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降臨
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立ち止まった美姫は、秀一の高く上げた左手に右手を合わせ、軽く握った。左手を秀一の右上腕に軽く添え、ダンスの姿勢に入る。
それに合わせて「美しく青きドナウ」の演奏が最初から始まり、ステップを踏む。
躰が揺れる度に秀一の懐かしい甘く官能的な匂いが美姫の鼻腔をつき、どうしようもなく躰が火照り、熱く疼き出す。繋いだ指先が震え、掌がじっとりと濡れているのを、間違いなく秀一は感じ取っているだろう。
「ステップは忘れていないようですね」
微笑んだ秀一の目尻に皺が寄り、息苦しくなって美姫は「はい......」と小さく答えながら、耐えきれず視線を逸らした。
忘れられるはず、ない......こんなにも心が、躰が覚えてる。
舞踏会と同じ曲を聴きながら、ステップを踏み、秀一に支えられてターンを回る。
美姫の想いは、過去へ飛躍する。
ピンクがかった紫にライトアップされた舞踏会のダンスホール。
真紅の絨毯が敷かれ、オーケストラが優雅に演奏する。
純白のドレスに白いカサブランカの髪飾りをつけ、愛する人に身も心も何もかも委ね、幸せに浸りながら踊ったあの時。
『Alles Walzer!(みんなワルツを!)』
胸が高鳴り、高揚し、ときめく。
まさに今、美姫の胸に同じ想いが去来する。
毎晩のように思いを馳せ、恋い焦がれた秀一が目の前にいて、自分と今踊っていることがまるで夢のようだと感じた。周囲には大勢の好奇の視線が寄せられているのに、大和や両親のことさえ忘れ、自分が秀一とふたりきりの世界にいる錯覚に陥った。
これが、夢ならいいのに。
永遠に醒めることのない夢なら、どんなにいいだろう......
美姫は、秀一の麗しい横顔を見つめた。
だが、これが夢ではないと分かっている。
この手が離れれば、魔法は解けてしまうのだ。
秀一さんは、どうして突然現れたのですか。
何が、目的なのですか。
私に復讐するためですか?
私を陥れるためですか?
そのために、私の元に現れたのですか。
それでも、いい。
あなたが、生きていた。
もう一度、名前を呼んでくれた。
こうして、踊ってくれている。
---たとえ秀一の心の中に自分への深い憎悪があったとしても、美姫は幸せだと思えた。
秀一は目を細めて美姫を見つめると、彼女の耳元でそっと囁いた。
「貴女は今、幸せですか?」
何もかも見透かしてしまうライトグレーの瞳に見据えられ、美姫は激しく動揺した。
瞳を逸らしてはいけない。
逸らしてしまえば、嘘をついていると見抜かれてしまうから。
「私は今、幸せに暮らしています」
秀一の瞳を見つめて答えた。
けれど、秀一は美姫の答えを聞いても依然として熱の籠った瞳でジリジリと焼き尽くすように見つめ続ける。美姫はついに耐え切れず、瞳を逸らしてしまった。
意地悪く秀一の目が細められる。
「相変わらず嘘が下手ですね」
そうだ。秀一さんに、嘘なんて通じるはずなどない。
私の心も、秀一さんには硝子のように見透かされているんだ。
---私には、秀一さんの考えが何一つ掴めないのに......
俯いて唇をきつく結んだ美姫に、秀一は更に耳元で囁いた。
「もし私が、ピアニストとしての名声も、貴女も、両方手に入れてみせると言ったら......どうしますか」
え......
それって、どういうこと!?
美姫が秀一を見上げると、ちょうど演奏が終わったところだった。秀一が恭しくお辞儀をし、美姫も慌ててお辞儀を返す。
「また、お会いしましょう」
秀一は意味深な笑みを深め、美姫の心を奪ったまま去っていった。
呆然と秀一を見送る美姫の腰を、大和が強く抱き寄せた。
「あいつに絶対美姫は渡さねぇ......」
独り言のように呟く。
美姫の心は、未だ夢の中にいるようにふわふわしていた。
けれど美姫の皮膚には秀一の熱が残り、彼の残り香が甘く酔わせ、切ない疼きを齎す。それは、久しぶりに感じる甘い痛みだった。
先程の秀一の言葉が、鐘のようにこだまする。
ピアニストしての名声も、私も、手に入れる......だなんて。
そ、んなこと......出来るはず、ないのに......
意味深な秀一の笑顔が、美姫の胸を騒つかせた。
それに合わせて「美しく青きドナウ」の演奏が最初から始まり、ステップを踏む。
躰が揺れる度に秀一の懐かしい甘く官能的な匂いが美姫の鼻腔をつき、どうしようもなく躰が火照り、熱く疼き出す。繋いだ指先が震え、掌がじっとりと濡れているのを、間違いなく秀一は感じ取っているだろう。
「ステップは忘れていないようですね」
微笑んだ秀一の目尻に皺が寄り、息苦しくなって美姫は「はい......」と小さく答えながら、耐えきれず視線を逸らした。
忘れられるはず、ない......こんなにも心が、躰が覚えてる。
舞踏会と同じ曲を聴きながら、ステップを踏み、秀一に支えられてターンを回る。
美姫の想いは、過去へ飛躍する。
ピンクがかった紫にライトアップされた舞踏会のダンスホール。
真紅の絨毯が敷かれ、オーケストラが優雅に演奏する。
純白のドレスに白いカサブランカの髪飾りをつけ、愛する人に身も心も何もかも委ね、幸せに浸りながら踊ったあの時。
『Alles Walzer!(みんなワルツを!)』
胸が高鳴り、高揚し、ときめく。
まさに今、美姫の胸に同じ想いが去来する。
毎晩のように思いを馳せ、恋い焦がれた秀一が目の前にいて、自分と今踊っていることがまるで夢のようだと感じた。周囲には大勢の好奇の視線が寄せられているのに、大和や両親のことさえ忘れ、自分が秀一とふたりきりの世界にいる錯覚に陥った。
これが、夢ならいいのに。
永遠に醒めることのない夢なら、どんなにいいだろう......
美姫は、秀一の麗しい横顔を見つめた。
だが、これが夢ではないと分かっている。
この手が離れれば、魔法は解けてしまうのだ。
秀一さんは、どうして突然現れたのですか。
何が、目的なのですか。
私に復讐するためですか?
私を陥れるためですか?
そのために、私の元に現れたのですか。
それでも、いい。
あなたが、生きていた。
もう一度、名前を呼んでくれた。
こうして、踊ってくれている。
---たとえ秀一の心の中に自分への深い憎悪があったとしても、美姫は幸せだと思えた。
秀一は目を細めて美姫を見つめると、彼女の耳元でそっと囁いた。
「貴女は今、幸せですか?」
何もかも見透かしてしまうライトグレーの瞳に見据えられ、美姫は激しく動揺した。
瞳を逸らしてはいけない。
逸らしてしまえば、嘘をついていると見抜かれてしまうから。
「私は今、幸せに暮らしています」
秀一の瞳を見つめて答えた。
けれど、秀一は美姫の答えを聞いても依然として熱の籠った瞳でジリジリと焼き尽くすように見つめ続ける。美姫はついに耐え切れず、瞳を逸らしてしまった。
意地悪く秀一の目が細められる。
「相変わらず嘘が下手ですね」
そうだ。秀一さんに、嘘なんて通じるはずなどない。
私の心も、秀一さんには硝子のように見透かされているんだ。
---私には、秀一さんの考えが何一つ掴めないのに......
俯いて唇をきつく結んだ美姫に、秀一は更に耳元で囁いた。
「もし私が、ピアニストとしての名声も、貴女も、両方手に入れてみせると言ったら......どうしますか」
え......
それって、どういうこと!?
美姫が秀一を見上げると、ちょうど演奏が終わったところだった。秀一が恭しくお辞儀をし、美姫も慌ててお辞儀を返す。
「また、お会いしましょう」
秀一は意味深な笑みを深め、美姫の心を奪ったまま去っていった。
呆然と秀一を見送る美姫の腰を、大和が強く抱き寄せた。
「あいつに絶対美姫は渡さねぇ......」
独り言のように呟く。
美姫の心は、未だ夢の中にいるようにふわふわしていた。
けれど美姫の皮膚には秀一の熱が残り、彼の残り香が甘く酔わせ、切ない疼きを齎す。それは、久しぶりに感じる甘い痛みだった。
先程の秀一の言葉が、鐘のようにこだまする。
ピアニストしての名声も、私も、手に入れる......だなんて。
そ、んなこと......出来るはず、ないのに......
意味深な秀一の笑顔が、美姫の胸を騒つかせた。
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