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二話 敗走、修道院の出会い
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広大な母なるマルシア大陸、そこは堕天使たちの戦場。
かつて唯一の神に逆らった天使たちは、神に敗北した。
その裁きのために、忌むべきそれらは地上へ降ろされた。
いわゆる堕天である。
慈悲深き神が堕天使らに残されたのはただ一つのお言葉であった。
「赦される一体が最後に残る」
それより500年。
堕天使たちは人間を利用し、人間に利用され、殺しあった。
堕天使との契約は人間に大きな力をもたらしたが、その力が平和を守るものになることはなかった。
高潔であった騎士たちは堕天使の力に酔いしれ、邪悪な人間の王らはその力でマルシア大陸を焼き尽くす堕天使戦争を始めた。
田畑は耕す者を失い、町は血みどろの舞台と化し、偉大な過去は山河の中に消えてしまった。
しかし、フロリア王国だけは在りし日のまま存在し続けている。
それは、500年もの長きにわたり災いをもたらしてきた堕天使を拒み続けてきたからにほかならず、堕天使の力と戦うために臣民が一丸となって王をお守りしてきたからである。
フィリップ・ロード『フロリア王国の年代記』
目の前に広がる庭園を見たとき、俺は真っ先に自分の生死を確認した。
ここは天国ではないのかと勘違いしたのだ。
見事に手入れされた垣根はつい先ほど剪定されたばかりのようだ。
甘い梅の香りはこの庭園の空気を穏やかに包む。
そして小鳥のさえずりは春の調べを奏でている。
今までの戦場と比べてまったくの異世界ではないか。
どこぞの宮殿の庭と言われてもおかしくない。
だが、俺は天国ではないと思いなおす。
仲間を捨てて逃げ出した俺に天国が待っているはずがない。
あるなら身の毛もよだつ地獄が待っていることに間違いないからだ。
それに、ちゃんと息もして、息切れしているし、心臓はバクバクなっている。
庭の奥に見える建物はボロボロで、手入れされた庭とは対照的だった。
天国でないとしたら…
「ここは、いったい…」
何なのだろうか。
大昔に放棄された修道院と最初に思い浮かんだが、そうなら庭も荒れ放題のはずだ。
庭だけ手入れするとしても、あの建物はなぜつかわれていないのか。
…とにかく人がいるか探さなければ。
ここへ来たのは人頭馬から逃げおおせるためだ。
建物がぼろくても庭がきれいなら誰かがいるはず、来ているはずだ。
誰かいないか!と大声で探したいところだが、あいにく敵に気づかれたくないので、口を閉じて歩き出した。
で、数歩も歩かないうちに声が聞こえた。
「この庭にご用でしょうか?」
背後、いや水中で聞いた音のようにどこからか判別の付かない方向か。
しわがれているのか、それともあどけなさが残るというのか、年齢も判別できない女性の声が聞こえた。
とにかく、謎の残る声で、わかったのは声は女性のものだということと、普通の音の通過過程を経ていないものだということだ。
声帯、口、空気、鼓膜、どれも通っていないと思われた。
なぜなら、一番近いと思った声質は耳をふさいで発した自分の声だからだ。
幻聴かもしれないが、その時はそんなこと思いもよらなかった。
「だ、誰だ!?」
こんな声をいきなり聴いてビビらないわけがない。
普通に後ろから声をかけてくる分にはいいが、魔法声というのか、いきなり聞いたらビビる。
鼓膜が破れた人のための魔法で、直接耳も介さずに音を聞かせる技術が昔あったらしいが、そんなものだろうか。
大半の魔法技術は500年前から消滅し続けているが、残っている魔法でそれぐらいのことはできるはずだ。
特にわがフロリア王国は魔法技術の保存状態がよい国だ。
「お口の利き方がよろしくないですよ。ちゃんとおっしゃいなさい」
言葉はいたって丁寧だが、しゃべり方は怒っていたというか、いら立っているようだった。
俺の言葉遣いで嫌悪感を示すのだから、位の高い人なのだろうとは思う。
それにしても魔法で会話する人なんていまどき見たことがない。
しゃべり方もどことなく古い。
あぁ、そうか。
魔女が声を変えている可能性があるかも。
「わかったぞ。お前は魔女だな」
「お前…。何て呼び方。それに、私は魔女ではありません。それよりもまず、何のご用かお聞きしましたのよ」
俺のノリはそんなに受け入れられないものだろうか…
逃げた先にいたのがこんなわからずやだとはがっかりだ。
だが、冷静に今の状況を考えるとそんなことしている場合ではなかったはずだ。
俺は命の危険が迫っている人間なわけでこの庭から出るわけにはいかない。
少なくとも壁に囲まれたここは安全地帯ではなかろうか。
ここにいさせてもらうしかないのだ。
サミュエルを捨ててしまったのもこうして生き残るためなのだ。
「分かった。用を言う。…ここにしばらくいさせてくれ、敵に追われているんだ」
「敵?よくわかりませんけれども…。それでは、この修道院の地下に来ていただけますか?」
「わかった。そうさせてもらう」
軽く承諾はしたものの、ぼろぼろに見えた建物に入ってまず驚いた。
屋根や上階の床が落ちていたのだ。
おかげで一階部分は日差しが入り、草がぼうぼう。
ステンドグラスも粉々に飛び散り、風化が進んでいた。
ただし、建物自体は頑丈だったようで、壁など石造りのところはよく残っている。
地下へ続く道は、床が草に覆われていてどこかわからない。
「おい、ここは廃墟じゃないか!」
よくもまぁここを修道院といえたんものだ。
「…そこまで荒れているのでしょうか?と言っても長いこと修道院を外から見ていないのでわかりませんが」
「荒れ放題じゃないか。床も天井もないぞ。こんなところによく住んでいるな」
「そんなことと関係ないですよ。だって、私は天使ですから」
へ?
さらりとすごいことを聞いた。
天使、500年前にマルシア大陸に出現した災いのもとである。
500年前突然現れて殺し合いをはじめ、人間を巻き込んで天使戦争が起こった。
当時の惨劇は筆舌に尽くしがたく、大陸全人口の半分以上が失われたともいわれている。
それからの350年は正真正銘の暗黒時代で、魔法文明は完全に崩壊。
フロリア王国は当時にしては辺境地帯にあったため、その惨禍から多少は免れたが、他国は魔法強化なしの鉄器で殴り合いの戦争が続いた。
フロリア王国にしても残された魔法はマルシア中央諸国のものと比べれば初歩の初歩までだった。
要するに天使さえいなければまだ魔法文明が続き、人間の繁栄は続いただろうということだ。
天使の強大さゆえにフロリア王国はその存在を拒み、辺境の地に引きこもってひたすら守りに徹していたと伝えられている。
とはいってもほとんどの歴史書は消失しているので何がどこからどこまで正しいのかいまいちわからない。
現行のフロリア国王勅令は天使の永久追放を定めている。
「天使ならフロリア王国では追放処分だ。第一、天使なら自分で封印ぐらい破ったりしないのか?」
「この封印の半分は私自身の手によるものです。フロリア王国とやらでの追放処分については知りませんね。追放できるものならしてみるといいでしょう。それより、早く地下へ来ていただけませんか?」
「…地下にはいくが、封印を解くかは考えさせてもらう」
天使だとすれば恐ろしいものだ。
その力があればメディオスの人頭馬を倒せるかもしれないが、その代償が祖国フロリアや、魔法から転換した今の文明の崩壊ならたまったものではない。
ただし、俺が助けを必要としていることも事実なので、代償云々の問題ではないかもしれない。
そもそも、自分が助かるためならパニック状態だったとはいえ、仲間を置いて行ってしまうクズが俺だ。
人頭馬の足音が聞こえたらすぐにでも開けてしまうだろう。
とりあえず、地下への道はどこだ。
一階部分?を探索すること数分、ようやくそれらしき穴を見つけた。
入口は草に覆われ、見えにくかったが、人ひとりが入れる大きさの穴があった。
たいていの修道院には地下にワインセラーがある。
その入口と考えれば妥当な大きさだ。
その下へ進むと、ワインセラーらしき入り口だ。
木戸があり、それには文章がびっしり筆記体で書いてあった。
まがまがしくてぎょっとした。
かすれているところが多く、文章としても読めない。
フロリア語の文字のように見えるが言葉が違うらしいく、よく残っている箇所でさえ読めない。
「この…扉でいいのか?」
魔法は今となってはすたれたが、古ければそんなことは関係ない。
修道院が朽ちてなおも天使を封印し続ける木戸が俺に選択を迫った。
開けるか開けないか。
「表面に文字がびっしり書かれているのならそうです。さぁ、早く開けてください。ひさしぶりの外の空気を吸いたいです」
奥の天使、まだ確実にそうと決まったわけでゃないが、それは俺の頭の中に声をまた送り出した。
開ける?開けない?開ける?開けない?開ける?開けない?開ける?開けない?
…しばらく目を閉じて息を整えた。
扉の上に手の平を当てる。
考えてみれば、選択肢は一つだった。
仲間を見捨てたのは自分が助かるため。
これ以上の恥をかくならばとことん恥をかいてやる。
腕に力を籠め、一気に前へ押す。
「開けた…」
扉が勢い余って壁に当たり、大きな音を立てた。
扉を抜けた先は真っ暗闇だった。
その奥から来るものはまず冷たい風、そして音だった。
チャリチャリと金属の擦れ合う音が近づいてくる。
どうやら奥からくるそれは多くの金属をまとっているようで、音がたくさんする。
石壁に反響しているせいで、金属をまとっているのはいくつの何なのかはっきりわからない。
石壁の放つ冷気は冬のままらしい。
軍服の上着にさらにコートがほしかった。
チャリチャリ音はしばらくして止まった。
「こ、ここでは姿が見えない。日の当たるところに来てもらえないか」
「そうですね、それがよいでしょうね」
今度の声は魔法のような音ではなかった。
鼓膜が揺れる、人の声だった。
女性の声で、あどけない質だ。
一方で口調にあどけなさは、相変わらず微塵も感じられなかった。
声はおそらく10歳程度だが、しゃべり方が異常に大人びていて、不気味さを感じざるを得ない。
姿はいかに?
金属の擦れる音は再び近づいてきた。
日差しが届くところまで奥からの何かかがきてまず見えたものは、鎖帷子に覆われた足だ。
今時、こんなもの着る人はいない。
鎖帷子はつい100年位前まではプレートメイルの下に着られていたが、こうもむき出しにするとなると300や400年前の装備だ。
青いサーコートの間に見えたひざ上もプレート部分がなく、すべて鎖。
ひざ部分は俺の膝と比較して低い位置にあり、あどけない質の声に見合っていた。
足自体は太く見えたが、それは中に詰めた緩衝材となる衣服が厚いせいだ。
おそらくそのズボンの中身はそこまで太くはない。
「子供…鎖帷子…?」
鎖帷子を着た少女…はたまた女児は俺の18年の人生中見たことがあるのはただ一度きり、今である。
あまりの異様さにフロリア語の文法を忘れ、単語しか発することができなかった。
「何をおっしゃっているのかよくわかりませんね。質問ならしかるべき尋ね方があるでしょう?まぁ、それよりも私の封印を解いてくださったことに感謝いたします」
天使もとい少女騎士の下げた頭が日向に入った。
鎖帷子の頭巾はしておらず、濃いブロンズで茶より薄い髪が見えた。
長くまっすぐに伸びている。
天使のわっか、ニンブスは見えず、背中に羽も生えていないようだった。
少女が一歩進むと同時に顔を上げると、絶世の美女予備軍が現れた。
磁器のように白い肌だが、中に熱い紅茶でも入っているように、血の赤が透けて見える。
人形とすればこの上なく美しい部類だ。
目は釣り目気味だが、そこは気位の高さが垣間見えるので問題ない。
そして鎖帷子越しに見ているが、成長が期待されるふくらみは腹部の上鎖骨の下…
「何をぼうっとしていらっしゃるのですか?」
うわ!と驚くのはそんな美少女に声をかけられたことなど一度もなかったからである。
「いいいい、いえ!ぼぼ、ぼうっとなど、してぇおりませぬぅっ!」
まずい、非常にまずい。
初対面でキョドった。
だが、そんな俺のことを見ても美少女騎士は全然気にしないようで、さらっと次のセリフである。
「お互い自己紹介がまだでしょうに。私はジュスティーナと申します。あなたは何とおっしゃるのですか?それと、その服装は今の流行なのでしょうか?」
さて、気を取り直そう。
おちつけ、クールになれ、相手は子供じゃないか、何テンパっているんだロリコン野郎。
俺のタイプはもっと大胆なセクシーボディだったじゃないか!
答えるのだ、天使ジュスティーナに。
「俺はフロリア王国軍歩兵隊所属のレオナードだ。この服装は流行じゃないぜ、ただのお仕着せの軍服だ」
おお、スムーズな言葉が出た。
心の中ではそう思ったが、ジュスティーナの顔を見るとベストアンサーではなかったと悟る。
しゃべり方からしてもそうだが、この子はやたらと品を気にしているようだった。
天使だからそうなのかわからないが、俺は敬語が苦手だからこのままの口調しかない。
「言葉遣いを改めていただくのは後にしまして…今は何年何月か教えていただけます?なにせ封印されてからとんでもなく長いことここにいるので年月も忘れてしまいました」
まぁ、封印されていたのならそうなるか。
それにしても、出会った瞬間力を解放して破壊神と化してしまうような天使ではなくてよかった。
「今日は世界暦5331年5月17日…」
続けて封印や天使について詳しく聞こうとしたが、年月日まで言ったところで言葉を遮られた。
「なんと!ということは…1、2、3、4…約500年もたってしまったのですか!」
驚きを隠せなかったジュスティーナは声を荒げた。
「500年…たしか天使が出現したぐらいの時代じゃないか」
そうだとすれば天使戦争の極めて初期段階で封印されたのだろう。天使がマルシア大陸をどう変えたのかも知らないだろう。
「そうなりますか?私が封印される前の人間は誰一人として生きていないでしょうね」
ジュスティーナは寂しそうにうつむいた。
…この状態ではその後の暗黒の歴史を語る気は起きなかった。
「昔の話はやめよう。ところで、今の状況だ。俺は人頭馬に追われていて隠れる場所がほしい」
本題をぶつけて昔のことを少し忘れさせようと思った。
「そうですね、まずあなたを隠せる場所に案内いたしましょう。こちらにいらしてください。指先を光らせることはできますか?」
さらっと問題発言その2。
魔法文明全盛期に封印されたのなら致し方ないが、今の人間でわずかなりとも魔法が使える人はごく少数で、当然ながら俺も魔法を使えない。
魔法が廃れなければ銃や大砲は生まれてこなかった。
「今時の人間は魔法が使えない」
「…魔法が当たり前ではないのですか、今は。では私が…」
ジュスティーナは暗闇のほうへ向き直ると、右手を突き出して「光れ」と短く言った。
すると地下のワインセラーの全貌が明らかになった。
自分の毛穴がはっきり見えるぐらい明るいのでまぶしいぐらいだ。
光の中にはワイン樽と平積みになったおびたただしい数の本、そしてジュスティーナの体に合わせて作られたであろう小さなベッド。
それと、わきには訓練用の人形に槍が突き刺さっているのが見えた。
「500年もこの部屋に?」
「そうです。私は何も食べなくても生きられます。退屈で発狂しなければあと500年またここにこもることもできたでしょう」
エクストリーム引きこもり天使、ジュスティーナは得意げに語る。
「私のつけた明かりは日没まで点きます。それまで私は外の様子を見ますので、ここで隠れていてください。それでは500年ぶりの外を楽しんでまいります」
満面の笑みだった。
神々しく、美しい。
この幼い顔に笑顔は反則であろう。
天使の微笑みが俺には部屋の明かりよりまぶしかった。
かつて唯一の神に逆らった天使たちは、神に敗北した。
その裁きのために、忌むべきそれらは地上へ降ろされた。
いわゆる堕天である。
慈悲深き神が堕天使らに残されたのはただ一つのお言葉であった。
「赦される一体が最後に残る」
それより500年。
堕天使たちは人間を利用し、人間に利用され、殺しあった。
堕天使との契約は人間に大きな力をもたらしたが、その力が平和を守るものになることはなかった。
高潔であった騎士たちは堕天使の力に酔いしれ、邪悪な人間の王らはその力でマルシア大陸を焼き尽くす堕天使戦争を始めた。
田畑は耕す者を失い、町は血みどろの舞台と化し、偉大な過去は山河の中に消えてしまった。
しかし、フロリア王国だけは在りし日のまま存在し続けている。
それは、500年もの長きにわたり災いをもたらしてきた堕天使を拒み続けてきたからにほかならず、堕天使の力と戦うために臣民が一丸となって王をお守りしてきたからである。
フィリップ・ロード『フロリア王国の年代記』
目の前に広がる庭園を見たとき、俺は真っ先に自分の生死を確認した。
ここは天国ではないのかと勘違いしたのだ。
見事に手入れされた垣根はつい先ほど剪定されたばかりのようだ。
甘い梅の香りはこの庭園の空気を穏やかに包む。
そして小鳥のさえずりは春の調べを奏でている。
今までの戦場と比べてまったくの異世界ではないか。
どこぞの宮殿の庭と言われてもおかしくない。
だが、俺は天国ではないと思いなおす。
仲間を捨てて逃げ出した俺に天国が待っているはずがない。
あるなら身の毛もよだつ地獄が待っていることに間違いないからだ。
それに、ちゃんと息もして、息切れしているし、心臓はバクバクなっている。
庭の奥に見える建物はボロボロで、手入れされた庭とは対照的だった。
天国でないとしたら…
「ここは、いったい…」
何なのだろうか。
大昔に放棄された修道院と最初に思い浮かんだが、そうなら庭も荒れ放題のはずだ。
庭だけ手入れするとしても、あの建物はなぜつかわれていないのか。
…とにかく人がいるか探さなければ。
ここへ来たのは人頭馬から逃げおおせるためだ。
建物がぼろくても庭がきれいなら誰かがいるはず、来ているはずだ。
誰かいないか!と大声で探したいところだが、あいにく敵に気づかれたくないので、口を閉じて歩き出した。
で、数歩も歩かないうちに声が聞こえた。
「この庭にご用でしょうか?」
背後、いや水中で聞いた音のようにどこからか判別の付かない方向か。
しわがれているのか、それともあどけなさが残るというのか、年齢も判別できない女性の声が聞こえた。
とにかく、謎の残る声で、わかったのは声は女性のものだということと、普通の音の通過過程を経ていないものだということだ。
声帯、口、空気、鼓膜、どれも通っていないと思われた。
なぜなら、一番近いと思った声質は耳をふさいで発した自分の声だからだ。
幻聴かもしれないが、その時はそんなこと思いもよらなかった。
「だ、誰だ!?」
こんな声をいきなり聴いてビビらないわけがない。
普通に後ろから声をかけてくる分にはいいが、魔法声というのか、いきなり聞いたらビビる。
鼓膜が破れた人のための魔法で、直接耳も介さずに音を聞かせる技術が昔あったらしいが、そんなものだろうか。
大半の魔法技術は500年前から消滅し続けているが、残っている魔法でそれぐらいのことはできるはずだ。
特にわがフロリア王国は魔法技術の保存状態がよい国だ。
「お口の利き方がよろしくないですよ。ちゃんとおっしゃいなさい」
言葉はいたって丁寧だが、しゃべり方は怒っていたというか、いら立っているようだった。
俺の言葉遣いで嫌悪感を示すのだから、位の高い人なのだろうとは思う。
それにしても魔法で会話する人なんていまどき見たことがない。
しゃべり方もどことなく古い。
あぁ、そうか。
魔女が声を変えている可能性があるかも。
「わかったぞ。お前は魔女だな」
「お前…。何て呼び方。それに、私は魔女ではありません。それよりもまず、何のご用かお聞きしましたのよ」
俺のノリはそんなに受け入れられないものだろうか…
逃げた先にいたのがこんなわからずやだとはがっかりだ。
だが、冷静に今の状況を考えるとそんなことしている場合ではなかったはずだ。
俺は命の危険が迫っている人間なわけでこの庭から出るわけにはいかない。
少なくとも壁に囲まれたここは安全地帯ではなかろうか。
ここにいさせてもらうしかないのだ。
サミュエルを捨ててしまったのもこうして生き残るためなのだ。
「分かった。用を言う。…ここにしばらくいさせてくれ、敵に追われているんだ」
「敵?よくわかりませんけれども…。それでは、この修道院の地下に来ていただけますか?」
「わかった。そうさせてもらう」
軽く承諾はしたものの、ぼろぼろに見えた建物に入ってまず驚いた。
屋根や上階の床が落ちていたのだ。
おかげで一階部分は日差しが入り、草がぼうぼう。
ステンドグラスも粉々に飛び散り、風化が進んでいた。
ただし、建物自体は頑丈だったようで、壁など石造りのところはよく残っている。
地下へ続く道は、床が草に覆われていてどこかわからない。
「おい、ここは廃墟じゃないか!」
よくもまぁここを修道院といえたんものだ。
「…そこまで荒れているのでしょうか?と言っても長いこと修道院を外から見ていないのでわかりませんが」
「荒れ放題じゃないか。床も天井もないぞ。こんなところによく住んでいるな」
「そんなことと関係ないですよ。だって、私は天使ですから」
へ?
さらりとすごいことを聞いた。
天使、500年前にマルシア大陸に出現した災いのもとである。
500年前突然現れて殺し合いをはじめ、人間を巻き込んで天使戦争が起こった。
当時の惨劇は筆舌に尽くしがたく、大陸全人口の半分以上が失われたともいわれている。
それからの350年は正真正銘の暗黒時代で、魔法文明は完全に崩壊。
フロリア王国は当時にしては辺境地帯にあったため、その惨禍から多少は免れたが、他国は魔法強化なしの鉄器で殴り合いの戦争が続いた。
フロリア王国にしても残された魔法はマルシア中央諸国のものと比べれば初歩の初歩までだった。
要するに天使さえいなければまだ魔法文明が続き、人間の繁栄は続いただろうということだ。
天使の強大さゆえにフロリア王国はその存在を拒み、辺境の地に引きこもってひたすら守りに徹していたと伝えられている。
とはいってもほとんどの歴史書は消失しているので何がどこからどこまで正しいのかいまいちわからない。
現行のフロリア国王勅令は天使の永久追放を定めている。
「天使ならフロリア王国では追放処分だ。第一、天使なら自分で封印ぐらい破ったりしないのか?」
「この封印の半分は私自身の手によるものです。フロリア王国とやらでの追放処分については知りませんね。追放できるものならしてみるといいでしょう。それより、早く地下へ来ていただけませんか?」
「…地下にはいくが、封印を解くかは考えさせてもらう」
天使だとすれば恐ろしいものだ。
その力があればメディオスの人頭馬を倒せるかもしれないが、その代償が祖国フロリアや、魔法から転換した今の文明の崩壊ならたまったものではない。
ただし、俺が助けを必要としていることも事実なので、代償云々の問題ではないかもしれない。
そもそも、自分が助かるためならパニック状態だったとはいえ、仲間を置いて行ってしまうクズが俺だ。
人頭馬の足音が聞こえたらすぐにでも開けてしまうだろう。
とりあえず、地下への道はどこだ。
一階部分?を探索すること数分、ようやくそれらしき穴を見つけた。
入口は草に覆われ、見えにくかったが、人ひとりが入れる大きさの穴があった。
たいていの修道院には地下にワインセラーがある。
その入口と考えれば妥当な大きさだ。
その下へ進むと、ワインセラーらしき入り口だ。
木戸があり、それには文章がびっしり筆記体で書いてあった。
まがまがしくてぎょっとした。
かすれているところが多く、文章としても読めない。
フロリア語の文字のように見えるが言葉が違うらしいく、よく残っている箇所でさえ読めない。
「この…扉でいいのか?」
魔法は今となってはすたれたが、古ければそんなことは関係ない。
修道院が朽ちてなおも天使を封印し続ける木戸が俺に選択を迫った。
開けるか開けないか。
「表面に文字がびっしり書かれているのならそうです。さぁ、早く開けてください。ひさしぶりの外の空気を吸いたいです」
奥の天使、まだ確実にそうと決まったわけでゃないが、それは俺の頭の中に声をまた送り出した。
開ける?開けない?開ける?開けない?開ける?開けない?開ける?開けない?
…しばらく目を閉じて息を整えた。
扉の上に手の平を当てる。
考えてみれば、選択肢は一つだった。
仲間を見捨てたのは自分が助かるため。
これ以上の恥をかくならばとことん恥をかいてやる。
腕に力を籠め、一気に前へ押す。
「開けた…」
扉が勢い余って壁に当たり、大きな音を立てた。
扉を抜けた先は真っ暗闇だった。
その奥から来るものはまず冷たい風、そして音だった。
チャリチャリと金属の擦れ合う音が近づいてくる。
どうやら奥からくるそれは多くの金属をまとっているようで、音がたくさんする。
石壁に反響しているせいで、金属をまとっているのはいくつの何なのかはっきりわからない。
石壁の放つ冷気は冬のままらしい。
軍服の上着にさらにコートがほしかった。
チャリチャリ音はしばらくして止まった。
「こ、ここでは姿が見えない。日の当たるところに来てもらえないか」
「そうですね、それがよいでしょうね」
今度の声は魔法のような音ではなかった。
鼓膜が揺れる、人の声だった。
女性の声で、あどけない質だ。
一方で口調にあどけなさは、相変わらず微塵も感じられなかった。
声はおそらく10歳程度だが、しゃべり方が異常に大人びていて、不気味さを感じざるを得ない。
姿はいかに?
金属の擦れる音は再び近づいてきた。
日差しが届くところまで奥からの何かかがきてまず見えたものは、鎖帷子に覆われた足だ。
今時、こんなもの着る人はいない。
鎖帷子はつい100年位前まではプレートメイルの下に着られていたが、こうもむき出しにするとなると300や400年前の装備だ。
青いサーコートの間に見えたひざ上もプレート部分がなく、すべて鎖。
ひざ部分は俺の膝と比較して低い位置にあり、あどけない質の声に見合っていた。
足自体は太く見えたが、それは中に詰めた緩衝材となる衣服が厚いせいだ。
おそらくそのズボンの中身はそこまで太くはない。
「子供…鎖帷子…?」
鎖帷子を着た少女…はたまた女児は俺の18年の人生中見たことがあるのはただ一度きり、今である。
あまりの異様さにフロリア語の文法を忘れ、単語しか発することができなかった。
「何をおっしゃっているのかよくわかりませんね。質問ならしかるべき尋ね方があるでしょう?まぁ、それよりも私の封印を解いてくださったことに感謝いたします」
天使もとい少女騎士の下げた頭が日向に入った。
鎖帷子の頭巾はしておらず、濃いブロンズで茶より薄い髪が見えた。
長くまっすぐに伸びている。
天使のわっか、ニンブスは見えず、背中に羽も生えていないようだった。
少女が一歩進むと同時に顔を上げると、絶世の美女予備軍が現れた。
磁器のように白い肌だが、中に熱い紅茶でも入っているように、血の赤が透けて見える。
人形とすればこの上なく美しい部類だ。
目は釣り目気味だが、そこは気位の高さが垣間見えるので問題ない。
そして鎖帷子越しに見ているが、成長が期待されるふくらみは腹部の上鎖骨の下…
「何をぼうっとしていらっしゃるのですか?」
うわ!と驚くのはそんな美少女に声をかけられたことなど一度もなかったからである。
「いいいい、いえ!ぼぼ、ぼうっとなど、してぇおりませぬぅっ!」
まずい、非常にまずい。
初対面でキョドった。
だが、そんな俺のことを見ても美少女騎士は全然気にしないようで、さらっと次のセリフである。
「お互い自己紹介がまだでしょうに。私はジュスティーナと申します。あなたは何とおっしゃるのですか?それと、その服装は今の流行なのでしょうか?」
さて、気を取り直そう。
おちつけ、クールになれ、相手は子供じゃないか、何テンパっているんだロリコン野郎。
俺のタイプはもっと大胆なセクシーボディだったじゃないか!
答えるのだ、天使ジュスティーナに。
「俺はフロリア王国軍歩兵隊所属のレオナードだ。この服装は流行じゃないぜ、ただのお仕着せの軍服だ」
おお、スムーズな言葉が出た。
心の中ではそう思ったが、ジュスティーナの顔を見るとベストアンサーではなかったと悟る。
しゃべり方からしてもそうだが、この子はやたらと品を気にしているようだった。
天使だからそうなのかわからないが、俺は敬語が苦手だからこのままの口調しかない。
「言葉遣いを改めていただくのは後にしまして…今は何年何月か教えていただけます?なにせ封印されてからとんでもなく長いことここにいるので年月も忘れてしまいました」
まぁ、封印されていたのならそうなるか。
それにしても、出会った瞬間力を解放して破壊神と化してしまうような天使ではなくてよかった。
「今日は世界暦5331年5月17日…」
続けて封印や天使について詳しく聞こうとしたが、年月日まで言ったところで言葉を遮られた。
「なんと!ということは…1、2、3、4…約500年もたってしまったのですか!」
驚きを隠せなかったジュスティーナは声を荒げた。
「500年…たしか天使が出現したぐらいの時代じゃないか」
そうだとすれば天使戦争の極めて初期段階で封印されたのだろう。天使がマルシア大陸をどう変えたのかも知らないだろう。
「そうなりますか?私が封印される前の人間は誰一人として生きていないでしょうね」
ジュスティーナは寂しそうにうつむいた。
…この状態ではその後の暗黒の歴史を語る気は起きなかった。
「昔の話はやめよう。ところで、今の状況だ。俺は人頭馬に追われていて隠れる場所がほしい」
本題をぶつけて昔のことを少し忘れさせようと思った。
「そうですね、まずあなたを隠せる場所に案内いたしましょう。こちらにいらしてください。指先を光らせることはできますか?」
さらっと問題発言その2。
魔法文明全盛期に封印されたのなら致し方ないが、今の人間でわずかなりとも魔法が使える人はごく少数で、当然ながら俺も魔法を使えない。
魔法が廃れなければ銃や大砲は生まれてこなかった。
「今時の人間は魔法が使えない」
「…魔法が当たり前ではないのですか、今は。では私が…」
ジュスティーナは暗闇のほうへ向き直ると、右手を突き出して「光れ」と短く言った。
すると地下のワインセラーの全貌が明らかになった。
自分の毛穴がはっきり見えるぐらい明るいのでまぶしいぐらいだ。
光の中にはワイン樽と平積みになったおびたただしい数の本、そしてジュスティーナの体に合わせて作られたであろう小さなベッド。
それと、わきには訓練用の人形に槍が突き刺さっているのが見えた。
「500年もこの部屋に?」
「そうです。私は何も食べなくても生きられます。退屈で発狂しなければあと500年またここにこもることもできたでしょう」
エクストリーム引きこもり天使、ジュスティーナは得意げに語る。
「私のつけた明かりは日没まで点きます。それまで私は外の様子を見ますので、ここで隠れていてください。それでは500年ぶりの外を楽しんでまいります」
満面の笑みだった。
神々しく、美しい。
この幼い顔に笑顔は反則であろう。
天使の微笑みが俺には部屋の明かりよりまぶしかった。
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