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初陣 赤炎郎との闘い3
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妖怪には、食事をとる必要がない。
ものを食べることができる妖怪というのはいるが、一部の例外を除いて、食事が生存の必要条件であるということはない。
従って、人間のように、飲食によって栄養を摂取することに追われるわけではないのだが。
一方で、なんらかの嗜好品を好んで飲み食いする妖怪は少なくなかった。
「よし、入ったぞ。ほら、お前ら菓子もあるからきりきり運べー!」
切風の号令で、炊事場の一角にある水屋から取り出された茶碗に茶が注がれ、次々に郎党に配られていく。
茉莉も配膳を手伝ったが、大部屋になっている居間に犬妖のほとんどが入り、茉莉、雷蘭、伊織、そして切風はすぐ脇の小部屋に席が用意された。
雷蘭いわく、「幹部室ってわけ」らしい。
茉莉は恐縮しながら戸の近くの下座に座り、伊織に「あなたがそんなに端近では困ります」と苦笑されながら奥へ席をずらされた。
そこへ、切風が四人分の茶器を盆にのせて入ってくる。
雷蘭が半ば呆れた声で、
「切風様、お菓子なんてどこに持ってたの。それも、こんなにたくさん」
と訊くと、切風は当然のように
「そんなもん、いくらでもやり方はあるよ」
と答えた。
配られた茶器に、茉莉が目を丸くする。
「わ、これ、中国のお茶碗ですか……? なんだか、高そう……。あと、お茶も凄くいいにおいですね……ウーロン茶? みたいな……?」
疑問符だらけの茉莉の言葉に、切風がにやりと相好を崩した。よく浮かべている薄ら笑いとは似て非なるものであることが、茉莉にはもう見て取れる。
「お、分かる? さすが茉莉。おれの茶の師匠の影響でね、今でも大陸の茶のほうが入れるの得意なんだ。ま、日本茶でもそんじょそこらのやつには負けないけど」
そこで雷蘭が腰を浮かせた。
「あ、切風様、これ白毫銀針では!?」
「ふっふ。初陣で見事快勝したからな、奮発よ」
「はくごうぎんしん?」と茉莉が首をかしげる。
雷蘭が、茶をじっと見ながら答えた。
「大陸、中華の福建省のお茶で、新芽だけで作られる、白茶の中でも高級品よ。」
「白茶……?」
なおもぽかんとする茉莉に、伊織が小声で言う。
「摘んだ茶葉を屋内で干してしおれさせ、茶の酸化酵素というのを少々だけ働かせたものだそうです。拙者も詳しくはないのですが」
「充分詳しいと思いますよ……!?」
「切風殿と共におると、誰しもそうなるのです」と、伊織が小さく首を横に振る。
「別にいーだろ、損するわけじゃないんだから。ほら、飲みごろだぞ」
配られた茶碗は白地に草花の模様が描かれ、茉莉が薄くなめらかな縁に口をつけると、熱くかぐわしい香りの液体が唇の間に滑り込んできた。
口の中に入った茶は、いよいよ本格的に花開いた香りで、茉莉の味覚と嗅覚を満たしてしまう。
「う、うわあ……凄い。いい香りです。きつすぎない発酵の香り……鮮やかなんですけど、えぐみがなくて、繊細で……」
雷蘭が半眼で言ってきた。「言ってあげて言ってあげて。切風様、そういうの聞く時が一番嬉しそうだから」
そう言われて見てみると、切風が得意満面の笑顔でうんうんとうなずいている。
「ほら、菓子もあるよ。今日はみぞれ葛まんじゅう。中国茶に和菓子を合わせるのって、粋だよね」
粋かどうかは分かりかねたものの、菓子皿と菓子切用の黒文字を渡された茉莉は、素直に、あんを包んだ半透明の葛の生地に黒文字を刺し入れる。それをナイフのように動かして縦に二つに切ると、葛のぷるりとした感触が手に伝わってきた。
片割れを横から黒文字で刺し、そのままほおばる。ふわ、ぷるん、という食感に続いて、小豆あんの涼やかな甘みが口の中に広がった。
「わあ……おいしいです。作りはシンプルなのに、この食感で、とても奥行きのある味わいになりますよね……小豆の甘さと本当によく合いますね」
「そうでしょー。道明寺粉があると作りたくなるんだよねー、これ。葛には体を冷やす作用があるから、夏はおいしく食べられるけど冷え過ぎはよくないんで、体をあっためる作用がある道明寺粉で相殺ってわけよ」
茉莉は満足げな切風を横目に、道明寺粉ってなんだろう……とは思いつつ、はたと気づいて、
「え、これ、切風さんが作ったんですか? いつですか? 今? お茶入れながら?」
と目をしばたたかせる。
雷蘭が、自分も茶をすすりながら、
「マツリって、切風様が喜びそうな反応ばっかりするわね。あたしたちにも謎なのよ、この、お茶とお菓子をどこからともなく出してくる切風様のワザって。そんな素振りも余裕もないはずなのに、どこからともなく出現させるんだもの」
茉莉が伊織を見ると、そうなんですとばかりに首肯された。
切風は自分の分の茶椀を片手に、くるくるとそれを回して香りを立てながら言う。
「誰しも特技の一つくらいあるもんだよ。さて、改めて。茉莉、本当にお疲れ。ありがとうね。君のおかげで勝てた」
「えっ? い、いえ、私なんて。みなさんが強いから」
「犬妖は、直接の戦闘能力は大したことないんだ。小回りでは猿に劣るし、取っ組み合いになればイノシシにはかなわない。だからおれの眷属は、弓の腕を磨いた。おれ以外はね。だから、白兵戦にもつれ込んでたら、こんなに五体満足で戦い終えたやつらばっかりはなかったよ」
伊織がそれに続く。
「本当でありますよ、マツリ殿。戦い方一つで、あそこまで有利にことを運べるとは。拙者は、これまでいかに自分が稚拙であったかを知る思いです」
隣の居間からは、犬妖たちの歓声が聞こえてくる。
茉莉としては、他者を傷つける戦いの作戦を立てたことに、良心が痛まないわけではなかった。だがあの声を聞いていると、少しは報われる気もする。
そして、切風の戦いぶりを初めてまともに見てから、ずっと抱いていた思いが口からこぼれた。
「でも、切風さんて、あんなに強いんですね。それなら最初から、正面から戦っていれば、作戦なんていらなかったのでは……」
「あ、そう見える? それなら嬉しいけど、見た目ほど余裕でもなかったよ。あいつらと一対一を何十回繰り返したって負ける気はしないけど、一度に多数を相手にするっていうのは、それとはまるで別だから」
「そうなんですか?」
「まーね。たとえばあの赤炎郎とかいうやつ。もし別の雑魚に横からちょっかい出されて、隙を突かれて胴や頭にあのばか力で一発でも食らってたら、まあ、負けはしないにしても、こんなにぴんぴんもしてない。そうならない状況に、茉莉がしてくれたんだよ。だから感謝してんの」
「そんな」
「ほんとだって。で、聞いておきたいんだ。茉莉は、どこまでやる?」
切風の声が、一段低くなった。はっとして茉莉は切風を見る。彼の顔から笑みが消えていた。
「どこまで、って……」
「君がいてくれたら、おれたちは助かる。そしておれは、のこのここの信州に攻め込んできたなめたやつら――『赫の王』を許すつもりはない。追い返すんじゃない、この手で首をとる。だから聞いておきたいんだ。茉莉は、どこまでやる気でいる? 覚悟を決めると言ってくれたのは、赤炎郎の戦いのことだろ? それは終わったよ。ここで降りる? それとも、いくところまでいく? 『赫の王』の息の根を止めるまで」
茉莉は、切風の目に視線の焦点を合わせたまま、動けなくなっていた。
つい今さっきまであれほど魅惑的だった茶の香りも菓子の味も、ふいと消え失せた。
切風の双眸には、あまりにも鋭い光が宿っていた。気安く言葉を交わすうちに、つい忘れかけていた。彼は妖怪で、自分は人間。違う生き物。別の地平に住まう存在。
「先に言っとくよ。おれは、茉莉のことは気に入ってる。気が合うと思う。でもおれたちは同じじゃない。たとえば戦いの中で、君が斬るべきじゃないと思った妖怪を、おれは絶対に斬るべきだって断言して当たり前に斬り捨てるなんてこともあり得る。君がなぜ斬るまいとしたのか、それを訊くことさえせずに。おれたちって、まだほんの一面しか見せ合ってないんだからね」
すうっと切風の目が細くなった。
急に、背筋に寒気を感じる。人間の言葉が通じるから、日本語で意思の疎通ができるから、いつしか慣れてしまっていた。切風だけではなく、この部屋にいる雷蘭も、伊織も、いや、裏世界にいる全ての者が、異質の存在なのだ。いや、裏世界においては、妖怪変化が跋扈するのが普通なのであって、自分こそがたった一人、そこへ迷い込んだ異物なのだ。
ごくりと喉を鳴らして――茶を飲んだ直後とは思えないほどに渇いていた――、茉莉はなんとか口を開く。
「でも、私、……がいないと、切風さんは、……剣が」
「それは今気にしなくていいよ。なければないでなんとかなる。で、どこまでやる? 茉莉的には」
端的に切り返されて、茉莉は言葉に詰まる。
どこまで。
どこまででもない。
今回は、ひとまず目の前の戦いで、捨て置けずにいた火の粉を払っただけだ。
なんとなく、切風たちと行動を共にするつもりではいた。しかし自分の意志でどこまで進むつもりなのかと言われれば。切風の敵を打ち滅ぼすまで戦い続けるのかと言われれば。
「分かりません……」
「えらい」
……。
えらい?
聞き間違いかと思い、茉莉は、いつの間にかうつむいていた顔を上げる。
切風の顔に微笑みが戻っていた。
「全然悪くないよ。判断のための材料が少なすぎるでしょ。分からない、っていう答えでも今はいい。でも、分からないんだってことは忘れんでくれな。まだなんにも決まってなくて、自分で決めてもいいんだってことを」
なにを言われているのかはそれなりに分かる気がするが、切風がなにを言いたいのかは、つかめていない。そんな気がして、茉莉は数舜、身動きできずにいた。
その茉莉の脇腹に雷蘭がちょんちょんと肘を入れたので、「ひゃあ?」と声を上げてしまう。
「変な声出さないで。つまり、好きなようにしなさいって言われてるのよ」
「えっ? あっ。そ、そうでし……たか?」
「そうだよ、そーいうこと。じゃ、これからのことをざっと言うな。まずこの犬神屋敷に手入れして、茶店兼砦にする」
「……兼ねられるものなんですか、それ?」
茉莉の疑問に、切風は「もちろん」とだけ答えて、続けた。
「ただし、守るための砦じゃねえから。出撃のための基地だよ。で、どこ行ったんだか分かんない魏良を探して仲間に入れる。それから集められるだけ兵を集めて、敵を襲撃する」
雷蘭が、「そのためにはこの後すぐ、敵の状態を探るために斥候を放つ必要があるわね」と言って茶碗をあおった。
「そう。あと五匹いるっていう赤炎郎級のやつらと、なにより『赫の王』の今の居場所。敵兵力と、進軍方向。全部丸裸にしないといけねーね。幸い、この信州はおれたちの本拠地だ。それに腕に覚えがあるやつらなら、こそこそせずにのこのこ進軍してる可能性もある。そういう間抜けだと助かるなー」
切風が立ち上がり、伸びをした。犬神屋敷は天井が高いので、両手を上げても天井まではたっぷり余裕がある。
「そしたら、茉莉は一度帰るよね。裏世界と表はちょっと時間の流れが違って、たいていは裏で長いこと過ごしても表じゃそうでもなかったりするから、今帰ればまだ朝だと思うよ。たまーに逆になるけど」
「そうなんですか……頻繁に言ったり来たりしてたら、パニックになりそうです。」
「人間は細かいこと気にするからなー。おれは犬妖たちと話すことあるから、雷蘭、表まで茉莉のこと送ってあげて。茉莉、また呼びにいくよ。体休めてくれな」
「はい。行くわよ、マツリ」
雷蘭がすっと立ち上がって、小部屋を出ていく。
茉莉が慌ててついていくと、切風はひらひらと手を振り、伊織はお辞儀をして見送ってくれた。
居間の犬妖たちにも挨拶をして、廊下へ出る。玄関までの道すがら、ふと見ると、炊事場の小机に、茶器がもう一組置いてあった。中には茶が入っているようだったが、誰かのおかわり用かと、あまり気にせずに茉莉は炊事場の入り口を通り過ぎる。
屋敷の中では靴を履いたままだったので、茉莉は玄関を出てそのまま地面を歩いた。
先を行く雷蘭とは、そこまで足の長さが違うわけではないが、足運びの無駄のあるなしの差なのか、普通に歩いているとどんどん茉莉と雷蘭の距離が開いていく。茉莉は早足になった。
筋肉質だがほっそりしている雷蘭は、わずかに青みがかった黒い髪をほとんど揺らしもせずに進む。ぱっつんとショートボブに切り整えられた髪質は固そうだったが、あまり揺れないのはそのせいではなく、風の隙間さえ縫うような体さばきのせいかもしれない。
森へと伸びる一本道の途中で、その雷蘭が立ち止まった。
「雷蘭さん?」
「ちょっと来て」
そう言って、雷蘭は引き返した。
心なしか、足音を立てないよう、静かに歩を進めてみるように見える。茉莉は、わけも分からず一応真似をした。
二人は、すぐに犬神屋敷に戻りついた。玄関の中には入らず、壁沿いに、右手に進んでいく。
「あの、雷蘭さん?」
「あれ見て」
雷蘭が指さしたのは、炊事場の外へ開いた窓だった。中の土間に、切風が立っているのが見える。
切風は、手に茶碗を持っていた。どうやら、さっき茉莉が見た、炊事場の中にあった茶器らしい。
一人きりのためものも言わぬ切風は、茶碗を軽く持ち上げて目の高さに置くと、静かに傾けて、中の茶をさらさらと土間にまいた。
切風の表情は見えない。それでも、茉莉は、なぜか無性にその背中を抱きしめてやりたくなった。
行きましょう、と雷蘭が目くばせする。それに従って、茉莉もその場を離れた。再び、森へ続く道を歩き始める。
やがて、二人は森の端に着き、なおも進んだ。もともと夜の世界のなので、森へ入ってさらに暗くなるということはなかったが、木立のせいで視界は急激に悪くなる。
「マツリ。さっきの、なんだか分かる?」
「献杯、ではないでしょうか。山次さんたちへの……」
「そうよ。よく気がつくじゃない。それなら、どうしてあたしがそれをあんたに見せたかは分かる?」
「……さっきから考えてるんですけど、分かりません」
「ああいうところを見せれば、人間は、切風様に好感を抱いて、協力してくれるかもしれないと思ったからよ」
言い終わる辺りで、先行していた雷蘭は茉莉へ振り返る。
「協力は、……しますよ。するって言ったじゃないですか」
「程度の違いというものがあるでしょう。適当なおつき合いじゃないくて、あんたが自分から望んで、頭と力の全てを切風様に捧げてほしい。そのためなら、なんでもするわ」
雷蘭が人間の姿をしている時、見た目の年齢は、茉莉とそう変わらない。高校一年の茉莉からすればやや年上、二年や三年の生徒で少し大人びている先輩がいれば、こんな感じかもしれないな、と思う。
しかし、そのまだ幼くも見える顔つきの奥には、並みならぬ感情が籠っているのが、茉莉にはありありと感じられた。
「マツリ。あたしは、決してあんたを歓迎していたわけじゃない。でも、この戦果は認めざるを得ないし、感謝もしてる。直接的な戦闘ではほとんど役に立つ武器がないあたしを、空からの状況把握と鳴き声の合図で、作戦の一部にしてくれたから」
「それは、そうですよ。雷蘭さんしかできないことです。私こそ助かったんですから、感謝なんて」
「そう? でもね、あたしは、戦になるとずっとお荷物でしかなかったの。くちばしも爪もなまくらのあたしは、……初めてよ、あんな風に、戦場の真ん中にいるなんて。切風様の、……お役に立つことができた。あんたがいれば、また同じことができるかもしれない。切風様のためにも、あたしのためにも、……できることならあんたには、切風様の下で一所懸命に尽くして欲しい。あんたがいないより、いたほうが、切風様がけがする確率はずっと下がるみたいだから」
「尽くせるかは分かりませんけど……。凄く大切なんですね、切風さんのこと」
「そうよ。あたしは、いずれ死ぬ時は、あの人に報いられるだけ報いてから死にたい」
「そこまで……」
雷蘭は、前へ向き直って歩き始めた。
茉莉も続く。
十数歩進んだところで、雷蘭は、背中を向けたまま告げてきた。
「マツリ、あんた、あたしの見た目をどう思う?」
「どうって、きりっとしてて、かっこいいです。弓道部とかバスケ部にいたら、後輩たちからめっちゃ人気出そうだなってくらい」
「いまいちよく分かんないけど、褒められてるのよね。あたしも、恥ずかしくない程度の見た目ではあると思ってる。カラスの姿でも、人に化けていても。これでもそれなりに気を使ってるつもり。変化になった時からそうだったし、そう言われてもきた。と言っても、相手は犬とか猩猩だけど」
「はい。人間でも同じですよ絶対。空手とか合気道とかも似合うなって感じです」
雷蘭が苦笑する。
「分からないというのに。でもね、以前、あたしはたちの悪い妖怪とのいざこざで、呪いをかけられて、見た目を変えられたの。具体的にはあまり言いたくないけど、とにかく、とても醜くて、屈辱的で……今でも忘れられないくらい、ひどい、ひどい姿に」
茉莉は息をのんだ。雷蘭の速度は変わらない。淡々と歩き続けている。
「人間もそうらしいけど、妖怪にも、見た目での扱いの差はあるのよ。美しければ、それだけで畏怖の対象になって、一勢力を築く者もいる。逆に醜いせいで、妖怪たちからつまはじきにされることもある。……それまで、割合ちやほやされてもいたあたしは、道端の土くれみたいな扱いをされるようになったわ。つらかったわよ、これでも女だからね。それでも、……切風様だけは変わらないでいてくれた」
「切風さん、だけは」
「見た目が変わったことに、あの方が無頓着だったわけでも、とるに足らないことだと思ってたわけでもない。あたしが、たかが見てくれが変わっただけで打ちのめされながら、心もよどんで、ともすればつまらない悪事を働くだけの腐った妖怪になりかける中、あの人だけが変わらなかった。お茶を入れてくれて、お菓子をくれて、おいしいだろ、また来いよって……」
雷蘭の顔は、茉莉には見えない。さっき、犬神屋敷の外から切風の顔が見えなかったように。
それでも、顔が見えずとも、己とは別の存在であっても、確かに伝わってくるものが茉莉にはあった。同じ言葉を話し、同じ人の姿をとっていても、本当は違う、別種の存在。似ている、ということは、結局は違うということだった。同時に、同じところもある、ということだった。人間の世界で、自分と隣人が、似ていながらも違うように。違いながらも同じであるように。
雷蘭の声に、茉莉はそんなことを感じた。
「やがて、あたしに呪いをかけた妖怪は死んだわ。おかげで、あたしは元の姿に戻れた。でもね、そいつを殺したのは、切風様だったのよ。あたしに呪いが残留しないように、人間の祓い師の道具と術式を使って呪いを破壊して、その反動で自分まで傷ついてぼろぼろになってた」
言葉が昂り、その度に肩が震える。真後ろにいる茉莉には、それがありありと見えた。
「その恩義にこたえたくて、しもべになりますと言ったあたしに、冗談じゃない、敬語もやめろ、見てくれが変わっても変わらなかったお前のままでいれば、それでいいって……あたしは、あの人がいなければ、だめになるところだったのに!」
雷蘭が足を止めた。
振り返らないまま、少し先を指し示す。
「……ここを通れば、裏界線の端に出るわ。見た感じ、まだ朝だと思う。もし部屋から抜け出たことがばれてれば、家族にどう説明するのかとかは、考えとくのね」
「はい。ありがとうございました、雷蘭さん」
茉莉は、それだけ言って――ほかに言うべき言葉は思い浮かばなかった――、雷蘭の横を通り過ぎた。
その時、雷蘭が、両手で茉莉の右手をとった。
「余計な話をしたわ。ごめん」
「余計じゃありません、全然」
雷蘭は、その顔が茉莉からは見えなくなるほど、背中を丸めていた。まるで深々と頭を下げて、礼を言っているようだった。
「切風様と一緒に戦ってくれて、……助けてくれて、ありがとう」
妖怪には、食事をとる必要がない。
ものを食べることができる妖怪というのはいるが、一部の例外を除いて、食事が生存の必要条件であるということはない。
従って、人間のように、飲食によって栄養を摂取することに追われるわけではないのだが。
一方で、なんらかの嗜好品を好んで飲み食いする妖怪は少なくなかった。
「よし、入ったぞ。ほら、お前ら菓子もあるからきりきり運べー!」
切風の号令で、炊事場の一角にある水屋から取り出された茶碗に茶が注がれ、次々に郎党に配られていく。
茉莉も配膳を手伝ったが、大部屋になっている居間に犬妖のほとんどが入り、茉莉、雷蘭、伊織、そして切風はすぐ脇の小部屋に席が用意された。
雷蘭いわく、「幹部室ってわけ」らしい。
茉莉は恐縮しながら戸の近くの下座に座り、伊織に「あなたがそんなに端近では困ります」と苦笑されながら奥へ席をずらされた。
そこへ、切風が四人分の茶器を盆にのせて入ってくる。
雷蘭が半ば呆れた声で、
「切風様、お菓子なんてどこに持ってたの。それも、こんなにたくさん」
と訊くと、切風は当然のように
「そんなもん、いくらでもやり方はあるよ」
と答えた。
配られた茶器に、茉莉が目を丸くする。
「わ、これ、中国のお茶碗ですか……? なんだか、高そう……。あと、お茶も凄くいいにおいですね……ウーロン茶? みたいな……?」
疑問符だらけの茉莉の言葉に、切風がにやりと相好を崩した。よく浮かべている薄ら笑いとは似て非なるものであることが、茉莉にはもう見て取れる。
「お、分かる? さすが茉莉。おれの茶の師匠の影響でね、今でも大陸の茶のほうが入れるの得意なんだ。ま、日本茶でもそんじょそこらのやつには負けないけど」
そこで雷蘭が腰を浮かせた。
「あ、切風様、これ白毫銀針では!?」
「ふっふ。初陣で見事快勝したからな、奮発よ」
「はくごうぎんしん?」と茉莉が首をかしげる。
雷蘭が、茶をじっと見ながら答えた。
「大陸、中華の福建省のお茶で、新芽だけで作られる、白茶の中でも高級品よ。」
「白茶……?」
なおもぽかんとする茉莉に、伊織が小声で言う。
「摘んだ茶葉を屋内で干してしおれさせ、茶の酸化酵素というのを少々だけ働かせたものだそうです。拙者も詳しくはないのですが」
「充分詳しいと思いますよ……!?」
「切風殿と共におると、誰しもそうなるのです」と、伊織が小さく首を横に振る。
「別にいーだろ、損するわけじゃないんだから。ほら、飲みごろだぞ」
配られた茶碗は白地に草花の模様が描かれ、茉莉が薄くなめらかな縁に口をつけると、熱くかぐわしい香りの液体が唇の間に滑り込んできた。
口の中に入った茶は、いよいよ本格的に花開いた香りで、茉莉の味覚と嗅覚を満たしてしまう。
「う、うわあ……凄い。いい香りです。きつすぎない発酵の香り……鮮やかなんですけど、えぐみがなくて、繊細で……」
雷蘭が半眼で言ってきた。「言ってあげて言ってあげて。切風様、そういうの聞く時が一番嬉しそうだから」
そう言われて見てみると、切風が得意満面の笑顔でうんうんとうなずいている。
「ほら、菓子もあるよ。今日はみぞれ葛まんじゅう。中国茶に和菓子を合わせるのって、粋だよね」
粋かどうかは分かりかねたものの、菓子皿と菓子切用の黒文字を渡された茉莉は、素直に、あんを包んだ半透明の葛の生地に黒文字を刺し入れる。それをナイフのように動かして縦に二つに切ると、葛のぷるりとした感触が手に伝わってきた。
片割れを横から黒文字で刺し、そのままほおばる。ふわ、ぷるん、という食感に続いて、小豆あんの涼やかな甘みが口の中に広がった。
「わあ……おいしいです。作りはシンプルなのに、この食感で、とても奥行きのある味わいになりますよね……小豆の甘さと本当によく合いますね」
「そうでしょー。道明寺粉があると作りたくなるんだよねー、これ。葛には体を冷やす作用があるから、夏はおいしく食べられるけど冷え過ぎはよくないんで、体をあっためる作用がある道明寺粉で相殺ってわけよ」
茉莉は満足げな切風を横目に、道明寺粉ってなんだろう……とは思いつつ、はたと気づいて、
「え、これ、切風さんが作ったんですか? いつですか? 今? お茶入れながら?」
と目をしばたたかせる。
雷蘭が、自分も茶をすすりながら、
「マツリって、切風様が喜びそうな反応ばっかりするわね。あたしたちにも謎なのよ、この、お茶とお菓子をどこからともなく出してくる切風様のワザって。そんな素振りも余裕もないはずなのに、どこからともなく出現させるんだもの」
茉莉が伊織を見ると、そうなんですとばかりに首肯された。
切風は自分の分の茶椀を片手に、くるくるとそれを回して香りを立てながら言う。
「誰しも特技の一つくらいあるもんだよ。さて、改めて。茉莉、本当にお疲れ。ありがとうね。君のおかげで勝てた」
「えっ? い、いえ、私なんて。みなさんが強いから」
「犬妖は、直接の戦闘能力は大したことないんだ。小回りでは猿に劣るし、取っ組み合いになればイノシシにはかなわない。だからおれの眷属は、弓の腕を磨いた。おれ以外はね。だから、白兵戦にもつれ込んでたら、こんなに五体満足で戦い終えたやつらばっかりはなかったよ」
伊織がそれに続く。
「本当でありますよ、マツリ殿。戦い方一つで、あそこまで有利にことを運べるとは。拙者は、これまでいかに自分が稚拙であったかを知る思いです」
隣の居間からは、犬妖たちの歓声が聞こえてくる。
茉莉としては、他者を傷つける戦いの作戦を立てたことに、良心が痛まないわけではなかった。だがあの声を聞いていると、少しは報われる気もする。
そして、切風の戦いぶりを初めてまともに見てから、ずっと抱いていた思いが口からこぼれた。
「でも、切風さんて、あんなに強いんですね。それなら最初から、正面から戦っていれば、作戦なんていらなかったのでは……」
「あ、そう見える? それなら嬉しいけど、見た目ほど余裕でもなかったよ。あいつらと一対一を何十回繰り返したって負ける気はしないけど、一度に多数を相手にするっていうのは、それとはまるで別だから」
「そうなんですか?」
「まーね。たとえばあの赤炎郎とかいうやつ。もし別の雑魚に横からちょっかい出されて、隙を突かれて胴や頭にあのばか力で一発でも食らってたら、まあ、負けはしないにしても、こんなにぴんぴんもしてない。そうならない状況に、茉莉がしてくれたんだよ。だから感謝してんの」
「そんな」
「ほんとだって。で、聞いておきたいんだ。茉莉は、どこまでやる?」
切風の声が、一段低くなった。はっとして茉莉は切風を見る。彼の顔から笑みが消えていた。
「どこまで、って……」
「君がいてくれたら、おれたちは助かる。そしておれは、のこのここの信州に攻め込んできたなめたやつら――『赫の王』を許すつもりはない。追い返すんじゃない、この手で首をとる。だから聞いておきたいんだ。茉莉は、どこまでやる気でいる? 覚悟を決めると言ってくれたのは、赤炎郎の戦いのことだろ? それは終わったよ。ここで降りる? それとも、いくところまでいく? 『赫の王』の息の根を止めるまで」
茉莉は、切風の目に視線の焦点を合わせたまま、動けなくなっていた。
つい今さっきまであれほど魅惑的だった茶の香りも菓子の味も、ふいと消え失せた。
切風の双眸には、あまりにも鋭い光が宿っていた。気安く言葉を交わすうちに、つい忘れかけていた。彼は妖怪で、自分は人間。違う生き物。別の地平に住まう存在。
「先に言っとくよ。おれは、茉莉のことは気に入ってる。気が合うと思う。でもおれたちは同じじゃない。たとえば戦いの中で、君が斬るべきじゃないと思った妖怪を、おれは絶対に斬るべきだって断言して当たり前に斬り捨てるなんてこともあり得る。君がなぜ斬るまいとしたのか、それを訊くことさえせずに。おれたちって、まだほんの一面しか見せ合ってないんだからね」
すうっと切風の目が細くなった。
急に、背筋に寒気を感じる。人間の言葉が通じるから、日本語で意思の疎通ができるから、いつしか慣れてしまっていた。切風だけではなく、この部屋にいる雷蘭も、伊織も、いや、裏世界にいる全ての者が、異質の存在なのだ。いや、裏世界においては、妖怪変化が跋扈するのが普通なのであって、自分こそがたった一人、そこへ迷い込んだ異物なのだ。
ごくりと喉を鳴らして――茶を飲んだ直後とは思えないほどに渇いていた――、茉莉はなんとか口を開く。
「でも、私、……がいないと、切風さんは、……剣が」
「それは今気にしなくていいよ。なければないでなんとかなる。で、どこまでやる? 茉莉的には」
端的に切り返されて、茉莉は言葉に詰まる。
どこまで。
どこまででもない。
今回は、ひとまず目の前の戦いで、捨て置けずにいた火の粉を払っただけだ。
なんとなく、切風たちと行動を共にするつもりではいた。しかし自分の意志でどこまで進むつもりなのかと言われれば。切風の敵を打ち滅ぼすまで戦い続けるのかと言われれば。
「分かりません……」
「えらい」
……。
えらい?
聞き間違いかと思い、茉莉は、いつの間にかうつむいていた顔を上げる。
切風の顔に微笑みが戻っていた。
「全然悪くないよ。判断のための材料が少なすぎるでしょ。分からない、っていう答えでも今はいい。でも、分からないんだってことは忘れんでくれな。まだなんにも決まってなくて、自分で決めてもいいんだってことを」
なにを言われているのかはそれなりに分かる気がするが、切風がなにを言いたいのかは、つかめていない。そんな気がして、茉莉は数舜、身動きできずにいた。
その茉莉の脇腹に雷蘭がちょんちょんと肘を入れたので、「ひゃあ?」と声を上げてしまう。
「変な声出さないで。つまり、好きなようにしなさいって言われてるのよ」
「えっ? あっ。そ、そうでし……たか?」
「そうだよ、そーいうこと。じゃ、これからのことをざっと言うな。まずこの犬神屋敷に手入れして、茶店兼砦にする」
「……兼ねられるものなんですか、それ?」
茉莉の疑問に、切風は「もちろん」とだけ答えて、続けた。
「ただし、守るための砦じゃねえから。出撃のための基地だよ。で、どこ行ったんだか分かんない魏良を探して仲間に入れる。それから集められるだけ兵を集めて、敵を襲撃する」
雷蘭が、「そのためにはこの後すぐ、敵の状態を探るために斥候を放つ必要があるわね」と言って茶碗をあおった。
「そう。あと五匹いるっていう赤炎郎級のやつらと、なにより『赫の王』の今の居場所。敵兵力と、進軍方向。全部丸裸にしないといけねーね。幸い、この信州はおれたちの本拠地だ。それに腕に覚えがあるやつらなら、こそこそせずにのこのこ進軍してる可能性もある。そういう間抜けだと助かるなー」
切風が立ち上がり、伸びをした。犬神屋敷は天井が高いので、両手を上げても天井まではたっぷり余裕がある。
「そしたら、茉莉は一度帰るよね。裏世界と表はちょっと時間の流れが違って、たいていは裏で長いこと過ごしても表じゃそうでもなかったりするから、今帰ればまだ朝だと思うよ。たまーに逆になるけど」
「そうなんですか……頻繁に言ったり来たりしてたら、パニックになりそうです。」
「人間は細かいこと気にするからなー。おれは犬妖たちと話すことあるから、雷蘭、表まで茉莉のこと送ってあげて。茉莉、また呼びにいくよ。体休めてくれな」
「はい。行くわよ、マツリ」
雷蘭がすっと立ち上がって、小部屋を出ていく。
茉莉が慌ててついていくと、切風はひらひらと手を振り、伊織はお辞儀をして見送ってくれた。
居間の犬妖たちにも挨拶をして、廊下へ出る。玄関までの道すがら、ふと見ると、炊事場の小机に、茶器がもう一組置いてあった。中には茶が入っているようだったが、誰かのおかわり用かと、あまり気にせずに茉莉は炊事場の入り口を通り過ぎる。
屋敷の中では靴を履いたままだったので、茉莉は玄関を出てそのまま地面を歩いた。
先を行く雷蘭とは、そこまで足の長さが違うわけではないが、足運びの無駄のあるなしの差なのか、普通に歩いているとどんどん茉莉と雷蘭の距離が開いていく。茉莉は早足になった。
筋肉質だがほっそりしている雷蘭は、わずかに青みがかった黒い髪をほとんど揺らしもせずに進む。ぱっつんとショートボブに切り整えられた髪質は固そうだったが、あまり揺れないのはそのせいではなく、風の隙間さえ縫うような体さばきのせいかもしれない。
森へと伸びる一本道の途中で、その雷蘭が立ち止まった。
「雷蘭さん?」
「ちょっと来て」
そう言って、雷蘭は引き返した。
心なしか、足音を立てないよう、静かに歩を進めてみるように見える。茉莉は、わけも分からず一応真似をした。
二人は、すぐに犬神屋敷に戻りついた。玄関の中には入らず、壁沿いに、右手に進んでいく。
「あの、雷蘭さん?」
「あれ見て」
雷蘭が指さしたのは、炊事場の外へ開いた窓だった。中の土間に、切風が立っているのが見える。
切風は、手に茶碗を持っていた。どうやら、さっき茉莉が見た、炊事場の中にあった茶器らしい。
一人きりのためものも言わぬ切風は、茶碗を軽く持ち上げて目の高さに置くと、静かに傾けて、中の茶をさらさらと土間にまいた。
切風の表情は見えない。それでも、茉莉は、なぜか無性にその背中を抱きしめてやりたくなった。
行きましょう、と雷蘭が目くばせする。それに従って、茉莉もその場を離れた。再び、森へ続く道を歩き始める。
やがて、二人は森の端に着き、なおも進んだ。もともと夜の世界のなので、森へ入ってさらに暗くなるということはなかったが、木立のせいで視界は急激に悪くなる。
「マツリ。さっきの、なんだか分かる?」
「献杯、ではないでしょうか。山次さんたちへの……」
「そうよ。よく気がつくじゃない。それなら、どうしてあたしがそれをあんたに見せたかは分かる?」
「……さっきから考えてるんですけど、分かりません」
「ああいうところを見せれば、人間は、切風様に好感を抱いて、協力してくれるかもしれないと思ったからよ」
言い終わる辺りで、先行していた雷蘭は茉莉へ振り返る。
「協力は、……しますよ。するって言ったじゃないですか」
「程度の違いというものがあるでしょう。適当なおつき合いじゃないくて、あんたが自分から望んで、頭と力の全てを切風様に捧げてほしい。そのためなら、なんでもするわ」
雷蘭が人間の姿をしている時、見た目の年齢は、茉莉とそう変わらない。高校一年の茉莉からすればやや年上、二年や三年の生徒で少し大人びている先輩がいれば、こんな感じかもしれないな、と思う。
しかし、そのまだ幼くも見える顔つきの奥には、並みならぬ感情が籠っているのが、茉莉にはありありと感じられた。
「マツリ。あたしは、決してあんたを歓迎していたわけじゃない。でも、この戦果は認めざるを得ないし、感謝もしてる。直接的な戦闘ではほとんど役に立つ武器がないあたしを、空からの状況把握と鳴き声の合図で、作戦の一部にしてくれたから」
「それは、そうですよ。雷蘭さんしかできないことです。私こそ助かったんですから、感謝なんて」
「そう? でもね、あたしは、戦になるとずっとお荷物でしかなかったの。くちばしも爪もなまくらのあたしは、……初めてよ、あんな風に、戦場の真ん中にいるなんて。切風様の、……お役に立つことができた。あんたがいれば、また同じことができるかもしれない。切風様のためにも、あたしのためにも、……できることならあんたには、切風様の下で一所懸命に尽くして欲しい。あんたがいないより、いたほうが、切風様がけがする確率はずっと下がるみたいだから」
「尽くせるかは分かりませんけど……。凄く大切なんですね、切風さんのこと」
「そうよ。あたしは、いずれ死ぬ時は、あの人に報いられるだけ報いてから死にたい」
「そこまで……」
雷蘭は、前へ向き直って歩き始めた。
茉莉も続く。
十数歩進んだところで、雷蘭は、背中を向けたまま告げてきた。
「マツリ、あんた、あたしの見た目をどう思う?」
「どうって、きりっとしてて、かっこいいです。弓道部とかバスケ部にいたら、後輩たちからめっちゃ人気出そうだなってくらい」
「いまいちよく分かんないけど、褒められてるのよね。あたしも、恥ずかしくない程度の見た目ではあると思ってる。カラスの姿でも、人に化けていても。これでもそれなりに気を使ってるつもり。変化になった時からそうだったし、そう言われてもきた。と言っても、相手は犬とか猩猩だけど」
「はい。人間でも同じですよ絶対。空手とか合気道とかも似合うなって感じです」
雷蘭が苦笑する。
「分からないというのに。でもね、以前、あたしはたちの悪い妖怪とのいざこざで、呪いをかけられて、見た目を変えられたの。具体的にはあまり言いたくないけど、とにかく、とても醜くて、屈辱的で……今でも忘れられないくらい、ひどい、ひどい姿に」
茉莉は息をのんだ。雷蘭の速度は変わらない。淡々と歩き続けている。
「人間もそうらしいけど、妖怪にも、見た目での扱いの差はあるのよ。美しければ、それだけで畏怖の対象になって、一勢力を築く者もいる。逆に醜いせいで、妖怪たちからつまはじきにされることもある。……それまで、割合ちやほやされてもいたあたしは、道端の土くれみたいな扱いをされるようになったわ。つらかったわよ、これでも女だからね。それでも、……切風様だけは変わらないでいてくれた」
「切風さん、だけは」
「見た目が変わったことに、あの方が無頓着だったわけでも、とるに足らないことだと思ってたわけでもない。あたしが、たかが見てくれが変わっただけで打ちのめされながら、心もよどんで、ともすればつまらない悪事を働くだけの腐った妖怪になりかける中、あの人だけが変わらなかった。お茶を入れてくれて、お菓子をくれて、おいしいだろ、また来いよって……」
雷蘭の顔は、茉莉には見えない。さっき、犬神屋敷の外から切風の顔が見えなかったように。
それでも、顔が見えずとも、己とは別の存在であっても、確かに伝わってくるものが茉莉にはあった。同じ言葉を話し、同じ人の姿をとっていても、本当は違う、別種の存在。似ている、ということは、結局は違うということだった。同時に、同じところもある、ということだった。人間の世界で、自分と隣人が、似ていながらも違うように。違いながらも同じであるように。
雷蘭の声に、茉莉はそんなことを感じた。
「やがて、あたしに呪いをかけた妖怪は死んだわ。おかげで、あたしは元の姿に戻れた。でもね、そいつを殺したのは、切風様だったのよ。あたしに呪いが残留しないように、人間の祓い師の道具と術式を使って呪いを破壊して、その反動で自分まで傷ついてぼろぼろになってた」
言葉が昂り、その度に肩が震える。真後ろにいる茉莉には、それがありありと見えた。
「その恩義にこたえたくて、しもべになりますと言ったあたしに、冗談じゃない、敬語もやめろ、見てくれが変わっても変わらなかったお前のままでいれば、それでいいって……あたしは、あの人がいなければ、だめになるところだったのに!」
雷蘭が足を止めた。
振り返らないまま、少し先を指し示す。
「……ここを通れば、裏界線の端に出るわ。見た感じ、まだ朝だと思う。もし部屋から抜け出たことがばれてれば、家族にどう説明するのかとかは、考えとくのね」
「はい。ありがとうございました、雷蘭さん」
茉莉は、それだけ言って――ほかに言うべき言葉は思い浮かばなかった――、雷蘭の横を通り過ぎた。
その時、雷蘭が、両手で茉莉の右手をとった。
「余計な話をしたわ。ごめん」
「余計じゃありません、全然」
雷蘭は、その顔が茉莉からは見えなくなるほど、背中を丸めていた。まるで深々と頭を下げて、礼を言っているようだった。
「切風様と一緒に戦ってくれて、……助けてくれて、ありがとう」
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