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第一章 キーランドと薬術院の君7
しおりを挟むそれまで黙っていたキールが、冷静な声でリシュに告げた。
「リシュ殿。当館では、いわゆる研修とか指導とか、そうしたことは行っていません。もちろん、お客様の満足度の確認や、男子の行為についてのチェックはしますが」
「そ……そんなことで、成り立つのか? あんな仕事が?」
「私たちハルピュイアの男子は、研修を受けて技術を身に着けたのではありません。それぞれに思うところがあり、それぞれに一度ずつのお客様と向き合い、そうして成長していったのです。最もルリエルとのつき合いの長い私でさえ、彼女の前で下着姿になったこともありません」
私の、リシュをつかんでいる両手が、わなわなと震える。
「あ、あ、当たり前でしょ! き、キールが……ダンテやみんなが、私に、そんなこと……そんなことおおお!」
「ルリエル、できれば、そんなにぎゅっと瞼を閉じないで、目を開けてください。進行方向がずれています」
「だ、だって、リシュが……リシュが、なんかもう破廉恥なことを!」
「う、うわああ、手! ルリエル、手の力が抜けてる! おれが悪かった、もう言わない! すみませんでした! ルリエルはそんなことしない! だから、放さないでくれッ!」
空中散歩(というかダッシュ)は、二十分ほどで終わった。
「生き……てる……」
空地の下草に下ろされたリシュが、自分の両手のひらを見下ろしながら呟いていた。
前方百メートルくらいのところに、レンガ造りの、二階建ての建物が見える。上から見るとロの字型をしていて、中庭があるのだろうと思われた。
ハルピュイアよりは、立地的にヴァルジの中枢に近いけど、かといって民家が近くにあるわけでもない。周囲は、なだらかな丘陵地で、大きくはないものの牧場になっているらしい。
典型的な、小規模貴族の屋敷だった。
「あそこが、マリューシーさんの家ね、キール」
「ええ。早速、始めますか」
リシュが、ぽつぽつと明かりを灯した屋敷のほうへ、手のひらをひさしのようにかざした。
夜なのであまり意味はないと思ったけど、癖みたいなものなのだろう。
私のほうも、もう、癖みたいなものだ。魔力を発動させる。魔素を集めて、威力よりは距離が出せるように空中で編成し、魔力で炎の属性を持たせるよう編成する。
「爆ぜろ、――」
「え?」
ふい、とこちらを見たリシュの顔の、遥か向こうで。
「――爆炎よッ!」
ずどおん、と屋敷の壁の一角が、眩しく炎上した。
レンガは砕け落ちて、屋敷の内部が露出している。よしよし、上出来。
「なっ!? なんで!?」
ぶんぶんと首を振って私と屋敷を見比べているリシュをよそに、キールはすでに抜刀している。
十字架を模したロングソードが、鈍く、白く、光をまとっていた。
この世界の剣士は、一定以上の腕前になると、ただ剣術が達者なだけではなくて、法術や魔術を併用するのが当たり前になる。
そうでないと、ただの剣じゃ魔獣となんて到底勝負にならないからだ。
「リシュ殿、なぜと問われるのか。これ以上接近して魔道を放てば、すぐに屋敷内から応戦される恐れがあります。特にボウガンの類は、ルリエルとて危険でしょう。もっとも、矢ぐらいならば、二三十本飛んできたところで、私が叩き落せますが」
「だ、誰が戦術的意義を訊いたんだよ!? おれが驚いてるのは、」
「この距離であれだけの威力が出せることですね? 確かにルリエルはけた外れの魔道士です、私もこんな芸当は見たことがなく、チェルシーズの魔法部隊でさえ――」
「違あああうっ!」
「あ。キール、出てきた」
楽しそうにやっているリシュたちには悪かったけれど、壊れたレンガ壁の奥から、わらわらと人が出てきたのだ。
遠目にも、全員武装しているのが分かる。
このくらいの備えは、珍しいことじゃなかった。
特に――悪事を働いている貴族なら。
「二十人、くらいでしょうか」
「そうね。こっちを見つけていない、しかも固まってくれてる今がチャンス!」
そして再び、魔素の構成と錬成。
「な、なあ、二人とも……」
「逆巻け、――」
「頼むから、説明を……」
「――渦炎よ!」
ぎゅばばば……という独特の音を立てて、横倒しにした竜巻のような、渦を巻く炎の帯が、用心棒たち――だろう、多分――へと襲いかかる。
「ぎゃあああっ!?」「ま、魔法!?」といった悲鳴の後に、着弾の音が響いた。
屋敷のレンガが、あとついでに粗暴そうな男たちが、改めて吹っ飛ぶ。
私は舌なめずりをして、炎上する屋敷を眺めた。
「くっくっく……手ごたえありね。私お気に入りなんだ、今の魔道……フッ!」
「完全に悪役だ……」
「ルリエル、真打が出てきそうです。大駒が三人ほどいるようですね。私が行きますか?」
キールの、剣士としての勘は、抜刀して臨戦態勢になると、剣にかけられた法術の効果もあってなお研ぎ澄まされる。私がこの力に助けられたことは、一度や二度じゃなかった。
「ううん、もうひと超え、敵の戦力をそいでからにしよう。この状況でもったいぶって出てくるなら、敵の切り札的な人たちなんでしょうね。腕が鳴るわあ」
「こんなところから一方的に狙撃して、そんな得意げになられても」
リシュが耳の痛いことを言った気がしたので、戦術的理由から無視し、私は次の魔道を準備した。
「穿て、――」
「向こうだ! あの丘のほうから炎が飛んできた!」と用心棒たちの声が聞こえる中。
「紫焔よッ!」
私が突き出した右手のひらから、紫色の炎でできた、野太い矢が飛び出した。
全部で五本、次々に射出された矢は、それぞれに独自の軌道を描きながら、目標を撃ち抜く。
手加減した三発が、弧を描いて、敵の切り札(仮)三人のみぞおちを突いた。声もなく、三人は崩れ落ちる。もう、しばらくは立てないだろう。
手加減なしの二発は、半壊状態の屋敷の壁に二つの風穴を空ける。
二種類のダメージは、私が想定していたより、こちらとあちらの戦力差を雄弁に語ったようだった。
みるみるうちに、前方から伝わってくる殺気が萎えていく。
「……ルリエル、私、ついてきた意味がありましたか?」
「え、それはあるよ。一人と二人じゃ、できることが全然違うんだから。それにこれで私だけ出ていったら、すっごく暴力的な魔道士が殴り込みかけてきただけみたいでしょ。正義はこちらにありっていう、説得力がないと」
「どう取り繕おうと、やってることは、暴力的な殴り込みにほかならない気がするが」と、リシュがまた、聞きたくない話をしていた。
私とキールは、マスクをして、屋敷へと歩き出す。リシュにはマントを羽織ってもらった。一応、顔を隠しておくに越したことはないだろう。
徒歩だと屋敷に到着するのに数分かかったけれど、その間の時間はなんとなく間抜けだった。
ようやく、煙を上げている屋敷に到着し、もんどりうって転がっている男たちに、私はびしりと人差し指を突きつけて――品がないのであまりやりたくないけど、迫力重視で――言い放つ。
「ここの主人の、ビロウサー・シモンズを出しなさい! 言っとくけど、裏から逃げたとか、今日は留守とか、そういうしょーもない言い逃れはしないよーに!」
すると、瓦礫に足を取られかけながら、屋敷の壁の破れ目からよろよろと、中年の男性が現れた。
ナイトガウンを着て、顔は赤らんでいる。お酒を飲んでいたのかもしれない。
「な、なんなんだ。お前たちは何者だ。わしが誰だか知っての狼藉――」
キールがずいと進み出る。
「むろん承知の上だ。ビロウサー・シモンズ。薬術院の主査にあって、その地位を利用し、研究員の女性を我欲によって辱めたな。これは天罰と思え」
「なっ……」
シモンズの顔色が変わる。
リシュが、そっと私に耳打ちで訊いてきた。
「なに今の。本当なのか?」
「本当よ。トリスタンがここのところ留守にしてたでしょ。彼の魔術を駆使した調査で、完璧に裏は取れてるのよ」
「あの根暗……いや大人しそうなやつが、そんなことを……」
「その手のことやらせたら、トリスタンの右に出る者はいないと思うわ。ふっ、それにしても、キールの騎士口調は効果覿面ねっ。主人の私が口上を述べるより、軽く十倍近い圧力があるわ!」
「いいのかそれで……?」とリシュが半眼になる。
「あっ」
私は、右上方に目を向けた。そちらから、攻撃的な気配が放たれている。
そこには、夜空を背景にして、物見櫓が建っていた。地上五メートルほどの位置にあるてっぺんに、人影は、見えたような見えないような――でも、いる。
「キール、」
「はい」
物見櫓の上から、矢が飛んできた。続けざまに三本。クロスボウだろう。
キールが、白く光るロングソードを閃かせて、それを叩き落とす。
私が魔道を放って、とりあえず物見櫓は爆砕しておいた。
シモンズが叫ぶ。
「お、お前たちも撃て! ボウガンを持ってるやつは、あの男を狙い撃ちしろ!」
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