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SS5 「初めてのバレンタイン」
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自宅ヘ向かうエレベーターに乗った途端、秀一は肩から大きく息を吐いた。その両手には大きな袋があり、そこから溢れ出しそうな程のチョコレートが入っていた。
今年は、特に酷かったですね……
朝、美姫を幼稚舎で見送った後、運転手に高等部まで送ってもらった。
車から降りた途端、その主が秀一だと知るや、周りにいた女生徒が座喚く。去年からプロのピアニストとして活動するようになり、益々秀一の周りは賑やかになっていた。
普段より速足で教室に向かうものの、やはり空気の読めない者はいるもので。
「あっ、あの! 来栖くん、これ…よかったらもらって下さい」
秀一は、こういう時は断らないことにしている。
断る方が面倒だし、芸能活動もしている為、相手が高校生とはいえ、いや口コミで広がる女子高生が相手ゆえに下手な対応は出来ないからだ。
「ありがとうございます」
社交的な笑みを浮かべて受け取ると、颯爽と歩き出す。
これ以上は何も言わせない……そんな雰囲気に、渡した女子高生はただ秀一に見惚れながら見送るしかなかった。
案の定、下駄箱から机の上から中、ロッカーのノブにまで袋が掛けられ、そこにたくさんのチョコレートが入っていた。それでも、直接渡してこない輩はいい。対応する必要がないので楽だ。
休み時間だけでなく、授業中に至るまで、ひっきりなしに続くチョコレート攻撃。更には教師にまで呼び出され、チョコレートを渡される始末だ。
「すみません……気分が悪いので、早退します」
チョコレートを受け取った後、英語担当の教師にそう告げた。実際、女のつけている濃厚な香水の匂いが鼻につき、吐き気を催した。
女教師は秀一の言葉を受け、「後のことは任せて」と言った。
教師が聖職であるという認識は、秀一の中からとっくの昔に消えていた。特に女という生き物は、年齢がいくつであろうと、どんな職業であろうと、結婚して子供がいてさえも、好みの男を見つけた時には目の色が変わり、なんとか取り入ろうとしてくる。
秀一は経験により、それを上手く利用する術をこの年齢で既に備えていた。
歩きながら携帯でタクシーを呼び、教室には寄らずにそのまま門へと向かう。
暫く待っていると、タクシーが到着すると同時に、例の女教師が秀一の学生鞄と受け取ったチョコレートの袋を抱えて現れた。
「これで、いいかしら?」
「えぇ。ありがとうございます」
ニコッと笑みを浮かべると、女教師の頬が赤らんだ。
自分で教室に戻ると厄介なので、ちょうどこの女がいて良かった。学生なら特別扱いだと騒ぎ立てられるが、教師ならそういった心配もないでしょうし。
秀一にとっては、ちょうどタイミングよく現れた都合のいい女。ただ、それだけだった。
「無理を言ってすみませんでした」
「あ、あら…いいのよ、来栖くん。いつでも先生に頼ってね」
嬉しそうに腰をくねらせる女教師を尻目に、秀一はタクシーに乗り込んだ。
「では、失礼します」
扉を閉めると、座席に深く腰掛ける。
タクシーの運転手がバックミラー越しに大きな袋を見て、ギョッとしたのを感じながら、秀一は行き先を告げると目頭を抑え、瞼を閉じた。
今日は途中で帰ってしまったので、また明日になれば同じことがあるかもしれませんね。
明日のことを思うと、秀一はまた気分が沈んだ。
エレベーターが開くと、ちょうど家政婦が帰り支度をしているところだった。秀一の姿を見て、慌てたように荷物を纏める。他人を家にあげることが嫌いな秀一は、家政婦を雇う際に顔を合わせない時間帯に来るように言いつけていたからだ。
「も、申し訳ありません。すぐに帰りますので......」
「いえ、気にしないで下さい。私が学校を早退してしまったせいですから」
それを聞いて、家政婦が顔をあげた。
「お体の具合が悪いんですか?」
体ではなく、気分が悪いのだと言いかけたが、そんなことまで家政婦に話す義理はない。
「いや......そうだ、お願いがあるのですが」
「なんでしょうか」
家政婦の言葉を受け、秀一は袋を2つ彼女の前に差し出した。
「ここに名前が書いてあるものをリストアップして頂けますか。終わったら食べるなり、処分するなり、好きにして構いませんので。その分の手当は余分につけておくよう、配慮します」
家政婦は言いかけた言葉を呑み込み、袋を受け取った。
「......分かりました」
家政婦が帰ると、秀一は革張りのソファに躰を預けた。
今日もレコーディングの予定が入っているが、早退したお陰で少し休む時間がある。寝不足な中、朝早くから起きた為にまだ気怠さが残っている。
そういえば......
冷蔵庫に美姫のチョコレートを入れておいたことを思い出した。
ソファから下り、キッチンへと向かい、冷蔵庫の扉を開ける。家政婦が作り置きしておいた夕飯と共に、四角い箱が見えた。
それを手にソファへと戻り、腰を下ろす。
箱を開けると、欠けてしまったハート形のチョコレート。不恰好な文字を読んでいるだけで、笑いがこみ上げてくる。
私には、これだけあればいい......
チョコレートをパキンと折り、小さな欠片を口に含んだ。
美姫の顔を思い浮かべながらチョコレートを味わっていると、甘さと舌の上で溶ける温かさで、いつしかとげとげしていた気持ちが癒されていくのを感じた。
このチョコレートは、まさに美姫そのものですね。
秀一は穏やかな笑みを浮かべると、再びチョコレートに手を伸ばした。
今年は、特に酷かったですね……
朝、美姫を幼稚舎で見送った後、運転手に高等部まで送ってもらった。
車から降りた途端、その主が秀一だと知るや、周りにいた女生徒が座喚く。去年からプロのピアニストとして活動するようになり、益々秀一の周りは賑やかになっていた。
普段より速足で教室に向かうものの、やはり空気の読めない者はいるもので。
「あっ、あの! 来栖くん、これ…よかったらもらって下さい」
秀一は、こういう時は断らないことにしている。
断る方が面倒だし、芸能活動もしている為、相手が高校生とはいえ、いや口コミで広がる女子高生が相手ゆえに下手な対応は出来ないからだ。
「ありがとうございます」
社交的な笑みを浮かべて受け取ると、颯爽と歩き出す。
これ以上は何も言わせない……そんな雰囲気に、渡した女子高生はただ秀一に見惚れながら見送るしかなかった。
案の定、下駄箱から机の上から中、ロッカーのノブにまで袋が掛けられ、そこにたくさんのチョコレートが入っていた。それでも、直接渡してこない輩はいい。対応する必要がないので楽だ。
休み時間だけでなく、授業中に至るまで、ひっきりなしに続くチョコレート攻撃。更には教師にまで呼び出され、チョコレートを渡される始末だ。
「すみません……気分が悪いので、早退します」
チョコレートを受け取った後、英語担当の教師にそう告げた。実際、女のつけている濃厚な香水の匂いが鼻につき、吐き気を催した。
女教師は秀一の言葉を受け、「後のことは任せて」と言った。
教師が聖職であるという認識は、秀一の中からとっくの昔に消えていた。特に女という生き物は、年齢がいくつであろうと、どんな職業であろうと、結婚して子供がいてさえも、好みの男を見つけた時には目の色が変わり、なんとか取り入ろうとしてくる。
秀一は経験により、それを上手く利用する術をこの年齢で既に備えていた。
歩きながら携帯でタクシーを呼び、教室には寄らずにそのまま門へと向かう。
暫く待っていると、タクシーが到着すると同時に、例の女教師が秀一の学生鞄と受け取ったチョコレートの袋を抱えて現れた。
「これで、いいかしら?」
「えぇ。ありがとうございます」
ニコッと笑みを浮かべると、女教師の頬が赤らんだ。
自分で教室に戻ると厄介なので、ちょうどこの女がいて良かった。学生なら特別扱いだと騒ぎ立てられるが、教師ならそういった心配もないでしょうし。
秀一にとっては、ちょうどタイミングよく現れた都合のいい女。ただ、それだけだった。
「無理を言ってすみませんでした」
「あ、あら…いいのよ、来栖くん。いつでも先生に頼ってね」
嬉しそうに腰をくねらせる女教師を尻目に、秀一はタクシーに乗り込んだ。
「では、失礼します」
扉を閉めると、座席に深く腰掛ける。
タクシーの運転手がバックミラー越しに大きな袋を見て、ギョッとしたのを感じながら、秀一は行き先を告げると目頭を抑え、瞼を閉じた。
今日は途中で帰ってしまったので、また明日になれば同じことがあるかもしれませんね。
明日のことを思うと、秀一はまた気分が沈んだ。
エレベーターが開くと、ちょうど家政婦が帰り支度をしているところだった。秀一の姿を見て、慌てたように荷物を纏める。他人を家にあげることが嫌いな秀一は、家政婦を雇う際に顔を合わせない時間帯に来るように言いつけていたからだ。
「も、申し訳ありません。すぐに帰りますので......」
「いえ、気にしないで下さい。私が学校を早退してしまったせいですから」
それを聞いて、家政婦が顔をあげた。
「お体の具合が悪いんですか?」
体ではなく、気分が悪いのだと言いかけたが、そんなことまで家政婦に話す義理はない。
「いや......そうだ、お願いがあるのですが」
「なんでしょうか」
家政婦の言葉を受け、秀一は袋を2つ彼女の前に差し出した。
「ここに名前が書いてあるものをリストアップして頂けますか。終わったら食べるなり、処分するなり、好きにして構いませんので。その分の手当は余分につけておくよう、配慮します」
家政婦は言いかけた言葉を呑み込み、袋を受け取った。
「......分かりました」
家政婦が帰ると、秀一は革張りのソファに躰を預けた。
今日もレコーディングの予定が入っているが、早退したお陰で少し休む時間がある。寝不足な中、朝早くから起きた為にまだ気怠さが残っている。
そういえば......
冷蔵庫に美姫のチョコレートを入れておいたことを思い出した。
ソファから下り、キッチンへと向かい、冷蔵庫の扉を開ける。家政婦が作り置きしておいた夕飯と共に、四角い箱が見えた。
それを手にソファへと戻り、腰を下ろす。
箱を開けると、欠けてしまったハート形のチョコレート。不恰好な文字を読んでいるだけで、笑いがこみ上げてくる。
私には、これだけあればいい......
チョコレートをパキンと折り、小さな欠片を口に含んだ。
美姫の顔を思い浮かべながらチョコレートを味わっていると、甘さと舌の上で溶ける温かさで、いつしかとげとげしていた気持ちが癒されていくのを感じた。
このチョコレートは、まさに美姫そのものですね。
秀一は穏やかな笑みを浮かべると、再びチョコレートに手を伸ばした。
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