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<第一章 あやかし職業訓練校です>1
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「こ、ここ……どこ……?」
そうつぶやいた私に、隣に立つ燎火が答えてきた。姿は、霧であまりよく見えなかったけど。
「だから、裏界だって言ってるだろ。離れるなよ、有栖」
「そうじゃなくて、単純に、私たち今どういう場所にいるのかっていう……。言われなくても、離れないけどもっ。うう、アスファルトじゃないところにヒールだと歩きにくいっ」
燎火は私より二十センチくらい背が高くて、たぶん百八十センチ近い。
その黒くて少し長めの髪に、黒のスーツの足元は、つややかに黒光りするストレートチップの革靴。ワイシャツも黒いので、全身見事なまでの黒ずくめだった。瞳だけが、人間離れした金色で、宝石のように光っている。
私の髪は黒に近いダークブラウンのセミロングだけど、燎火の隣に立っていると、彼の黒い服との比較で、私の髪の色素は本来よりずいぶん薄く見えた。
私たちが歩いている場所は、深い霧に覆われていて、細かい氷片に埋め尽くされた水の中のようだった。
かろうじて見える足元は、土がむき出しになっている。
春らしく明るい色にしようと思って着てきた、ライトブルーの軽いジャケットと白のパンツは、白一色の世界で、その淡さがなんだか心細くなる。
さっき私が家を出た時は、なんの変哲もなくよく晴れた四月の朝だったのに。
今はもう暑いのか寒いのか、太陽の方角さえよく分からない。
「うう、やっぱりちょっと気味悪いかも。私、いまだにその裏界っていうのがよく分かってないんだよね……」
「現世の影のような世界で、主に妖怪の生きる場所だ。現世にいくつか門があって、人間でもそこから出入りできる。そんなわけで、人もいないわけじゃねえが、出くわすのは圧倒的に妖怪が多い。気を抜くなよ」
それは、前にも聞いたのだけども。
「でも妖怪って、つまり燎火の仲間でしょ? そんなに、なんていうか、危ないの?」
燎火は人間ではなく、妖怪だ。人間に化けることができるけど、本当は犬神といって、真っ黒な毛に包まれた、子馬くらいのサイズの巨大な犬の姿をしている。
昔、出会ったころは、たまに背中に乗せてくれたこともあった。毛が硬い割には意外に触り心地がよかったのを覚えている。
……昔といっても、その時、私はもう高校生だったんだけど。今思えば重かったかもしれない。ごめん。
「危ねえよ。人間にも色々いるように、妖怪も色々だってことだ。裏界でもこのあたりは浅瀬みたいなものだから、有栖のほうから妙な真似しなけりゃめったなことはないけどな。……ああ、見えてきた」
燎火が手で示す先はわずかに霧が晴れていて、現世――普段私が暮らしている世界を妖怪はそう呼ぶらしい――にもありそうな、五階建ての白いビルがうっすらと見えた。
一社だけが入ったオフィスビルなので、壁に、大きく会社名が書いてある。「就妖社」。
「ほんとだ、もうすぐだね。……ところで妙な真似ってたとえばどんな真似で、めったなことってたとえばどんなことよう」
「ん? そうだな、たとえばか。うーんたとえば……」
しばらく、燎火は黙って。
それから、私の足元を指さした。
「そいつを踏んづけたりとか」
「え?」
下を見ると、おにぎりくらいの大きさの、白くて丸いものが落ちている。
その横に、同じくらいの大きさと形をした、緑色の球体も転がってきた。
「……ソフトボール?」
「いいや。白いほうが『雪の実』、緑のほうが『草丸』。どっちもれっきとした妖怪だ。雪の実は、降雪もねえのに出てくるのは珍しいな」
「よ、妖怪? これ?」
すると、白と緑両方の球に、ぱちりと目が開いた。
なんだか、どこかのゆるキャラにいそうな、シンプルでかわいらしい造形に、ついつい気が緩んでしまう。
「そいつらが小さいからって侮るなよ。気をつけんと、足を取られて転ばされるぞ」
「は、はーい。でもかわいいなあ……。あれ、でも降雪って、ここ千葉の北西部だよ? めったに雪なんて降らないんじゃない?」
私の住む町は千葉県の流山市といって、冬でも比較的気候が温暖だった。本物の雪なんて、小さいころに、ほんの少しはらはらと空を舞ったところしか見たことがない。
「裏界には明確な季節がない代わりに、現世が夏でも平気で雪が降る時もある。あとそいつらをかわいいと思ってるようだが、似たような見た目で、いきなり切りつけてきたり血を吸いに来るやつもいるぞ。ま、少しずつ慣れるんだな」
「な、慣れる前に身を守らないといけないんじゃ!?」
「おれの傍にいてくれる限りは、おれが守ってやるよ。ほら、行こうぜ」
「うう。た、頼らせていただきます」
「かしこまるんじゃねえよ。子供のころに、おれを助けてくれたのは有栖だろ」
それはだって、……あの時の燎火を見たら、誰だってそうすると思う。
雪の実と草丸に別れを告げて、私たちは目当てのビルに向かった。
正面玄関の前に立つと、目の前には、それこそ現世と変わらない自動ドアがある。
ここに妖怪がいるって言われても、いまいちぴんと来ない。
「じゃ、入るか。就妖社の流山支店は、社員は三十人ほどだ。人間も、妖怪も、非正規職員もいる。社長は一階奥の社長室にいるから、まずはそこへ行こう……って、なんだよその怪訝そうな顔?」
「だ、だって、妖怪の燎火が支店とか非正規職員とか言うのが、違和感凄くて」
「はは、そうかもな。まあ人間と妖怪それぞれの会社で働いた経験者として言わせてもらえば、働き出したら現世も裏界も大して差はねえよ」
燎火とは、何年か会わない時期もあったけど、その後再会して今に至る。
一緒に近場に遊びに行ったり、他愛もないおしゃべりを数えきれないくらいしてきたけど、この犬神が就妖社という人材派遣会社で仕事をしているなんて知ったのはつい最近のことだった。
その就妖社が自社ビル内で運営している職業訓練の担当者を募集しており、それに私が応募したのも、就職が決まったのも、燎火の紹介だったところが大きい。
自動ドアが開いて、ビルの中に足を踏み入れると、受付にいた髪の長い女の人が「いらっしゃいませ」と言いかけて、「ああ、燎火くん。そちらは?」と私に目を向けた。
……その女の人の顔が、青い。顔色が悪いとかじゃなくて、水彩絵の具の青色をさっと塗ったように、文字通り青い。
「おれの幼馴染で、古兎有栖だ。今日からここで働くんだよ。有栖、この人は受付と事務やってる水那女の葵だ」
「初めまして、古兎です! 今日からよろしくお願いします!」
私のその声に、事務所の中にいた職員たちの目が、一斉にこっちを向いた。
現世育ちの私には、見慣れない形、見慣れない色、見慣れない動作をしている妖怪の職員がたくさんいる。でも中にはちらほらと、人間らしい人の姿も見えた。
前に面接で来た時は午後だったので、多くの職員は出払っていたみたいで、閑散としていた。でも始業時間前の今は、フロア中ががやがやとして活気がある。
葵さんに案内されて、奥へと進む。
やがて、「社長室」と書かれた漆塗りのプレートがかかった、重厚なドアの前で葵さんは立ち止まった。
「社長、古兎さんがお見えです」
葵さんがドアを開け、私たちを通してくれた。
中に入ると、これも漆塗りの重そうなデスクに、一人の女性がついている。
見た目には、二十代後半か三十代前半くらいに見える。純粋な造作だと前者なんだけど、謎の貫禄が、とても二十代とは思えない迫力を生んでいた。これは、私が面接を受けた時からそうだった。
「いやあようこそ古兎さん、我が就妖社流山支店へ! この黒芙蓉、また一人得難い人材を得たことに感激を禁じ得ないよ! わたくしの果報者ぶりときたら、ちょっとほかにないなあまったく!」
漆黒のロングヘア――燎火とは違ってくせが全然ない――に金縁の丸眼鏡というファッションは、忘れようもない。私を採用してくれた、黒芙蓉支店長だ。就妖社は独立した人事課はなく、総務と支店長が人事を取り仕切っている。
こうして見ると人間にしか見えないけど、支店長は天狗らしい。ご本人いわく、本気で怒ると変化が解けて、とても人とは思えない姿に変わるという話で……それを見ないで済むように、頑張ろう。
燎火が前に進み出た。
「支店長、働き出す前からそんなこと言われたら、有栖にプレッシャーかかるじゃねえか」
「り、燎火!?」
燎火が敬語すら使わず、平常語でそんなことを支店長に言ったので、びっくりした。
確かに燎火の言う通りではあるので、気持ちはありがたいんだけど、そんな口の利き方をしていいの?
でも支店長は全然気にしていない様子で、
「ああ、それもそうか。これは失礼、もう少しで、わたくしが自分に対してこれを振るわねばならなくなるところだった」
そう言って、デスクの端に置いてあった、なにか木製の薄い板のような道具をぽんぽんと手のひらで叩いた。
「あのっ、黒芙蓉支店長」
「うん?」
「私、まだ不慣れな仕事ですけど、一生懸命にやります。私もついこの間まで求職者でしたけど、……結構つらいというか、いたたまれない気持ちになるものなんですよね。それが分かるから、職業訓練に来てくれたみなさんがいい仕事を見つけられるように、充実して働けるように、精いっぱいやります」
支店長は、眼鏡の奥の瞳をきらりとさせて、微笑んだ。
「ありがとう。一緒に、なすべき職務を果たそう」
うんうんとうなずいている支店長に、燎火が言う。
「それじゃおれたち、仕事に入るよ。行こうぜ、有栖」
「う、うん。では、失礼します」
支店長室を出て、ぱたんとドアを閉める。
葵さんは、一礼して受付に戻っていった。
「燎火、裏界ってあんなふうに上司と話して大丈夫なの?」
「ああ、現世だと敬語使うよな。裏界は特定の規律とか秩序があんまりねえから、それぞれ好き好きって感じだな」
「そうなんだ。……あと、今支店長のデスクにあった木の道具、なに?」
「ああ、あれか。木のハリセンだ。ふざけた部下は、あれでばちんとやられる」
……木の? ……ばちんと?
「言っとくが、あんなもの持ってるのは裏界でも支店長くらいだからな。能登ヒバの特注品らしい。本人があの辺出身で、今でもちょくちょく里帰りしてるが、実にフットワークの軽い人でな。たまに仕事抜け出してひとっ飛びして、信州まで蕎麦食べに行ってるし」
……現世とは、色々勝手が違うところも多そうだ。
そうつぶやいた私に、隣に立つ燎火が答えてきた。姿は、霧であまりよく見えなかったけど。
「だから、裏界だって言ってるだろ。離れるなよ、有栖」
「そうじゃなくて、単純に、私たち今どういう場所にいるのかっていう……。言われなくても、離れないけどもっ。うう、アスファルトじゃないところにヒールだと歩きにくいっ」
燎火は私より二十センチくらい背が高くて、たぶん百八十センチ近い。
その黒くて少し長めの髪に、黒のスーツの足元は、つややかに黒光りするストレートチップの革靴。ワイシャツも黒いので、全身見事なまでの黒ずくめだった。瞳だけが、人間離れした金色で、宝石のように光っている。
私の髪は黒に近いダークブラウンのセミロングだけど、燎火の隣に立っていると、彼の黒い服との比較で、私の髪の色素は本来よりずいぶん薄く見えた。
私たちが歩いている場所は、深い霧に覆われていて、細かい氷片に埋め尽くされた水の中のようだった。
かろうじて見える足元は、土がむき出しになっている。
春らしく明るい色にしようと思って着てきた、ライトブルーの軽いジャケットと白のパンツは、白一色の世界で、その淡さがなんだか心細くなる。
さっき私が家を出た時は、なんの変哲もなくよく晴れた四月の朝だったのに。
今はもう暑いのか寒いのか、太陽の方角さえよく分からない。
「うう、やっぱりちょっと気味悪いかも。私、いまだにその裏界っていうのがよく分かってないんだよね……」
「現世の影のような世界で、主に妖怪の生きる場所だ。現世にいくつか門があって、人間でもそこから出入りできる。そんなわけで、人もいないわけじゃねえが、出くわすのは圧倒的に妖怪が多い。気を抜くなよ」
それは、前にも聞いたのだけども。
「でも妖怪って、つまり燎火の仲間でしょ? そんなに、なんていうか、危ないの?」
燎火は人間ではなく、妖怪だ。人間に化けることができるけど、本当は犬神といって、真っ黒な毛に包まれた、子馬くらいのサイズの巨大な犬の姿をしている。
昔、出会ったころは、たまに背中に乗せてくれたこともあった。毛が硬い割には意外に触り心地がよかったのを覚えている。
……昔といっても、その時、私はもう高校生だったんだけど。今思えば重かったかもしれない。ごめん。
「危ねえよ。人間にも色々いるように、妖怪も色々だってことだ。裏界でもこのあたりは浅瀬みたいなものだから、有栖のほうから妙な真似しなけりゃめったなことはないけどな。……ああ、見えてきた」
燎火が手で示す先はわずかに霧が晴れていて、現世――普段私が暮らしている世界を妖怪はそう呼ぶらしい――にもありそうな、五階建ての白いビルがうっすらと見えた。
一社だけが入ったオフィスビルなので、壁に、大きく会社名が書いてある。「就妖社」。
「ほんとだ、もうすぐだね。……ところで妙な真似ってたとえばどんな真似で、めったなことってたとえばどんなことよう」
「ん? そうだな、たとえばか。うーんたとえば……」
しばらく、燎火は黙って。
それから、私の足元を指さした。
「そいつを踏んづけたりとか」
「え?」
下を見ると、おにぎりくらいの大きさの、白くて丸いものが落ちている。
その横に、同じくらいの大きさと形をした、緑色の球体も転がってきた。
「……ソフトボール?」
「いいや。白いほうが『雪の実』、緑のほうが『草丸』。どっちもれっきとした妖怪だ。雪の実は、降雪もねえのに出てくるのは珍しいな」
「よ、妖怪? これ?」
すると、白と緑両方の球に、ぱちりと目が開いた。
なんだか、どこかのゆるキャラにいそうな、シンプルでかわいらしい造形に、ついつい気が緩んでしまう。
「そいつらが小さいからって侮るなよ。気をつけんと、足を取られて転ばされるぞ」
「は、はーい。でもかわいいなあ……。あれ、でも降雪って、ここ千葉の北西部だよ? めったに雪なんて降らないんじゃない?」
私の住む町は千葉県の流山市といって、冬でも比較的気候が温暖だった。本物の雪なんて、小さいころに、ほんの少しはらはらと空を舞ったところしか見たことがない。
「裏界には明確な季節がない代わりに、現世が夏でも平気で雪が降る時もある。あとそいつらをかわいいと思ってるようだが、似たような見た目で、いきなり切りつけてきたり血を吸いに来るやつもいるぞ。ま、少しずつ慣れるんだな」
「な、慣れる前に身を守らないといけないんじゃ!?」
「おれの傍にいてくれる限りは、おれが守ってやるよ。ほら、行こうぜ」
「うう。た、頼らせていただきます」
「かしこまるんじゃねえよ。子供のころに、おれを助けてくれたのは有栖だろ」
それはだって、……あの時の燎火を見たら、誰だってそうすると思う。
雪の実と草丸に別れを告げて、私たちは目当てのビルに向かった。
正面玄関の前に立つと、目の前には、それこそ現世と変わらない自動ドアがある。
ここに妖怪がいるって言われても、いまいちぴんと来ない。
「じゃ、入るか。就妖社の流山支店は、社員は三十人ほどだ。人間も、妖怪も、非正規職員もいる。社長は一階奥の社長室にいるから、まずはそこへ行こう……って、なんだよその怪訝そうな顔?」
「だ、だって、妖怪の燎火が支店とか非正規職員とか言うのが、違和感凄くて」
「はは、そうかもな。まあ人間と妖怪それぞれの会社で働いた経験者として言わせてもらえば、働き出したら現世も裏界も大して差はねえよ」
燎火とは、何年か会わない時期もあったけど、その後再会して今に至る。
一緒に近場に遊びに行ったり、他愛もないおしゃべりを数えきれないくらいしてきたけど、この犬神が就妖社という人材派遣会社で仕事をしているなんて知ったのはつい最近のことだった。
その就妖社が自社ビル内で運営している職業訓練の担当者を募集しており、それに私が応募したのも、就職が決まったのも、燎火の紹介だったところが大きい。
自動ドアが開いて、ビルの中に足を踏み入れると、受付にいた髪の長い女の人が「いらっしゃいませ」と言いかけて、「ああ、燎火くん。そちらは?」と私に目を向けた。
……その女の人の顔が、青い。顔色が悪いとかじゃなくて、水彩絵の具の青色をさっと塗ったように、文字通り青い。
「おれの幼馴染で、古兎有栖だ。今日からここで働くんだよ。有栖、この人は受付と事務やってる水那女の葵だ」
「初めまして、古兎です! 今日からよろしくお願いします!」
私のその声に、事務所の中にいた職員たちの目が、一斉にこっちを向いた。
現世育ちの私には、見慣れない形、見慣れない色、見慣れない動作をしている妖怪の職員がたくさんいる。でも中にはちらほらと、人間らしい人の姿も見えた。
前に面接で来た時は午後だったので、多くの職員は出払っていたみたいで、閑散としていた。でも始業時間前の今は、フロア中ががやがやとして活気がある。
葵さんに案内されて、奥へと進む。
やがて、「社長室」と書かれた漆塗りのプレートがかかった、重厚なドアの前で葵さんは立ち止まった。
「社長、古兎さんがお見えです」
葵さんがドアを開け、私たちを通してくれた。
中に入ると、これも漆塗りの重そうなデスクに、一人の女性がついている。
見た目には、二十代後半か三十代前半くらいに見える。純粋な造作だと前者なんだけど、謎の貫禄が、とても二十代とは思えない迫力を生んでいた。これは、私が面接を受けた時からそうだった。
「いやあようこそ古兎さん、我が就妖社流山支店へ! この黒芙蓉、また一人得難い人材を得たことに感激を禁じ得ないよ! わたくしの果報者ぶりときたら、ちょっとほかにないなあまったく!」
漆黒のロングヘア――燎火とは違ってくせが全然ない――に金縁の丸眼鏡というファッションは、忘れようもない。私を採用してくれた、黒芙蓉支店長だ。就妖社は独立した人事課はなく、総務と支店長が人事を取り仕切っている。
こうして見ると人間にしか見えないけど、支店長は天狗らしい。ご本人いわく、本気で怒ると変化が解けて、とても人とは思えない姿に変わるという話で……それを見ないで済むように、頑張ろう。
燎火が前に進み出た。
「支店長、働き出す前からそんなこと言われたら、有栖にプレッシャーかかるじゃねえか」
「り、燎火!?」
燎火が敬語すら使わず、平常語でそんなことを支店長に言ったので、びっくりした。
確かに燎火の言う通りではあるので、気持ちはありがたいんだけど、そんな口の利き方をしていいの?
でも支店長は全然気にしていない様子で、
「ああ、それもそうか。これは失礼、もう少しで、わたくしが自分に対してこれを振るわねばならなくなるところだった」
そう言って、デスクの端に置いてあった、なにか木製の薄い板のような道具をぽんぽんと手のひらで叩いた。
「あのっ、黒芙蓉支店長」
「うん?」
「私、まだ不慣れな仕事ですけど、一生懸命にやります。私もついこの間まで求職者でしたけど、……結構つらいというか、いたたまれない気持ちになるものなんですよね。それが分かるから、職業訓練に来てくれたみなさんがいい仕事を見つけられるように、充実して働けるように、精いっぱいやります」
支店長は、眼鏡の奥の瞳をきらりとさせて、微笑んだ。
「ありがとう。一緒に、なすべき職務を果たそう」
うんうんとうなずいている支店長に、燎火が言う。
「それじゃおれたち、仕事に入るよ。行こうぜ、有栖」
「う、うん。では、失礼します」
支店長室を出て、ぱたんとドアを閉める。
葵さんは、一礼して受付に戻っていった。
「燎火、裏界ってあんなふうに上司と話して大丈夫なの?」
「ああ、現世だと敬語使うよな。裏界は特定の規律とか秩序があんまりねえから、それぞれ好き好きって感じだな」
「そうなんだ。……あと、今支店長のデスクにあった木の道具、なに?」
「ああ、あれか。木のハリセンだ。ふざけた部下は、あれでばちんとやられる」
……木の? ……ばちんと?
「言っとくが、あんなもの持ってるのは裏界でも支店長くらいだからな。能登ヒバの特注品らしい。本人があの辺出身で、今でもちょくちょく里帰りしてるが、実にフットワークの軽い人でな。たまに仕事抜け出してひとっ飛びして、信州まで蕎麦食べに行ってるし」
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