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少年武術家は蒼天に笑う
閻晨
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柴又を散策した帰りだった。
アパートの前まで見送られ、別れ際、名前を呼ばれた。薄暮れのことで、周囲に人はいなかったと思う。
足を止め、振り返ると、唇に柔らかなものが押し当てられた。
唇だとわかった瞬間、春香の身体を抱き寄せていた。
春香が、震えた。しかし大吉が力強く抱きしめると、震えはとまった。
唇を吸っていた。瞬間、春香の肩がまた揺れたのを感じたが、やめなかった。
拒まれはしなかった。閉じていた春香の唇は、おずおずと開いた。
どれぐらい、そうしていただろうか。
大吉が腕を解くと、春香は一歩下がった。
どんな顔をしているのか、無性に確かめたくなったが、光を失った目では、どうすることもできない。
大吉の言葉を待つように、春香は無言だった。
部屋に寄っていくか。
そういう言葉をなんとか押しとどめ、そこで別れた。
大貝丘の問題が解決するまでは私欲を律する。確乎とした決意はなかったが、なんとなくそうしようとは思っていた。
春香を帰し、部屋に一人になってから、それにどれほどの意味があるのか、考えた。
御三家との戦いで死んだ人間がいる。これからも、死者は出るだろう。
その者達へ義理を果たすには、戦い抜くしかない。
ただ、自らが、明日命を落とすことも当然ありえた。
私欲を抑えることに、意味はなかった。
そう結論づけても、心のどこかで感じる後ろめたさを、拭いきれなかった。
女を知らない。それで、必要以上に堅苦しく考えてしまっているのかもしれなかった。
春香に、呆れられただろうか。
そんな不安を抱きながら、翌日学校に行った。春香の態度は変わらなかった。
六月になり、衣替えの季節になった。
街路樹や庭木が青々と茂り、夏の足音がすぐそこまで近づいているが、まだ気まぐれに涼しくなったりもする。
例年この時期は、長袖のシャツや、その上にカーディガンを羽織る生徒が多い。
束早が、部屋の外から声をかけてきた。
大吉はスクールバッグを肩にかけて出た。
肌で、日差しを感じる。いつも通りの朝だ。
アパートの前で春香と挨拶を交わす。束早の手前、平静を装った。
三人で登校した。
「束早、クラスで友達ができたんだよ。同じ美術部の子だって」
昇降口は学年で異なっている。校門を入ったところで束早を見送ると、春香が教えてくれた。
「そうか」
一年遅れての高校入学となった束早は、中学で傷害事件を起こしたこともあり、クラスでは孤立気味だった。
それでも束早の人となりに触れ、なかには理解してくれる同級生がいるという話は、嬉しかった。
「あ、大吉、春香、おはよう」
教室へ行くと、舞依が先に来ていた。
ジャンブルズを擁護する発言をして一時期ネット上で騒がれた舞依だが、その熱はすでに鎮まっていた。ネット内では早くもジャンブルズへの関心は風化しつつある。
教室が徐々に人声であふれてくる。
そんな中、隣の席で春香と舞依が談笑するのを聞いていた。
舞依はいま、作曲に挑戦しているらしかった。美術部に協力してもらい、MV(ミュージックビデオ)の作成、配信する予定なのだという。
「舞依からMV用のイメージボードを頼まれたって、束早に聞いたよ。風景をスケッチするようにはいかないらしくって、家で悩んでた」
「そっかぁ。でも、束早ならきっと素敵なの描いてくれるって思うな」
「舞依にそんなふうに期待されたら、束早が頭をかかえるのもわかる気がするよ」
「そうだ、春香も一緒にやる?」
「え、私?」
「うん、束早がイラスト担当で、舞依が作曲してるから、春香は歌詞担当かな」
「そんな、無理だよ。作詞なんてやったこともないし」
「舞依も作曲ははじめてだよ。ね、だから春香も一緒にやろ」
舞依にすり寄られ、困惑する春香が目に浮かぶ。
「面白そうじゃないか」
「大吉。もう、他人事だからって」
そう言う春香は、しかしまんざらでもなさそうだ。
チャイムが鳴った。担任教師がやって来て、以前と変わりない学校生活がはじまった。
放課後、大吉が昇降口を出ると、秋久が待っていた。
三年生では、秋久とは別のクラスだった。
「森宮さんは?」
「用があるって言って、先に帰ってもらった。珀は、もう大貝丘へ行ったのか?」
「うん、一昨日ね」
高千穂での戦闘で負傷した珀は、まだ戦闘に耐えられるほどには回復していなかった。
大貝丘で療養がてら、失った人員の補充をすると言ってきていた。
残された珀の部隊は、桑乃が所有する奥多摩の山間で待機している。珀が戻る間は竹馬が指揮を執っており、筧を介して連絡は取り合っていた。
秋久と、隆子の児童養護施設へ向かった。
道中、寅次が合流してきた。
「アサリからの伝言だぜ。絹布隊は先に乗船して、いつでも進発できるってよ」
「わかった。にしても寅次、ほんとについて来る気か?」
「おう。閻晨の話じゃ、十中八九、罠なんだろ。そんな場所に出向いて、お前になんかあっちゃいけねえからな」
「お前、フリーダに会うために俺についてきたんだろう」
「それもある。でもなんか、お前のことも放っておけねえんだよ」
「その気持ち、ちょっとわかるな。僕なんかよりずっと強いくせに、危なっかしいんだ。だからかな、珀のこととは関係なく、つい手助けしたくなる」
秋久が同意する。
「はぁ、好きにしろよ。でも、これだけは言っておくぞ。お前ら、死ぬなよ」
「おう」
「任せてよ」
施設へ行くと、閻晨は割り当てられた部屋にいた。意外にも、イザクや、他の子どもたちに囲まれて遊んでいる最中だった。
「迎えだ。おい、膝から降りろ」
幼児がごねる声がした。閻晨は言葉遣いこそ冷たいが、大吉が訪ねるまでは幼児が膝に乗るのを許していたらしい。
「ボードゲームをしてたのか。悪いな、途中で抜けさせて」
「こいつらに無理矢理付き合わされていただけだ。そんなことより、いいのだな。宝雨は、お前を殺す気だぞ」
「まぁ、なるようになるさ」
「場所はどこだ」
「陽飛島」
東シナ海の北にある、韓国済州島に属する小島である。
道順としては、済州島まで空路で行き、そこから船で牛島に渡る。牛島と陽飛島は、陸路で繋がっているらしかった。
隆子に挨拶をし、閻晨を連れて施設を出た。
「じゃ、僕はアサリたちと合流するよ」
「ああ」
秋久とは、駅で別れた。
閻晨と一緒に捕らえられた四人の男達は、珠木が大貝丘から移送してくる。珠木とは、済州島で落ち合う手筈である。
今から出発して、陽飛島へ着くのは日没過ぎになる予定だ。閻宝雨から指定してきたのは翌零時なので、急ぐ必要はない。
アパートの前まで見送られ、別れ際、名前を呼ばれた。薄暮れのことで、周囲に人はいなかったと思う。
足を止め、振り返ると、唇に柔らかなものが押し当てられた。
唇だとわかった瞬間、春香の身体を抱き寄せていた。
春香が、震えた。しかし大吉が力強く抱きしめると、震えはとまった。
唇を吸っていた。瞬間、春香の肩がまた揺れたのを感じたが、やめなかった。
拒まれはしなかった。閉じていた春香の唇は、おずおずと開いた。
どれぐらい、そうしていただろうか。
大吉が腕を解くと、春香は一歩下がった。
どんな顔をしているのか、無性に確かめたくなったが、光を失った目では、どうすることもできない。
大吉の言葉を待つように、春香は無言だった。
部屋に寄っていくか。
そういう言葉をなんとか押しとどめ、そこで別れた。
大貝丘の問題が解決するまでは私欲を律する。確乎とした決意はなかったが、なんとなくそうしようとは思っていた。
春香を帰し、部屋に一人になってから、それにどれほどの意味があるのか、考えた。
御三家との戦いで死んだ人間がいる。これからも、死者は出るだろう。
その者達へ義理を果たすには、戦い抜くしかない。
ただ、自らが、明日命を落とすことも当然ありえた。
私欲を抑えることに、意味はなかった。
そう結論づけても、心のどこかで感じる後ろめたさを、拭いきれなかった。
女を知らない。それで、必要以上に堅苦しく考えてしまっているのかもしれなかった。
春香に、呆れられただろうか。
そんな不安を抱きながら、翌日学校に行った。春香の態度は変わらなかった。
六月になり、衣替えの季節になった。
街路樹や庭木が青々と茂り、夏の足音がすぐそこまで近づいているが、まだ気まぐれに涼しくなったりもする。
例年この時期は、長袖のシャツや、その上にカーディガンを羽織る生徒が多い。
束早が、部屋の外から声をかけてきた。
大吉はスクールバッグを肩にかけて出た。
肌で、日差しを感じる。いつも通りの朝だ。
アパートの前で春香と挨拶を交わす。束早の手前、平静を装った。
三人で登校した。
「束早、クラスで友達ができたんだよ。同じ美術部の子だって」
昇降口は学年で異なっている。校門を入ったところで束早を見送ると、春香が教えてくれた。
「そうか」
一年遅れての高校入学となった束早は、中学で傷害事件を起こしたこともあり、クラスでは孤立気味だった。
それでも束早の人となりに触れ、なかには理解してくれる同級生がいるという話は、嬉しかった。
「あ、大吉、春香、おはよう」
教室へ行くと、舞依が先に来ていた。
ジャンブルズを擁護する発言をして一時期ネット上で騒がれた舞依だが、その熱はすでに鎮まっていた。ネット内では早くもジャンブルズへの関心は風化しつつある。
教室が徐々に人声であふれてくる。
そんな中、隣の席で春香と舞依が談笑するのを聞いていた。
舞依はいま、作曲に挑戦しているらしかった。美術部に協力してもらい、MV(ミュージックビデオ)の作成、配信する予定なのだという。
「舞依からMV用のイメージボードを頼まれたって、束早に聞いたよ。風景をスケッチするようにはいかないらしくって、家で悩んでた」
「そっかぁ。でも、束早ならきっと素敵なの描いてくれるって思うな」
「舞依にそんなふうに期待されたら、束早が頭をかかえるのもわかる気がするよ」
「そうだ、春香も一緒にやる?」
「え、私?」
「うん、束早がイラスト担当で、舞依が作曲してるから、春香は歌詞担当かな」
「そんな、無理だよ。作詞なんてやったこともないし」
「舞依も作曲ははじめてだよ。ね、だから春香も一緒にやろ」
舞依にすり寄られ、困惑する春香が目に浮かぶ。
「面白そうじゃないか」
「大吉。もう、他人事だからって」
そう言う春香は、しかしまんざらでもなさそうだ。
チャイムが鳴った。担任教師がやって来て、以前と変わりない学校生活がはじまった。
放課後、大吉が昇降口を出ると、秋久が待っていた。
三年生では、秋久とは別のクラスだった。
「森宮さんは?」
「用があるって言って、先に帰ってもらった。珀は、もう大貝丘へ行ったのか?」
「うん、一昨日ね」
高千穂での戦闘で負傷した珀は、まだ戦闘に耐えられるほどには回復していなかった。
大貝丘で療養がてら、失った人員の補充をすると言ってきていた。
残された珀の部隊は、桑乃が所有する奥多摩の山間で待機している。珀が戻る間は竹馬が指揮を執っており、筧を介して連絡は取り合っていた。
秋久と、隆子の児童養護施設へ向かった。
道中、寅次が合流してきた。
「アサリからの伝言だぜ。絹布隊は先に乗船して、いつでも進発できるってよ」
「わかった。にしても寅次、ほんとについて来る気か?」
「おう。閻晨の話じゃ、十中八九、罠なんだろ。そんな場所に出向いて、お前になんかあっちゃいけねえからな」
「お前、フリーダに会うために俺についてきたんだろう」
「それもある。でもなんか、お前のことも放っておけねえんだよ」
「その気持ち、ちょっとわかるな。僕なんかよりずっと強いくせに、危なっかしいんだ。だからかな、珀のこととは関係なく、つい手助けしたくなる」
秋久が同意する。
「はぁ、好きにしろよ。でも、これだけは言っておくぞ。お前ら、死ぬなよ」
「おう」
「任せてよ」
施設へ行くと、閻晨は割り当てられた部屋にいた。意外にも、イザクや、他の子どもたちに囲まれて遊んでいる最中だった。
「迎えだ。おい、膝から降りろ」
幼児がごねる声がした。閻晨は言葉遣いこそ冷たいが、大吉が訪ねるまでは幼児が膝に乗るのを許していたらしい。
「ボードゲームをしてたのか。悪いな、途中で抜けさせて」
「こいつらに無理矢理付き合わされていただけだ。そんなことより、いいのだな。宝雨は、お前を殺す気だぞ」
「まぁ、なるようになるさ」
「場所はどこだ」
「陽飛島」
東シナ海の北にある、韓国済州島に属する小島である。
道順としては、済州島まで空路で行き、そこから船で牛島に渡る。牛島と陽飛島は、陸路で繋がっているらしかった。
隆子に挨拶をし、閻晨を連れて施設を出た。
「じゃ、僕はアサリたちと合流するよ」
「ああ」
秋久とは、駅で別れた。
閻晨と一緒に捕らえられた四人の男達は、珠木が大貝丘から移送してくる。珠木とは、済州島で落ち合う手筈である。
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