響きを帯びた声だった。
「言葉が過ぎるぞ。まがりなりにも相手は神。いささか無礼ではないか?」
怒鳴るわけではない。だが、その声には抗いようのない威圧が宿っている。
「……失礼いたしました」
慇懃に畳へ手をつき一礼したものの、綾斗の双眸には明らかな不服の火が灯っていた。
「ですが、賛成いたしかねるという意見に変わりはありません。これ以上の議論は不要かと。お先に失礼いたします」
綾斗は流れるような所作で立ち上がると、振り返ることなく広間を辞していく。
「お見苦しいところをお見せした。愚息の未熟、平に容赦願いたい」
東雲は深く眉間にしわを刻み、溜息混じりに口を開いた。
「謝罪は不要だ。人間には人間の理がある。俺の存在がこの世の災いとなると危惧するのであれば、それは至極当然の反応だろう」
暁翔は動じることなく、東雲の視線を正面から受け止める。
「寛大なお言葉、痛み入る。だが、不測の事態が起きた際、再び封印という手段を執らざるを得ぬこと、神の身なればこそご承知おきいただきたい」
東雲の瞳には、困惑と敬意が入り混じった色が浮かんでいた。その言葉には私情がなく、ただ帝都を護る者としての冷徹な理性が宿っている。
(再封印……。そんなこと、絶対にさせたくない。暁翔様は、こんなに優しい神様なのに!)
真桜は胸が締めつけられるような痛みに、膝の上の拳を固く握りしめた。
「再封印、ですか。ならば一つ提案がございます。禍ツ神殿の御力を、我が八坂家で研究させていただけないでしょうか?」
澱んだ空気を変えたのは、八坂光彦の穏やかな提案だった。
「研究……?」
暁翔が片眉を上げ、興味深げに喉を鳴らす。
「ええ。穢れの解明、あるいはそれに伴う術式の発展。八坂家が積んできた知見がお二人の助けになるのではと考えております」
八坂の言葉には、裏表のない誠実さと、隠しきれない探究心が滲んでいた。
「穢れの解明か。面白い、その誘い、乗ってやろう」
暁翔が応じると、光彦は相好を崩して軽く頭を下げる。
「光栄です。よろしければ今宵、お二人で我が家へお越しいただけませんか?」
「どうする、真桜。そなたの意向に任せよう」
「暁翔様が良いと仰るなら、私もお供いたします」
真桜は力強く頷く。
東雲家との溝が深い今、知略に長けた八坂家の申し出は渡りに船だった。
緊急の審議が解散となり、真桜は急ぎ足で颯吾のもとへ歩み寄る。
「あの、母のことは……」
「心配するな。白月家が監視下に置かれる以上、母上殿の身の安全は保証される。だが、ひとまず落ち着くまでは我が家で預かろう」
颯吾は真桜の不安を見透かしたように、優しく目を細めた。
「ありがとうございます。颯吾様、ご恩は必ず」
「気にするな。こちらこそ、あいつ……くろがねを救ってもらった恩義がある」
背後で「勝手に決めるな」「父上こそ堅物すぎます」と小競り合いを始めた霧島親子を横目に、真桜は暁翔と共に八坂家の馬車へと乗り込んだ。
馬車の車窓から見える帝都の夜は、ガス燈の明かりが点々と闇を穿っている。
「もうすぐ到着しますよ。我が家は静かさだけが取り柄の、地味な場所ですが」
対面に座る八坂の長男・礼司が、眼鏡の奥で柔和に笑う。
「いえ、急なお願いを聞いていただき、感謝の言葉もございません」
真桜が恐縮して頭を下げた。
「綾斗も、昔はあんなに刺々しくはなかったのですが……一年前に双子の妹を事故で亡くしてから、人が変わってしまった。助けられなかった自分への苛立ちが、あのように表に出てしまうのでしょうね」
礼司はふと窓の外へ視線を移す。
(大切な人を失った悲しみ……)
綾斗のあの氷のような冷徹さは、崩れそうな心を守るための鎧《よろい》なのかもしれない。真桜は眉をひそめ、いつか彼ともわかり合える日が来ることを願わずにはいられなかった。
車が止まり、先に降りた暁翔が真桜に手を差し伸べてくれる。
「足元が暗い。気をつけろ」
「……ありがとうございます」
そっと重ねた手のひらから伝わる体温に、真桜は不覚にも鼓動を早めた。
(いけないわ、これは穢れを祓うための契約関係。過度な期待は禁物よ)
真桜は内心で自分を戒めながら、八坂家の門をくぐった。
八坂の家は静かな闇の中に佇んでいたが、門の脇には明かりが灯されており、その光が温かみを帯びているように感じられた。
「おかえりなさいませ」
数人の使用人の挨拶に、八坂が「お客人です。部屋を用意してもらえますか」と伝えると、何人かが素早く部屋の奥の方へ向かっていった。
「お疲れでしょう。すぐに暖かい部屋をご用意いたしますので、どうぞお寛ぎください」
その言葉に、真桜は少しだけ肩の力を抜くことができた。
客室に通され、簡単な食事と入浴、着替えまで用意してもらう。暁翔は八坂と少し話をすると言って部屋を出ていったきりだった。
申し訳ないと思いつつも、湯上りでさっぱりした心地で部屋に戻ってきた真桜はどきりとした。
行灯の淡い光に照らされた室内には、布団が二組、驚くほど近くに並べられていた。
(ど、どうしよう。確かに私たちは夫婦という名目だけれど……)
世間的には正式な婚姻を結んだ二人。使用人の心遣いは至極当然のものである。
(でも、本当は『契約』で結ばれただけの関係。暁翔様もこういうことは望んでいないはず。うん、少しだけ……本当に少しだけ離しておこう)
背中に微かな汗を滲ませ、真桜がそろりと布団の端を掴んだ、その時だった。
障子が静かに開き、清涼な香りが部屋に流れ込んでくる。
「先に休んでいてもよかったのだぞ、真桜」
「は、はは……はいっ!」
背後に響いた暁翔の低い声に、真桜は心臓を跳ね上げ、獲られた小動物のような勢いで返辞を絞り出す。
振り返った先、湯上がりで髪を解いた暁翔の、無防備な美しさがそこにあった。
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