【証拠はいらない】ただそこに、いてくれれば

Wataru

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【証拠はいらない】ただそこに、いてくれれば

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相談者は、七十代の女性だった。

背筋は伸びている。
声も落ち着いている。
けれど、椅子に座ってから、一度も視線が定まらなかった。

「犬を、亡くしました」

「ああ」

それだけ返す。

「もう、二年になります」

「長いな」

「はい」

少し笑う。

「でも」
「昨日のことみたいでもあります」

沈黙。

「今日は、何を?」

彼女は、はっきり言った。

「もう、飼わないと決めたのに」
「それで、いいのか」
「分からなくなって」

「誰かに言われたか」

「いいえ」

即答。

「誰にも」
「何も言われていません」

「じゃあ」

少し間を置く。

「自分で、自分を責めてる」

彼女は、視線を落とした。

「犬がいない家が」
「空っぽで」
「息ができない感じがするんです」

「一人か」

「はい」

「ご主人は」

「先に、亡くなりました」

それで、話は終わった。

「犬と、二人でした」

静かだった。

「新しい犬は?」

「考えました」

「でも」

彼女は、首を振る。

「また失うと思うと」
「怖くて」

「年齢?」

「それもあります」

「世話が、できなくなるかもしれない」

「だから」

彼女は、少し迷ってから言った。

「ぬいぐるみを、作りました」

「ぬいぐるみ」

「そっくりに」
「毛並みも」
「大きさも」

「高かった?」

「二十万くらい」

「置き場所は」

彼女は、少しだけ目を上げた。

「ソファの上です」

「いつも、そこにいたから」

「話しかける?」

「いいえ」

「抱く?」

「いいえ」

「じゃあ」

俺は、ゆっくり言った。

「何のためだ」

彼女は、しばらく考えてから答えた。

「……そこに、いてくれればいいんです」

「それだけ?」

「それだけです」

沈黙。

「消したくなかったんですね」

「……はい」

「いた、という事実を」

彼女は、静かに頷いた。

「犬はな」

「家族だとか」
「癒しだとか」
「そういう言葉じゃ足りない」

彼女は、黙って聞いている。

「一緒に生きてた」
「ただ、それだけだ」

彼女の目が、少し潤む。

「飼わない選択も」
「飼う選択も」
「どっちが正しいかなんて、ない」

「……でも」

「苦しいだろ」

即答だった。

「はい」

「飼わないほうが」
「時間は、余る」

「考える時間も」

彼女は、ゆっくり頷いた。

「新しい犬がいれば」
「忙しくて」
「悲しむ暇も、減る」

「だから、楽になる」

「……そう思います」

「でも」

俺は、続ける。

「それを選ばなかったのは」
「逃げじゃない」

「……え?」

「ちゃんと」
「その悲しみを」
「引き受けてる」

彼女の肩が、少し震えた。

「会いたいです」

小さな声だった。

「今でも」

「だろうな」

「だから、ぬいぐるみを」

「それでいい」

彼女が、顔を上げる。

「いいんですか」

「ああ」

「生き物の代わりじゃない」
「場所を、残しただけだ」

「そこに」
「いてくれればいい」

彼女は、長く息を吐いた。

「……証拠、いりませんでしたね」

「ああ」

「正解も?」

「ない」

「ただ」

少し間を置く。

「愛してた」
「それだけだ」

彼女は、深く頭を下げた。

「もう」
「無理に、前に進まなくていい」

「このままで?」

「このままで」

ドアが閉まる。

相棒が、ぽつりと言った。

「亡くなっても、今もそこにいるよね」

「ああ」

静けさ。

失ったから、苦しいんじゃない。
大切だったから、苦しい。

それが分かっているなら――
証拠はいらない。
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