下弦の盃(さかづき)

朝海

文字の大きさ
上 下
14 / 20

第十三章「対峙と正体」

しおりを挟む
「要兄様」
 要は正が使っている椅子に座っていた。横にはあかりに剣を突き付けた那智が立っている。
「それは、先代が作った剣か?」
「組長も要兄様と戦うことを望んでいないです」
 鞘から剣を抜く。要は澪の剣を受け止めた。剣の交わる音だけが響く。澪は要の剣を振り払った。その間に一瞬――隙ができてしまう。
 背後からは那智の剣が迫っていた。
(しまった……!)
「涼」
 視界に入ったのは見慣れた背中だった。那智の剣を涼の剣が動きを止める。
「私たちは交わした宣誓を破るつもりはありません」
「バカだな。せっかく、解放されたのにどうしてここにいる? 自分のために戦っている?」
「何とでも言ってください」
 涼は使えないと呟き剣を捨てると、那智の懐に入った。今度は容赦ない蹴りを入れる。そうしないと、戦いに集中し歯止めがきかなくなっている那智を止めることはできない。
 静止することはできない。
 意識を失った那智の体を畳におろす。
「本橋さん!」
 あかりは咄嗟に澪の名前を呼んだ。涼が何事かと振り返る。澪の剣の軌道が要の心臓を狙っていた。
「澪様! いけません!」 
 涼が焦った声を上げる。澪の手を血に染めるわけにはいかない。咄嗟に投げ出した剣を手にとる。自らの命と引き換えになってもいい。澪を止める覚悟でいた。
 要の横の畳に剣を突き刺す。
「殺さないのか? ほら。結局、お前はどこまでも甘い」
「要兄様。殺さない勇気だってあるはずです」
「黙れ。お前の説教には吐き気がする」
「自分が甘いことぐらい分かっている――分かっているさ。それでも、要兄様を殺すつもりはありません」
 ふいに澪の体から力が抜けた。突如、崩れ落ちた体を涼が支えた。肩で息をしている姿が痛々しい。冷え切った体にゾっとする。
 そのまま、澪は意識を失ってしまう。どの道に進みたいか聞いた時の不安を、直感を信じればよかった。澪や瞬に伝えられていなかったよりも、自分の落ち度に涼は怒っていた。

「一体、何が理由で?」
「はっ……何? お前、知らされてないの?
 本橋家に引き継がれている遺伝子の異常だよ。澪ほどひどくなかったが、俺もそうだったからな。隠れて治療を受けていた。両親は運よくその異常を引き継がなかったようだが」
 要は澪と同じく病気のことを徹底的に隠していた。病気だと知られてしまえば、弱みに付け込まれて今まで葬ってきた者たちに復讐の機会を与えてしまうことになる。せっかく、ここまで登りつめてしまったものが、水の泡となってしまう。
 要は逃げようと踵を返した。だが、ある人物に投げ飛ばされてしまう。手錠で拘束される。その動いた人物は那智だった。
 どうやら、僅かな涼の動きを見て急所を外したようである。
「那智。貴様、裏切るのか!」
 要の顔が絶望に染まる。
「裏切る? 面白いことを聞いてくれる。裏切るも何も私は潜入捜査官だ。私の居場所はあなたの傍ではない」
 涼と要が知らなくても当然だろう。
 自分たち秘密裡で動いている「影」の部分なのだから。
 そして、存在は誰にも知られずに再び闇の中へとひっそりと潜っていく。自分にとって、要の逮捕が「影」としての最後の仕事になるだろう。那智が「影」に復帰することはもうない。
 全てをやりきったという思いがあったからだ。そのつもりで要と対峙していた。那智が手を挙げる。数人の警察官が要を連行していく。先程まで、意識を失っていたのが嘘みたいな動きである。
 警察官が木箱とケースを渡しているのが見える。
「那智?」
 涼は呆然と那智を見つめる。彼女は涼にあかりを押し付けた。
「死ぬな――澪」
 那智は澪の傍に膝をついた。涼が手を伸ばすが、その手を弾く。まるで、邪魔をするなというばかりの仕草である。ケースから注射キッドを取り出した。手慣れた様子で注射器に薬を入れていく。
 それを、澪に投与した。ピクリと体が反応したが目覚める気配はない。
「那智。何をした?」
「騒ぐな、涼」
「もう一度聞く。澪様に何をした?」
 涼の殺気が増していった。
 緊迫した空気が流れていく。

「大丈夫。私は味方だ。先程、打ったのは発作を落ち着かせる薬だ。澪とは従兄妹だし、血のつながりもある。私の血液を採取し科捜研に分析を分析してもらったのさ」
 那智が懐から警察手帳を取り出す。そこには、『警視』と書かれており、那智の顔写真が貼ってあった。蒼蘭会のピアスを外して、木箱を取り出すと白蘭会のピアスをつける。涼の顔は青ざめていてひきつっていた。
 顔がひきつるのは仕方がないことだろう。
 敵だと思っていた相手が味方であり、全力で蹴りを入れてしまったのだから。
 呼び捨てにするなど、執事としてやってはいけないミスだった。明らかに、涼の情報収集不足だった。ここに、瞬がいたら鼻で笑われていたことだろう。青くなっている涼を見て那智は気にするなと声をかける。
「もしかして、今までの態度は?」
「そう。全て演技だ。どうだった? 私の演技は? アカデミー賞を貰えるぐらいだろう? それと、須田さん。改めて謝罪をさせてください。巻き込んでしまい申し訳ありませんでした」
 那智はあかりに頭を下げる。
「いえ、その。私がここにいたいと望んでしまったから」
「そうか。本人が望んだのなら、それでいい」
「那智様、大変失礼いたしました。このことは、澪様は知っているのでしょうか?」
 涼は立て直し、敬語で問う。
 さすが、瞬に仕込まれたことだけあって立て直しが早かった。首を垂れる。動きが優雅で洗礼されていた。無意識叩き込まれた仕草と意識はそう簡単に消えはしない。いやというほど体に染みついている。
「澪はおそらく、気が付いたが何も言わなかった」
 澪に会わなかったのは感情輸入をしないためである。感情に流されてしまえばこの仕事はできない。
「那智様はこの道を選んだことに後悔はないのですか?」
「後悔はない。それは、お前たちだって一緒だろう?」
「ええ。後悔などしていたら、ここにはいられませんから」
 那智は部屋を出て行こうとする。
「那智様」
 涼は彼女を呼び止めた。
「何だ?」
「目が覚めた澪様に会わないおつもりですか?」
「私はアメリカに留学していることが決まっている」
「なら、話をするべきなのでしょうか?」
 黙っていたあかりが恐る恐る声をかける。那智は小さく息を吐き出す。澪の髪をさらりと梳くと、額に口づけを落とす。那智が彼を好きだということが分かる。恋愛としての好きではなくきっと家族愛だろう。
 兄としての存在が大きいようだった。
「那智様はそれでいいのでしょうか?」
「涼。様はいらない。これからは、敬語はいらない。今回の件に関しては清々しいぐらいだよ」
「私、私があなたの気持ちを本橋さんに伝えます」 
 那智はフッと、笑う。
 どこか、吹っ切れたような笑顔だった。
 あかりと涼にはそう見えた。
 那智はそのまま、立ち去っていく。
「須田さん。私たちも行きましょう」
 涼は呼んだ車に澪とあかりを乗せた。
しおりを挟む

処理中です...