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SS1 「いつか……」

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 美姫が幼稚舎、秀一が高校生の時の話です。

 美姫がパタパタと靴音を鳴らして嬉しそうにこちらに駆けてくるのが見える。

「しゅうちゃぁん!!」
「美姫……」

 美姫の目線の高さまで座って待っていると、ボスッという音ともに胸に飛び込んでくる。チョコレートの甘い匂いが鼻を擽る。きっと、おやつの時間にでも食べたのだろう。

 天使の輪が出来ている艶のある髪を撫でてやると、猫のように仰向けになって甘えてくる。

 本当に……天使なのかも、しれないですね。私の為に舞い降りてきてくれた天使……

 無邪気な美姫は、大きな黒目をパチパチと瞬きさせてから飛び上がった。

「しゅうちゃん、わたしたち『けっこんしき』するから、こっちきてきて!」
「え…結婚式?」
「うん。かおちゃんがねぇ、ゆってたの。『けっこんしき』は、だいすきな人とするんだって。だから、わたしはこれからしゅうちゃんと『けっこんしき』するんだ♪
 ほら、しゅうちゃん、はやくぅっ!」
「美姫、そんなに走ったら転びますよ」

 美姫は私の手を引っ張りながら、裏庭へと連れ出した。どうやら倉庫を教会に見立て、この前で結婚式を挙げるつもりらしかった。

 美姫は背中からリュックサックを取り出すと、草の上に並べた。

「えへへ。おかーさまとおでんわしたときに、『けっこんしき』になにがいるか、きいたの」

 白いパーティードレス、それに合わせたヒール。カフェカーテン用のレース、おもちゃの指輪、アルミホイルで作った指輪。『くるす みき』『くるす しゅういち』と書かれた紙まで用意してあった。

 そして、参列者と思われるぬいぐるみ達を慎重に並べていった。私が美姫に誕生日の時に買ってあげた大のお気に入りのイギリス製のテディベアは、一番前に陣取っていた。

「さぁ、しゅうちゃんもてつだって!」

 美姫は、裏庭に咲いている薔薇を摘み取って、空になったリュックサックに入れ始めた。

「何をしているのですか?」
「『けっこんしき』のあとにね、おはなをばぁって、まくんだって!」

 ぬいぐるみの参列者にはフラワーシャワーは頼めないので、結局、式を挙げた自分達がフラワーシャワーをするのかと考えるとおかしかったが、美姫は至って真面目なので、付き合うことにした。

「美姫、待って下さい。薔薇なら私が……」

 美姫が棘に指を刺されでもしたら、と思い止めようとすると、

「いたっ!!」

 心配が的中してしまう。どうやら、棘は刺さっていないようだ。少し血が出てしまっているが、ほんの僅かなかすり傷だった。

「可哀想に……」

 小さな指を手に取り、血の出ている部分を唇に当てた。美姫は、神妙な顔つきで見ている。

「ごめんなさい……しゅうちゃんが、とめようとしてくれてたのに……」
「いいのですよ。でも、これからは私に薔薇は摘ませて下さいね」

 私が薔薇を摘み取り、美姫にはリュックサックの中で花弁をバラバラにしてもらった。

 後で庭師が来たら、驚くでしょうね……

「さ、よういはできたわ」

 まるで淑女のように美姫が振る舞う姿を微笑ましく見ていると、美姫の指示が飛んできた。

「しゅうちゃん、『おむこさん』はむこうでまってるの!」
「はいはい、分かりましたよ」

 教会に見立てた倉庫の前で佇んでいると、美姫が例のテディベアを抱いてしずしずと歩いてきた。どう見てもリードしているのは美姫だが、本人の空想の中ではテディベアの父親と腕を組んで歩く花嫁なのだ。

 テディベアを席へと戻すと、真剣な表情で向き合った。美姫は白いドレスにレースのカフェカーテンを頭に乗せ、上目遣いに見てきた。

「どう、かなぁ……?」
「ええ、とても可愛いですよ」

 その言葉に美姫は嬉しそうに微笑んだ。

「しゅうちゃん、ここに『さいん』して」

 結婚誓約書にはペンまで添えてあり、用意がいい。掌に乗せて、なんとかサインした。美姫もそれを真似てやってみるが、紙に大きな穴が開いてしまった。

「ごめんなさい……」
「大丈夫ですよ」

 美姫にはおもちゃの指輪をはめ、私にはアルミホイルで作った手作りの指輪を巻いてくれた。

「しゅうちゃん、わたしの……みきの、『おむこさん』になってくれる?」
「えぇ、もちろんですよ」

 美姫の顔が花が咲いたようにぱぁっと明るくなる。

「うふふ、じゃあわたしは、しゅうちゃんの『およめさん』になってあげるね?」

 そして、真っ直ぐに立つと私に向かって背伸びをした。

「はいっ!」
「え?」
「チュー、するんでしょ?」

 美姫は、背伸びをしても全く届かない背丈を頑張って届かせようとヒールの靴の踵をぶらぶらさせながら、懸命に背伸びしていた。しっかりと目まで瞑っている。

 膝を曲げ、その愛らしく染まった頬に軽く口付けた。

「えぇーっ、ほっぺぇ?くちびるじゃないのぉ?プリンセスはみんなおーじさまからくちびるにチューしてもらってたよ」

 頬への感触に、期待が外れて美姫が不満げな表情を見せる。

「そうですね、プリンセス。では……」

 軽く唇を重ねると美姫の顔がたちまち真っ赤になった。

「これで、満足ですか?」
「う…うん……」

 リュックサックから花弁を取り出し、両手で空高く舞い上げる。美姫はドレスにわざと花弁がかかるようにくるくると踊るように回っていた。

「ねぇ、しゅうちゃん」
「何ですか?」
「だぁいすき!!」
「私も……美姫のことが好きですよ」

 美姫は……いつか私とは結婚出来ない関係だと知るのでしょう。そして、他の男を愛すようになり、いつかは結婚する……なんだか、娘を奪われる父親のような心境ですね。


 大人になった秀一のデスクの引き出しには、結婚誓約書とアルミホイルで作った指輪が未だ捨てられずに眠っていた。
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