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「ミネット!」
夫の声が矢のごとく飛んできて、ハッと目を開く。
「ヴィルジール……っ」
涙声で彼の名前を呼ぶと、大股でやってきた夫はコンラートを睨みつけた。今までに見たことのない鷹のように鋭い視線だった。
コンラートが舌打ちして、ミネットから手を離す。
「私の妻に何をしているのですか?」
「ふん、成り上がりで爵位を手に入れた卑しい者に答える義理はない。せっかくいい気分だったのに、酔いが醒めてしまったではないか。冗談も通じないような男にはかかわらない方がいいと皆に話してこよう」
コンラートは鼻を鳴らして踵を返した。
「どちらが卑しいのでしょう? 教会への寄付金と言いつつ、その一部をご自分の懐に入れているような方が貴いとでも?」
ヴィルジールがそう言うと、コンラートの背中がびくっと揺れた。
「ど、どこでそれを……」
振り返ってから、コンラートはハッと手を口に当てる。
「覚えていないのですか? あなたが贔屓にしている、とある店の店員が教えてくれましたよ。酔うとなんでも話してしまうようですが、あまり深酒しない方が御身のためでは?」
ヴィルジールの目元が冷たく細められる。
「だ、誰にも言わないでくれっ」
コンラートはすっかり顔色をなくしてその場に膝をつき、頭を下げた。
「今後は姑息な不正を働かないことですね」
ヴィルジールは興味なさげにその姿を見下ろしてから、ミネットの方を向いた。
「怪我はないか?」
ヴィルジールが体をかがめてミネットの顔を覗き込んできた。もう少しで鼻先がつきそうな距離に、ミネットは慌てて目を閉じた。
「は、はい……」
ドキドキと胸を高鳴らせながら必死で声を振り絞る。
「帰ろう」
ぽんと優しく頭を撫でられ、彼女は小さく失望した。
(キス……されるかと思ったのに)
妻が他の男と関係を持ったことが世間に知られたら、今までの苦労が水の泡だから助けに入っただけであって、ミネットの心配をしてくれたわけではないのだ。
つんと鼻の奥が痛くなる。
「でも、まだお仕事の話があるんじゃ……」
「今夜はもういい。一人にして悪かった」
そう言ってヴィルジールはミネットの手を引き、土下座を続けるコンラートの脇を素通りしてホールへ戻ると、他の客に挨拶をして屋敷を後にした。
(仕事の邪魔をしたかもしれないわ。それに、さきほどの方の心証を悪くしてしまったのでは……)
馬車に乗り込んだミネットは、自身の至らなさに小さなため息をついた。
ヴィルジールの人生に自分は不要だ。彼の隣にはもっとふさわしい人がいるに違いない。仮面夫婦などいつまでも続くわけがないのだ。少なくともミネットの方は限界だ。気持ちが寄り添っていないのにそばにいるのはつらい。
ヴィルジールが必要なものはアルブレヒト伯爵家の名だけなのだから。
(全部あげる。私はもう修道院にでも入って静かに暮らしましょう)
ヴィルジールの幸せだけを願って――
「あの……」
「話が……」
心を決めて口を開いたものの、ヴィルジールと同じタイミングだったようで気まずくなって口をつぐむ。
「あ。あなたからどうぞ」
やっとそう言うと、ヴィルジールにしては珍しく視線をあちこちに彷徨わせた後、こちらを真っ直ぐに見つめてきた。
「今日のことでよくわかったんだ」
落ち着いた静かな口調だった。
やはり彼に迷惑をかけてしまったのだ。完璧な妻失格である。
ミネットは膝の上でぎゅっと手を握り込んだ。
「仮面夫婦のような生活を始めてもう五年が経つが……俺としては限界というか……もうやめたいと思っているんだが、君の気持ちを教えてくれないか?」
吸い込まれそうな青い瞳が揺れている。
ヴィルジールはずっと我慢してきたのだ。こんな子供のような女を妻にして、ミネットのいない所では何か言われて苦労していたのかもしれない。
爵位も財産も彼に譲って、ヴィルジールをミネットのもとから解放すべきだ。彼にふさわしい、完璧な妻を迎えられるように。
「ええ。私もまったく同じ気持ちですわ」
五年間で培ってきた作り笑顔が、ここで役に立つとは思わなかった。心の中で苦笑いしながらミネットは居住まいを正した。
「本当か?」
ヴィルジールの目が輝き、口元には笑みさえ浮かぶ。
「ずっと考えておりましたの。五年も我慢してくれてありがとうございました」
皮肉を込めたつもりなのに彼には通じなかったようで、突然立ち上がるとミネットの隣に座り、ぎゅっと抱きしめてきた。
「ありがとうはこっちの台詞だ。なんだ、もっと早く話していればよかった!」
「そ、そんなにぎゅうぎゅうとされたら、ドレスが皺になりますわ」
こんなにしっかりと抱きしめられたのは初めてだ。嬉しい反面、それほど夫婦関係を解消したかったのかと思ったら泣きたくなった。
「悪かった。信じられなくて」
眩しいほどの笑顔。それももう見られなくなる。
(今度はそれを誰に向けるのかしら)
涙が零れそうになって、ミネットはぷいと顔を背けた。
「少し疲れました。家に着くまで休ませて」
「わかった」
ヴィルジールは素直に腕の力を抜いてミネットの隣にいたが、手だけはぎゅっと握ったままだった。
その温もりがもうすぐ離れてしまう。
「ただいま。今夜は休んでもらってかまわない。ミネットと二人で過ごしたいので」
「かしこまりました」
出迎えてくれた使用人にそう声をかけたヴィルジールの手には、まだミネットの手が繋がれたままだ。
(まだ何か話があるの? それとも今後の私の身の振り方でも教えてくれるのかしら?)
何も言わずにヴィルジールに手を引かれるまま、彼の部屋までついていく。
今夜はやけに静寂が耳に痛い。体温を感じて高鳴っている鼓動が彼に聞こえてしまわないか不安だ。
「この時をどんなに待ち望んでいたか」
ヴィルジールはミネットを抱きしめて唇を重ねてきた。
「ん? え?」
混乱するミネットは、慌ててヴィルジールを押し返した。
「ど、どういうことですか?」
「君も俺と同じ気持ちだと言ってくれたじゃないか」
「それは……仮面夫婦を終わりにするっていう……」
「ああ。五年経って……いやもっと前から、かな。どんどん綺麗になっていくミネットに惹かれていた。聡明な君に成り上がりの俺はふさわしくないだろうが、いつか君の気持ちが変わったら、俺でもいいと言ってくれたら、ちゃんと本当の夫婦になろうと」
眉根を下げ、自信なさげな笑みを浮かべる。
「だが、今日他の男に迫られているのを見て、待っているうちにミネットの心が他の奴に向いたら……と思ったらいてもたってもいられなくなって……」
再び強く抱きしめられる。
「な、何を言っているんですか? 成り上がりだなんて、私は思いません。あなたは自分の力で人生を切り拓いてきた立派な人です。私の方こそ、役に立たないばかりで、ティアム侯爵夫人に比べたら子供で……」
「なぜ彼女と比べる必要がある?」
「だって……あの日、美容液を夫人にもらった日、夫婦をやめたいって、夫人と内緒で会っていたのを偶然見かけてしまって……」
「ティアム侯爵夫妻は社交界でも有名なおしどり夫婦で、その、どうしたら距離を縮められるのか相談していたんだ。それで、あの美容液をきっかけに、と」
ヴィルジールの涼しい目元がかすかに赤く染まる。
「そ、それだけ……?」
「それだけ」
言葉が止まって、ミネットはヴィルジールの吸い込まれそうな青い瞳を見上げた。
「仮面夫婦は、今日でおしまい?」
信じられない。だが、ヴィルジールも同じように想いを寄せていたことがわかってみるみる透明な雫が瞳に盛り上がってくる。
「おしまい。これからもよろしく、俺のかわいい奥さん」
涙で滲んだ視界は熱かったが、彼のキスはもっとずっと熱かった。
「私も……ヴィルジールが好き。子供みたいに拗ねたりしてごめんなさい。ひとりぼっちになった私のそばにずっといてくれてありがとう」
胸のつかえがようやく取れたみたいに、心が軽い。
「いや、俺も言葉が過ぎた。君をずっと大切にするから」
もう一度、優しいキス――
夢ではない確かな温もりに包まれて、ミネットの心は幸せに満ち溢れた。
夫の声が矢のごとく飛んできて、ハッと目を開く。
「ヴィルジール……っ」
涙声で彼の名前を呼ぶと、大股でやってきた夫はコンラートを睨みつけた。今までに見たことのない鷹のように鋭い視線だった。
コンラートが舌打ちして、ミネットから手を離す。
「私の妻に何をしているのですか?」
「ふん、成り上がりで爵位を手に入れた卑しい者に答える義理はない。せっかくいい気分だったのに、酔いが醒めてしまったではないか。冗談も通じないような男にはかかわらない方がいいと皆に話してこよう」
コンラートは鼻を鳴らして踵を返した。
「どちらが卑しいのでしょう? 教会への寄付金と言いつつ、その一部をご自分の懐に入れているような方が貴いとでも?」
ヴィルジールがそう言うと、コンラートの背中がびくっと揺れた。
「ど、どこでそれを……」
振り返ってから、コンラートはハッと手を口に当てる。
「覚えていないのですか? あなたが贔屓にしている、とある店の店員が教えてくれましたよ。酔うとなんでも話してしまうようですが、あまり深酒しない方が御身のためでは?」
ヴィルジールの目元が冷たく細められる。
「だ、誰にも言わないでくれっ」
コンラートはすっかり顔色をなくしてその場に膝をつき、頭を下げた。
「今後は姑息な不正を働かないことですね」
ヴィルジールは興味なさげにその姿を見下ろしてから、ミネットの方を向いた。
「怪我はないか?」
ヴィルジールが体をかがめてミネットの顔を覗き込んできた。もう少しで鼻先がつきそうな距離に、ミネットは慌てて目を閉じた。
「は、はい……」
ドキドキと胸を高鳴らせながら必死で声を振り絞る。
「帰ろう」
ぽんと優しく頭を撫でられ、彼女は小さく失望した。
(キス……されるかと思ったのに)
妻が他の男と関係を持ったことが世間に知られたら、今までの苦労が水の泡だから助けに入っただけであって、ミネットの心配をしてくれたわけではないのだ。
つんと鼻の奥が痛くなる。
「でも、まだお仕事の話があるんじゃ……」
「今夜はもういい。一人にして悪かった」
そう言ってヴィルジールはミネットの手を引き、土下座を続けるコンラートの脇を素通りしてホールへ戻ると、他の客に挨拶をして屋敷を後にした。
(仕事の邪魔をしたかもしれないわ。それに、さきほどの方の心証を悪くしてしまったのでは……)
馬車に乗り込んだミネットは、自身の至らなさに小さなため息をついた。
ヴィルジールの人生に自分は不要だ。彼の隣にはもっとふさわしい人がいるに違いない。仮面夫婦などいつまでも続くわけがないのだ。少なくともミネットの方は限界だ。気持ちが寄り添っていないのにそばにいるのはつらい。
ヴィルジールが必要なものはアルブレヒト伯爵家の名だけなのだから。
(全部あげる。私はもう修道院にでも入って静かに暮らしましょう)
ヴィルジールの幸せだけを願って――
「あの……」
「話が……」
心を決めて口を開いたものの、ヴィルジールと同じタイミングだったようで気まずくなって口をつぐむ。
「あ。あなたからどうぞ」
やっとそう言うと、ヴィルジールにしては珍しく視線をあちこちに彷徨わせた後、こちらを真っ直ぐに見つめてきた。
「今日のことでよくわかったんだ」
落ち着いた静かな口調だった。
やはり彼に迷惑をかけてしまったのだ。完璧な妻失格である。
ミネットは膝の上でぎゅっと手を握り込んだ。
「仮面夫婦のような生活を始めてもう五年が経つが……俺としては限界というか……もうやめたいと思っているんだが、君の気持ちを教えてくれないか?」
吸い込まれそうな青い瞳が揺れている。
ヴィルジールはずっと我慢してきたのだ。こんな子供のような女を妻にして、ミネットのいない所では何か言われて苦労していたのかもしれない。
爵位も財産も彼に譲って、ヴィルジールをミネットのもとから解放すべきだ。彼にふさわしい、完璧な妻を迎えられるように。
「ええ。私もまったく同じ気持ちですわ」
五年間で培ってきた作り笑顔が、ここで役に立つとは思わなかった。心の中で苦笑いしながらミネットは居住まいを正した。
「本当か?」
ヴィルジールの目が輝き、口元には笑みさえ浮かぶ。
「ずっと考えておりましたの。五年も我慢してくれてありがとうございました」
皮肉を込めたつもりなのに彼には通じなかったようで、突然立ち上がるとミネットの隣に座り、ぎゅっと抱きしめてきた。
「ありがとうはこっちの台詞だ。なんだ、もっと早く話していればよかった!」
「そ、そんなにぎゅうぎゅうとされたら、ドレスが皺になりますわ」
こんなにしっかりと抱きしめられたのは初めてだ。嬉しい反面、それほど夫婦関係を解消したかったのかと思ったら泣きたくなった。
「悪かった。信じられなくて」
眩しいほどの笑顔。それももう見られなくなる。
(今度はそれを誰に向けるのかしら)
涙が零れそうになって、ミネットはぷいと顔を背けた。
「少し疲れました。家に着くまで休ませて」
「わかった」
ヴィルジールは素直に腕の力を抜いてミネットの隣にいたが、手だけはぎゅっと握ったままだった。
その温もりがもうすぐ離れてしまう。
「ただいま。今夜は休んでもらってかまわない。ミネットと二人で過ごしたいので」
「かしこまりました」
出迎えてくれた使用人にそう声をかけたヴィルジールの手には、まだミネットの手が繋がれたままだ。
(まだ何か話があるの? それとも今後の私の身の振り方でも教えてくれるのかしら?)
何も言わずにヴィルジールに手を引かれるまま、彼の部屋までついていく。
今夜はやけに静寂が耳に痛い。体温を感じて高鳴っている鼓動が彼に聞こえてしまわないか不安だ。
「この時をどんなに待ち望んでいたか」
ヴィルジールはミネットを抱きしめて唇を重ねてきた。
「ん? え?」
混乱するミネットは、慌ててヴィルジールを押し返した。
「ど、どういうことですか?」
「君も俺と同じ気持ちだと言ってくれたじゃないか」
「それは……仮面夫婦を終わりにするっていう……」
「ああ。五年経って……いやもっと前から、かな。どんどん綺麗になっていくミネットに惹かれていた。聡明な君に成り上がりの俺はふさわしくないだろうが、いつか君の気持ちが変わったら、俺でもいいと言ってくれたら、ちゃんと本当の夫婦になろうと」
眉根を下げ、自信なさげな笑みを浮かべる。
「だが、今日他の男に迫られているのを見て、待っているうちにミネットの心が他の奴に向いたら……と思ったらいてもたってもいられなくなって……」
再び強く抱きしめられる。
「な、何を言っているんですか? 成り上がりだなんて、私は思いません。あなたは自分の力で人生を切り拓いてきた立派な人です。私の方こそ、役に立たないばかりで、ティアム侯爵夫人に比べたら子供で……」
「なぜ彼女と比べる必要がある?」
「だって……あの日、美容液を夫人にもらった日、夫婦をやめたいって、夫人と内緒で会っていたのを偶然見かけてしまって……」
「ティアム侯爵夫妻は社交界でも有名なおしどり夫婦で、その、どうしたら距離を縮められるのか相談していたんだ。それで、あの美容液をきっかけに、と」
ヴィルジールの涼しい目元がかすかに赤く染まる。
「そ、それだけ……?」
「それだけ」
言葉が止まって、ミネットはヴィルジールの吸い込まれそうな青い瞳を見上げた。
「仮面夫婦は、今日でおしまい?」
信じられない。だが、ヴィルジールも同じように想いを寄せていたことがわかってみるみる透明な雫が瞳に盛り上がってくる。
「おしまい。これからもよろしく、俺のかわいい奥さん」
涙で滲んだ視界は熱かったが、彼のキスはもっとずっと熱かった。
「私も……ヴィルジールが好き。子供みたいに拗ねたりしてごめんなさい。ひとりぼっちになった私のそばにずっといてくれてありがとう」
胸のつかえがようやく取れたみたいに、心が軽い。
「いや、俺も言葉が過ぎた。君をずっと大切にするから」
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