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第5話
師弟と日本ダービー ⑤
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ひとレースごとに、三十分ほどのインターバルがあり、その間、パドックでは次のレースの出走馬が周回をしている。
そこでの馬の様子で、最終的に買う馬券を決めることを考えると、食事に割ける時間はそれほどなかった。
東京競馬場の一階フードコートで、あいは美冬と遅めの昼食を摂っていた。
「そういえば、あいちゃんはなんで騎手になろうと思ったの?」
さっさと蕎麦を平らげた美冬が、あいが騎手を目指す動機に関心を示してきた。
美冬から変装のため着せられているシャツに、蕎麦つゆが飛ばないよう気をつけて蕎麦を啜っていたあいは、箸を止めた。
馬郷のことを話した。
地元を出てから、綾との日々を話したのは、美冬で二人目だ。
「へえ、じゃあ、あいちゃんは、その綾っていうお姉ちゃんみたいな馬に安心してもらうために、一人立ちしようと騎手を目指してるんだ」
「はい」
「健気だぁ。そんな子をとっ掴まえて、金儲けに利用するみたいなことして、ごめんねえ」
「み、美冬さん、泣かないで。涙がどんぶりに入っちゃってます」
あいが卓上の紙ナプキンを渡すと、美冬は盛大に洟をかんだ。
「ありがとう。うん、私、反省した。明日からはもっと清らかな心で生きよう」
「明日からなんですね」
「この後は、ほら、ダービーだから」
言い訳っぽく言い、美冬は目を反らした。
「そ、それにしてもさ。受験前の一時期とはいえ、あの天道駿にコーチをしてもらっただなんて、すごいね」
「天道さんを知ってるんですか?」
「そりゃぁもちろん。競馬ファンなら当然知ってる名前だよ。
二十代で四年連続リーディングジョッキーに輝いて、三十を過ぎてからは二度の日本ダービー制覇。二度目のダービー馬とは三冠も達成してるし、別の年には、天皇賞春秋連覇した馬にも騎乗してた」
天道の華々しい戦績を熱っぽく語る美冬に、うんうん、とあいは同じ熱量で頷いた。
やっぱり、天道さんは凄い人なんだ。
美冬の天道への尊敬が、自分のことのように嬉しく、ついつい鼻息が荒くなる。
現役時代の天道の騎乗は、馬郷のオーナーである山南が借してくれた、日本ダービーのビデオでしか知らなかった。
おそらく、それが三冠を果たした、二度目のダービー制覇の瞬間だったのだろう。
職業の枠を越えた、騎手という生き方を意識するようになったのは、あのビデオを観てからだった。
「それだけに、引退は多くの人に悔やまれたよ。病にさえならなきゃ」
美冬の口調が、ふいに湿っぽくなった。
「病、ですか?」
「あれ、本人から聞いてないの?」
「はい」
思えば、今日まで知ろうと思わなかったのが不思議だった。有名な騎手だったのだから、調べようと思えば、簡単に調べられたはずだ。
なぜか、そういう考えに至らなかった。こういう時、あいは、つくづく自分が抜けていると痛感する。
「まぁ、周知のことだし、いいか。目の病気でね。病気自体は、完治したらしいんだけど、視力が低下して。そっちは、回復の見込みもなくてね」
騎手になるには、競馬協会が規定する以上の視力がなければならない。
中央と地方で規定に差異はあるものの、どちらも眼鏡やコンタクトでの視力矯正は認められていない。
あいは、天道が運転時にサングラスをかけていたことを思い出した。
もしかすると、視力低下だけでなく、色弱の後遺症もあり、あのサングラスは色覚補助のためだったのではないか、と思えた。
「デビュー時から目標だって話していた凱旋門に、翌年挑戦するっていうタイミングでの発症だったんだよ」
「……知りませんでした」
それ以上、なんと言っていいかわからなかった。
無念でなかったはずがない。
けれど、あいの知る天道は、そんな素振りは少しも見せず、あいが騎手になるのを応援してくれている。
「なはは、ちょっと湿っぽくなっちゃったね。ほら、食べな。ダービーに間に合わなくなっちゃう」
「はい」
蕎麦からはまだ湯気が立っているが、かき揚げはすっかり汁を吸って沈んでいた。
食事に戻ろうとすると、急に後ろから、肩を掴まれた。
椅子から飛び上がりそうになりながら振り返ると、こめかみに青筋を浮かべ、ひくひくと笑顔を引き攣らせた正士郎が立っていた。
「どうして、こんなところで、暢気に蕎麦なんて食べてるのかな、藤刀さん?」
「そ、それは」
美冬の方に視線を向けると、にへら、と締まりのない笑顔を返してきた。
そこでの馬の様子で、最終的に買う馬券を決めることを考えると、食事に割ける時間はそれほどなかった。
東京競馬場の一階フードコートで、あいは美冬と遅めの昼食を摂っていた。
「そういえば、あいちゃんはなんで騎手になろうと思ったの?」
さっさと蕎麦を平らげた美冬が、あいが騎手を目指す動機に関心を示してきた。
美冬から変装のため着せられているシャツに、蕎麦つゆが飛ばないよう気をつけて蕎麦を啜っていたあいは、箸を止めた。
馬郷のことを話した。
地元を出てから、綾との日々を話したのは、美冬で二人目だ。
「へえ、じゃあ、あいちゃんは、その綾っていうお姉ちゃんみたいな馬に安心してもらうために、一人立ちしようと騎手を目指してるんだ」
「はい」
「健気だぁ。そんな子をとっ掴まえて、金儲けに利用するみたいなことして、ごめんねえ」
「み、美冬さん、泣かないで。涙がどんぶりに入っちゃってます」
あいが卓上の紙ナプキンを渡すと、美冬は盛大に洟をかんだ。
「ありがとう。うん、私、反省した。明日からはもっと清らかな心で生きよう」
「明日からなんですね」
「この後は、ほら、ダービーだから」
言い訳っぽく言い、美冬は目を反らした。
「そ、それにしてもさ。受験前の一時期とはいえ、あの天道駿にコーチをしてもらっただなんて、すごいね」
「天道さんを知ってるんですか?」
「そりゃぁもちろん。競馬ファンなら当然知ってる名前だよ。
二十代で四年連続リーディングジョッキーに輝いて、三十を過ぎてからは二度の日本ダービー制覇。二度目のダービー馬とは三冠も達成してるし、別の年には、天皇賞春秋連覇した馬にも騎乗してた」
天道の華々しい戦績を熱っぽく語る美冬に、うんうん、とあいは同じ熱量で頷いた。
やっぱり、天道さんは凄い人なんだ。
美冬の天道への尊敬が、自分のことのように嬉しく、ついつい鼻息が荒くなる。
現役時代の天道の騎乗は、馬郷のオーナーである山南が借してくれた、日本ダービーのビデオでしか知らなかった。
おそらく、それが三冠を果たした、二度目のダービー制覇の瞬間だったのだろう。
職業の枠を越えた、騎手という生き方を意識するようになったのは、あのビデオを観てからだった。
「それだけに、引退は多くの人に悔やまれたよ。病にさえならなきゃ」
美冬の口調が、ふいに湿っぽくなった。
「病、ですか?」
「あれ、本人から聞いてないの?」
「はい」
思えば、今日まで知ろうと思わなかったのが不思議だった。有名な騎手だったのだから、調べようと思えば、簡単に調べられたはずだ。
なぜか、そういう考えに至らなかった。こういう時、あいは、つくづく自分が抜けていると痛感する。
「まぁ、周知のことだし、いいか。目の病気でね。病気自体は、完治したらしいんだけど、視力が低下して。そっちは、回復の見込みもなくてね」
騎手になるには、競馬協会が規定する以上の視力がなければならない。
中央と地方で規定に差異はあるものの、どちらも眼鏡やコンタクトでの視力矯正は認められていない。
あいは、天道が運転時にサングラスをかけていたことを思い出した。
もしかすると、視力低下だけでなく、色弱の後遺症もあり、あのサングラスは色覚補助のためだったのではないか、と思えた。
「デビュー時から目標だって話していた凱旋門に、翌年挑戦するっていうタイミングでの発症だったんだよ」
「……知りませんでした」
それ以上、なんと言っていいかわからなかった。
無念でなかったはずがない。
けれど、あいの知る天道は、そんな素振りは少しも見せず、あいが騎手になるのを応援してくれている。
「なはは、ちょっと湿っぽくなっちゃったね。ほら、食べな。ダービーに間に合わなくなっちゃう」
「はい」
蕎麦からはまだ湯気が立っているが、かき揚げはすっかり汁を吸って沈んでいた。
食事に戻ろうとすると、急に後ろから、肩を掴まれた。
椅子から飛び上がりそうになりながら振り返ると、こめかみに青筋を浮かべ、ひくひくと笑顔を引き攣らせた正士郎が立っていた。
「どうして、こんなところで、暢気に蕎麦なんて食べてるのかな、藤刀さん?」
「そ、それは」
美冬の方に視線を向けると、にへら、と締まりのない笑顔を返してきた。
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