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62.兄への思い

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 グリーグの『朝』が流れ、食卓にトーストと目玉焼きとサラダが並ぶ、いつも通りの朝食の光景。

「おはよう。はい、今朝の新聞」

 定型通りの言葉に、美羽は一言加えた。

「私、今日は隼斗はやと兄さんのとこに行く日だから」
「そうか」

 義昭は美羽を見上げることなく、新聞を広げてそっけなく答えた。美羽はサッと角砂糖とレモンスライスを添えたアールグレイティーを彼の右側に置き、向かいの席に座った。

 日本に帰った途端、義昭はいつもの夫に戻った。類との再会の時に見せたような笑顔は、もう見られない。

 類がここに暮らすようになったら、3人の生活はどうなるんだろう……

 帰国してから5日経ったが、類からはまだいつこちらに来るのかという連絡は来ていない。

 見た目には以前と変わらぬ生活を送りながらも、美羽の心情は大きく揺らいでいた。逃げ出したいような、それでいて待ち望んでいるような、そわそわした気持ちがずっと続き、落ち着かない。眠れないのは、時差ぼけのせいだけではなかった。

 このまま類が忘れてしまえばいいと願う自分と、自分のことをそれほど気にしていないのではないかと不安がる自分で躰が半分に引き裂かれそうだった。

 お弁当を入れた鞄を手にし、美羽ではなく玄関に向かって義昭が声を掛ける。

「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい……」

 心の籠もらない見送りを済ませると、美羽はくるりと背を向けた。

 私も、用意しないと……

 ダイニングテーブルに置かれた食器を片付けながら、美羽は憂鬱な溜息を吐いた。今までなら普通に片付けられていたのに、義昭の食べ終えた後の食器に触ることに嫌悪感を抱いてしまっている。こんな気持ちになりたくないのに、一度生まれてしまった嫌悪はどんどん雪だるま式に大きくなっていく。

 食器をシンクで洗っていると、頭に鈍く重い痛みを感じた。このところずっと眠れていないせいだ。

 加えて、昨夜の淫靡な夢……忘れようと思うのに、どうしても自動的に何度も頭にその映像が再生されてしまう。

 朝起きた時にセットしておいた洗濯がもうそろそろ終わっている頃だと思うのに、躰が思うように動かない。

 仕方ないのでTV台の下の引き出しから救急箱を取り出し、蓋を開けた。頭痛薬を2錠掴むとキッチンに向かい、冷えたアールグレイティーを捨て、 ティーカップに水を注ぐと薬を含んで飲み干す。

 店に着くまでに効いてるといいけど。

 隼斗に無理を言って長い間休みをもらっていたので、今日はどうしても行きたかった。

 フラフラしながらもなんとか洗濯を済ませ、自分の部屋に向かう。いつもなら軽く掃除機を掛けてから出かけるが、今日はやめることにした。どうせ夫婦ふたり暮らしなんて、それほど汚れないのだ。一日ぐらいサボったところで、義昭が気づくはずもない。

 階段を上る足取りが重い。けれど、身支度はもう殆ど済ませているので、あとは軽く化粧直しをして出かけるだけだ。

 ドレッサーの前でフィニッシュパウダーをはたき、口紅を塗り直す。鏡の自分を見つめながら、今日隼斗に会ったら何を話そうかと考えていた。

 隼斗兄さん、お母さんたちに話してないよね……

 父の葬儀でアメリカに行くことは、隼斗にだけは話していた。そして、母には自分がアメリカに行くことは秘密にして欲しいと念押しすることも忘れなかった。

 隼斗は美羽が高校3年の時に母が再婚した相手の連れ子だった。普通なら、高校生だった美羽にとって突然出来た5つ上で一浪して大学生だった隼斗は、兄として慕うには遅すぎる年齢だ。しかも隼斗は無口で表情に乏しく、近寄りがたい感じがあった。

 それが、異常な状況や困難がふたりを兄妹としての絆を深めさせ、美羽は隼斗のことを実の兄のように慕い、信頼するようになったのだった。

 血を分けた実の弟である類を弟として見られないのに、母の再婚によって兄となった赤の他人である隼斗のことを実の兄のように思えるなんておかしな話だが、隼斗もまた、美羽を実の妹のように可愛がり、守ってくれた。

 もし隼斗がいなければ、美羽は今頃どうなっていたか分からない。

 あの頃のことを思うと、美羽の胃がきつく絞られるようにキリキリと痛む。けれど、それは未だ継続している痛みでもあるのだ。

 せっかく隼斗兄さんのお陰で幸せを掴んだつもりだったのに、その幸せは今、今にも崩れそうに傾いてる……

 悲哀感にさいなまれそうになり、美羽は気持ちを切り替えるために髪の毛を後ろできつく束ねてバレッタで止め、なんとか気合いを入れて立ち上がった。
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