下弦の盃(さかづき)

朝海

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第十六章「復帰」1

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「瞬」
「澪様?」
 澪の姿に瞬は立ち止まる。彼は白いシャツにジーパンというラフな格好だった。思いもよらぬ形で澪と再会をしたのである。
「お一人ですか?」
「ああ」
 涼、文の姿はない。白蘭会に入ったばかりのあかりは、当然ながらまだ使うことはできないだろう。いつどこで、誰が見ているか分からない。
 澪に関する情報が流れてしまうかもしれない。周囲を確認して部屋に澪を入れた。用心のために鍵をかける。
 机にテーブルに本棚に、パソコンに洋服ダンスに、ベッドにテレビなど余計な物はなかった。瞬の部屋は本当にシンプルである。そのシンプルさが逆に澪にとって落ち着ける要素となっていた。
「どうぞ」
「ありがとう」
 瞬は澪にコーヒーを出す。
「体調の方はいかがですか?」
「今は薬が効いているしある程度、安定している」
 瞬クラスとなれば要と相対したことも、知っているだろう。
 もちろん、那智が味方で自分を助けてくれたことも。
 小さい頃は那智、要、澪で遊んでいた。だが、中学生になる頃から徐々に交流が減っていった。この頃から、彼女は潜入捜査官として活動していたのかもしれない。

「今日はどのようなご用件で?」
「勘のいいお前なら気が付いているはずだ」
「私の復職ですか?」
「一時的でいい。涼、文、あかりの教育を頼む」
「須田さんなら分かりますが。なぜ、あの二人まで?あなたが立派に育て上げたではないですか」
「どうしてだと思う?」
「まさか」
「そう。そのまさかだ」
 澪が瞬を見る。
 覚悟を決めた者の瞳だった。
 歴史に名前だけを残して。
 皆に記憶だけを残して、証だけを刻んでいなくなるつもりだと、姿を消すつもりだと瞬は直感でそう感じとった。
「あなたはずるい。いつでも、私の心の中に入ってくる。入り込んでくる」
 どちらにしろ、いつか別れが来るだろうと瞬は予測をしていた。
 予感はしていた。
 ならば、澪の執事として最後までやり遂げよう。それが、使命だというなら、見届けよう。執事としての役割を果たそう。
「それが、私のやり方だ」
「変わっていないようで安心しました。少々、お待ち頂けますか?」
「瞬?」
「着替えて参ります」
 数分もしないうちにスーツ姿の瞬が出てくる。また、こうして澪の隣を歩けることができて幸せだった。
 光栄だった。
「懐かしいな。両親が生きていた頃を思い出す」
 澪が僅かに瞳を細めた。箱からピアスを取り出すと、耳に通す。
 受け継がれてきた重み。
 本橋家に戻ってきたのだと、実感が湧いてきた。やはり、澪の隣は安心感があり心地いい。文や涼、あかり、那智以外でこの隣を譲るつもりはない。瞬の表情が執事のものへと変わる。
 瞳が鋭くなる。
 この世界から離れていても、感覚自体、体が覚えている。
 乾いていた心が潤っていく。
 満たされていく。
「澪様。これだけは、覚えておいてください。どこへ行ったとしても、私はあなたの執事です」
「瞬」
「はい」
「ありがとう」
 瞬の肩に額をのせる。その温かさが、澪がここにいることを証明してくれている。
 よくぞ、自分を頼ってくれたと思う。
「行きましょう。私たちの戦いはまだ続いています」
「そうだな」
 瞬は澪にヘルメットを渡した。バイクの方が動きやすいし、効率的と考えたのだろう。
「申し訳ありませんが、飛ばします。しっかりつかまっていてください」
 瞬はオートバイのエンジンをかけた。

「おい……瞬だ」
「え……あいつ、引退したと」
 ざわざわと周囲がざわめく。
 ざわめきが広がっていく。
「いや、これは――」
 澪が瞬を連れて歩く姿は、先代――正の再来だと誰かが呟いた。
「澪様。どこに――」
 出かけておられたのですか? という涼の言葉は続かなかった。
「野田さん?」
「兄さん?」
 あかりと文は足を止める。
「久しぶりだな。涼、文」
「島本さん」
 文がなんともいえない表情になる。瞬の教育の厳しさは本橋家一だった。
 本橋家の執事失格だと、涼と文は何回怒られたことか。
 武術などの訓練で叩きのめされたことか。
 きつい言葉を投げかけられたことか。
 プライドをへし折られたことか。
 思い出しただけで、反射的に二人の背筋が伸びる。瞬の教えはそれほど、体にしみついていた。

「もしかして、彼が先代の?」
 あかりは瞬のことを文と涼から少しだけ聞いていた。
「少しは勉強しているみたいだな。君が須田あかりか?」
「はい」
 震える足で前に出る。
「あかり。島本さんの訓練は厳しいわ。耐えられる?」
「私は――」
 あかりは視線を下にむけた。
(逃げ出したくない)
 視線を上げて瞬を見る。
「澪様の恥にならないように、訓練を受けます」
「言ったな? 覚悟しておけよ」
 彼の目が厳しく光った。
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