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でも、さらにもっと速く、男の子の足が動いた。
「遅いぜ、猩猩!」
下から突き上げられた足が、まるでサッカーボールを蹴り返すみたいに、オランウータンに激突する。
ばごおっ!
オランウータンが、なにか、叫んでたような気がする。
でもそれを聞き取る間もなく、その大きな体は、暗闇の中に吹っ飛んでいった。
「よし。これでしばらく戻ってこないだろう。君、どのあたりから来た? だいたいの方角が分かれば、帰してあげられるんだが」
「あ、え、えっと……こっちのほう、だと思います」
男の子は、私に手を差し出して、助け起こしてくれた。
ありがとうございます、と言いながら、そういえば中学に入ってから男子の手を握ったのは初めてだな、なんて思っちゃった。
男の子は全身黒ずくめの格好で、シャツも、ズボンも、靴まで真っ黒。
でも不思議なことに、全然周りの暗さに溶け込んでしまってなくて、どんなに離れても見つけられそうに思えた。
私たちは、二人で、私のカンを頼りに歩き出す。
男の子のほうが、先に立って歩いてくれた。
うう、全然違う方向だったらどうしよう。
「あの……」
「ん?」
「聞いてもいいですか? さっきのオラン……しょうじょう? とか、あの光る小さいクジラとかって、なんなんですか……?」
「お。もしかして、見たのは初めてか? 光るクジラは、スミレワタリという。でっかいサルのほうは、猩猩というあやかしだ。どちらも、この世ならざるものだ。おれと同じだな。ただ、時々、そうしたものが見えてしまう人間がいる。君がそうだったっていうことだな」
「この世……ならざるもの……」
そ、それってつまり、妖怪とか、お化けとか、そういうもの!?
でも確かに、あの猩猩っていうのは、作り物には見えなかったし……
いわゆる、霊感ってやつなのかな。
そういうの自分にもあるといいな、と思ったことはあるけど、あんなのが見えてもあんまりうれしくないな……。
あれ?
私は、ぎくしゃくしながら、首を男の子に向ける。
「……今、なんて言いましたっけ」
「ん? 君には、この世ならざるものが見える」
「い、いえ、その、おれと同じとか、なんとか」
「ああ。当然、おれも『この世ならざるもの』だ。でなきゃ、大猩猩なんて蹴り飛ばせるわけがないだろ」
私の足が、ぴたっと止まった。
だ、――
「お? どうした?」
――大丈夫? この人についていって……
心臓がばくばくと鳴り出す。
歩いている方向は私が言った通りのほうだけど、こんなに暗くちゃ、その先に本当に自転車があるかどうかなんて分からない。
カバンを、思わず、胸にぎゅっと抱きしめた。
「あ、おい。あとずさったりするなよ。危ないから――」
彼が私に手を伸ばした時、……さっきは頼りがいがあってうれしかったのに、今度は怖くてびくっと体が震える。
その時。
「ガアアアアア!」
いきなりとんでもない音が、あたりに響き渡った。
「きゃあっ!?」
「お、なんだお前。今ごろ出てきて」
ばさっ、ばさっ、と鳥の羽音が聞こえる。
こ、今度はなに!?
男の子が見ているほうに目を向けると、そこには。
「か、カラス……ですか?」
疑問形になったのは、そこに降り立っていた鳥は確かにカラスの形をしていたんだけど、明らかに異常に大きかったから。子犬くらいの大きさがある。
時々、カラスが人の肩に乗ってきたっていう話を聞くけど、こんなのが肩に乗ったら首を思いっきり逆方向に曲げなくちゃいけないと思う。
男の子が、答えてきた。
「そう、カラスだよ。とはいえおれの仲間だ。タイアといって――大鴉と書いて、そう読む」
た、大鴉……。確かに大きい。
こんなに大きい鳥、こんなに近くで初めて見た。
て、ていうか、仲間?
「ちょうどいい、大鴉、お前少し先に行ってこの子の自転車あるか見て来いよ。……ああ? 怖がられてる? なに言ってるんだ、おれはこの子を助けたばかりだぞ。なあ?」
そう聞かれて、私はこくこくと首を縦に振った。
と、とても「でも今はちょっと怖いです」とは言えない……。
すると、カラスが、「ガーッ」って鳴いて、くいっと首を奥のほうへ振った。
「おお、本当だ。ほら、君、あれ君の自転車だろ? あれにのって、ここまで来たんだよな?」
そう言われて目を凝らすと、――
あった!
見慣れた、赤い色の、カゴの角がちょっとへっこんだ、私の自転車だ!
「あ、あれです! そうです、あれ私のです!」
二人と一羽で、自転車に駆け寄る。
ハンドルとサドルに手を置いて、私は、はああああっと大きなため息をついた。
その横の車道を、トラックが通り過ぎていく。
「あ、あれっ? 車? ずっと通らなかったのに……? あ、あとなんか明るい? 普通の夜みたいに……」
私の自転車は歩道のわきの土の上にあって、もうすぐそこが、通いなれた県道だった。
振り返ると、スミレワタリはもちろん、あの真っ暗な空間はどこにもない。暗くても、それなりに夜目がきいて、見慣れた林があたりに広がってるのが見える。
「無事の帰還、おめでとう」
私の後ろに立った男の子が、くすくすと笑ってる。
カラスも、がごーと低く鳴いた。
「あ、あのっ。ありがとうございますっ! ご、ごめんなさいっ!」
「ん? ありがとうは分かるが、ごめんというのは?」
し、しまった。つい口から出ちゃった。余計だったよね。
「わ、私、実は、ちょっと怖かったっていうか……あの猩猩の仲間みたいなこと言ったじゃないですか、それで……う、疑っちゃったっていうか、頭をよぎっただけなんですけど……」
「……仲間だ? ああ、同じだ、みたいな言い方したか。それは悪かったな。不正確だった。おれは、君になにも悪いことをする気はない」
ひええええ。
こんなの、いい気がするわけがないよね。
私は、ばっと音がするくらいの勢いで、頭を下げる。
「ご、ごめんなさい、本当に! ありがとうございました……!」
「悪気がないことに、謝る必要はねえよ。感謝のほうは、ありがたく受け取っておく。これからは気をつけてな。君の場合、スミレワタリが見えたら、そこが此岸と彼岸の境目だ。ゆめゆめ、渡るもんじゃないぜ」
スミレワタリ。
きれいだったけど、……もうあまり、見たくはないかも……。
「それじゃあな。行くぞ、大鴉」
「がー」
彼らは、そう言って背中を向けかけた。
その時の男の子の横顔が、本当に絵みたいにきれいで、私の視線はそこに吸い込まれる。
行っちゃう。
私の足が、勝手に一歩踏み出した。
「あ、あのっ!」
「ん?」
「私、来栖凛といいますっ! この先の八木丘中学校の、二年生です! お、お名前、教えていただけないでしょうかっ!」
「来栖……? 君、クルスっていう姓なのか?」
「え、は、はい。なにか、変ですか……?」
男の子は、笑って首を横に振った。
「いいや、変ではないけどな。いい名前だよ、上も下も。ただ、おれには少しおっかない姓だと思ったってだけだ」
おっかない……? 来栖が? どうして?
ちょっと、不思議には思ったけれど。
「おれは、ツクヨミという。月詠――月を言葉が泳ぐと書いて、そう読む。ま、縁があったらまた会おうぜ」
その名前のほうが、頭の中にすどんと入ってきて、ほかのことは気にならなくなっちゃった。
月詠さんと、大鴉は、そうしてふっと闇の中に消えた。
私はしばらくそこにぼうっと立ってから、慌てて自転車にまたがった。
ペダルをこいで、今度こそ家に向かう。
今起きたことを、頭の中で何度も繰り返し考えた。
この世ならざるもの。
私には、それが見える。
でも、危ない目にも遭う。
でも――怖いことばっかりじゃ、ないかもしれない。
家には、そのあと、すぐに着いた。五階建てアパートの三階なので、自転車を共用の駐輪場所に停める。
いつもより、三十分くらい遅い帰宅になった。
ちょっと遅くなっちゃったことの言い訳を、頭の中でぐるぐると考える。
正直に話して、信じてもらえるとは思えないし。
でも下手な嘘をついて、学校に確認されても困るし……
そうして、エレベーターを降りて、家のドアを開けた時。
「あー!!」
私は大声を上げた。
なんだか、やけに体が軽いなと思ったら。
「カバン! カバンがない……!」
■
「遅いぜ、猩猩!」
下から突き上げられた足が、まるでサッカーボールを蹴り返すみたいに、オランウータンに激突する。
ばごおっ!
オランウータンが、なにか、叫んでたような気がする。
でもそれを聞き取る間もなく、その大きな体は、暗闇の中に吹っ飛んでいった。
「よし。これでしばらく戻ってこないだろう。君、どのあたりから来た? だいたいの方角が分かれば、帰してあげられるんだが」
「あ、え、えっと……こっちのほう、だと思います」
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ありがとうございます、と言いながら、そういえば中学に入ってから男子の手を握ったのは初めてだな、なんて思っちゃった。
男の子は全身黒ずくめの格好で、シャツも、ズボンも、靴まで真っ黒。
でも不思議なことに、全然周りの暗さに溶け込んでしまってなくて、どんなに離れても見つけられそうに思えた。
私たちは、二人で、私のカンを頼りに歩き出す。
男の子のほうが、先に立って歩いてくれた。
うう、全然違う方向だったらどうしよう。
「あの……」
「ん?」
「聞いてもいいですか? さっきのオラン……しょうじょう? とか、あの光る小さいクジラとかって、なんなんですか……?」
「お。もしかして、見たのは初めてか? 光るクジラは、スミレワタリという。でっかいサルのほうは、猩猩というあやかしだ。どちらも、この世ならざるものだ。おれと同じだな。ただ、時々、そうしたものが見えてしまう人間がいる。君がそうだったっていうことだな」
「この世……ならざるもの……」
そ、それってつまり、妖怪とか、お化けとか、そういうもの!?
でも確かに、あの猩猩っていうのは、作り物には見えなかったし……
いわゆる、霊感ってやつなのかな。
そういうの自分にもあるといいな、と思ったことはあるけど、あんなのが見えてもあんまりうれしくないな……。
あれ?
私は、ぎくしゃくしながら、首を男の子に向ける。
「……今、なんて言いましたっけ」
「ん? 君には、この世ならざるものが見える」
「い、いえ、その、おれと同じとか、なんとか」
「ああ。当然、おれも『この世ならざるもの』だ。でなきゃ、大猩猩なんて蹴り飛ばせるわけがないだろ」
私の足が、ぴたっと止まった。
だ、――
「お? どうした?」
――大丈夫? この人についていって……
心臓がばくばくと鳴り出す。
歩いている方向は私が言った通りのほうだけど、こんなに暗くちゃ、その先に本当に自転車があるかどうかなんて分からない。
カバンを、思わず、胸にぎゅっと抱きしめた。
「あ、おい。あとずさったりするなよ。危ないから――」
彼が私に手を伸ばした時、……さっきは頼りがいがあってうれしかったのに、今度は怖くてびくっと体が震える。
その時。
「ガアアアアア!」
いきなりとんでもない音が、あたりに響き渡った。
「きゃあっ!?」
「お、なんだお前。今ごろ出てきて」
ばさっ、ばさっ、と鳥の羽音が聞こえる。
こ、今度はなに!?
男の子が見ているほうに目を向けると、そこには。
「か、カラス……ですか?」
疑問形になったのは、そこに降り立っていた鳥は確かにカラスの形をしていたんだけど、明らかに異常に大きかったから。子犬くらいの大きさがある。
時々、カラスが人の肩に乗ってきたっていう話を聞くけど、こんなのが肩に乗ったら首を思いっきり逆方向に曲げなくちゃいけないと思う。
男の子が、答えてきた。
「そう、カラスだよ。とはいえおれの仲間だ。タイアといって――大鴉と書いて、そう読む」
た、大鴉……。確かに大きい。
こんなに大きい鳥、こんなに近くで初めて見た。
て、ていうか、仲間?
「ちょうどいい、大鴉、お前少し先に行ってこの子の自転車あるか見て来いよ。……ああ? 怖がられてる? なに言ってるんだ、おれはこの子を助けたばかりだぞ。なあ?」
そう聞かれて、私はこくこくと首を縦に振った。
と、とても「でも今はちょっと怖いです」とは言えない……。
すると、カラスが、「ガーッ」って鳴いて、くいっと首を奥のほうへ振った。
「おお、本当だ。ほら、君、あれ君の自転車だろ? あれにのって、ここまで来たんだよな?」
そう言われて目を凝らすと、――
あった!
見慣れた、赤い色の、カゴの角がちょっとへっこんだ、私の自転車だ!
「あ、あれです! そうです、あれ私のです!」
二人と一羽で、自転車に駆け寄る。
ハンドルとサドルに手を置いて、私は、はああああっと大きなため息をついた。
その横の車道を、トラックが通り過ぎていく。
「あ、あれっ? 車? ずっと通らなかったのに……? あ、あとなんか明るい? 普通の夜みたいに……」
私の自転車は歩道のわきの土の上にあって、もうすぐそこが、通いなれた県道だった。
振り返ると、スミレワタリはもちろん、あの真っ暗な空間はどこにもない。暗くても、それなりに夜目がきいて、見慣れた林があたりに広がってるのが見える。
「無事の帰還、おめでとう」
私の後ろに立った男の子が、くすくすと笑ってる。
カラスも、がごーと低く鳴いた。
「あ、あのっ。ありがとうございますっ! ご、ごめんなさいっ!」
「ん? ありがとうは分かるが、ごめんというのは?」
し、しまった。つい口から出ちゃった。余計だったよね。
「わ、私、実は、ちょっと怖かったっていうか……あの猩猩の仲間みたいなこと言ったじゃないですか、それで……う、疑っちゃったっていうか、頭をよぎっただけなんですけど……」
「……仲間だ? ああ、同じだ、みたいな言い方したか。それは悪かったな。不正確だった。おれは、君になにも悪いことをする気はない」
ひええええ。
こんなの、いい気がするわけがないよね。
私は、ばっと音がするくらいの勢いで、頭を下げる。
「ご、ごめんなさい、本当に! ありがとうございました……!」
「悪気がないことに、謝る必要はねえよ。感謝のほうは、ありがたく受け取っておく。これからは気をつけてな。君の場合、スミレワタリが見えたら、そこが此岸と彼岸の境目だ。ゆめゆめ、渡るもんじゃないぜ」
スミレワタリ。
きれいだったけど、……もうあまり、見たくはないかも……。
「それじゃあな。行くぞ、大鴉」
「がー」
彼らは、そう言って背中を向けかけた。
その時の男の子の横顔が、本当に絵みたいにきれいで、私の視線はそこに吸い込まれる。
行っちゃう。
私の足が、勝手に一歩踏み出した。
「あ、あのっ!」
「ん?」
「私、来栖凛といいますっ! この先の八木丘中学校の、二年生です! お、お名前、教えていただけないでしょうかっ!」
「来栖……? 君、クルスっていう姓なのか?」
「え、は、はい。なにか、変ですか……?」
男の子は、笑って首を横に振った。
「いいや、変ではないけどな。いい名前だよ、上も下も。ただ、おれには少しおっかない姓だと思ったってだけだ」
おっかない……? 来栖が? どうして?
ちょっと、不思議には思ったけれど。
「おれは、ツクヨミという。月詠――月を言葉が泳ぐと書いて、そう読む。ま、縁があったらまた会おうぜ」
その名前のほうが、頭の中にすどんと入ってきて、ほかのことは気にならなくなっちゃった。
月詠さんと、大鴉は、そうしてふっと闇の中に消えた。
私はしばらくそこにぼうっと立ってから、慌てて自転車にまたがった。
ペダルをこいで、今度こそ家に向かう。
今起きたことを、頭の中で何度も繰り返し考えた。
この世ならざるもの。
私には、それが見える。
でも、危ない目にも遭う。
でも――怖いことばっかりじゃ、ないかもしれない。
家には、そのあと、すぐに着いた。五階建てアパートの三階なので、自転車を共用の駐輪場所に停める。
いつもより、三十分くらい遅い帰宅になった。
ちょっと遅くなっちゃったことの言い訳を、頭の中でぐるぐると考える。
正直に話して、信じてもらえるとは思えないし。
でも下手な嘘をついて、学校に確認されても困るし……
そうして、エレベーターを降りて、家のドアを開けた時。
「あー!!」
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「カバン! カバンがない……!」
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